花火みたいな恋だった

 夏休みが始まった。
 本来なら、学校中が開放感に包まれ、誰もが海だの祭りだのと浮き足立つ季節。
 だが、俺の夏休みの予定はただ一つに固定されていた。

「おい、またプリント溜まってたぞ。お前が大人しく寝てるか、今日もチェックしに来てやったからな」

 遠野の家の二階。すっかり通い慣れたその部屋のドアを開け、俺はベッドの上に横たわる彼女に声をかけた。

「……毎日毎日、よく飽きないわね。暇人なの?」
「暇じゃない。パシリにされてた分の労働力、ここでしっかり回収させてもらうための『仕返しの監視』だ」

 鼻に酸素チューブを通したまま、呆れたようにため息をつく遠野。
 俺は彼女の皮肉を軽く受け流し、窓を開けて空気を入れ替え、部屋の簡単な掃除を始める。それが、俺たちの新しい日常になっていた。

 部屋から一歩も出られない遠野にとって、俺が持ってくるカメラのモニターが、唯一の外の世界と繋がる窓だった。

「ほら、これ。今日の神社の裏」
「……チョコ、相変わらず丸いわね。ってか、あんた写真下手くそじゃない? 水平が微妙に取れてないわよ」
「うるさいな、記録できればいいんだよ」

 青すぎる夏の空、茹だるようなアスファルトの陽炎、賑わう商店街の喧騒。
 俺が切り取ってきた外の世界を、遠野は毒づきながらも、食い入るように見つめていた。
 病状が落ち着いている時間は、こうして以前のような軽口を叩き合うことができる。だが、シーツから覗く彼女の驚くほど細くなった腕や、日を追うごとに増えていく枕元の薬の数が、残酷な現実のカウントダウンを常に俺に突きつけていた。

 八月半ば。地元の夏祭りの夜。
 遠くから、ドォン、ドォンと、夜空を震わせる打ち上げ花火の音が聞こえてきた。しかし、遠野の部屋の窓からは、隣の家の屋根に遮られてその光を見ることはできない。

 音だけを聞きながら、遠野が悔しそうに小さく唇を噛むのが見えた。

「……おい。ちょっと肩貸せ」
「え……?」

 俺は立ち上がり、彼女の細い体を支えるようにして抱き起した。
 ゆっくりと階段を下り、庭先へと連れ出す。夜風が、少しだけ火薬の匂いを運んできていた。

「打ち上げ花火は見えないけど、じゃあ、これで我慢しろ」

 俺がポケットから取り出したのは、コンビニで買ってきた手持ち花火のセットだった。
 その中から一本の線香花火を抜き取り、火を点ける。

 チリチリと音を立てて、小さな火の玉が膨らんでいく。
 やがてパチパチと繊細に弾け出したオレンジ色の光が、暗闇の中で、遠野の白い横顔を淡く照らし出した。

 派手な音も、空を覆うほどの光もない。
 けれど、二人で息を潜めて見つめるその小さな光は、どんな大きな花火よりも綺麗だった。

「……ねえ、海斗」

 火花が今にもポトリと落ちてしまいそうな寸前。
 遠野が、消え入るような声で俺の名前を呼んだ。

「私、怖いの」

 震える声だった。
 悪女の仮面も、強気な態度もすべて剥がれ落ちた、ただの十七歳の少女の、あまりにも生々しい本音。

「……このまま誰にも気づかれずに、夏が終わるみたいに消えちゃうのが。みんなの記憶から、私の『嘘』だけが残って、本当の私がいなくなっちゃうのが……すごく、怖い」

 線香花火の火種が、ふっと音もなく地面に落ちた。
 暗闇が戻った庭で、彼女は両手で顔を覆い、小さく肩を震わせた。

 俺はカメラを構え、ファインダー越しに彼女を見つめた。
 そして、静かに、けれど絶対に揺るがない声で告げた。

「忘れるわけないだろ」

 カシャッ、と。夜の庭にシャッター音が響く。

「俺が全部撮ってる。お前の下手くそな嘘も、今泣きそうな顔してる本当のお前も、全部この中に入れてやるから」

 カメラのレンズを下ろし、俺は彼女の目をまっすぐに見つめ返した。
 俺は悲しまない。ただ、お前という存在がここにいたことを、絶対に忘れずに記録し続ける。それが、監視役である俺にできる、唯一の戦い方だから。

「……最低。勝手に撮らないでよ」

 遠野は涙で顔をくしゃくしゃにしながら、それでも、泣き笑いのような表情を浮かべてそう言った。

 夜風が、二人の間を優しくすり抜けていく。
 しかしその夜、彼女の体の中で、病状は静かに、けれど確実に次のステージへと進もうとしていた。