桜の花は、この、春の訪れを告げるとばかりに列島で南から一斉に咲くソメイヨシノは、花が完熟を過ぎるとひとりでに散っていく。逆に言うならば、花の寿命が来るまでは風が吹いても、雨が降っても、意外なほど枝についたまま落ちないのだ。
熟すまでは花を落としてはいけない。決して。
教室のブラインドの隙間からは、春らしくかすんだ空に、桜の枝が揺れているのが見える。学校の入学式まで花がもってくれるといいんだけど、とそれこそ空に願かける気持ちで僕はぼんやりと外を眺めていた。自分は入学式とは関係のない身の上だが……まぁ、新しい門出を迎えた教え子たちのためだということにしておこう。
つい先日僕は大学を卒業した。卒業式の時期にはまだ桜が数輪ほころぶかどうか、という程度だったから、少し間が悪いとも思う。そして迎えた4月。同級生たちは入社式を一斉に迎えている時期だというのに、僕は大学時代と同じように、この小さな教室の黒板を拭いていた。「光浦くん、教採やめてウチに就職しなよ」塾長の言葉をありがたく受け取り、僕はあまり身のはいらなかった教員採用試験をスキップして、この地域密着といえばいいのだろうか、家族経営に毛が生えた程度の小さな塾に就職を決めた。講師のアルバイトから、正社員への転身である。もちろん、入社式や辞令なんて格式張ったものはなく、勝手知ったる雑居ビルの一角にラフな服装で出勤しているわけだ。
教室の掃除をざっと終わらせて、新年度の教材の整理に取り掛かろう。学生ではなくなったので、早い時間から仕事ができるようになったし、その分事務的な作業も増えた。過酷な採用試験もなしに雇ってもらったんだから、それなりの働きぶりを見せないとね。まぁ、大学1年生の頃からのアルバイトが長大なインターンだったと言われればそうかもしれないけど。
「光浦くーん!じゃなかった、光浦センセ!ちょっとお茶入れてくれない?」
倉庫にこもっている事務員さんに声をかけられて、僕は掃除用具の片付けをしていた手を止めた。そういえばお客さんが来るとか予定表に書いてあった気がする。
「はーい」
掃除用具の戸棚をばしんと閉じて僕は返事をした。小さな給湯スペースにあるガラスの扉を開く。中から急須と茶筒とを出して、スプーンで茶葉をひとつふたつ……。お湯を注いでちょっと待つあいだに、お客様が何人か確認しよう。
そっと受付カウンターから面談スペースの方をのぞくと、若い男性の人影がひとつ。ほんの少し確認するだけだったその横顔を目にとめた瞬間、僕の視線はそこから動けなくなった。彼は、もしかして。あの時よりも背も高くなっているし、雰囲気も変わっている、何より後ろよりの横顔でしかないから、全然違う人かもしれない。でもあの丸い後頭部ときれいにととのえられた項……いけない。わき出した期待を無理やり押し込めて給湯スペースに戻った。
ふっと息を吹きかけたら散ってしまいそうな、ほかの花が咲き茂っているところと少しだけ距離をあけてぽつんと一輪咲いている桜。少し儚げで、でも凛とした印象の生徒だったことを覚えている。成績は申し分ない、もちろんいじめられているわけでもない。でも教室の真ん中で大声で笑っている賑やかな集団からは一歩離れて、静かに単語帳や小説のページを繰っているような中学生だった。
毎年受験生たちの進路が決まった時期に、教室でジュースやお菓子を出して生徒と先生で懇親会をしている。卒業式のかわりのねぎらいの会であり、お別れ会にもなる。彼も僕の初めて送り出した生徒の一人だった。
「先生が、いつまでもぼくの先生でいてくれたらいいのに」彼は、伏せられたまつ毛をこちらへ向けることもせずにそう声に出した。おそらくそれは、憧憬とか敬愛とか感謝とか、普通の「先生」に向ける感情以外のものが込められていたのだろう。でも僕は先生だから、それ以上のことを考えては、受け取ってはいけなかった。
「僕は来年度もまだここで先生してるからさ、また学校で困ったことがあったらいつでもおいでよ」
僕は、彼の瞳の奥に秘められた気持ちには気づかないようにして、ほかの卒業生たちに言うように返事をした。ちらりとこちらへ向けられた彼の目はどこまでも透き通っていて、僕の返事はその一番深いところに吸い込まれ閉じ込められてしまったようだった。
お客様用の茶碗をふたつお盆に並べる。かたんと少し大きな音をさせてしまった。急須から丁寧に均等にお茶を注ぐ。おしぼりもお皿にのせて、ふうっとひと息呼吸をととのえてから僕はお盆を両手で持って面談スペースへ向かった。こぼさないように、そうっと。
「あ、光浦くんありがとうね」
面談スペースで対応していた塾長に迎えられて、僕は茶碗をテーブルに並べる。それからゆっくり視線を上げた。
「先生、お久しぶりです」
「そうだ、更科くんは光浦くんの教え子だったね」
きん……と周りの音が吸い込まれていったように感じる。テーブルについていた彼は、あの日よりもすっかり大人びていて、けれどもそのまとう空気はあの頃と変わらず凛としていた。
「紹介するまでもないかな。今年大学1年生になった更科くん。今日講師のアルバイトの面接に来てくれてね。いやー、すっかり大人になっちゃって。数学と理科を担当してもらうつもりだよ」
「はい。教えるのは初めてなので、上手にできるか不安ですが、頑張ります」
そう言うと、彼はほんとうにきれいな笑顔をつくった。僕の背中がぞくりと震えた気がした。「ここで先生してるから」そう言ったかつての自分の約束が脳裏をちかちかと掠めていく。さっきまで忘れていた約束。忘れていたと思っていた。けれど、僕も知らないうちに僕の行き先を決めていたのかもしれない。妙にのどが渇いて、声が貼りつく感じがする。
「きっと更科くんなら大丈夫だよ、一緒に頑張ろうね」そう言うことはできただろうか。
数日後、彼の出勤日。更科「先生」となった彼は、受付カウンターのこちら側にいる。終業ミーティングのあと声をかけられて、彼と一緒に塾のある雑居ビルを出た。桜は満開を過ぎて、はらりはらりと花弁が散っている。時折風が吹けば、あたりは夜であることを忘れるくらいの桜色が舞う。二人で夜道を歩いていながら、僕は幻想的な風景に誘われるがままに視線を揺れる花弁へと漂わせていた。
「先生……先生はまだ先生だったんですね」
沈黙を切り裂いた彼の声が少しの熱を帯びているように聞こえたのは、僕の期待が混ざっているからだろうか。
「ねえ、先生。見て。これ、花の真ん中のところが赤くなってる。この花が熟したしるしなんですよ。だから枝から落ちてくる」
突然身を翻してかがんだ更科くんは、桜の花を拾って歌うように言った。手に持つ一輪の桜は確かに赤く色づいている。
「びっくりしたよ。まさか更科くんが先生になって戻ってくるとは思わなかった」
「困ったことはないんですけどね。先生があそこで待ってるって言ってたから」
彼は手に持っていた桜を、ふうっと風にのせている。指先から花が離れてくのを見送り、彼はこちらを向いた。
「私も先生になったんです。先生と同じに」
桜の枝の下で遊ぶ子供たちは、みな一様に空へ手を伸ばしているのはなぜなのか。僕は理解した気がした。あれは落ちてくる花を享けようとしているのだ。美しいものを自分の掌にのせるために。
「困ったなぁ。そんな風に教えたつもりはなかったのに」
彼のくるりと整った頭に、桜の花びらが引っかかっている。それを取り去ろうと僕は手をあげた。けれども、その目的は果たされなかった。彼が僕の手をとって頬に寄せたからだ。夜風に当たっていた彼の頬が冷たく感じられる。
そろりと伏せられていたまつ毛が震え、唇が美しい弧を浮かべる。深淵のような瞳が僕をとらえた。逃れられない。そして、僕はその瞳の奥にするべきことを悟った。
さてと、この檻の前に戻ってきてしまった小鳥をお迎えするにはどうすればいいだろうか。僕は捨て去るつもりの先生の笑顔をたたえてお伺いをたてる。
「ねぇ……僕はいつまで君の先生でいればいいかな?」
紅く色づいた桜の花は、僕の掌に落ちてきた。
熟すまでは花を落としてはいけない。決して。
教室のブラインドの隙間からは、春らしくかすんだ空に、桜の枝が揺れているのが見える。学校の入学式まで花がもってくれるといいんだけど、とそれこそ空に願かける気持ちで僕はぼんやりと外を眺めていた。自分は入学式とは関係のない身の上だが……まぁ、新しい門出を迎えた教え子たちのためだということにしておこう。
つい先日僕は大学を卒業した。卒業式の時期にはまだ桜が数輪ほころぶかどうか、という程度だったから、少し間が悪いとも思う。そして迎えた4月。同級生たちは入社式を一斉に迎えている時期だというのに、僕は大学時代と同じように、この小さな教室の黒板を拭いていた。「光浦くん、教採やめてウチに就職しなよ」塾長の言葉をありがたく受け取り、僕はあまり身のはいらなかった教員採用試験をスキップして、この地域密着といえばいいのだろうか、家族経営に毛が生えた程度の小さな塾に就職を決めた。講師のアルバイトから、正社員への転身である。もちろん、入社式や辞令なんて格式張ったものはなく、勝手知ったる雑居ビルの一角にラフな服装で出勤しているわけだ。
教室の掃除をざっと終わらせて、新年度の教材の整理に取り掛かろう。学生ではなくなったので、早い時間から仕事ができるようになったし、その分事務的な作業も増えた。過酷な採用試験もなしに雇ってもらったんだから、それなりの働きぶりを見せないとね。まぁ、大学1年生の頃からのアルバイトが長大なインターンだったと言われればそうかもしれないけど。
「光浦くーん!じゃなかった、光浦センセ!ちょっとお茶入れてくれない?」
倉庫にこもっている事務員さんに声をかけられて、僕は掃除用具の片付けをしていた手を止めた。そういえばお客さんが来るとか予定表に書いてあった気がする。
「はーい」
掃除用具の戸棚をばしんと閉じて僕は返事をした。小さな給湯スペースにあるガラスの扉を開く。中から急須と茶筒とを出して、スプーンで茶葉をひとつふたつ……。お湯を注いでちょっと待つあいだに、お客様が何人か確認しよう。
そっと受付カウンターから面談スペースの方をのぞくと、若い男性の人影がひとつ。ほんの少し確認するだけだったその横顔を目にとめた瞬間、僕の視線はそこから動けなくなった。彼は、もしかして。あの時よりも背も高くなっているし、雰囲気も変わっている、何より後ろよりの横顔でしかないから、全然違う人かもしれない。でもあの丸い後頭部ときれいにととのえられた項……いけない。わき出した期待を無理やり押し込めて給湯スペースに戻った。
ふっと息を吹きかけたら散ってしまいそうな、ほかの花が咲き茂っているところと少しだけ距離をあけてぽつんと一輪咲いている桜。少し儚げで、でも凛とした印象の生徒だったことを覚えている。成績は申し分ない、もちろんいじめられているわけでもない。でも教室の真ん中で大声で笑っている賑やかな集団からは一歩離れて、静かに単語帳や小説のページを繰っているような中学生だった。
毎年受験生たちの進路が決まった時期に、教室でジュースやお菓子を出して生徒と先生で懇親会をしている。卒業式のかわりのねぎらいの会であり、お別れ会にもなる。彼も僕の初めて送り出した生徒の一人だった。
「先生が、いつまでもぼくの先生でいてくれたらいいのに」彼は、伏せられたまつ毛をこちらへ向けることもせずにそう声に出した。おそらくそれは、憧憬とか敬愛とか感謝とか、普通の「先生」に向ける感情以外のものが込められていたのだろう。でも僕は先生だから、それ以上のことを考えては、受け取ってはいけなかった。
「僕は来年度もまだここで先生してるからさ、また学校で困ったことがあったらいつでもおいでよ」
僕は、彼の瞳の奥に秘められた気持ちには気づかないようにして、ほかの卒業生たちに言うように返事をした。ちらりとこちらへ向けられた彼の目はどこまでも透き通っていて、僕の返事はその一番深いところに吸い込まれ閉じ込められてしまったようだった。
お客様用の茶碗をふたつお盆に並べる。かたんと少し大きな音をさせてしまった。急須から丁寧に均等にお茶を注ぐ。おしぼりもお皿にのせて、ふうっとひと息呼吸をととのえてから僕はお盆を両手で持って面談スペースへ向かった。こぼさないように、そうっと。
「あ、光浦くんありがとうね」
面談スペースで対応していた塾長に迎えられて、僕は茶碗をテーブルに並べる。それからゆっくり視線を上げた。
「先生、お久しぶりです」
「そうだ、更科くんは光浦くんの教え子だったね」
きん……と周りの音が吸い込まれていったように感じる。テーブルについていた彼は、あの日よりもすっかり大人びていて、けれどもそのまとう空気はあの頃と変わらず凛としていた。
「紹介するまでもないかな。今年大学1年生になった更科くん。今日講師のアルバイトの面接に来てくれてね。いやー、すっかり大人になっちゃって。数学と理科を担当してもらうつもりだよ」
「はい。教えるのは初めてなので、上手にできるか不安ですが、頑張ります」
そう言うと、彼はほんとうにきれいな笑顔をつくった。僕の背中がぞくりと震えた気がした。「ここで先生してるから」そう言ったかつての自分の約束が脳裏をちかちかと掠めていく。さっきまで忘れていた約束。忘れていたと思っていた。けれど、僕も知らないうちに僕の行き先を決めていたのかもしれない。妙にのどが渇いて、声が貼りつく感じがする。
「きっと更科くんなら大丈夫だよ、一緒に頑張ろうね」そう言うことはできただろうか。
数日後、彼の出勤日。更科「先生」となった彼は、受付カウンターのこちら側にいる。終業ミーティングのあと声をかけられて、彼と一緒に塾のある雑居ビルを出た。桜は満開を過ぎて、はらりはらりと花弁が散っている。時折風が吹けば、あたりは夜であることを忘れるくらいの桜色が舞う。二人で夜道を歩いていながら、僕は幻想的な風景に誘われるがままに視線を揺れる花弁へと漂わせていた。
「先生……先生はまだ先生だったんですね」
沈黙を切り裂いた彼の声が少しの熱を帯びているように聞こえたのは、僕の期待が混ざっているからだろうか。
「ねえ、先生。見て。これ、花の真ん中のところが赤くなってる。この花が熟したしるしなんですよ。だから枝から落ちてくる」
突然身を翻してかがんだ更科くんは、桜の花を拾って歌うように言った。手に持つ一輪の桜は確かに赤く色づいている。
「びっくりしたよ。まさか更科くんが先生になって戻ってくるとは思わなかった」
「困ったことはないんですけどね。先生があそこで待ってるって言ってたから」
彼は手に持っていた桜を、ふうっと風にのせている。指先から花が離れてくのを見送り、彼はこちらを向いた。
「私も先生になったんです。先生と同じに」
桜の枝の下で遊ぶ子供たちは、みな一様に空へ手を伸ばしているのはなぜなのか。僕は理解した気がした。あれは落ちてくる花を享けようとしているのだ。美しいものを自分の掌にのせるために。
「困ったなぁ。そんな風に教えたつもりはなかったのに」
彼のくるりと整った頭に、桜の花びらが引っかかっている。それを取り去ろうと僕は手をあげた。けれども、その目的は果たされなかった。彼が僕の手をとって頬に寄せたからだ。夜風に当たっていた彼の頬が冷たく感じられる。
そろりと伏せられていたまつ毛が震え、唇が美しい弧を浮かべる。深淵のような瞳が僕をとらえた。逃れられない。そして、僕はその瞳の奥にするべきことを悟った。
さてと、この檻の前に戻ってきてしまった小鳥をお迎えするにはどうすればいいだろうか。僕は捨て去るつもりの先生の笑顔をたたえてお伺いをたてる。
「ねぇ……僕はいつまで君の先生でいればいいかな?」
紅く色づいた桜の花は、僕の掌に落ちてきた。
