桜の檻にとじこめて

 最近、梅雨って季節はどこへ消えてしまったんだろう。新学期が始まってもうすぐ二か月、中学校や高校生は中間テストが実施される時期が来ている。どこの学校もだいたい一週間前から部活がお休みになるらしく、自習室やカウンターは制服姿の学生たちでにぎわっていた。外は春のことなんてすっかり忘れてしまったかのように太陽が照らしていて、まだ衣替えがない学校の生徒はひいひい言いながら長袖の制服を腕まくりしている。
 僕はといえば、さすがに社員の立場でTシャツでいるわけにもいかず、半そでシャツを開襟にして事務所で作業をしていた。カウンターに溜まっていた書類たちを分類し終わって時計を見上げる。もうしばらくすると、次の授業が始まる時間だ。授業がある講師は準備をして教室へ向かわないとならない……のだが。受付カウンターには更科くんが数学の質問に来ていた生徒につかまっていた。彼も次の授業があるはずなのに。普段の更科くんは要領がよく、カウンターに入って生徒対応をしていても、授業の10分前にはスッと下がって事務所でテキストやプリントを準備しているタイプだ。
「更科先生大丈夫?もうすぐ次のコマ始まっちゃうよ?」
 一向にカウンターから動かない更科くんにやきもきしてきた僕は、とうとう彼に声をかけた。
「あっ。ごめんなさい、ちょっとこの問題に時間がかかってて……。すぐに終わらせて行きます」
「そっか。そしたら、教室の準備だけしておくね」
「すみませんっ」
 いつになく切羽詰まった様子で更科くんが返事をする。バイトの講師が、社員に作業をお願いするのだから、たとえ僕らが親しい間柄だとしても恐縮するのは当然だ。気を使わせてしまうのは本意ではないので、さっと僕はその場を離れようとした。
「光浦センセーやさしーい。ごめんねー」
 カウンターに背を向けようと動き出した瞬間。なでるような声が追いかけてきた。更科くんに質問をしていた生徒だ。思わずそちらに目をやると、その女子生徒はなんとも言えない視線で僕のほうをチラリと見た。試すような、それでいて拒絶するような。目が合ったとたん、僕の心の端がざらつくような感じがした。猫に舐められたみたいに。
「じゃ、時間気をつけてね」
 それだけ言うことができただろうか。僕は掃除セットを持って教室へ向かうことにする。さっき受けた視線の分だけ、足取りが重くなった気がした。

 教室について僕は黒板を拭き始めた。大学生の頃からやっている作業なので、特に何も問題はなく手際よく授業が始められるように教室を整えていく。そのうちパラパラと授業を受ける生徒たちが入ってきた。
「あれっ。光浦先生だ。教室間違えた?」
「先生数学も担当するの?」
 年齢が近いこともあってわいわいと話しかけてくる。
「もうすぐ更科先生来るからね。授業の準備しておいてね」
 なかには僕も英語の授業で受け持っている生徒もいる。だから、僕はいつも通りに生徒たちに声をかけていった。散らばっていたチョークを箱に戻して掃除を終わらせると、更科くんがテキストの束を持って教室に飛び込んできた。
「光浦先生すみませんっ」
 カウンターで話したときと同じように更科くんは僕に頭を下げる。そんなにしなくてもいいのに。
「時間には間に合ってるから大丈夫だよ。授業よろしくね」
 軽く返事をして更科くんに教室を預けて戻ろうとした。
「せんせー」
 聞こえた声にざらりとした感触がある。
「あんまり更科先生いじめないでね?」
 まただ。さっき更科くんに質問をしていた女子生徒が教室の入口にいた。
「そんなことはないよ。ほら、もう授業始まる時間だから、席についてしっかり話を聞いておいで」
 こんなことで揺れていてどうするのだ。僕は笑顔を保ったまま彼女を注意して教室を離れた。更科くんの顔は見ることができなかった。

 なんとなく気持ちが晴れないまま僕は事務所での作業に一度ケリをつけ、休憩に入ることにする。お供の夕飯はいつも通りに近くのコンビニで調達してくる。終業後だとどうしても遅い時間になってしまうので、ここで軽くでも夕飯を取らないと後がもたないのだ。狭いけれどひとりの休憩室。僕は買ってきたサンドイッチをもさもさと咀嚼し、スマホをいじって時間を潰していた。
 コンコン。休憩室のドアがノックされる。
「どうぞ」
「お疲れ様です」
 更科くんが入ってきた。僕と同じようにコンビニの袋と、もう一つ紙袋を持って。
「おつかれさま」
 そう僕が言い終わる前に、更科くんはその紙袋を僕に差し出した。
「あの、これ、さっきのお礼なので、デザートにでも食べてください」
「えっ。どうしたの」
 受け取った紙袋からは甘い匂いがした。たぶん、コンビニの近くにあるケーキ店の袋だ。
「だって、僕は当然の仕事をしただけだよ?君にこんな気を使ってもらうなんて……」
 そう。僕は普通に仕事をしただけだ。ちょっと気持ちが波をたてているのも、これは僕の問題で、更科くんに気をつかわれることでもないはずなのに。
「ちがう。仕事じゃないです」
「え?」
「本当はお礼でもないですね。どちらかといえばおわび……かな」
「どういうこと?」
 ますますわからない。そうしているうちに、更科くんは僕の手にあった紙袋を開いて、中からシュークリームを取り出した。甘いバニラの香りがふわりと広がる。
「だって、先生、ヤキモチ焼いてたでしょう?」
 ほんの少し眉を下げて、こちらを上目遣いでうかがう更科くんは、僕の手にそのシュークリームをのせた。
 ヤキモチ。嫉妬。そうか。波立った気持ちに名前がつけられていく。ふわっとした見た目でありながら、ずっしり重さのあるシュークリームに妙な現実味をおぼえた。
「だからね、おわびです」
「そっか。ははっ。そうかもね」
 気持ちに名前が付いたとたん、パズルのピースがはまるように心が整理されたような気がした。僕は先生だったはずなのに、教わることばっかりだ。
 僕は手に持ったシュークリームを一口かじった。中に詰まったたっぷりのクリームが甘さを主張している。軽くて、甘くて、重い。
「ん。おいしい。ありがとう」
 そのシュークリームを更科君の口元に持っていく。君の教えてくれた感情のおすそ分けだ。僕の意図を察した更科くんは、シュークリームを一口かじって、ついたクリームをぺろりとなめとる。
「あまーい」
 更科くんがいつもの、僕の前だけの更科くんに戻っている。それから、じっとこっちを見つめて数秒。彼の饒舌な眼は、唇についた甘いクリームの残りを共有することを求めている。
「また、あとでね」
 僕の休憩時間はもう残り数分。手元に残ったシュークリームをぱくりと平らげて、休憩室のテーブルを更科くんに明け渡した。

「休憩あがりましたー」
 僕はドアを開いた。休憩時間に入った時とまるで違う心の温度差に、自分自身で驚いてしまう。「あとで」の約束はちょっと片隅に閉じ込めて、僕はプリント類の処理をしていくことにした。
「ねぇ光浦せんせ!」
 しばらくプリントと向き合っていたら、カウンターからさっきの女子生徒に声をかけられた。
「更科先生いる?質問したいんだけど」
「いますか。でしょ。今まだ休憩中だから、もう少ししたら対応できると思うよ」
「えー」
「そこいって五分とかだよ。その間に、英単語の復習でもするといいんじゃないかな。プリントいる?」
 聞く体をしているが、回答などは気にせずに僕は彼女にプリントを手渡す。彼女が隅のテーブルでプリントに単語を書き終わった頃、更科くんが休憩から出てきて、彼女の対応をはじめた。僕もデスクの作業に戻る。

 昼間の気温も帰る時間になると落ち着き、夜の風が素肌にちょうどいい心地になる。僕はあの桜の日と同じように更科くんと並んで帰っていた。
「ねえ、先生」
 彼が何を言うかはわかっているから、もう続きは聞かない。僕は、半袖のシャツから伸びる彼の腕を掴んで、彼の言葉を封じた。
 顔を離すと、満足げに微笑む瞳がこちらを見ている。彼を檻に捕らえられるなんて、おかしなことを考えたものだ。鍵を持っていたのは更科くんなのに。
「さっきのケーキ屋さん、美味しかったからまた今度買いに行こうか」
 僕らは緑の揺れる夜の桜並木を、また歩きだした。