花火みたいな恋だった

 ヒグラシの鳴き声が、網戸の向こうで単調なノイズを刻んでいる。
 ぬるい風が部屋を通り抜けるたび、机の上に転がった安っぽい紙の束が、カサカサと乾いた音を立てた。

 先端が黒く焦げた、使いかけの線香花火。
 火薬の匂いはとうに飛んでしまっているのに、鼻の奥にはまだ、あの中途半端な、むせ返るような硫黄の匂いがこびりついている。
 西日が部屋の輪郭を削り取り、床に落ちた俺の影だけをやけに濃く引き伸ばしていた。

 遠野結夏は、どうしようもない嘘つきで、自己中心的な、最低の悪女だった。

 息を吐くように人を遠ざけ、誰のことも嘲笑い、踏みにじる。
 だから彼女がいなくなって、学校中の人間がほっとしているはずだ。厄介なノイズが消えて、ようやく平穏な日常が戻ってきたと。
 ――俺以外は。

 乾いた線香花火の紙縒り(こより)を指先でなぞる。
 途端に、肌にまとわりつくような重い湿気と、雨上がりのアスファルトが放つ、むせ返るような青臭さがフラッシュバックした。

 数ヶ月前。
 空がひたすらに低く、分厚い灰色の雲が街全体に蓋をしていた初夏。
 俺は旧校舎の裏にある、剥がれかけた壁のペンキをファインダー越しに覗き込んでいた。
 シャッターを半押しして、ピントを合わせる。ジリッ、という微かな駆動音。
 面倒なホームルームや、教室に充満する無意味な熱気から逃れるには、このカビ臭い日陰がちょうどよかった。

「ごめんなさい」

 レンズの向こう側、コンクリートの壁の向こうから、ひどく冷たい声が降ってきた。
 シャッターを切る指が止まる。
 息を潜めて視線だけを動かすと、少し離れた渡り廊下の影に、二人の人影があった。

「私、顔と家柄しか取り柄のない退屈な人って嫌いなの」

 声の主は、遠野結夏だった。
 校則指定より二つは短いスカート、薄暗がりでもわかる少し濃いめのリップ、そして、人を射抜くような三白眼。
 彼女の目の前には、いつもクラスの中心にいるサッカー部の男子が立っていた。手には、丁寧に包装された小さな箱が握られている。

「あなたと付き合って、私に何のメリットがあるの?」

 遠野の言葉には、一切の温度がなかった。
 ただ事実を並べるように、淡々と、目の前の人間の尊厳を切り刻んでいく。
 男子生徒の肩が微かに震え、握りしめられた箱の包装紙がくしゃりと潰れる音がした。

「……お前、何様だよ」
「さあ。少なくとも、あなたの所有物になる予定はないわ」
「性格最悪だな。お前の顔が少し良いからって、調子に乗るなよ」

 吐き捨てるような足音が、濡れたコンクリートを乱暴に蹴り上げながら遠ざかっていく。
 苛立った舌打ちの音が、重い空気に吸い込まれて消えた。

 残された遠野は、男子が去った方向を見つめたまま、微動だにしなかった。
 俺はカメラをゆっくりと下ろし、気配を消して立ち去ろうとした。他人の厄介事に関わっても、面倒なだけだ。

「そこで盗み聞きしてた地味な人。出てきたら?」

 背中に刺さった声は、さっきと同じ、氷のように冷たい響きだった。
 足をとめる。振り返ると、遠野がこちらを睨みつけていた。鋭い視線が、俺の首から下げた一眼レフカメラで一度止まり、それから面倒くさそうに顔を上げる。

「……盗み聞きする趣味はない。俺が先にいたんだ」
「ふうん」

 遠野はつまらなそうに鼻を鳴らした。

「で、今の聞いてどう思った? 私のこと、噂通りの嫌な女だって軽蔑した?」

 挑発するような口調。彼女の赤いリップが歪み、好戦的な弧を描く。
 俺は、ファインダー越しに見る景色と同じように、ただ目の前の事実だけを切り取るように口を開いた。

「別に。ただ、わざわざ恨まれるような断り方をするんだなと思っただけだ」

 遠野の表情が、一瞬だけ止まった。
 瞬きを一つ、二つ。
 彼女の纏っていた攻撃的な空気が、ほんの数ミリだけズレたような気がした。

「……つまんないの」

 吐き捨てるようにそう言って、遠野は背を向けた。
 踵の高いローファーが、アスファルトを硬く叩く。

 その直後だった。
 カツ、という足音が不自然に途切れ、彼女の細い肩が大きく右に傾いた。

 遠野は、着崩したブラウスの胸元を、指の関節が白くなるほど強く鷲掴みにした。
 そのまま膝から崩れ落ちそうになり、慌てて冷たいコンクリートの壁に手をついて身体を支える。

「ヒュー……、ヒュー……」

 壊れた笛のような、浅く、酷くかすれた呼吸音が聞こえた気がした。
 先ほどまでの、人を寄せ付けない完璧な悪女の輪郭が、ボロボロと剥がれ落ちていくように見える。
 壁に押し当てられた彼女の横顔は不気味なほど青白く、額にはべっとりと冷や汗が張り付いていた。

 俺は、カメラを握りしめたまま、一歩も動けなかった。
 コンクリートの壁を引っ掻く彼女の爪の音が、耳の奥で嫌に大きく響いている。

 それが、俺だけが知ってしまった、彼女の『最低な嘘』の始まりだった――。