花火の夜から、わずか三日後。
俺のスマートフォンを震わせたのは、結夏の母親からの、震えるような声の着信だった。
「……結夏が、倒れたの」
病院へ駆けつける道中の記憶は、ひどく曖昧だ。
夏の終わりの湿った熱気が肺にまとわりつき、どれだけ息を吸っても足りないような錯覚に陥る。
辿り着いた病室。重い防音扉を開けた瞬間、俺の足を止めたのは、静寂ではなく、無機質な機械音だった。
規則正しく刻まれる心電図の音。酸素を送り込むポンプの低い駆動音。
その中心で、結夏は白いシーツに埋もれるようにして横たわっていた。
「……誰が、呼んだのよ」
俺の姿を認めた瞬間、彼女は顔を背けた。
鼻には以前よりも太い酸素チューブが通り、その顔色は、シーツの白と見分けがつかないほどに透き通っている。
それでも彼女は、震える肩を必死に押しとどめ、いつものような鋭い三白眼を俺に向けた。
「帰って……。あんたなんかに見せる顔は、もうないわ」
「……結夏」
「うるさいわね! もうあんたのパシリ期間は終わりよ。私への『仕返し』も、もう十分でしょ!?」
掠れた声で、彼女は必死に言葉の礫を投げつけてくる。
「二度と、来ないで。あんたの顔なんか、死ぬまで見たくないの! さっさとどっか行きなさいよ、この鈍臭いパシリ……っ、ゴホッ、ゲホッ!」
激しく咳き込みながらも、彼女は俺を追い払おうと必死だった。
ひどい言葉。冷たい拒絶。
けれど、今の俺には、それが何のために放たれているのかが、痛いほどに分かってしまった。
これは、あの雨の日の廊下で見せた、「威力のないビンタ」と同じだ。
自分を悪者に仕立て上げ、俺が傷つかないように、俺が自分を嫌いになって去っていけるように。
彼女は今、人生で最後になるかもしれない「悪女」という役を、命を削って演じている。
俺は、一歩も引かなかった。
動揺して立ち去ることも、彼女の言葉に傷つくこともない。
ただ無言で、ベッドの脇にあるパイプ椅子をガラガラと引き寄せ、どっかりとそこに座り込んだ。
「……お前の嘘は、相変わらず下手くそだな」
「なによ……っ。帰れって、言ってるじゃない……!」
「帰らない。言っただろ、俺はお前の監視役だ」
俺は、シーツをきつく握りしめている彼女の手に、自分の手を重ねた。
氷のように冷たい。けれど、そこには確かに、必死に生きようとする脈動があった。
「お前がどんなに最低な悪女を演じても、俺の目は誤魔化せない。お前が俺を遠ざけようとすればするほど、お前がどれだけ相手を大切に思ってるか、バレバレなんだよ」
結夏の瞳が、大きく揺れた。
必死に作り上げていた強気な視線が、みるみるうちに潤んでいく。
張り詰めていた糸が、プツリと切れる音が、俺には聞こえた気がした。
「……見ないでよ……」
彼女は顔を両手で覆い、子供のように声を上げて泣き崩れた。
「こんなの、私じゃない……っ。弱くて、惨めで、ボロボロで……。こんな姿、あんたの中に残したくない……! 綺麗な、悪女のままで、忘れさせてよ……っ」
それが、彼女の願いだった。
最後まで完璧な「遠野結夏」として消え去りたかった。
醜い姿を見せて、俺に同情されたり、悲しませたりしたくなかった。
俺は、彼女の震える背中を、包み込むようにして抱き寄せた。
「お前がどんな姿でも、俺にとっては一番の被写体だ」
耳元で、静かに、言い聞かせるように告げる。
「強がってるお前も、嘘をついてるお前も、今ここで泣いてるお前も、全部含めて俺の好きな遠野結夏なんだ。……だから、勝手に一人で終わらせようとするな」
結夏は俺のシャツを、指が白くなるほど強く掴んだ。
「……最低。あんたは本当に、私の邪魔ばっかり……」
泣き笑いのような、ひどく掠れた声。
ずっと、誰にも心を開かず、嫌われようとしていた少女が、初めて「そばにいてほしい」と泣いているように思えた。
病室に響く心電図の音は、残酷なまでに正確だ。
残された時間が、砂時計のようにさらさらと零れ落ちていく。
けれど、この無機質な白い部屋の中で、俺たちはようやく、嘘のない本当の時間を刻み始めていた。
俺のスマートフォンを震わせたのは、結夏の母親からの、震えるような声の着信だった。
「……結夏が、倒れたの」
病院へ駆けつける道中の記憶は、ひどく曖昧だ。
夏の終わりの湿った熱気が肺にまとわりつき、どれだけ息を吸っても足りないような錯覚に陥る。
辿り着いた病室。重い防音扉を開けた瞬間、俺の足を止めたのは、静寂ではなく、無機質な機械音だった。
規則正しく刻まれる心電図の音。酸素を送り込むポンプの低い駆動音。
その中心で、結夏は白いシーツに埋もれるようにして横たわっていた。
「……誰が、呼んだのよ」
俺の姿を認めた瞬間、彼女は顔を背けた。
鼻には以前よりも太い酸素チューブが通り、その顔色は、シーツの白と見分けがつかないほどに透き通っている。
それでも彼女は、震える肩を必死に押しとどめ、いつものような鋭い三白眼を俺に向けた。
「帰って……。あんたなんかに見せる顔は、もうないわ」
「……結夏」
「うるさいわね! もうあんたのパシリ期間は終わりよ。私への『仕返し』も、もう十分でしょ!?」
掠れた声で、彼女は必死に言葉の礫を投げつけてくる。
「二度と、来ないで。あんたの顔なんか、死ぬまで見たくないの! さっさとどっか行きなさいよ、この鈍臭いパシリ……っ、ゴホッ、ゲホッ!」
激しく咳き込みながらも、彼女は俺を追い払おうと必死だった。
ひどい言葉。冷たい拒絶。
けれど、今の俺には、それが何のために放たれているのかが、痛いほどに分かってしまった。
これは、あの雨の日の廊下で見せた、「威力のないビンタ」と同じだ。
自分を悪者に仕立て上げ、俺が傷つかないように、俺が自分を嫌いになって去っていけるように。
彼女は今、人生で最後になるかもしれない「悪女」という役を、命を削って演じている。
俺は、一歩も引かなかった。
動揺して立ち去ることも、彼女の言葉に傷つくこともない。
ただ無言で、ベッドの脇にあるパイプ椅子をガラガラと引き寄せ、どっかりとそこに座り込んだ。
「……お前の嘘は、相変わらず下手くそだな」
「なによ……っ。帰れって、言ってるじゃない……!」
「帰らない。言っただろ、俺はお前の監視役だ」
俺は、シーツをきつく握りしめている彼女の手に、自分の手を重ねた。
氷のように冷たい。けれど、そこには確かに、必死に生きようとする脈動があった。
「お前がどんなに最低な悪女を演じても、俺の目は誤魔化せない。お前が俺を遠ざけようとすればするほど、お前がどれだけ相手を大切に思ってるか、バレバレなんだよ」
結夏の瞳が、大きく揺れた。
必死に作り上げていた強気な視線が、みるみるうちに潤んでいく。
張り詰めていた糸が、プツリと切れる音が、俺には聞こえた気がした。
「……見ないでよ……」
彼女は顔を両手で覆い、子供のように声を上げて泣き崩れた。
「こんなの、私じゃない……っ。弱くて、惨めで、ボロボロで……。こんな姿、あんたの中に残したくない……! 綺麗な、悪女のままで、忘れさせてよ……っ」
それが、彼女の願いだった。
最後まで完璧な「遠野結夏」として消え去りたかった。
醜い姿を見せて、俺に同情されたり、悲しませたりしたくなかった。
俺は、彼女の震える背中を、包み込むようにして抱き寄せた。
「お前がどんな姿でも、俺にとっては一番の被写体だ」
耳元で、静かに、言い聞かせるように告げる。
「強がってるお前も、嘘をついてるお前も、今ここで泣いてるお前も、全部含めて俺の好きな遠野結夏なんだ。……だから、勝手に一人で終わらせようとするな」
結夏は俺のシャツを、指が白くなるほど強く掴んだ。
「……最低。あんたは本当に、私の邪魔ばっかり……」
泣き笑いのような、ひどく掠れた声。
ずっと、誰にも心を開かず、嫌われようとしていた少女が、初めて「そばにいてほしい」と泣いているように思えた。
病室に響く心電図の音は、残酷なまでに正確だ。
残された時間が、砂時計のようにさらさらと零れ落ちていく。
けれど、この無機質な白い部屋の中で、俺たちはようやく、嘘のない本当の時間を刻み始めていた。

