僕は勇者の殺し方を知っている。



アントニウス歴1765年12月。

吐く息すらも一瞬で凍りついてしまいそうな、白銀の世界。見渡す限り一面の雪に覆われた僕たちの村に、この世界を救うとされる「勇者」がやって来た。

「勇者様だ!!勇者様がやって来たぞ!!」

「勇者様!!どうか、どうか握手してください!!」

「俺も!!俺も握手をお願いします!!一生の宝にします!!」

「私も!!」

「僕も!!」

村の広場は、狂乱とも言える熱気に包まれていた。普段は寒さに身を縮めて静かに暮らしている村人たちが、まるで何かに憑かれたように声を枯らし、押し合いへし合いしながら一人の人物へと群がっている。分厚い防寒具を着込んだ人々の熱気で、そこだけ雪が溶け、白い湯気が立ち上っていた。

そんな喧騒を少し離れた場所から眺めながら、僕、エミール・ハーヴェストは、冷めた息を一つ吐き出した。

勇者に群がる群衆の多さと、夏の夜にランタンの火へ群がる羽虫の多さ。そこに見事なまでの共通点を見出していたのだ。

つまり、どちらも「光り輝いているように見える、なんか凄そうなもの」に向かって、思考を放棄して群がっているだけにすぎない。それが、17年の短い人生で培われた僕の人生哲学だった。

もちろん、実際のところはそんなに単純な話ではないと分かっている。魔物の脅威に怯えるこの世界において、「勇者」という存在がどれほどの希望であるか。彼らがすがるような思いで手を伸ばす気持ちも、理解できないわけではない。

だが、それでも。雪を踏み荒らし、我先にと群がる人々の姿は、僕の目にはただただむさ苦しく映った。

——くだらない。

そう心の中で毒づきながら、僕は広場に背を向けた。こんな冷やかしに時間を割いている暇はない。今日は冬祭りの日だ。家に帰って、屋台の準備を手伝わなければならない。

家に着くやいなや、休む間もなく親の怒声に似た歓声が飛んできた。

「エミール!遅いぞ、早く手伝ってくれ!」

我が家が冬祭りで出すのは、熱々のポテトフライの屋台だ。大量のジャガイモの皮を剥き、均等に切り分け、油の温度を調整する。単純だが重労働だ。

だが不思議と、嫌な感じはしなかった。冷え切った手に伝わる油の熱気や、香ばしい匂い、そして両親と交わす他愛のないやり取り。それらは、僕にとってかけがえのない平穏だったからだ。

それに、今のこの手伝いは、普段の生活に比べれば幾分か楽だった。1週間前まで、僕は片道10キロ弱離れた高等学校まで、毎日徒歩で通っていたのだ。雪に足を取られながら、魔物の脅威に怯えながらの通学に比べれば、暖かい火のそばでの作業など遊びのようなものだった。

夕方になり、ようやく屋台の設営と下準備が終わった。

「父さん、母さん。用事があるから、少し出かけてくるよ」

そう伝えると、両親は「祭りが始まる前には帰ってこいよ」と笑って送り出してくれた。

重い木製の扉を開け、再び外の白銀の世界へと足を踏み出す。

まず全身を襲ったのは、刺すような異常な寒さだ。吐く息は降りしきる雪に溶け込むように真っ白になり、背筋は当然のように凍りつく。まつ毛に付いた雪が瞬きをするたびに凍り、視界を白く縁取る。

まあ、慣れたことだ。

僕が生まれてこの方、ずっとこの寒々しい村で生きてきたのだから。

しかし、親の話によれば、どうやら25年前まではこれほど過酷な環境ではなかったらしい。むしろ、この王国の中でもかなり温暖な地域だったというのだ。今の刺すような吹雪を顔面に受けながらでは、到底信じられない話だった。王国全体が寒冷化しているという噂もあるが、真偽は定かではない。

ただ一つ確かなことは、こんな「寒さごとき」を気にしている弱者は、この世界では生きていけないということだ。

何故なら、人間の居住区である村を一歩でも出れば、そこは理不尽な暴力が支配する領域だからだ。

「ギュピィィィィィィィィィ!!!!!」

耳をつんざくような、不快な鳴き声。

村はずれの道を歩き、とある大切な人と待ち合わせている海辺の灯台へと向かっていた僕の前に、当然のようにそれは現れた。

体長は人間の大人ほどもある、巨大な鳥型の魔物。鋭い嘴と、血に飢えたように爛々と輝く赤い瞳。薄暗い雪景色の中で、その異形の姿はひどく浮いていた。

魔物は僕の姿を認めるなり、威勢だけは良く大声を上げて威嚇してきた。雪を巻き上げながら羽ばたく様は、一般人であれば腰を抜かすほどの迫力だろう。

しかし、僕は冷静だった。防寒着の奥、常に腰に帯びている剣の柄に静かに手をかける。

チャキッ、と鋭い金属音が鳴り、剣の切っ先を空に向けて軽く振るう。それだけで、僕が放った魔力と殺気に当てられたのか、鳥型の魔物は少し怖気づき、後ろにのけぞった。

「悪いけど、僕は今からデートに行くんだ」

僕は剣を構えたまま、氷のように冷たい声で魔物に語りかけた。

「それに、一日中屋台の設営をしていて疲れてる。悪いことは言わないから、邪魔しないでくれるかな…?」

「ギュピ……!」

一瞬怯んだ魔物だったが、すぐに本能が理性を上回ったらしい。

「ギュピィィィィィィィィィィィィ!!!!!!」

再び狂ったような鳴き声を上げ、猪突猛進の構えで僕の目の前に向かって一直線に突っ込んできた。

まあ、仕方ないか。

低級魔族ごときに、人間の言葉や事情が通じるわけがないのだ。

「じゃあ、死ね」

僕は低く呟き、雪を蹴った。

学校に通う道中で幾度となく繰り返してきた、慣れた手さばき。突っ込んでくる魔物の軌道を紙一重で躱し、すれ違いざまに剣を一閃させる。

刃は魔物の硬い羽毛を容易く切り裂き、その強靭な翼を根元から切断した。

「ギァァァァァッ!!?」

魔物は醜い悲鳴を上げ、バランスを崩して雪の上に転がった。片翼を失い、雪を鮮血で染めながら、無様に逃げようと足掻く。

だが、その隙を僕が見逃すはずがない。僕はタイミングを合わせ、空高く跳躍した。

「逃さねえよ」

重力に身を任せ、落下する勢いを利用して、魔物の脳天へと剣を真っ直ぐに突き立てた。

硬い頭蓋を砕く鈍い感触。魔物の巨体はビクンと一度大きく跳ね、そしてすぐに動かなくなった。雪の上に、黒どす黒い血が広がっていく。

僕は剣を引き抜き、雪で血の汚れを拭うと、何事もなかったかのように再び歩き出した。

その後は特に魔物に遭遇することもなく、僕は待ち合わせ場所である海辺の灯台へと辿り着いた。

そこは村から少し離れた高台にあり、夜空に揺らめくオーロラが最も美しく見える場所だった。

雪明かりと星明かりの中、既に人影が一つ、ポツンと立っていた。

分厚いコートに身を包んでいても分かる、華奢で柔らかなシルエット。僕の恋人であるマーシャだ。僕が声をかけるより早く、足音に気づいた彼女が振り返り、花が咲くような笑顔を見せた。

「あ。エミール!お疲れ様、待ってたよ!!」

「ごめん、待たせたね。マーシャ。……相変わらず、君は綺麗だね」

「もう、急に何言ってるの?……へへ、でも嬉しいな」

少し頬を赤らめて微笑むマーシャに、僕はからかうようにウインクをしてみせた。だが、寒さで顔の筋肉が強張っていたのか、そのウインクがどうにも不格好だったらしく、マーシャはこらえきれないように吹き出した。

「あはは!何それ、顔が引きつってるよ!」

彼女の澄んだ笑い声が、冷たい夜の空気に溶けていく。その笑顔を見るだけで、今日一日の疲れも、先ほどの魔物との殺伐とした戦闘も、すべてが浄化されていくような気がした。

僕らは灯台の壁を風よけにして並んで座り、夜空を見上げた。空には、緑や紫に淡く光るオーロラが、まるで天女の羽衣のように揺らめいている。

僕らは、他愛のないことから、少し真面目なことまで、たくさんのことを話した。

近いうちに開かれる冬祭りの催し物のこと。学校の成績のこと。

そして、もう少し先の未来のこと。

王国の兵士に志願して、華やかな首都へ行くべきか。それとも、この静かで厳しい村に残り、平穏な暮らしを営むべきか。

いつか、二人でどんな家庭を築くのか。

「私は、エミールと一緒ならどこでもいいよ」

マーシャは、僕の肩に頭をこてんと乗せて言った。

「でも、もし首都に行くなら、エミールがいっぱい美味しいものを食べさせてね」

「任せてよ。僕が最高の騎士になって、君を一番のお姫様にしてあげるから」

そんな冗談めかした約束を交わしながら、僕らは互いの体温を感じ合っていた。手袋越しの手が繋がり、冷たい風の音さえも遠くに聞こえる。こんな身を切るような寒さなんて、完全に忘れてしまうくらいに、僕らは語り合った。

そして、気づけば時間は深夜0時を回っていた。

「そろそろ帰ろうか。明日も早いし、両親が心配する」

「うん、そうだね」

僕らは立ち上がり、服についた雪を払って帰路についた。

行きよりも一層暗くなった雪道。暗闇の奥から突然襲いかかってくるであろう魔物に対する警戒を怠ることはできない。

僕もマーシャも、こんな危険な道を毎日通って、五体満足で学校に通学できている時点で、村の中ではダントツの実力者であることは確かだ。僕の剣術も、マーシャの魔法も、大人たちを凌駕している。

それでも、暗闇の恐ろしさは別格だ。どこから、どんな魔物が飛び出してくるか予測がつかない。だからこそ、常に全神経を研ぎ澄ませ、細心の注意を払わなければならない。

僕が前を歩き、マーシャを庇うようにして進んでいた、その時だった。

『やあ、英雄諸君。こんにちは。いや、今はこんばんは、だったかな』

——ビキッ。

空間にヒビが入るような、嫌な音がした。

どこからともなく、声が響いた。脳内に直接語りかけられているような、不思議で、ひどく不快な響き。

声の主を探して視線を巡らせた僕の目に、前方数十メートルの雪上に立つ「ソレ」が映った。

アレが……アレが声の主か?

一目見た瞬間、僕の全身の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出した。

ヤバい。

そんなチャチな言葉で表現できる次元じゃない。ヤバいどころの話ではないのだ。

歯の根が合わず、ガチガチと鳴る。膝が笑い、身体の震えが止まらない。胃の奥からせり上がってくる強烈な吐き気。

それは、純粋な「死」の予感だった。これから数秒後、僕らがアレに無惨に殺されるという未来が、確信として脳裏に焼き付いた。

なんで。なんで、こんな村はずれの道に、あんなものがいるんだよ。

「エミール……あれ、何……?」

背後から、マーシャの震える声が聞こえた。彼女も、ソレの異常性に気づいている。

「まさか……なんでこんなとこにいるの?……あれ、低級魔族だよね……?」

……違う。

マーシャは、現実を直視できずにそう思い込もうとしている。だが、僕の本能は正確に敵の正体を把握していた。

あれは低級魔族なんかじゃない。上級魔族ですらない。

もっと恐ろしくて、もっと禍々しい……生命を根本から否定するような存在。

いや、奴はもはや、生命体と呼ぶことすらおこがましい。

アレは「恐怖」という概念そのものが、具現化してそこに立っているのだ。

何故なら、アレの正体は、この世界で最も強く、最も邪悪な存在……!

『魔王』以外にあり得ないからだ。

周囲の雪が、ソレの放つ瘴気で黒く変色していく。

魔王は、優雅にすら見える仕草で一歩前へ出ると、再び僕らに語りかけた。

『初めましてかな? そこの英雄の原石たる少年と、マーシャ・アドミニストレーター。僕はこの世界で、魔王をやらせてもらっている者だ』

楽しげな、舞台俳優のような仰々しい名乗り。

だが、その言葉には絶対的な王者の威圧感がこもっていた。

「やはり、魔王か……」

僕は乾いた唇を舐め、剣を抜いた。だが、剣を握る手は情けないほどに震えていた。

勝ち目はない。1秒足止めできれば奇跡だ。

僕は決断した。

「あんたは……。なら、マーシャ。僕を置いて、今すぐ全力で逃げろ」

僕は振り返らずに、背後のマーシャに命令した。

「嫌だ!!」

即座に、悲痛な拒絶が返ってくる。

「はやくしろ!!」

「エミールが死ぬなら……! 私も一緒……! ……に?」

マーシャの言葉が、不自然に途切れた。

——ごめん、マーシャ。

僕は、彼女が言い終わるよりも早く、左手で印を結び、魔力を練り上げていた。

『無詠唱・空間転移』。

僕が密かに習得していた、高等魔法。マーシャを包み込んだ淡い光は、次の瞬間には彼女の姿ごと、この空間から完全に消し去っていた。

……ふう。

なんとか、マーシャを村の近くの安全そうな場所へ逃がすことには成功した。

これで、僕が死んでも彼女は助かる。

それにしても。

僕は再び前を向き、魔王と対峙した。

……なんて圧だ。立っているだけで、魂が削られていくような感覚。

途端、僕の行った小細工に気づいた魔王の顔色が変わった。驚愕の表情だ。

『何ということだ。今、無詠唱の転移魔法で、マーシャ・アドミニストレーターを逃がしたというのか? あの短時間で、僕の空間掌握をすり抜けて……!?』

魔王は感嘆の声を漏らし、そして歪な笑みを浮かべた。

『素晴らしい! 素晴らしいよ、少年! やはり、君は僕の右腕となるべき逸材だ……!! どうだい、僕の部下にならないか? 世界の半分を与えてもいい』

「断る」

僕は震えを無理やり押し殺し、魔王を睨みつけた。

「魔王の部下なんて、ごめんだね。僕の夢は、平凡な騎士になって、愛する人を守ることなんでね」

『……はあ。人間の情というやつか。言ってみるだけ無駄だったか。まあ、いい』

魔王はわざとらしく肩をすくめた。

途端、魔王の纏うオーラの質が、劇的に変容した。「興味」から「明確な殺意」へ。周囲の空気が重みを増し、呼吸することすら困難になる。

『念には念を入れて、こちらも出し惜しみはしない。最高位の呪縛、血契夢境(けっけいむきょう)ALICEを使うとしよう』

血契夢境ALICE……?

なんだそれは。聞いたこともない魔法名だ。

『顕現せよ。わが瞳の中のALICE』

魔王がそう唱えた瞬間。

彼の右目から、ドクン、と黒い血が流れ始めた。

それと同時に、僕の視界がぐにゃりと歪む。重力が消失し、足元の雪原が崩れ落ち、僕は魔王の右目から放たれる漆黒の渦の中へと吸い込まれていった。

『"絶対不可侵聖域 WORLD"』

魔王の冷酷な声が、遠ざかる意識の中で響く。

『そして、二つの瞳は閉ざされ……』

「……させない、よ……!!」

僕は必死に剣を振り回し、迫り来る闇を切り裂こうとした。

だが、無力だった。僕の意識は、底なしの深淵へと真っ逆さまに落ちていった。

(…………………)

「——起きたかい? 少年」

優しい声がした。

まるで春の陽だまりのように、全てを包み込むような、温かい大人の男の声。

その声に導かれるように、僕はゆっくりと重い目蓋を開けた。

白い天井が見えた。ふかふかのベッドに寝かされているらしい。

ここは……?

全身の感覚を確かめる。痛みはない。四肢も揃っている。

僕は、助かったのか? あの絶望的な状況から?

いや、そんなことはどうでも良い。目の前にいる、この男は誰だ?

「貴方は……閻魔大王か、死神か何かですか……?」

僕は掠れた声で尋ねた。

「もしそうなら、僕は天国に行きたいのですが……。マーシャは、無事でしょうか……?」

「なんで? どうして?? 僕は死んだはずじゃ……あの魔王の魔法を食らって……」

混乱する僕を見て、その男は朗らかに笑った。

「死んでないよ。だって、君は何もされてないじゃないか。身体に傷一つないだろう?」

「……? ていうか、貴方は……。その金糸の髪と、聖なるオーラ……まさか」

「そう。そのまさかさ! 驚かせて悪かったね。改めて自己紹介しようか」

男は立ち上がり、胸に手を当てて優雅に一礼した。

「僕の名前は、ラングルド・ハーヴェスト。この世界では『勇者』と呼ばれている者だよ」

今日、村を熱狂の渦に巻き込んだ張本人。伝説の勇者が、何故ここに。

「勇者様……! あの、魔王から助けていただき、本当にありがとうございます。僕が気を失っている間に、貴方が魔王を退けてくれたのですね」

僕はベッドの上で慌てて頭を下げようとした。

しかし、勇者ラングルドは不思議そうに首を傾げた。

「魔王……?」

彼は、ぽつりと呟き、そして信じられないことを口にした。

「魔王なんて、どこにもいないだろ。だって、数年前に僕が殺したよ。あの魔王は、もうこの世には存在しないんだ」

「……え?」

窓の外では、夜が明けようとしていた。

僕の平穏な日常は、とっくに音を立てて崩れ去っていたのだ。