花火みたいな恋だった

 放課後。俺は吸い寄せられるように、自転車のペダルをあの神社へと向けて漕いでいた。
 百段の石段を駆け上がり、息を切らして本殿の裏へ回り込む。

「あ、写真のお兄ちゃんだ」

 そこには、以前見かけた近所の小学生たちの姿があった。しかし、肝心の遠野結夏の姿はない。
 嫌な予感がして、軒下に積まれた段ボール箱に近づく。ふと、その脇に無造作に転がっている小さな物体に目が止まった。

「……これ」

 拾い上げたそれは、土曜日に石段の途中で彼女が口にしていた小さな筒――気管支拡張薬の吸入器だった。
 俺はてっきり、サボって清涼飲料水でも飲んでいるのだとばかり思っていた。彼女が命の次に大切に携帯していたはずのそれが、こんな場所に放置されている。その事実が、ただならぬ事態を俺に告げていた。

「あら。もしかして、結夏のお友達?」

 背後から声をかけられ、振り返る。
 そこに立っていたのは、キャットフードの袋を手にした、遠野の面影を宿す女性だった。

「……遠野の、お母さんですか」
「ええ。あの子、今日はどうしても起き上がれなくて。代わりに私が猫ちゃんたちのご飯をあげに来たのよ」

 母親は穏やかに微笑みながら、野良猫たちの皿にフードを注ぎ始めた。
 俺は手に握りしめた吸入器を見つめながら、ずっと胸につかえていた疑問を口にせずにはいられなかった。

「……なんで、あいつは周りから嫌われるようなことばかりするんですか。本当は、こんなに優しいのに」

 その問いに、母親は俺の手にある呼吸器に視線を向けた後、少しだけ悲しそうに目を伏せた。

「あの子ね、自分がもう長くないかもしれないって分かっているの。だから……いつか自分が動けなくなって、いなくなった時に、誰かを悲しませるのが嫌なんだって」
「……」
「『誰も私のことなんて好きにならなければいい。嫌われていれば、私が消えても誰も泣かないでしょ』って。中学の時も、そうやって自分から一人ぼっちになって……今回も、同じ。不器用な子なのよ」

 ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
 彼女の悪女ムーブの理由。それは、誰にも気づかれずに消えるための、あまりにも悲しい準備だった。

「……お母さん。遠野の家の場所、教えてくれませんか。これを、届けたいんです」

 俺が今日の授業のプリントを取り出すと、母親は少し驚いた顔をした後、「……ありがとう」と静かに住所を教えてくれた。

 教えられた住所は、神社からそう遠くない閑静な住宅街の一角だった。
 母親に渡された合鍵を使い、俺は静まり返った家の中へ足を踏み入れた。

 案内された二階の部屋。ドアをゆっくりと開けると、そこは学校での派手で攻撃的な彼女のイメージとは対照的な、無機質なほど静かで殺風景な空間だった。

「……っ、ヒュー……、はぁっ……」

 部屋の奥のベッド。
 そこに横たわっていたのは、鼻に透明な酸素の管を通し、荒い息をついている遠野結夏だった。
 完璧なメイクも、綺麗に巻かれた髪も、人を射抜くような鋭い三白眼もない。そこにいるのは、ただの脆くて、今にも壊れてしまいそうな一人の少女だった。

 ドアの音に気づいた彼女が、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
 そして、俺の姿を認めた瞬間、その目が見開かれた。

「……なんで、あんたがここに……っ」

 彼女はパニックに陥ったように、震える手でシーツを引き寄せ、必死に自分の顔を隠そうとした。

「……見ないで……! 出てって、お願いだから……こんな顔、見ないでよ……っ!」

 泣き叫ぶような、痛切な拒絶。
 自分が築き上げてきた『悪女』の仮面が完全に崩れ落ち、一番隠したかった惨めな弱さを晒してしまったことへの絶望が、その震える声に滲んでいた。

 いつもなら、俺は彼女の言う通りに背を向けていただろう。そもそも他人の領域に踏み込むことなど、事なかれ主義の俺が一番避けてきたことだ。
 だが、今の俺はもう、ファインダー越しに傍観しているだけのパシリじゃない。

 俺はベッドに近づき、遠野結夏の前に立った。彼女の机には、あの土曜日に見た――呼吸器を印字された小さな缶があった。
 短い沈黙が降りる。

「……なによ……」
「ずっとお前に振り回されて、パシリにされて、無茶苦茶な理由で監視までされて……俺、相当ムカついてたんだよ」

 シーツの隙間からこちらを睨む遠野を見下ろし、俺はあえて不敵な笑みを浮かべて言い放った。

「だから、これからは『仕返し』をさせてもらう」
「……は、仕返し……?」

 涙で濡れた目を瞬かせる遠野に、俺は一歩も引かずに告げた。

「そうだ。今度は俺がお前を監視する」
「……」
「お前が勝手に消えたり、また一人で下手くそな嘘をついたりしないか、24時間体制で俺がチェックしてやるよ。これからは俺が監視役だ。……何か文句あるか?」

 優しい同情なんて、このプライドの高い不器用な悪女には似合わない。
 だから俺は、『監視役』という彼女の武器を奪い取り、理不尽な仕返しという名目で、彼女の拒絶を真っ向からねじ伏せる。

 遠野は呆然と俺を見上げていたが、やがてその大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めた。

「……最低。……本当に、あんたは最悪のパシリね……っ」

 そう毒づきながらも、彼女はもう、俺を部屋から追い出そうとはしなかった。
 シーツを握りしめる彼女の細い指先を、俺はそっと自分の手で包み込む。

 一方的だった主従関係は、俺が仕掛けた『仕返しの監視』という名の逆転劇によって、二人だけの、もう絶対に逃げられない物語へと変わっていった。