満月の前夜。
僕は、一ノ瀬がやってくる前に一人で夜のプールに立っていた。
視線の先にあるのは、七・五メートルの飛び込み板だ。十メートルへの最終ステップ。
見下ろす水面は、今も僕の足首を掴んで引きずり込もうとするような、底知れない恐怖を孕んでいる。けれど、あの日十メートルの上で感じた彼女の肌の冷たさを思い出せば、恐怖なんてものはただの贅沢な感情に思えた。
「……やるしかないんだ」
僕は大きく息を吐き出し、重力に身を委ねた。
空気を切り裂く感覚。一瞬の浮遊。そして、足の裏から全身を貫くような、硬い水面との衝突。
「がはっ……!」
肺の中の空気が強制的に押し出される。不格好な入水だ。痛みと衝撃に視界が火花を散らすが、沈んでいく泡の中で見上げた水面は、月明かりを透過して、驚くほど透き通った青色をしていた。
あの日、僕を絶望に突き落とした水は、今はこんなにも綺麗だ。
「……ぷはっ!」
顔を上げ、プールサイドに手をかける。
荒い息を吐きながら視線を上げると、そこにはいつの間にかパイプ椅子に座ってこちらを見つめている人影があった。
「一ノ瀬……」
呼びかけてから、僕はその異様な光景に言葉を失った。
熱帯夜だというのに、彼女は制服の上に薄手のカーディガンを羽織っていた。首元までボタンを留め、膝を揃えて座るその姿は、あまりにも小さくて、頼りない。
「今のジャンプ、水しぶきが大きすぎて芸術点マイナス五十点! でも、思い切りだけは評価してあげる」
いつものように生意気な口調で、凪はバインダーをパタパタと仰いだ。
「遅刻してきたコーチに言われたくないね。……そんな格好して、寒くないのか?」
「ふふん、名コーチは重役出勤するものなのです。それに、ここが私の特等席だからね」
凪は僕の問いには答えず、誇らしげに足元のタイルを指差した。
その瞬間、胸の奥を鋭い針で刺されたような痛みが走った。
あんなに「高いところが好きだ」と言っていた彼女が、十メートルの頂上ではなく、一番下のプールサイドを特等席と呼んだ。それが何を意味するのか、僕には痛いほどわかってしまった。
彼女はもう、あの一段一段、錆びた梯子を自力で登り切る体力を、失ってしまったのだ。
僕は黙ってプールから上がり、彼女の隣に腰を下ろした。タオルで乱暴に髪を拭きながら、僕たちは並んで十メートルの飛び込み台を見上げた。
街灯に照らされたその巨塔は、明日の決戦を静かに待っている。
「いよいよ明日だね、満月」
凪が、少しだけ歪な、円になる一歩手前の月を見上げて言った。
「ああ。……お前のスパルタ特訓のせいか、おかげか、不思議と怖くはないよ」
「よろしい。教え子の成長を見るのは、コーチ冥利に尽きるね」
凪は満足そうに目を細めた。その瞳には、すでに現実の景色ではなく、明日の夜の光景が映っているようだった。
「ねえ、湊くん。明日、君が跳ぶ時、私は下から見上げてるね」
「……上から見下ろすのが、好きなんじゃないのか」
「うん。でも、君が空気を切り裂いて、水面に弾ける瞬間は、一番近くでこの目に焼き付けたいから」
――嘘だ。
本当は「もう登れない」んだろ。
喉まで出かかったその言葉を、僕は必死で飲み込んだ。
彼女が最期まで「コーチ」としてのプライドを貫き、僕に余計な心配をかけまいと嘘をつき通すなら、僕はその強がりに全力で乗ってやる。それが今の僕にできる、唯一の誠実さだ。
「わかった。……瞬きする暇もないくらい、最高のやつを見せてやるよ」
僕の言葉に、凪は嬉しそうに頷いた。
そして、ゆっくりと立ち上がり、プールサイドの境界線まで歩み寄った。
月明かりに照らされた彼女の影が、水面に細長く、淡く落ちる。
「もし明日、君が最高に綺麗な水しぶきを上げてくれたら……コーチとして、君に一つだけ魔法をかけてあげる」
「魔法?」
「そう。一生解けない、ちょっと意地悪な魔法」
凪は振り返り、悪戯っぽく笑った。
だが、その笑顔は、今にも夜風に溶けて消えてしまいそうなくらい、透き通って見えた。
その瞳の奥にある哀しみと、覚悟。
僕はその「魔法」が何なのか、聞くのが怖かった。ただ、彼女が僕に何かを遺そうとしていることだけが、痛烈に伝わってきた。
「楽しみにしてろ。お前をあっと言わせてやる」
明日、この夏が終わる。
彼女の時間が止まる前に、僕は必ずあの頂上へ辿り着き、彼女の瞳に最高の景色を刻み込む。
水面に映る、ほぼ完璧な円を描こうとする月。
僕の心の中には、かつてないほど静かで、研ぎ澄まされた決意が満ちていた。
僕は、一ノ瀬がやってくる前に一人で夜のプールに立っていた。
視線の先にあるのは、七・五メートルの飛び込み板だ。十メートルへの最終ステップ。
見下ろす水面は、今も僕の足首を掴んで引きずり込もうとするような、底知れない恐怖を孕んでいる。けれど、あの日十メートルの上で感じた彼女の肌の冷たさを思い出せば、恐怖なんてものはただの贅沢な感情に思えた。
「……やるしかないんだ」
僕は大きく息を吐き出し、重力に身を委ねた。
空気を切り裂く感覚。一瞬の浮遊。そして、足の裏から全身を貫くような、硬い水面との衝突。
「がはっ……!」
肺の中の空気が強制的に押し出される。不格好な入水だ。痛みと衝撃に視界が火花を散らすが、沈んでいく泡の中で見上げた水面は、月明かりを透過して、驚くほど透き通った青色をしていた。
あの日、僕を絶望に突き落とした水は、今はこんなにも綺麗だ。
「……ぷはっ!」
顔を上げ、プールサイドに手をかける。
荒い息を吐きながら視線を上げると、そこにはいつの間にかパイプ椅子に座ってこちらを見つめている人影があった。
「一ノ瀬……」
呼びかけてから、僕はその異様な光景に言葉を失った。
熱帯夜だというのに、彼女は制服の上に薄手のカーディガンを羽織っていた。首元までボタンを留め、膝を揃えて座るその姿は、あまりにも小さくて、頼りない。
「今のジャンプ、水しぶきが大きすぎて芸術点マイナス五十点! でも、思い切りだけは評価してあげる」
いつものように生意気な口調で、凪はバインダーをパタパタと仰いだ。
「遅刻してきたコーチに言われたくないね。……そんな格好して、寒くないのか?」
「ふふん、名コーチは重役出勤するものなのです。それに、ここが私の特等席だからね」
凪は僕の問いには答えず、誇らしげに足元のタイルを指差した。
その瞬間、胸の奥を鋭い針で刺されたような痛みが走った。
あんなに「高いところが好きだ」と言っていた彼女が、十メートルの頂上ではなく、一番下のプールサイドを特等席と呼んだ。それが何を意味するのか、僕には痛いほどわかってしまった。
彼女はもう、あの一段一段、錆びた梯子を自力で登り切る体力を、失ってしまったのだ。
僕は黙ってプールから上がり、彼女の隣に腰を下ろした。タオルで乱暴に髪を拭きながら、僕たちは並んで十メートルの飛び込み台を見上げた。
街灯に照らされたその巨塔は、明日の決戦を静かに待っている。
「いよいよ明日だね、満月」
凪が、少しだけ歪な、円になる一歩手前の月を見上げて言った。
「ああ。……お前のスパルタ特訓のせいか、おかげか、不思議と怖くはないよ」
「よろしい。教え子の成長を見るのは、コーチ冥利に尽きるね」
凪は満足そうに目を細めた。その瞳には、すでに現実の景色ではなく、明日の夜の光景が映っているようだった。
「ねえ、湊くん。明日、君が跳ぶ時、私は下から見上げてるね」
「……上から見下ろすのが、好きなんじゃないのか」
「うん。でも、君が空気を切り裂いて、水面に弾ける瞬間は、一番近くでこの目に焼き付けたいから」
――嘘だ。
本当は「もう登れない」んだろ。
喉まで出かかったその言葉を、僕は必死で飲み込んだ。
彼女が最期まで「コーチ」としてのプライドを貫き、僕に余計な心配をかけまいと嘘をつき通すなら、僕はその強がりに全力で乗ってやる。それが今の僕にできる、唯一の誠実さだ。
「わかった。……瞬きする暇もないくらい、最高のやつを見せてやるよ」
僕の言葉に、凪は嬉しそうに頷いた。
そして、ゆっくりと立ち上がり、プールサイドの境界線まで歩み寄った。
月明かりに照らされた彼女の影が、水面に細長く、淡く落ちる。
「もし明日、君が最高に綺麗な水しぶきを上げてくれたら……コーチとして、君に一つだけ魔法をかけてあげる」
「魔法?」
「そう。一生解けない、ちょっと意地悪な魔法」
凪は振り返り、悪戯っぽく笑った。
だが、その笑顔は、今にも夜風に溶けて消えてしまいそうなくらい、透き通って見えた。
その瞳の奥にある哀しみと、覚悟。
僕はその「魔法」が何なのか、聞くのが怖かった。ただ、彼女が僕に何かを遺そうとしていることだけが、痛烈に伝わってきた。
「楽しみにしてろ。お前をあっと言わせてやる」
明日、この夏が終わる。
彼女の時間が止まる前に、僕は必ずあの頂上へ辿り着き、彼女の瞳に最高の景色を刻み込む。
水面に映る、ほぼ完璧な円を描こうとする月。
僕の心の中には、かつてないほど静かで、研ぎ澄まされた決意が満ちていた。


