昨日、俺は七森を家に送れなかった。
七森に怒鳴り散らした挙句、すべて俺の一人芝居だったと突きつけられたあと。認識を根元から揺らされた衝撃は、四限めと昼休みいっぱい使ってもまるでおさまってくれなかった。すっかり定位置になった給水塔の影に座り込んだまま、刻々と角度を変えていく太陽に肩を炙られ続けた。
時間をかけても受け入れられない理由はわかっていた。七森の言ったことが正しいからだ。
最初から、俺の心なんて全部見透かされていた。その上で七森は茶番につき合ってくれていただけだった。俺の好きだった「武藤さん」なんて最初からどこにもいなくて、変わったように見えた彼女が最初から本当の彼女で、解決するべき問題なんて最初からなくて、七森と築いたと思っていた信頼みたいなものは、最後まで俺の頭のなかにしかなくて——
——そういう一生懸命なとこ、ずるいよねえ。
「………」
——七森はずっと、俺を甘やかしてくれていただけだったというわけだ。
「うあー……」
頭を抱えてその場に伏せる。このまま消えたい。しかしいつまで経っても消えやしないし「さすがに午後の授業までサボってしまうのはまずい」と抱えた頭が言うので、昼休みが終わる直前にすごすごと教室へ戻って、そこでぼんくらを続けた。七森は終礼が済んでも戻ってこなかった。
こうして俺のこっくりさん騒動は終わっていくのだと、漠然と感じた。
が。
「………」
あいつ、ちゃんと人目のあるところにいるんだろうか。
思考する余裕を取り戻してきた頭にまず浮かんだのが、それだった。
「顔を合わせるのは気まずいな」とか「知らん顔できるかな」ではなく、苛立ちを大いに含んだ心配だった。ど直球の用なし宣言を喰らったというのに、馬鹿でしかない。たわ言は無視して、昇降口に向かった。
そもそも七森は相談を受ける側の人間で、俺ごときが心配する余地はなくて、いち相談者である俺が気を揉むこと自体、おこがましくて、いやそもそものそもそも甘やかされて思い上がっていただけなんだから……いや、だめだ。考えたぶんだけ気が重くなる。さっさと帰って、余計なことを考えないように寝てしまえ。
「…………くそ……」
そう結論は出たというのに、どうしても靴に履き替えられない。未練がましくぐずぐずしている自分にいらつく。七森の細い首がぽきりと折られてしまう幻が、瞬きのたびにちらついた。
だから、俺ごときが何の役に立つんだよって。
瞼の裏でじっと俺を見つめてくるつり眼を振り払い、思い切ってスニーカーに指をかけた。
そのときだった。
「あれ、謙介?」
飛び上がりそうになった身体を何とか床に留めて振り向いた。
「今日はナナモリさんはいいのか?」
「ピアスは断念か。お疲れ会するか?」
友人たちだった。部活に向かうところだろう。時間が時間だ、驚くことなど何もない。反射的に唇の端を上げた。
「んあぁ……」
一瞬、自分が何を言ったのかわからなかった。友人たちも驚いた顔をしている。頭を切り替え損ねたまま、普段の速さで口を開いてしまったのが敗因だ。恥ずかしすぎる。
「うぅぅ……」
「珍し。謙介が唸ってる」
「大丈夫か?」
「だ、いじょうぶ、だいじょうぶ……」
「七森くんとなんかあったのか」
「あー、今日授業一緒にサボってたもんな」
「どしたん話聞こか?」
「ああ……えーっとぉ……」
テンポが速い。いや、俺の頭が遅い。いつもならそれなりに乗りこなせる会話に、完全に置いていかれている。むにゃむにゃと言い淀んでいると、それで友人たちは何か察してくれたらしい。一旦口を閉じて、俺の返事を待ってくれた。俺が誤魔化しても深刻になっても、聞いてくれそうなちょうどいい温度だ。ただ、せっかく猶予をもらっても、今はろくな答えが浮かばなかった。やはりぽんこつだ。笑って見せたつもりだが、うまくできているのかすらわからない。
「……やー……なんか、完全に俺が悪いっていうか、何つーか……」
言いながら、俺だけが悪いわけじゃない、と即座に頭が煮えてしまう。
うわ、それが本音かよ、俺。
即座に自己否定が飛び出した。頭のなかでどれほど七森の正当性を認めても、現実に非を認めた途端に浮かぶのは自己弁護だった。救いようがない。頬の筋肉が嫌な感じにこわばる。ははは、と音だけ出してはみたものの、友人たちの心配そうな顔を見れば失敗したことは明らかだった。
「なんか知らんが、喧嘩したなら謝っちゃったほうがいいと思う」
「喧嘩っていうのかなあ……」
喧嘩を売って、買ってもらえなかった感がある。勝手にキレて殴りかかったら、軽くあしらわれた感じだ。頭が一層熱くなってくる。慌てて奥歯を噛み締めた。
「ぅうー……ん……」
さすがに自制心は取り戻していたから友人に当たり散らすような真似はせずに済んだが、これ以上口を開けばそれも怪しい。顔面の筋肉に至っては一切制御できない。両手で隠して、唸る。
七森と話したとき、俺はどんな顔をしていたんだろうか。
冷ややかに笑って俺を見た眼差しが、暗闇のなかに甦った。思考が転がるごとに、体温が上がる。このまま顔面を引き剥がしたくなってくる。背中を丸めて声を殺す。
「つか七森くんと喧嘩できるのすごいな」
「——」
「それな」
いら、としてしまった。
お前らが思うほど、あいつは穏やかなやつじゃないぞ、と。
そのあとに続く言葉が「だから俺が特別だめなやつなんじゃない」なのか「だから知ったふうな口を聞くな」なのかは、自分でもよくわからなかった。
「どんなんなるん? でかい声出したりとかしなさそうだけど」
「………」
淡々と痛いとこ突いて黙らせてきやがりますよ、という言葉は何とか飲み込んだ。あいつの悪口だけは言いたくない。そんなのは致命的に情けなさすぎる。だからいつも通りへらへら調子を合わせたいのに、それ以外得意なことなどないのに、呼吸を整えるのに時間を食ってしまう。せめて嫌な顔だけは見せまいとうつむきつづけるしかない。どうしたらいつもの俺に戻れるのか、皆目見当がつかない。
こんな俺は知らない。
「てか謙介もそうよな。誰かと険悪になってんの見たことないわ」
「……そ、ぅだっけ?」
やっとの思いで絞り出した声はざらついていた。しらばっくれてはみたが、心当たりは十分ある。俺はいつも、誰に対しても、卑屈なほど当たり障りない。
つまり今回はそれができなかったから、どうすればいいのかわからなくなっているのか。
原因がわかったところでどうしようもないし、どうしたらいつも通りの俺でいられたのかと後悔ばかりが募ってくる。自己嫌悪が八方から迫ってきた。
逃げ場のないなか、友人たちの声だけが温かい。
「謙介、だいたい譲ってくれるじゃん」
「大人だよな、そういうとこ」
そんないいものではない。
次々差し出される慰めが余計につらかった。痺れる舌でなんとか笑おうとする。「だろー」とか、そんなひと言でよかった。いつものように、調子づいた間抜けの顔をしたかった。いつもの俺に戻るきっかけがほしかった。そしたら七森にも謝って、なんとか丸く収められるかもしれない。引き攣る呼吸を飲み込んで、頭をどうにか持ち上げる。
「謙介と喧嘩できる七森くんもすげえわ」
ちょっと嬉しそうな笑顔が、三つ並んでいた。
「——……」
責めているのでも、慰めるているのでもなかった。
誰とも衝突しそうにない俺と七森がぶつかっているのを、少し物珍しげに見守っていた。
「………」
友人たちは俺の顔を見るや、さっとばらけて各自の靴箱に手を突っ込みだした。放り出された運動靴やローファーが、ぱらぱらと雨音に似た音を立てる。
「やっぱ、仲直りしたほうがいいって」
「謙介にそんな顔させるやつマジで見たことないよ」
「……俺、どんな顔してる?」
「めっちゃ怒ってます、って顔してる。超怖い」
「んあぁ……ごめん……」
「いいよ。気にせんでいいから、仲直りしてこいって」
「……俺は謝んない」
「おぉっと?」
半端にはみ出したスニーカーを靴箱に押し戻した。
「——見返してやるんだよ!」
だから俺は、昨日も家まで送る気でいたのだ。
顔を見て、喧嘩して、結果がどうでも家まで送ってやると、そう決めた。少なくともひとつ、たしかに反論できることだって見つかった。
だというのに、ぶつけたい相手に会うことすらできなかった。放課後の校舎のどこにも七森は見当たらず、もしやと思って近隣の神社仏閣を訪ね歩いてみたが影もなかった。徘徊しながら、何度もメッセージを打とうとしては消した。何がなんでも顔を見て言ってやりたかった。
——お前だけの問題なわけねえだろうが!
結局日が暮れるころ一人でとぼとぼと帰宅し、今朝は勇んで迎えにいったのだがすでに家を出たあとだった。
「七森くん、見てない?」
駆け込んだ教室にも姿が見えない。俺より先に来ていた面々に聞き回ったが、答えはすべて同じで「見ていない」だった。ひとつ積み重なるごとに、鼓動が速くなっていく。
まさかこっくりさんに。
いや、いくらなんでもこんなあっさりとは。
でも、あの細腕では。
嫌な想像が頭を占めては、否定の言葉でかき消す。繰り返すほどに不安が強くなっていく。
こんなことなら、変なこだわりは捨ててメッセージしてしまえばよかった。
しかし、泣きたくなるほど頭を悩ませていた七森の動向は、朝礼で担任の言葉があっさり知らせてくれた。
「——それと昨日、見回りの先生が見つけたんだがな、空き教室の机に、天板の外されたものが混じっていたそうだ」
「——」
誰のやったことかはわからない。教師陣も知らないらしい。どこの教室から持ち込まれたものかも不明だ。だけど、直感した。
社会科準備室の祭壇だ。
反射的に斜め前の席に視線を向けた。小さな背中が揺れたところだった。武藤さんも知らなかったようだ。
なら、犯人は一人しかいない。
「部活かなんかで邪魔だったのかもしれんが、それならちゃんと先生に報告して移動するように」
七森だ。
あいつ、本気で片づけるつもりだ。
自力で、ひとりで。
「………」
ぐら、と腹が煮えた。
担任の言葉はそれきり耳に入ってこなかった。機械的に号令に従い、即座に席を離れる。すぐに授業が始まるはずだが知ったことではない。
それは彼女も同じだろう。
「ちょっといい?」
声をかけると、つややかな髪の流れる背中が柔らかくしなる。振り向いた唇が微笑んだ。
「ちょうどよかった。私も話したかったんだ」
武藤さんの眼は、今日も笑っていない。
○
「これ、明くんの仕業でしょ? ちょっと強引すぎるんじゃないかな」
「俺もそう思う」
社会科準備室の扉を締めた途端に武藤さんは切り出した。全面的に同意する。
「じゃあ——」
さらに言い募ろうとした彼女を、始業の鐘が遮った。間延びした放送が終わるのを待つ間、部屋を見回す。
朝の光のなかでは、あの日感じた異様さも鳴りを潜めていた。部屋の中心に置かれていた祭壇がなくなったのも大きいだろう。机が一つなくなっただけで、狭い部屋はずいぶん広々と、そして空虚になっていた。
魔法も魔術もない、かびくさいだけの準備室にチャイムの残響が染みていった。
「……とにかく、わかってくれて嬉しいな」
祭壇のあった場所には、窓を背にして武藤さんが立っている。煤けたカーテンを通してくすんだ光が華奢な身体を縁取っていた。表情は静かだったが、逆光のなかにあっても瞳は苛烈に燃えている。
ひととき視線が交わった瞬間、無策で来た自分の甘さに気づいた。
「それで?」
艷やかな唇が皮肉げに微笑む。
「『だからごめん』? 『だから俺も天板探すよ』?」
ここにいるのは、俺の知っている武藤さんではない。変わってしまったように見えた彼女とも、七森と冷ややかな応酬を交わしていた彼女とも、無論俺の好きだった彼女とも、ちがう。
「どっちかな?」
俺の知らない、剥き出しの「武藤ひかり」だった。
「っ………」
未知の相手と向き合う緊張が肩を硬くこわばらせる。差し出された選択肢を舌の上で転がして、飲み込んだ。
「……どっちも、ちがう」
「じゃあ、何?」
貼りついた喉から返事を絞り出すと、すかさず問いが重ねられた。一緒にこっくりさんをしたときとは、逆だ。あのときは勝手にしゃべってくれた。今は、俺にしゃべらせようとしている。俺が決意を鈍らせて、逃げるのを待っている。
「………」
俺に照準を合わせた、的確なやり方だと思った。
たしかにいつもの当たり障りない俺なら、かわさずにはいられない。誤魔化して、謝って、どうにかぶつからないほうへと会話の軌道を捻じ曲げるところだ。それは武藤さん相手にはしたことのない調整、必要のない努力だった。武藤さんが自然にやってくれていたから。
彼女はもう、その努力を払わない。譲れないものを守るために、俺との間に築いてきた関係を捨てる覚悟をしていた。
それでも関係を守りたいのなら、今度は俺が努力を払えといっている。
「……『だけど、俺のやりたいことも七森と同じなんだ』……だよ」
その要求を、真っ向から拒絶した。
発した言葉に一歩遅れて、自分が彼女と対立することを選んだのだという実感が湧いた。手のひらに冷たい汗が滲みだす。握りこむほど、滑ってしまう。他人との対立に慣れていない心臓が、不安になるような脈打ち方をしていた。まだ自分の立場を伝えただけだというのに、呼吸が浅くなっている。
一方、言外の要求を突っぱねられても武藤さんは軽く首を傾げただけだった。可愛らしい仕草に似合わない強い眼差しが俺を射抜く。本気か、と問うように。逃げるなら今だぞ、と言うように。
丸くなりそうな背中をぐっと伸ばし、正面から見つめ返した。
「こっくりさんの十円玉、俺にください」
言い切った。そこでようやく武藤さんの瞳が僅かに揺らぐ。俺は自分から逃げ道を塞ぐように言葉を重ねた。
「っ武藤さんが、自分で処分できないなら、俺がするから……友だちにも俺が無理やり持ってったって、言ってくれていいから、ください……!」
眼を逸らさずにこちらからぶつかっていった。
彼女は眼を見開き、一瞬、昨日見た下手くそな笑顔を作った。しかしそれは瞬く間に崩れ、一切の表情が消える。
「……明くんがこっくりさんを帰してくれれば、全部丸くおさまるのに?」
「帰らないんだよ、こっくりさんが」
「私と呼べば、帰してあげるのに」
「俺なら飛びつくけど、あいつはやんないよ。知ってるだろ」
「そう……」
ふと、丸い瞳に残酷な光が差した。
「私のこと、好きなくせに」
「っ………」
「私の味方、してくれないんだね」
やはり、気づかれていた。舌の根が苦くなる。
武藤さんの眼差しは今や抜き身の刃物のようにぎらついていた。交渉する気も手懐ける気ももうないと言わんばかりの、底冷えのする激しさだ。
「……ったし、かに……」
こんな顔をさせたかったわけでは、なかった。
「最初は……武藤さんが心配で、こっくりさんをどうにかしたかったんだ」
俺はいつから、彼女にとって切り捨てていい人間になっていたんだろう。
「でも今は、たぶんちがう……んだと、思う。武藤さんが元に戻らなくても、武藤さんを傷つけることになっても、こっくりさんをどうにかしたいと思ってる」
俺はいつから、彼女を切り捨てていい人間にしてしまったんだろう。
「だからごめん。今は味方できない」
自分の言葉が痛い。吐き出した言葉が本音だからこそ、苦しい。それでも俺がこの場から逃げ出さずにいるのは、七森に対する意地でしかなかった。
俺たちの問題なんだから、お前の失敗は俺に挽回させろ、という意地。
「……そっか」
返事は素っ気なかった。こちらが力んだぶん、拍子抜けしそうになるほど軽い。しかしすぐ、彼女の言葉がそれで終わりではないことに気づいた。七森と同じ、人を見透かす眼差しが俺の全身をゆるりと撫でる。たったそれだけで、俺がいくら威勢のいい言葉を吐いていても内心では腰が引けているのを、彼女は精確に見抜いたようだ。ふっくらとした唇の端が、つり上がる。俺の全身が隠しようもないほど硬くこわばった。
「臨城くんさ——」
「ッだめ!」
どすん、という床の震えとともに、高い声が武藤さんの言葉を遮った。
「は——」
「ひかりちゃん、だめだよ……それ以上は絶対、自分が傷つく……」
振り返ると、小柄な女の子が足を踏ん張って立っていた。その後ろには三人、もつれ合って床に転がっている。準備室の扉は開け放たれていた。立ち聞きを切り上げて突入してきた、という様子だった。
「み、んな……?」
武藤さんが呆然とつぶやく。最前で俺たちに対峙しているのは、ナナモリさんに相談に来ていた子だった。助け合って床から起き上がろうとしているのは他のこっくりさん仲間だろう。先日廊下で会ったときの記憶がぼんやりと甦る。
「聞いてたの……? いつから……?」
武藤さんは戸惑っているが、俺もわけがわからない。呆気に取られて立ち尽くしていると、一番見覚えのある子が、前に進み出た。
「………っこれ……」
ぎゅっと胸の前で握り合わせた両手を俺に差し伸べた。身構えた俺の眼の前で、小さな手は震える指を解いていく。
「持ってってくれませんか……それで、終わりにしてほしいんです」
手のひらには、硬貨が乗っていた。黒くくすんだ、十円玉。
「私たちのこっくりさんを、終わらせてください」
背後で息をのむ音が聞こえた。相談者は明言こそしなかったが、差し出されたものが「武藤さんの十円玉」であるのは明らかだ。俺の足が一歩後退る。
「な、んで……俺に……」
意図がわからない。
受け取りかねて、突然の闖入者たちの顔を見回す。身を寄せ合い、うつむいている。顔には躊躇いが色濃く浮かんでいた。少なくとも俺の味方というわけではなさそうだ。
それが、なぜ。
「……ごめん、ひかりちゃん。それは偽物だよ」
はたと視線を武藤さんに戻すと、胸ポケットから十円玉を出して食い入るように見つめていた。その眼がふらりとこちらを向く。俺の前に立つ彼女を見る。
「こっそりすり替えたの。同じ年発行の十円玉、みんなで探したんだ。大変だったよ」
笑う。困ったような、諦めたような、覚悟を決めたような、強かな笑顔だった。
「どうして……」
武藤さんの返事は、途方に暮れたようなつぶやきだった。裏切ったのか、と、胸を喘がせる。
俺の傍らの彼女は、動じなかった。俺が受け取らなかった硬貨を握り込み、一歩前に出る。武藤さんと向き合う。
「ナナモリさんに聞いたんだ。『こっくりさんを終わらせるには、どうしたらいいのか』って。二度と私たちのこっくりさんをできなくするにはどうしたらいいのか、教えてもらったの」
——ひかりちゃんが、心配なんだってさ。
「——……」
七森はこの相談に、そんな柔らかい言葉を当てたのか。
誤魔化されていた、とは思わなかった。ただ、しっくりと馴染む。七森らしいな、と、呆れの混じった苦笑が俺の口許をゆるませた。
「あいつ……ッ!」
熱をはらんだ呻きが、気のゆるみを吹き飛ばした。見れば、武藤さんは音がしそうなほどに奥歯を噛み締め、小さな肩を尖らせている。握りこまれた手の甲にはくっきりと骨の形が浮いていた。
「みんなを利用するなんて……絶対、絶対……ッ……!」
あの武藤さんが言葉を失うほどの怒っている。当てられ、顔が引きつった。
「ナナモリさんは悪くないよ」
しかし、相談者は怯まなかった。さらに一歩、踏み出す。
「私の相談に答えてくれただけ。机のことだって、私に協力してくれただけ」
武藤さんの怒気に気圧されて身を引いた俺からは、表情が見えなくなる。
「悪いのは、全部私だよ」
かすかに震えたその声を合図に、背後にいた彼らが、押し寄せてきた。俺の横を抜け、相談者の彼女に並ぶ。こっくりさん仲間の全員が、武藤さんに向き合った。
「わ、私も悪い! 机の板外すの、協力したし!」
「僕ら、ひかりちゃんを遠ざける役、引き受けたんだ!」
「ごめん、騙し討ちみたいになって……!」
口々に自分の罪を告白する。ひとつ重なるごとに、武藤さんの眼が見開かれていく。結んでいた唇が解け、四肢から力が抜けていく。
「ど、う……して……?」
つぶやく姿は、支えを失ったように、頼りなく見えた。前髪の隙間に覗く額も、だらりとぶら下がった指先まで青ざめて、軽く突くだけで崩れてしまいそうだった。武器も鎧も剥がされた彼女に、相談者はさらに一歩、踏み込む。
「ひかりちゃんが大好きだから、だよ」
ひゅ、と息をのむ音が聞こえた。
武藤さんよりも少し高く線の細い声が、確信を持って語りだす。相談者の眼に見えていたものを。
「ひかりちゃんね、ときどき疲れた顔するとき、あったんだ」
知らなかった。
「いつか、話してくれたらいいって思ってた。話してもらえるようになろうって、思ってた」
考えたこともなかった。
「でもこっくりさんするようになって、気が楽になったみたいに見えたから、よかったなって」
ちょっと、悔しかったけど。
懸命に話していた彼女は、そこで少しだけ笑った。震えて潤む息を飲み込んで、小さな背中が真っ直ぐに伸びる。
「でも、でもね。こっくりさんのことで、こんな、悩むなら……ひかりちゃんがつらくなるなら、つき合えない」
こっくりさんを、終わらせたい。
正面から「武藤ひかり」の望みを拒絶した。
「——……でも……っ」
俺の眼の前に並んだ肩の向こうで武藤さんの瞳が揺れる。黒眼の境を滲ませて彷徨う。微笑んだ顔は不恰好で、どんな顔をすればいいのかわからないから一番馴染んだ表情をただ貼りつけただけのようにも見えた。
「…こっくりさんがいないと……私、もう、……っ……」
「答えがほしいんじゃ、なかったんだよ」
即座に、澄んだ声が遮った。もう揺らいでいない。迷いがない。
「ただ、ひかりちゃんに聞いてほしかったの」
そうか、と思った。
「ひかりちゃんの話も、聞かせてほしかったの……!」
俺は「武藤さん」が好きなだけだったのだ。
「私は『ひかりちゃんと』話がしたかったの!」
「ひかりちゃん」のことは、きっと好きじゃなかった。そもそも、気づいてもいなかった。顔を覗かせたときには、拒絶すらしてしまった。ひととき見せてくれた建前の向こう側を「変わってしまった」なんて表現した。
「私は、ひかりちゃんの、友だちだから……!」
そんな俺に「武藤ひかり」を好きだとは、いえなかった。
「……っ」
——茶番でしょう。
硬質な音が耳を打つ。小さな手のひらからこぼれ落ちた硬貨が、床を打った音だった。俺の視線の先では、答えを示す十円玉を手放した手が「武藤ひかり」をめいっぱい抱きしめていた。
こっくりさん仲間——武藤ひかりの友だちが、答えのわからなくなった彼女を囲んでいた。
対する俺は、一歩も動いていなかった。
「………」
悔しいが、七森の言った通りだ。武藤さんに関しては、完全に茶番だった。こうして武藤さんに正面から向き合っている友人たちを眼の前にすると、呆れるほどすんなり受け入れられた。蚊帳の外で自分の空回りを突きつけられるのは苦かったが、意外なことにつらくはない。
彼女はきっと前みたいに——ひょっとしたら前よりも、楽しそうに笑ってくれるようになると、思えたからかもしれなかった。
大事にしていたものがひとつ終わってしまった感覚に、こっそりとため息をつく。
「………」
感傷に浸るのはひとまずここまでだ。終わっていないもののために、俺にはまだやるべきことがある。
足許に転がってきた硬貨を拾い上げた。体温を帯びた十円玉は、熱い。握り込むと、冷たく汗ばんだ手のひらをじんわりと温めた。
顔を上げても武藤さんの姿は取り囲む友人たちに遮られて見えない。黙って立ち上がると、武藤さんの友だちが濡れた眼をこちらに向けた。
「渡すの、任せていいですか?」
誰に、とは言わなかった。言われなくても、わかっている。軽く笑って頷いた。
「ありがと。任せて」
胸ポケットに十円玉を落として、開けっぱなしの扉に向かった。しかし準備室を出る直前、足が止まってしまう。
「……武藤さん」
振り返らずに呼びかけた。引き攣った呼吸音が聞こえる。本当は何も言わずに立ち去るべきなのかもしれない。それでも、続けた。
「……俺、しょうもないやつだろ? 武藤さんなら、知ってると思うけど」
「——」
「それ。今、否定しようとしてくれたろ。俺のいいとこ、言おうとしてくれたんだろ」
振り向いても、やはり彼女の姿は見えない。
「そういうとこが、好きだったんだ。そういうのを自然にできるとこが、好きだった」
代わりに八つの眼が俺を見ていた。金髪の怖い男を相手に、睨みを利かせている。萎縮してしまうが、言っておきたい。
「それが武藤さんなんだって、思ってたんだ」
それだけが武藤ひかりだと思い込んでいた。
「だから、ごめんね」
勝手な謝罪を言い置いて、背を向けた。
「……臨城くんなら、いいかな……って」
「——」
背中を、掠れた声が追ってきた。思わずもう一度振り返る。並んだ肩の間に、いつも見ていた小さな頭が見えた。丸く、天使の輪のかかった頭。
「あれ、嘘じゃなかったよ……臨城くんなら、見せてもいいと思った」
だけど泣き顔は見せてくれない。それでいい。苦く笑う。
「……期待はずれでごめん。でもめちゃくちゃ嬉しいわ」
返事はもうない。今度こそ、準備室をあとにした。
俺は俺で、向き合わなければいけない相手がいる。
◯
ごりごりと、初夏の空に鈍い音が響いていた。
二脚の椅子の間に渡した板の上で、薄い身体が前屈みになり危なっかしく前後している。その手にはどこから調達してきたものか、鋸があった。
「………」
社会科準備室を出て一直線に屋上までやってきた。扉の前には授業中にも関わらずお茶があって、一旦は足を止めたが、気持ちは止まってくれない。そっと扉を開けて様子を窺うと、いるのは七森ひとりだった。いつもの給水塔の影ではなく日の当たる場所で、鋸を振るっている。祭壇から外した天板——こっくりさんの文字盤を、頼りない腕で分割しようとしていた。汗だくになり、お茶を無視して入ってきた俺にも気づかないほど打ち込んでいるようだが、作業はあまり捗っていない。遠目にも錆の浮いた刃は板の半分も進めずにいた。
こいつ、人払いのために「ナナモリさん」のきまりを利用したな。
無視して入る俺も俺だが、仕組みを理解した途端に活用しはじめる七森も大概だ。呆れてしまうが驚きはなかった。以前はなんとなく潔癖な印象を持っていたのに、今は「らしい」感じがした。
なんにせよ、刃物を持っているやつを驚かすのはまずい。転んで足を切り落とされたら話どころではない。気が急くなか第一声は保留にして、ざっと状態を確認した。
「………」
新たな包帯はどうやら増えていないようだ。傍らに置かれたスマホはきちんと録画状態になっている。ぜいぜいと肩で息をしているが、何か恐ろしいめに遭った形跡はない。
無事だ。
ずっと頭に留まっていた心配がようやく解消されて、細く長く息を吐く。同時に似たような音がもう一つ重なった。見れば、痩身が作業の手を休めて起き上がったところだった。厚い板に斜めに刺さった鋸はそのままに、痩せた手が負担のかかった腰を摩る。右手は眼鏡を外して前髪のかかった眼許を乱暴に拭った。その拍子に、つり眼が俺を捉えた。
瞬間、互いの間に緊張の糸が張り詰める。
「……忙しそうだな」
自分が回避行動を取ってしまう前に、と先手を打つ。対する七森はゆったりとした仕草で眼鏡をかけ直した。優しげに整った顔が俺に向きなおり、冷笑する。
「……お茶、見なかったの?」
俺の言葉など聞かなかったかのように吐き捨てた。きまりを無視されたことにも、無視したのが俺だということにも動じた様子を見せない。昨日のことには触れない代わり、なかったことにもしていない。前かがみになっていた背中を伸ばし、冷ややかに鼻で笑った。
「臨城くんってそういう無神経なとこあるよね」
いつもの柔らかさなどどこにもない。誰にでも差し出していた穏やかさも、ここ数日で見せてくれるようになった気安さもなかった。今の七森は、一段上から武器をひけらかすような、底意地の悪さをまとっている。
俺の反応を待たずに、薄い肩をひょいとすくめる。
「ま、さすがの無神経くんでも、取り込み中だってことは見ればわかってくれるよね?」
刺々しい仕草は、どこか芝居がかっていた。俺の嫌がる言動をひとつひとつこなして追い払おうとしているのが見え隠れしている。
重いため息のあと、瞳を鋭く閃かせて煩わしげに俺を睨んだ。
「帰って」
その振る舞いは儀式にも、威嚇にも見えた。
「……お前さあ……」
一瞬でも遠慮したのが馬鹿馬鹿しい。扉の前に突っ立っているのをやめて、大股に踏み込む。
「そうやって圧かければ俺が帰ると思ってんだろ」
「そうだよ。ちがうの?」
七森は動かない。悠然と構えているが、足だけは懸命に踏ん張っているのが俺には見えている。俺が大声を出したとき、怒ったとき、いつも身を縮めていた。いつものように膝を抱えていない今は、小さく震えているのがよくわかる。
足を止めずに、距離を詰めていく。
「ちがわねえよ。大正解だよ。ほんっと腹立つくらい俺のことよく見ていやがるよお前は」
「俺じゃなくたって、そのくらい誰からもばればれでしょう。だから見られるの、嫌いなんだよね?」
七森は俺から視線を逸らさない。いつもとちがってよそ見をしない。心を見透かす瞳はひたりと俺に据えられている。
見せびらかすように胸を張ってやった。
「そうだよ。しょうもねえことしか考えてねえのがばれんのが嫌だったんだよ」
「ああなるほどね。今度はナナモリさんにそこを直してほしいってこと? それはさすがの俺でも——」
「ちげえよナナモリさんに用はねえ!」
いつもの距離で、いつもとちがって正面から、祭壇の上に立つ七森を睨み上げた。七森は正面から睨み返してくる。
「じゃあ、なんなの?」
夏空を背負った相貌には見下すような笑みが貼りつけられていたが、頬はかすかにこわばっていた。
よく聞け、と言い聞かせるように息を深く吸う。
「俺は、七森明に会いにきたんだよ」
瞬間、七森が祭壇から飛び降りた。前触れも予備動作もなかった。見慣れた姿とはかけ離れた俊敏な動きに反応が遅れる。薄い背中はスマホも荷物も俺も全部置き去りにして、給水塔のほうへと走りだしていた。
「っ逃……っげんな死にてえのか!」
「あ……!」
しかし、元サッカー部の相手にはならない。すぐに追いついて肩を掴むと、力が強すぎたようでひっくり返った。床に転がった七森が短く呻く。
「ちょ……っ!」
咄嗟に助け起こそうと身を屈めたが、痩身はそれを隙と捉えてすり抜けようとした。反射的に足で進行方向を塞ぐ。そのまま薄っぺらい上体を跨いで立つような形をとると、ようやく七森は脱出を諦めた。俺の落とす影に隠れるように、うずくまる。
「おい——」
「うるさい乱暴者」
「ななも——」
「うるさい」
もう演技臭い攻撃はなかった。俺が声を発するたび、ただ短く跳ね除ける。ただでさえ慣れない作業で目減りしていた体力を、一瞬の攻防で使い切ったようだった。
「なあ——」
「うるさい」
「ちょ——」
「うるさい」
「おま——」
「ぅ、るさい」
「——っ」
「うる、さぃ……っ」
苦しげな呼吸を中断してでも、遮ってくる。強引に咳を飲み込んででも、吐き捨てる。残された武器を懸命に振り回しているが、そんな無理、長く続くわけがない。初夏の光の下、顔を伏せてくるりと丸まった塊は、根本から俺の口を塞ごうと消えそうな声でつぶやいた。
「七森明なんか、いない……」
だから帰って。
「——ッいねえのは『ナナモリさん』のほうだろうが!」
遮られたぶん声を張ると七森はぎゅっと身を縮めた。
「っどっちでも、いいじゃん……どっちにしたって——」
顔の見えない小さな塊が、最後の力を振り絞るように脈打った。
「——臨城くん、俺のこと、嫌いでしょう……!」
最後の武器は、前にも聞いた台詞だった。七森が俺を拒絶するために放った、最初で最後の言葉。だけど今、細い声にひっそりと滲んでいるのは、不快ではない。
怯えだ。
「——ッ」
これだから、何でもそつなくこなすやつはだめだ。
「嫌いじゃなくて! 怖かったんだよ!」
なんでも見透かしてくる眼が怖かった。
「んでちょっと嫌いになった!」
好きな子が好きだった子に変わるように。
「そのあといいやつだと思って相棒みたいに思ってまた怖くなってまた嫌いになって頼りにして信じてすげえむかついて対抗心燃やして……ッ!」
とことん不自由で不透明な男は、俺が言葉を重ねるたびにかすかに身を震わせた。そのたびに汗を吸ったシャツがまとわりついて細かな皺を作る。
引き起こして表情を確認してしまいたくなる手を、硬く握り込んだ。
「ずっと同じでいられるか! 近くにいるんだから!」
最初に答えなかった問いへの返事が、ようやくできた。
手も足も震えていた。他人に建前抜きで「どう見ていたか」を伝えるのは、初めてだった。近しく思っている、これからも親しくしたいと思っている人間に「怖かった」や「嫌いだった」と白状するのは、好きだった子と対立するよりも、怖かった。
屋上には沈黙が降りて、俺の荒い息だけが空気を震わせている。七森からの応答はない。こちらのことも見ない。七森と話しているとよくあることだ。だからといって、俺の話を聞いていないわけではないことも、もうよくわかっている。
「……そっちだって、似たようなもんだろ」
勝手に話を続けると、びくりと肩が跳ねた。咄嗟にこちらを見ようとした小さな頭がいっそう強く腕のなかに押し込まれる。構わず続ける。
「精いっぱい嫌がって、へらへら楽しもうとして、頼ってくれたかと思ったら出し抜くわ全否定するわ……」
わけがわからなかった。なぜ、とずっと思っていた。
簡単な答えに気づかずにいた。
「……でも、ずっとおんなじだったよな」
——一生懸命なの、ずるいよねえ。
必死なクラスメイトに絆されてくれた。
——秒できまり破っちゃった。
びびった相談者を庇ってくれた。
——一旦任せて。
好きだった子のことを割り切れない友だちが傷つかないように、隠そうとした。
「最初から今まで、ずっと、優しかった」
七森の不可解な言動の理由など、全部それが答えだった。七森がナナモリさんをやっている理由だって、それで理解できてしまう。
——よくわかんないものをわかんないわかんないって言ってても、何にもわかんなくない?
こいつが何度も言ったとおりだ。簡単にわかるはずのことを、わからないと片づけてきたのは俺のほうだった。自分のことも武藤さんのことも、こいつのことも。見ていたはずなのに、わからないふりをしてきた。
だから「甘やかされていた」なんて誤解した。
こいつはただ、俺のことを頑張って考えてくれていただけだったのに。
「……っでも」
押し殺した声が鼓膜を打った。七森はうずくまったままだ。薄い肩が硬く張り詰めている。
「でも、失敗した……」
ぐす、と鼻をすする音がした。やっと出た反論はそれだけだった。
「お前……」
踏ん張っていた両足から、力が抜けてしまう。
「そここだわってんのかよ……」
重力に逆らわず七森の傍らに座り込むと、腕に埋めた顔のあたりから押し殺した下手くそな息継ぎがいくつも、かすかに耳に届くようになった。
「頼るのも助けられるのも下手くそすぎるだろ……」
「……ナナモリさんなら、失敗しないし、ひとりでやれる……」
「………」
黙って胸ポケットから十円玉を出し、頭のそばに置いてやる。本当はもう少し劇的な感じで見せるつもりだった。どうだ見たか、と。お前の仕込みを見事回収してやったぞ、と。
今の七森を見たら、そんな見栄はどうでもよくなってしまった。
硬い音に誘われて、つり眼が覗く。赤くなった眼が、硬貨を捉えて見開かれた。
「……なんで……代わりに、やっちゃったの……」
「代わりもくそもあるかよ。命の危険がなきゃ、余裕なふりやめらんねえのか」
「だって、ナナモリさんなのに……」
まだそんなことを言っている。小さく丸まった姿に「何でも解決してくれるナナモリさん」の面影などない。
「だから、ひとりでできなくていいんだよ。俺はもうお前のこと『ナナモリさん』にしておけねえんだから」
俺の眼の前にいるのは、変なとこ共感性が低くて、甘いものが大好きで、体力がなくて、構われるのが嫌いで、張り切ると失敗する臆病者だ。
オカルトじみたおまじないや変なキャラで売ってる顔のいいやつでは、済まなくなってしまった。
「お前も俺のこと『相談者』のままにしておけなかったんじゃねえのか」
武藤さんの言葉に、声を詰まらせていたのを思い出す。
——友だちにさ、「わからない」「できない」って、今さら言える?
「だから、交渉失敗したんだろ」
「………っ」
弱みを突いているようで良心が痛む。だけど、武藤さんも七森も、友人に「できない」と言えないばっかりに精神をすり減らす羽目になってしまった。恨まれてもいいから、言っておきたかった。
「お前も俺のこと友だちだと思ってんなら、いいかっこだけしようとすんな」
恥ずかしくても、言っておきたかった。
見下ろしたつり眼がいっそう丸くなり、こぼれた涙が乾いた床に水玉模様を描いた。瞳が揺れて細められ、そのまま笑うかと思われた。
応じる準備はしていたのに、乱れた髪から覗く眼は結局、じっとりと俺を睨んだ。思わず身構える。
「心読むのやめてよ……」
何を言われるのかと思えば。
緊張がゆるんだ拍子に、ふ、と吹き出してしまう。
「俺の気持ちがわかったか」
見透かされるのは、恥ずかしいから怖い。
ずっと見透かす側だった——隠す側だった七森には受け入れ難いようで、また顔を伏せてしまう。ただ、ぐすぐすと洟を啜る音には遠慮がなくなった。悔しげに、これ見よがしなくらいに。
泣き顔は隠されてしまったが、これでよしとした。
俺と七森は、これでいい。
「……七森くん、ごめんな」
何に対する「ごめん」なのか、多すぎて自分でもわからなかった。ひとつひとつ罪状を挙げていきたい気持ちがないではなかったが、やめた。
「あと、ありがとう」
こいつに対して細かいことを気にしたくなかったし、されたくもなかった。そのためなら、多少の居心地の悪さは飲み込める気がした。
返事を待つでもなく、丸まった友人を眺めていると、不意に縮こまっていた四肢がゆるんだ。
「……………臨城くん」
「なに」
「祭壇、切れない……」
自然と唇の端が上がった。
「……任せろ」
○
十円玉は自販機で使い、ばらした祭壇は河原で燃やした。何世代も使われることを想定して作られた机は頑丈で、解体作業を完遂した手足がだるい。これは間違いなく、七森には無理だっただろう。俺ですら、授業をサボりぶっ通しで作業したのに夕方までかかってしまった。
橋の下、武藤さんの十円玉で買った茶を飲みながら、拾ったバケツのなかで燃える四八枚の木片を眺める。
「長い戦いだったなあ……」
その辺の枯れ草をくべる背中を録画しながらつぶやくと、肩越しに振り返って七森が笑う。
「まだ終わってないけどねえ」
つり眼はまだ少し赤い。しかし精神のほうはずいぶん持ち直したようだった。俺が懸命に鋸を振るう間、近くで丸まったり転がったりと存分にぐずついたおかげだろう。「ちょっと替われ」と何回も喉まで出かかった。
「でも、臨城くんのおかげであとは説得頑張るだけだね」
「調子いいこと言いやがって……」
「持つべきは元サッカー部の友だちだねえ」
わざとらしい友だちづらだ。苦笑する。
「だろ。あとはオカルトに強い友だち頼みだわ」
「任せて」
七森はてらいなく頷いた。
燃えかすを水に晒す。湯気と煙の混じった雲が細くたなびき、消えていく。劇的な出来事がないせいか実感は湧かないが、これでひとつ儀式が終わった。
あとは俺たちのこっくりさんを終わらせるだけだ。
暮れていく空を見上げる。解体作業に時間を取られたせいで、すでに遠くの山際は赤から藤色に変わりはじめていた。空気が青みを帯びていく。
どちらからともなく、視線を交わした。
「さすがに最終決戦は邪魔されたくないよな」
けりをつけるつもりで臨むなら、途中で人が来てしまうような場所は避けたい。一方、いざというときには人目のあるところへ逃げ込める状態も保っておきたかった。
「学校……は人いなくなる時間だよな」
「駅の近くにしよっか」
儀式は以前こっくりさんをした高架下で、物陰に隠れて決行することになった。
土手を這い上がった先の橋には、日が暮れてもひっきりなしに車が行き交っている。ヘッドライトは街灯の灯りすら霞ませる強さで、歩道をいく俺たちを照らした。隣を歩く七森の横顔が真っ白に光っては薄闇に沈んで見えなくなる。つり眼が眩しげに瞬きをして、ふいと欄干の向こうに視線を投げた。川の両岸は黒く闇が溜まり、その少し上に街の灯りが散らばっている。星空よりも星空らしい。
「臨城くん」
「うん?」
「俺は絶対終わらせるつもりでいくから、臨城くんもそのつもりでいてね」
「こっちの台詞ですが」
シャツの襟から覗く白い包帯を見ていると、七森が振り向いて満足げに笑った。
儀式の会場に選定したのは、高架下にある植え込みの陰だ。人影のない寂しげな道の、さらに暗く沈んだ場所。しゃがんでこっくりさんの準備をする七森の横で、俺は靴紐を結び直した。足に負担のかからない体勢を探り、いざというとき逃げる準備をする。仕上げにスマホを近くに立て、いつでも録画開始できるように角度を調整していると、早々に支度を終えた七森が揃えた膝頭に腕を乗せてしみじみとつぶやいた。
「慎重派だねえ」
「びびりで悪かったな。保険なんかどんだけかけてもやりすぎってことはねえんだよ」
「たしかに。頼りにしてるね」
柔らかく笑う。その言葉が俺への気遣いから出たものではないことは、もうわかる。
「有事の対応は任せとけ」
「うん。それじゃ遠慮なく」
はじめようか。
ひょいとその場にあぐらをかいて、七森が言った。タイルの敷かれた地面には文字の書かれた白い紙。赤い鳥居の上には十円玉がある。その上で、細い指が俺の参加を待っていた。
「………了解」
迷いなく、向かい側に指を乗せた。それを合図に、七森が深く息を吸い込む。促されるように眼を閉じると、瞼の裏に濃い闇が広がった。静かな暗闇のなかで、俺の心臓の音が大きく聞こえる。そこに七森の声が重なる。
——こっくりさんこっくりさん、おいでください。
すっかり耳に馴染んだ、甘く歌うような声。余韻が消えるのを待って、眼を開けた。
「………っ」
白い指は、きちんと来ていた。
思わず息を呑むが、身体はもう逃げ出そうとはしない。恐怖だけではなく、負けられない勝負を前にした緊張感がある。
「………」
深く息をつくと、向かいからかすかな吐息が聞こえた。
「じゃ、参ろうか」
どうやら俺の様子を窺っていたらしい。
「こっくりさんこっくりさん——」
慎重派はどっちだ、と言ってやりたいのを堪えて、七森の質問に意識を集中した。
「もう帰れますか?」
前提をすっ飛ばした端的な問いかけだ。それでも十円玉は戸惑う様子もなく動いていく。
——はい
「………」
やはり、武藤さんとの儀式がネックだったらしい。苦労したかいがあった。
「ではお帰りいただけますか?」
——いいえ
「なんで……!」
思わず洩らすと、十円玉はするすると文字の間を滑った。
——しね
答えではない。
——しね
——しね
——しね
「——ッ」
示されたのは一方的な要求だった。何度も何度も、二文字の間を行き来する。俺たちの手を振り回すような勢いで十円玉は紙面を走った。指先が冷たくなっていく。
もう帰らない理由はないはずなのに、なぜ。
混乱する頭に、静かな笑い声が降ってきた。
「定番定番」
「——……」
七森は動じていない。のんびりとした口ぶりに、背中を濡らす嫌な汗が引いていく。
「——にしても」
しかし、次のひと言に血の気まで引いた。
「ほんっと、小物だよねえ」
直球の嘲笑だった。
「おい……!」
顔を上げたくなるのを堪えて呼びかける。十円玉は一瞬止まり、先ほどとは比べものにならない勢いで「こ」と「ろ」と「す」の間を往還しはじめた。
完全に怒らせてしまった。
しかし七森は黙らない。笑いを噛み殺したような声で更に問う。
「ひかりちゃんに散々いじめられたから憂さ晴らししたいんでしょう?」
——いいえ
「ダサ。じゃあ聞くけどさ」
こっくりさんの手に力がこもる。何ごとか伝えようと十円玉が動きだしたが、七森は鼻で笑って無視した。
「最初はひかりちゃんがひとりで呼んだんだよね?」
——はい
「だけどサシで会うのは怖くなった。ちがう?」
——いいえ、いいえ、いいえ
ぐるぐると同じところを回る。
「ならどうして今は『二人』じゃないと来てくれないのかなあ」
「………!」
考えたこともなかった。
十円玉を見つめるが、動かない。
「これ、なんのためのきまりなの?」
動かない。
「答えられないんだ?」
動かない。
「言い訳もできないのに、なんで嘘なんかつくの?」
動けないのだ。
嫌なところをあちこちから刺されて、こっくりさんは返事をできずにいる。宣言通りの遠慮のなさだった。こっくりさんを押さえつける武藤さんを散々いじっていたが、こいつも大概だ。人間だろうと幽霊だろうと、姿が見えようと見えまいと関係なく、よく見ている。
心の底を見透かしてしまう。
七森は優しさも容赦も手放して、「お告げ」をする側に慣れきっているこっくりさんを苛烈に追い詰めていた。
「………」
しかし、そこで七森は一度口をつぐんだ。何ごとかと思っていると、次の質問が密やかな声で告げられる。
「怖い?」
「——」
その問いはこっくりさんに向けられたものではないと、すぐに気づいた。どこか不安げな、囁くような声だった。
苦笑を飲み込む。
「……怖かねえけど性格悪そうだなあとは思う」
「よかった。性格悪いのは事実だからねえ」
嘘ばっかりだ。演技のくせに。だけど今は、否定しない。任せると決めたから、物申したくても七森の邪魔はしない。
「敵には回したくねえわな……」
「でしょう?」
代わりに援護射撃してみると、向かいから小さく喉を鳴らすような笑い声が答えた。
「こっくりさんも、聞いた?」
十円玉は三本の指を乗せたまま、凍りついたように動かない。
「俺はひかりちゃんの百倍怖いよ」
武藤さんを引き合いに出された途端、質問には答えずに白い指は乱暴に十円玉を滑らせはじめた。
——だからなに
「君が嫌がることは見つけ次第全部する、ってこと」
——そんなのない
「そう? じゃ、まずは君の顔の撮影、頑張ってみようかな。ブログに載っけたらウケそうだし」
白い手がぎくりとこわばる。何か答えようと十円玉を動かそうとするが、七森は待ってくれない。
「俺を殺すまでに何されちゃうか、想像できる?」
これは質問ではない。
「俺を殺すのにどれくらいかかるか、想像できる?」
想像しろ、という命令で、脅しだ。
「俺を殺せると思う?」
「いやさせねえから」
考えるより先に口から出た。
やっと答えられる質問がきた、とばかりに「はい」へと動こうとした十円玉が、驚いたように動きを止める。七森が小さく息をのんだ。
「させねえよ。七森は殺せない」
指先を離さないように、腰を浮かせる。場に呑まれようとしていた足に力が戻ってくる。十円玉は中途半端な場所で静止していた。「はい」に動こうとしているが、俺が阻止しているからだ。指先に力を込めて「いいえ」に引っ張る。反則だろうが関係ない。
「殺せる」なんて言わせてたまるか。
「………だってさ」
執念を見せるこっくりさんと臨戦態勢に入った俺の間を、場違いに軽やかな笑い声が転がっていった。
「だから帰ったほうがいいよ。こんなの君もつまんないでしょう?」
嬉しそうな声だった。性格の悪いふりを忘れてしまった、優しい、柔らかい問いかけだった。やんわり細められたつり眼が瞼に浮かび、緊張の糸を切られてしまう。
「お前なあ……」
せっかく体勢を整えたのに、援護射撃だってしたのに、これだ。呆れ半分諦め半分で手許の硬貨を見下ろした。指先から力が抜けてしまったが、硬貨は動いていなかった。十円玉に刻まれた文字を削り取りそうなほど爪を立てていた白い指も、呆気にとられたようにゆるんでいる。
七森は耳に馴染んだ、穏やかな声で促した。
「帰ろうよ」
十円玉はそれでも往生際悪く震えていたが、やがてとぼとぼと動き出した。
七森に怒鳴り散らした挙句、すべて俺の一人芝居だったと突きつけられたあと。認識を根元から揺らされた衝撃は、四限めと昼休みいっぱい使ってもまるでおさまってくれなかった。すっかり定位置になった給水塔の影に座り込んだまま、刻々と角度を変えていく太陽に肩を炙られ続けた。
時間をかけても受け入れられない理由はわかっていた。七森の言ったことが正しいからだ。
最初から、俺の心なんて全部見透かされていた。その上で七森は茶番につき合ってくれていただけだった。俺の好きだった「武藤さん」なんて最初からどこにもいなくて、変わったように見えた彼女が最初から本当の彼女で、解決するべき問題なんて最初からなくて、七森と築いたと思っていた信頼みたいなものは、最後まで俺の頭のなかにしかなくて——
——そういう一生懸命なとこ、ずるいよねえ。
「………」
——七森はずっと、俺を甘やかしてくれていただけだったというわけだ。
「うあー……」
頭を抱えてその場に伏せる。このまま消えたい。しかしいつまで経っても消えやしないし「さすがに午後の授業までサボってしまうのはまずい」と抱えた頭が言うので、昼休みが終わる直前にすごすごと教室へ戻って、そこでぼんくらを続けた。七森は終礼が済んでも戻ってこなかった。
こうして俺のこっくりさん騒動は終わっていくのだと、漠然と感じた。
が。
「………」
あいつ、ちゃんと人目のあるところにいるんだろうか。
思考する余裕を取り戻してきた頭にまず浮かんだのが、それだった。
「顔を合わせるのは気まずいな」とか「知らん顔できるかな」ではなく、苛立ちを大いに含んだ心配だった。ど直球の用なし宣言を喰らったというのに、馬鹿でしかない。たわ言は無視して、昇降口に向かった。
そもそも七森は相談を受ける側の人間で、俺ごときが心配する余地はなくて、いち相談者である俺が気を揉むこと自体、おこがましくて、いやそもそものそもそも甘やかされて思い上がっていただけなんだから……いや、だめだ。考えたぶんだけ気が重くなる。さっさと帰って、余計なことを考えないように寝てしまえ。
「…………くそ……」
そう結論は出たというのに、どうしても靴に履き替えられない。未練がましくぐずぐずしている自分にいらつく。七森の細い首がぽきりと折られてしまう幻が、瞬きのたびにちらついた。
だから、俺ごときが何の役に立つんだよって。
瞼の裏でじっと俺を見つめてくるつり眼を振り払い、思い切ってスニーカーに指をかけた。
そのときだった。
「あれ、謙介?」
飛び上がりそうになった身体を何とか床に留めて振り向いた。
「今日はナナモリさんはいいのか?」
「ピアスは断念か。お疲れ会するか?」
友人たちだった。部活に向かうところだろう。時間が時間だ、驚くことなど何もない。反射的に唇の端を上げた。
「んあぁ……」
一瞬、自分が何を言ったのかわからなかった。友人たちも驚いた顔をしている。頭を切り替え損ねたまま、普段の速さで口を開いてしまったのが敗因だ。恥ずかしすぎる。
「うぅぅ……」
「珍し。謙介が唸ってる」
「大丈夫か?」
「だ、いじょうぶ、だいじょうぶ……」
「七森くんとなんかあったのか」
「あー、今日授業一緒にサボってたもんな」
「どしたん話聞こか?」
「ああ……えーっとぉ……」
テンポが速い。いや、俺の頭が遅い。いつもならそれなりに乗りこなせる会話に、完全に置いていかれている。むにゃむにゃと言い淀んでいると、それで友人たちは何か察してくれたらしい。一旦口を閉じて、俺の返事を待ってくれた。俺が誤魔化しても深刻になっても、聞いてくれそうなちょうどいい温度だ。ただ、せっかく猶予をもらっても、今はろくな答えが浮かばなかった。やはりぽんこつだ。笑って見せたつもりだが、うまくできているのかすらわからない。
「……やー……なんか、完全に俺が悪いっていうか、何つーか……」
言いながら、俺だけが悪いわけじゃない、と即座に頭が煮えてしまう。
うわ、それが本音かよ、俺。
即座に自己否定が飛び出した。頭のなかでどれほど七森の正当性を認めても、現実に非を認めた途端に浮かぶのは自己弁護だった。救いようがない。頬の筋肉が嫌な感じにこわばる。ははは、と音だけ出してはみたものの、友人たちの心配そうな顔を見れば失敗したことは明らかだった。
「なんか知らんが、喧嘩したなら謝っちゃったほうがいいと思う」
「喧嘩っていうのかなあ……」
喧嘩を売って、買ってもらえなかった感がある。勝手にキレて殴りかかったら、軽くあしらわれた感じだ。頭が一層熱くなってくる。慌てて奥歯を噛み締めた。
「ぅうー……ん……」
さすがに自制心は取り戻していたから友人に当たり散らすような真似はせずに済んだが、これ以上口を開けばそれも怪しい。顔面の筋肉に至っては一切制御できない。両手で隠して、唸る。
七森と話したとき、俺はどんな顔をしていたんだろうか。
冷ややかに笑って俺を見た眼差しが、暗闇のなかに甦った。思考が転がるごとに、体温が上がる。このまま顔面を引き剥がしたくなってくる。背中を丸めて声を殺す。
「つか七森くんと喧嘩できるのすごいな」
「——」
「それな」
いら、としてしまった。
お前らが思うほど、あいつは穏やかなやつじゃないぞ、と。
そのあとに続く言葉が「だから俺が特別だめなやつなんじゃない」なのか「だから知ったふうな口を聞くな」なのかは、自分でもよくわからなかった。
「どんなんなるん? でかい声出したりとかしなさそうだけど」
「………」
淡々と痛いとこ突いて黙らせてきやがりますよ、という言葉は何とか飲み込んだ。あいつの悪口だけは言いたくない。そんなのは致命的に情けなさすぎる。だからいつも通りへらへら調子を合わせたいのに、それ以外得意なことなどないのに、呼吸を整えるのに時間を食ってしまう。せめて嫌な顔だけは見せまいとうつむきつづけるしかない。どうしたらいつもの俺に戻れるのか、皆目見当がつかない。
こんな俺は知らない。
「てか謙介もそうよな。誰かと険悪になってんの見たことないわ」
「……そ、ぅだっけ?」
やっとの思いで絞り出した声はざらついていた。しらばっくれてはみたが、心当たりは十分ある。俺はいつも、誰に対しても、卑屈なほど当たり障りない。
つまり今回はそれができなかったから、どうすればいいのかわからなくなっているのか。
原因がわかったところでどうしようもないし、どうしたらいつも通りの俺でいられたのかと後悔ばかりが募ってくる。自己嫌悪が八方から迫ってきた。
逃げ場のないなか、友人たちの声だけが温かい。
「謙介、だいたい譲ってくれるじゃん」
「大人だよな、そういうとこ」
そんないいものではない。
次々差し出される慰めが余計につらかった。痺れる舌でなんとか笑おうとする。「だろー」とか、そんなひと言でよかった。いつものように、調子づいた間抜けの顔をしたかった。いつもの俺に戻るきっかけがほしかった。そしたら七森にも謝って、なんとか丸く収められるかもしれない。引き攣る呼吸を飲み込んで、頭をどうにか持ち上げる。
「謙介と喧嘩できる七森くんもすげえわ」
ちょっと嬉しそうな笑顔が、三つ並んでいた。
「——……」
責めているのでも、慰めるているのでもなかった。
誰とも衝突しそうにない俺と七森がぶつかっているのを、少し物珍しげに見守っていた。
「………」
友人たちは俺の顔を見るや、さっとばらけて各自の靴箱に手を突っ込みだした。放り出された運動靴やローファーが、ぱらぱらと雨音に似た音を立てる。
「やっぱ、仲直りしたほうがいいって」
「謙介にそんな顔させるやつマジで見たことないよ」
「……俺、どんな顔してる?」
「めっちゃ怒ってます、って顔してる。超怖い」
「んあぁ……ごめん……」
「いいよ。気にせんでいいから、仲直りしてこいって」
「……俺は謝んない」
「おぉっと?」
半端にはみ出したスニーカーを靴箱に押し戻した。
「——見返してやるんだよ!」
だから俺は、昨日も家まで送る気でいたのだ。
顔を見て、喧嘩して、結果がどうでも家まで送ってやると、そう決めた。少なくともひとつ、たしかに反論できることだって見つかった。
だというのに、ぶつけたい相手に会うことすらできなかった。放課後の校舎のどこにも七森は見当たらず、もしやと思って近隣の神社仏閣を訪ね歩いてみたが影もなかった。徘徊しながら、何度もメッセージを打とうとしては消した。何がなんでも顔を見て言ってやりたかった。
——お前だけの問題なわけねえだろうが!
結局日が暮れるころ一人でとぼとぼと帰宅し、今朝は勇んで迎えにいったのだがすでに家を出たあとだった。
「七森くん、見てない?」
駆け込んだ教室にも姿が見えない。俺より先に来ていた面々に聞き回ったが、答えはすべて同じで「見ていない」だった。ひとつ積み重なるごとに、鼓動が速くなっていく。
まさかこっくりさんに。
いや、いくらなんでもこんなあっさりとは。
でも、あの細腕では。
嫌な想像が頭を占めては、否定の言葉でかき消す。繰り返すほどに不安が強くなっていく。
こんなことなら、変なこだわりは捨ててメッセージしてしまえばよかった。
しかし、泣きたくなるほど頭を悩ませていた七森の動向は、朝礼で担任の言葉があっさり知らせてくれた。
「——それと昨日、見回りの先生が見つけたんだがな、空き教室の机に、天板の外されたものが混じっていたそうだ」
「——」
誰のやったことかはわからない。教師陣も知らないらしい。どこの教室から持ち込まれたものかも不明だ。だけど、直感した。
社会科準備室の祭壇だ。
反射的に斜め前の席に視線を向けた。小さな背中が揺れたところだった。武藤さんも知らなかったようだ。
なら、犯人は一人しかいない。
「部活かなんかで邪魔だったのかもしれんが、それならちゃんと先生に報告して移動するように」
七森だ。
あいつ、本気で片づけるつもりだ。
自力で、ひとりで。
「………」
ぐら、と腹が煮えた。
担任の言葉はそれきり耳に入ってこなかった。機械的に号令に従い、即座に席を離れる。すぐに授業が始まるはずだが知ったことではない。
それは彼女も同じだろう。
「ちょっといい?」
声をかけると、つややかな髪の流れる背中が柔らかくしなる。振り向いた唇が微笑んだ。
「ちょうどよかった。私も話したかったんだ」
武藤さんの眼は、今日も笑っていない。
○
「これ、明くんの仕業でしょ? ちょっと強引すぎるんじゃないかな」
「俺もそう思う」
社会科準備室の扉を締めた途端に武藤さんは切り出した。全面的に同意する。
「じゃあ——」
さらに言い募ろうとした彼女を、始業の鐘が遮った。間延びした放送が終わるのを待つ間、部屋を見回す。
朝の光のなかでは、あの日感じた異様さも鳴りを潜めていた。部屋の中心に置かれていた祭壇がなくなったのも大きいだろう。机が一つなくなっただけで、狭い部屋はずいぶん広々と、そして空虚になっていた。
魔法も魔術もない、かびくさいだけの準備室にチャイムの残響が染みていった。
「……とにかく、わかってくれて嬉しいな」
祭壇のあった場所には、窓を背にして武藤さんが立っている。煤けたカーテンを通してくすんだ光が華奢な身体を縁取っていた。表情は静かだったが、逆光のなかにあっても瞳は苛烈に燃えている。
ひととき視線が交わった瞬間、無策で来た自分の甘さに気づいた。
「それで?」
艷やかな唇が皮肉げに微笑む。
「『だからごめん』? 『だから俺も天板探すよ』?」
ここにいるのは、俺の知っている武藤さんではない。変わってしまったように見えた彼女とも、七森と冷ややかな応酬を交わしていた彼女とも、無論俺の好きだった彼女とも、ちがう。
「どっちかな?」
俺の知らない、剥き出しの「武藤ひかり」だった。
「っ………」
未知の相手と向き合う緊張が肩を硬くこわばらせる。差し出された選択肢を舌の上で転がして、飲み込んだ。
「……どっちも、ちがう」
「じゃあ、何?」
貼りついた喉から返事を絞り出すと、すかさず問いが重ねられた。一緒にこっくりさんをしたときとは、逆だ。あのときは勝手にしゃべってくれた。今は、俺にしゃべらせようとしている。俺が決意を鈍らせて、逃げるのを待っている。
「………」
俺に照準を合わせた、的確なやり方だと思った。
たしかにいつもの当たり障りない俺なら、かわさずにはいられない。誤魔化して、謝って、どうにかぶつからないほうへと会話の軌道を捻じ曲げるところだ。それは武藤さん相手にはしたことのない調整、必要のない努力だった。武藤さんが自然にやってくれていたから。
彼女はもう、その努力を払わない。譲れないものを守るために、俺との間に築いてきた関係を捨てる覚悟をしていた。
それでも関係を守りたいのなら、今度は俺が努力を払えといっている。
「……『だけど、俺のやりたいことも七森と同じなんだ』……だよ」
その要求を、真っ向から拒絶した。
発した言葉に一歩遅れて、自分が彼女と対立することを選んだのだという実感が湧いた。手のひらに冷たい汗が滲みだす。握りこむほど、滑ってしまう。他人との対立に慣れていない心臓が、不安になるような脈打ち方をしていた。まだ自分の立場を伝えただけだというのに、呼吸が浅くなっている。
一方、言外の要求を突っぱねられても武藤さんは軽く首を傾げただけだった。可愛らしい仕草に似合わない強い眼差しが俺を射抜く。本気か、と問うように。逃げるなら今だぞ、と言うように。
丸くなりそうな背中をぐっと伸ばし、正面から見つめ返した。
「こっくりさんの十円玉、俺にください」
言い切った。そこでようやく武藤さんの瞳が僅かに揺らぐ。俺は自分から逃げ道を塞ぐように言葉を重ねた。
「っ武藤さんが、自分で処分できないなら、俺がするから……友だちにも俺が無理やり持ってったって、言ってくれていいから、ください……!」
眼を逸らさずにこちらからぶつかっていった。
彼女は眼を見開き、一瞬、昨日見た下手くそな笑顔を作った。しかしそれは瞬く間に崩れ、一切の表情が消える。
「……明くんがこっくりさんを帰してくれれば、全部丸くおさまるのに?」
「帰らないんだよ、こっくりさんが」
「私と呼べば、帰してあげるのに」
「俺なら飛びつくけど、あいつはやんないよ。知ってるだろ」
「そう……」
ふと、丸い瞳に残酷な光が差した。
「私のこと、好きなくせに」
「っ………」
「私の味方、してくれないんだね」
やはり、気づかれていた。舌の根が苦くなる。
武藤さんの眼差しは今や抜き身の刃物のようにぎらついていた。交渉する気も手懐ける気ももうないと言わんばかりの、底冷えのする激しさだ。
「……ったし、かに……」
こんな顔をさせたかったわけでは、なかった。
「最初は……武藤さんが心配で、こっくりさんをどうにかしたかったんだ」
俺はいつから、彼女にとって切り捨てていい人間になっていたんだろう。
「でも今は、たぶんちがう……んだと、思う。武藤さんが元に戻らなくても、武藤さんを傷つけることになっても、こっくりさんをどうにかしたいと思ってる」
俺はいつから、彼女を切り捨てていい人間にしてしまったんだろう。
「だからごめん。今は味方できない」
自分の言葉が痛い。吐き出した言葉が本音だからこそ、苦しい。それでも俺がこの場から逃げ出さずにいるのは、七森に対する意地でしかなかった。
俺たちの問題なんだから、お前の失敗は俺に挽回させろ、という意地。
「……そっか」
返事は素っ気なかった。こちらが力んだぶん、拍子抜けしそうになるほど軽い。しかしすぐ、彼女の言葉がそれで終わりではないことに気づいた。七森と同じ、人を見透かす眼差しが俺の全身をゆるりと撫でる。たったそれだけで、俺がいくら威勢のいい言葉を吐いていても内心では腰が引けているのを、彼女は精確に見抜いたようだ。ふっくらとした唇の端が、つり上がる。俺の全身が隠しようもないほど硬くこわばった。
「臨城くんさ——」
「ッだめ!」
どすん、という床の震えとともに、高い声が武藤さんの言葉を遮った。
「は——」
「ひかりちゃん、だめだよ……それ以上は絶対、自分が傷つく……」
振り返ると、小柄な女の子が足を踏ん張って立っていた。その後ろには三人、もつれ合って床に転がっている。準備室の扉は開け放たれていた。立ち聞きを切り上げて突入してきた、という様子だった。
「み、んな……?」
武藤さんが呆然とつぶやく。最前で俺たちに対峙しているのは、ナナモリさんに相談に来ていた子だった。助け合って床から起き上がろうとしているのは他のこっくりさん仲間だろう。先日廊下で会ったときの記憶がぼんやりと甦る。
「聞いてたの……? いつから……?」
武藤さんは戸惑っているが、俺もわけがわからない。呆気に取られて立ち尽くしていると、一番見覚えのある子が、前に進み出た。
「………っこれ……」
ぎゅっと胸の前で握り合わせた両手を俺に差し伸べた。身構えた俺の眼の前で、小さな手は震える指を解いていく。
「持ってってくれませんか……それで、終わりにしてほしいんです」
手のひらには、硬貨が乗っていた。黒くくすんだ、十円玉。
「私たちのこっくりさんを、終わらせてください」
背後で息をのむ音が聞こえた。相談者は明言こそしなかったが、差し出されたものが「武藤さんの十円玉」であるのは明らかだ。俺の足が一歩後退る。
「な、んで……俺に……」
意図がわからない。
受け取りかねて、突然の闖入者たちの顔を見回す。身を寄せ合い、うつむいている。顔には躊躇いが色濃く浮かんでいた。少なくとも俺の味方というわけではなさそうだ。
それが、なぜ。
「……ごめん、ひかりちゃん。それは偽物だよ」
はたと視線を武藤さんに戻すと、胸ポケットから十円玉を出して食い入るように見つめていた。その眼がふらりとこちらを向く。俺の前に立つ彼女を見る。
「こっそりすり替えたの。同じ年発行の十円玉、みんなで探したんだ。大変だったよ」
笑う。困ったような、諦めたような、覚悟を決めたような、強かな笑顔だった。
「どうして……」
武藤さんの返事は、途方に暮れたようなつぶやきだった。裏切ったのか、と、胸を喘がせる。
俺の傍らの彼女は、動じなかった。俺が受け取らなかった硬貨を握り込み、一歩前に出る。武藤さんと向き合う。
「ナナモリさんに聞いたんだ。『こっくりさんを終わらせるには、どうしたらいいのか』って。二度と私たちのこっくりさんをできなくするにはどうしたらいいのか、教えてもらったの」
——ひかりちゃんが、心配なんだってさ。
「——……」
七森はこの相談に、そんな柔らかい言葉を当てたのか。
誤魔化されていた、とは思わなかった。ただ、しっくりと馴染む。七森らしいな、と、呆れの混じった苦笑が俺の口許をゆるませた。
「あいつ……ッ!」
熱をはらんだ呻きが、気のゆるみを吹き飛ばした。見れば、武藤さんは音がしそうなほどに奥歯を噛み締め、小さな肩を尖らせている。握りこまれた手の甲にはくっきりと骨の形が浮いていた。
「みんなを利用するなんて……絶対、絶対……ッ……!」
あの武藤さんが言葉を失うほどの怒っている。当てられ、顔が引きつった。
「ナナモリさんは悪くないよ」
しかし、相談者は怯まなかった。さらに一歩、踏み出す。
「私の相談に答えてくれただけ。机のことだって、私に協力してくれただけ」
武藤さんの怒気に気圧されて身を引いた俺からは、表情が見えなくなる。
「悪いのは、全部私だよ」
かすかに震えたその声を合図に、背後にいた彼らが、押し寄せてきた。俺の横を抜け、相談者の彼女に並ぶ。こっくりさん仲間の全員が、武藤さんに向き合った。
「わ、私も悪い! 机の板外すの、協力したし!」
「僕ら、ひかりちゃんを遠ざける役、引き受けたんだ!」
「ごめん、騙し討ちみたいになって……!」
口々に自分の罪を告白する。ひとつ重なるごとに、武藤さんの眼が見開かれていく。結んでいた唇が解け、四肢から力が抜けていく。
「ど、う……して……?」
つぶやく姿は、支えを失ったように、頼りなく見えた。前髪の隙間に覗く額も、だらりとぶら下がった指先まで青ざめて、軽く突くだけで崩れてしまいそうだった。武器も鎧も剥がされた彼女に、相談者はさらに一歩、踏み込む。
「ひかりちゃんが大好きだから、だよ」
ひゅ、と息をのむ音が聞こえた。
武藤さんよりも少し高く線の細い声が、確信を持って語りだす。相談者の眼に見えていたものを。
「ひかりちゃんね、ときどき疲れた顔するとき、あったんだ」
知らなかった。
「いつか、話してくれたらいいって思ってた。話してもらえるようになろうって、思ってた」
考えたこともなかった。
「でもこっくりさんするようになって、気が楽になったみたいに見えたから、よかったなって」
ちょっと、悔しかったけど。
懸命に話していた彼女は、そこで少しだけ笑った。震えて潤む息を飲み込んで、小さな背中が真っ直ぐに伸びる。
「でも、でもね。こっくりさんのことで、こんな、悩むなら……ひかりちゃんがつらくなるなら、つき合えない」
こっくりさんを、終わらせたい。
正面から「武藤ひかり」の望みを拒絶した。
「——……でも……っ」
俺の眼の前に並んだ肩の向こうで武藤さんの瞳が揺れる。黒眼の境を滲ませて彷徨う。微笑んだ顔は不恰好で、どんな顔をすればいいのかわからないから一番馴染んだ表情をただ貼りつけただけのようにも見えた。
「…こっくりさんがいないと……私、もう、……っ……」
「答えがほしいんじゃ、なかったんだよ」
即座に、澄んだ声が遮った。もう揺らいでいない。迷いがない。
「ただ、ひかりちゃんに聞いてほしかったの」
そうか、と思った。
「ひかりちゃんの話も、聞かせてほしかったの……!」
俺は「武藤さん」が好きなだけだったのだ。
「私は『ひかりちゃんと』話がしたかったの!」
「ひかりちゃん」のことは、きっと好きじゃなかった。そもそも、気づいてもいなかった。顔を覗かせたときには、拒絶すらしてしまった。ひととき見せてくれた建前の向こう側を「変わってしまった」なんて表現した。
「私は、ひかりちゃんの、友だちだから……!」
そんな俺に「武藤ひかり」を好きだとは、いえなかった。
「……っ」
——茶番でしょう。
硬質な音が耳を打つ。小さな手のひらからこぼれ落ちた硬貨が、床を打った音だった。俺の視線の先では、答えを示す十円玉を手放した手が「武藤ひかり」をめいっぱい抱きしめていた。
こっくりさん仲間——武藤ひかりの友だちが、答えのわからなくなった彼女を囲んでいた。
対する俺は、一歩も動いていなかった。
「………」
悔しいが、七森の言った通りだ。武藤さんに関しては、完全に茶番だった。こうして武藤さんに正面から向き合っている友人たちを眼の前にすると、呆れるほどすんなり受け入れられた。蚊帳の外で自分の空回りを突きつけられるのは苦かったが、意外なことにつらくはない。
彼女はきっと前みたいに——ひょっとしたら前よりも、楽しそうに笑ってくれるようになると、思えたからかもしれなかった。
大事にしていたものがひとつ終わってしまった感覚に、こっそりとため息をつく。
「………」
感傷に浸るのはひとまずここまでだ。終わっていないもののために、俺にはまだやるべきことがある。
足許に転がってきた硬貨を拾い上げた。体温を帯びた十円玉は、熱い。握り込むと、冷たく汗ばんだ手のひらをじんわりと温めた。
顔を上げても武藤さんの姿は取り囲む友人たちに遮られて見えない。黙って立ち上がると、武藤さんの友だちが濡れた眼をこちらに向けた。
「渡すの、任せていいですか?」
誰に、とは言わなかった。言われなくても、わかっている。軽く笑って頷いた。
「ありがと。任せて」
胸ポケットに十円玉を落として、開けっぱなしの扉に向かった。しかし準備室を出る直前、足が止まってしまう。
「……武藤さん」
振り返らずに呼びかけた。引き攣った呼吸音が聞こえる。本当は何も言わずに立ち去るべきなのかもしれない。それでも、続けた。
「……俺、しょうもないやつだろ? 武藤さんなら、知ってると思うけど」
「——」
「それ。今、否定しようとしてくれたろ。俺のいいとこ、言おうとしてくれたんだろ」
振り向いても、やはり彼女の姿は見えない。
「そういうとこが、好きだったんだ。そういうのを自然にできるとこが、好きだった」
代わりに八つの眼が俺を見ていた。金髪の怖い男を相手に、睨みを利かせている。萎縮してしまうが、言っておきたい。
「それが武藤さんなんだって、思ってたんだ」
それだけが武藤ひかりだと思い込んでいた。
「だから、ごめんね」
勝手な謝罪を言い置いて、背を向けた。
「……臨城くんなら、いいかな……って」
「——」
背中を、掠れた声が追ってきた。思わずもう一度振り返る。並んだ肩の間に、いつも見ていた小さな頭が見えた。丸く、天使の輪のかかった頭。
「あれ、嘘じゃなかったよ……臨城くんなら、見せてもいいと思った」
だけど泣き顔は見せてくれない。それでいい。苦く笑う。
「……期待はずれでごめん。でもめちゃくちゃ嬉しいわ」
返事はもうない。今度こそ、準備室をあとにした。
俺は俺で、向き合わなければいけない相手がいる。
◯
ごりごりと、初夏の空に鈍い音が響いていた。
二脚の椅子の間に渡した板の上で、薄い身体が前屈みになり危なっかしく前後している。その手にはどこから調達してきたものか、鋸があった。
「………」
社会科準備室を出て一直線に屋上までやってきた。扉の前には授業中にも関わらずお茶があって、一旦は足を止めたが、気持ちは止まってくれない。そっと扉を開けて様子を窺うと、いるのは七森ひとりだった。いつもの給水塔の影ではなく日の当たる場所で、鋸を振るっている。祭壇から外した天板——こっくりさんの文字盤を、頼りない腕で分割しようとしていた。汗だくになり、お茶を無視して入ってきた俺にも気づかないほど打ち込んでいるようだが、作業はあまり捗っていない。遠目にも錆の浮いた刃は板の半分も進めずにいた。
こいつ、人払いのために「ナナモリさん」のきまりを利用したな。
無視して入る俺も俺だが、仕組みを理解した途端に活用しはじめる七森も大概だ。呆れてしまうが驚きはなかった。以前はなんとなく潔癖な印象を持っていたのに、今は「らしい」感じがした。
なんにせよ、刃物を持っているやつを驚かすのはまずい。転んで足を切り落とされたら話どころではない。気が急くなか第一声は保留にして、ざっと状態を確認した。
「………」
新たな包帯はどうやら増えていないようだ。傍らに置かれたスマホはきちんと録画状態になっている。ぜいぜいと肩で息をしているが、何か恐ろしいめに遭った形跡はない。
無事だ。
ずっと頭に留まっていた心配がようやく解消されて、細く長く息を吐く。同時に似たような音がもう一つ重なった。見れば、痩身が作業の手を休めて起き上がったところだった。厚い板に斜めに刺さった鋸はそのままに、痩せた手が負担のかかった腰を摩る。右手は眼鏡を外して前髪のかかった眼許を乱暴に拭った。その拍子に、つり眼が俺を捉えた。
瞬間、互いの間に緊張の糸が張り詰める。
「……忙しそうだな」
自分が回避行動を取ってしまう前に、と先手を打つ。対する七森はゆったりとした仕草で眼鏡をかけ直した。優しげに整った顔が俺に向きなおり、冷笑する。
「……お茶、見なかったの?」
俺の言葉など聞かなかったかのように吐き捨てた。きまりを無視されたことにも、無視したのが俺だということにも動じた様子を見せない。昨日のことには触れない代わり、なかったことにもしていない。前かがみになっていた背中を伸ばし、冷ややかに鼻で笑った。
「臨城くんってそういう無神経なとこあるよね」
いつもの柔らかさなどどこにもない。誰にでも差し出していた穏やかさも、ここ数日で見せてくれるようになった気安さもなかった。今の七森は、一段上から武器をひけらかすような、底意地の悪さをまとっている。
俺の反応を待たずに、薄い肩をひょいとすくめる。
「ま、さすがの無神経くんでも、取り込み中だってことは見ればわかってくれるよね?」
刺々しい仕草は、どこか芝居がかっていた。俺の嫌がる言動をひとつひとつこなして追い払おうとしているのが見え隠れしている。
重いため息のあと、瞳を鋭く閃かせて煩わしげに俺を睨んだ。
「帰って」
その振る舞いは儀式にも、威嚇にも見えた。
「……お前さあ……」
一瞬でも遠慮したのが馬鹿馬鹿しい。扉の前に突っ立っているのをやめて、大股に踏み込む。
「そうやって圧かければ俺が帰ると思ってんだろ」
「そうだよ。ちがうの?」
七森は動かない。悠然と構えているが、足だけは懸命に踏ん張っているのが俺には見えている。俺が大声を出したとき、怒ったとき、いつも身を縮めていた。いつものように膝を抱えていない今は、小さく震えているのがよくわかる。
足を止めずに、距離を詰めていく。
「ちがわねえよ。大正解だよ。ほんっと腹立つくらい俺のことよく見ていやがるよお前は」
「俺じゃなくたって、そのくらい誰からもばればれでしょう。だから見られるの、嫌いなんだよね?」
七森は俺から視線を逸らさない。いつもとちがってよそ見をしない。心を見透かす瞳はひたりと俺に据えられている。
見せびらかすように胸を張ってやった。
「そうだよ。しょうもねえことしか考えてねえのがばれんのが嫌だったんだよ」
「ああなるほどね。今度はナナモリさんにそこを直してほしいってこと? それはさすがの俺でも——」
「ちげえよナナモリさんに用はねえ!」
いつもの距離で、いつもとちがって正面から、祭壇の上に立つ七森を睨み上げた。七森は正面から睨み返してくる。
「じゃあ、なんなの?」
夏空を背負った相貌には見下すような笑みが貼りつけられていたが、頬はかすかにこわばっていた。
よく聞け、と言い聞かせるように息を深く吸う。
「俺は、七森明に会いにきたんだよ」
瞬間、七森が祭壇から飛び降りた。前触れも予備動作もなかった。見慣れた姿とはかけ離れた俊敏な動きに反応が遅れる。薄い背中はスマホも荷物も俺も全部置き去りにして、給水塔のほうへと走りだしていた。
「っ逃……っげんな死にてえのか!」
「あ……!」
しかし、元サッカー部の相手にはならない。すぐに追いついて肩を掴むと、力が強すぎたようでひっくり返った。床に転がった七森が短く呻く。
「ちょ……っ!」
咄嗟に助け起こそうと身を屈めたが、痩身はそれを隙と捉えてすり抜けようとした。反射的に足で進行方向を塞ぐ。そのまま薄っぺらい上体を跨いで立つような形をとると、ようやく七森は脱出を諦めた。俺の落とす影に隠れるように、うずくまる。
「おい——」
「うるさい乱暴者」
「ななも——」
「うるさい」
もう演技臭い攻撃はなかった。俺が声を発するたび、ただ短く跳ね除ける。ただでさえ慣れない作業で目減りしていた体力を、一瞬の攻防で使い切ったようだった。
「なあ——」
「うるさい」
「ちょ——」
「うるさい」
「おま——」
「ぅ、るさい」
「——っ」
「うる、さぃ……っ」
苦しげな呼吸を中断してでも、遮ってくる。強引に咳を飲み込んででも、吐き捨てる。残された武器を懸命に振り回しているが、そんな無理、長く続くわけがない。初夏の光の下、顔を伏せてくるりと丸まった塊は、根本から俺の口を塞ごうと消えそうな声でつぶやいた。
「七森明なんか、いない……」
だから帰って。
「——ッいねえのは『ナナモリさん』のほうだろうが!」
遮られたぶん声を張ると七森はぎゅっと身を縮めた。
「っどっちでも、いいじゃん……どっちにしたって——」
顔の見えない小さな塊が、最後の力を振り絞るように脈打った。
「——臨城くん、俺のこと、嫌いでしょう……!」
最後の武器は、前にも聞いた台詞だった。七森が俺を拒絶するために放った、最初で最後の言葉。だけど今、細い声にひっそりと滲んでいるのは、不快ではない。
怯えだ。
「——ッ」
これだから、何でもそつなくこなすやつはだめだ。
「嫌いじゃなくて! 怖かったんだよ!」
なんでも見透かしてくる眼が怖かった。
「んでちょっと嫌いになった!」
好きな子が好きだった子に変わるように。
「そのあといいやつだと思って相棒みたいに思ってまた怖くなってまた嫌いになって頼りにして信じてすげえむかついて対抗心燃やして……ッ!」
とことん不自由で不透明な男は、俺が言葉を重ねるたびにかすかに身を震わせた。そのたびに汗を吸ったシャツがまとわりついて細かな皺を作る。
引き起こして表情を確認してしまいたくなる手を、硬く握り込んだ。
「ずっと同じでいられるか! 近くにいるんだから!」
最初に答えなかった問いへの返事が、ようやくできた。
手も足も震えていた。他人に建前抜きで「どう見ていたか」を伝えるのは、初めてだった。近しく思っている、これからも親しくしたいと思っている人間に「怖かった」や「嫌いだった」と白状するのは、好きだった子と対立するよりも、怖かった。
屋上には沈黙が降りて、俺の荒い息だけが空気を震わせている。七森からの応答はない。こちらのことも見ない。七森と話しているとよくあることだ。だからといって、俺の話を聞いていないわけではないことも、もうよくわかっている。
「……そっちだって、似たようなもんだろ」
勝手に話を続けると、びくりと肩が跳ねた。咄嗟にこちらを見ようとした小さな頭がいっそう強く腕のなかに押し込まれる。構わず続ける。
「精いっぱい嫌がって、へらへら楽しもうとして、頼ってくれたかと思ったら出し抜くわ全否定するわ……」
わけがわからなかった。なぜ、とずっと思っていた。
簡単な答えに気づかずにいた。
「……でも、ずっとおんなじだったよな」
——一生懸命なの、ずるいよねえ。
必死なクラスメイトに絆されてくれた。
——秒できまり破っちゃった。
びびった相談者を庇ってくれた。
——一旦任せて。
好きだった子のことを割り切れない友だちが傷つかないように、隠そうとした。
「最初から今まで、ずっと、優しかった」
七森の不可解な言動の理由など、全部それが答えだった。七森がナナモリさんをやっている理由だって、それで理解できてしまう。
——よくわかんないものをわかんないわかんないって言ってても、何にもわかんなくない?
こいつが何度も言ったとおりだ。簡単にわかるはずのことを、わからないと片づけてきたのは俺のほうだった。自分のことも武藤さんのことも、こいつのことも。見ていたはずなのに、わからないふりをしてきた。
だから「甘やかされていた」なんて誤解した。
こいつはただ、俺のことを頑張って考えてくれていただけだったのに。
「……っでも」
押し殺した声が鼓膜を打った。七森はうずくまったままだ。薄い肩が硬く張り詰めている。
「でも、失敗した……」
ぐす、と鼻をすする音がした。やっと出た反論はそれだけだった。
「お前……」
踏ん張っていた両足から、力が抜けてしまう。
「そここだわってんのかよ……」
重力に逆らわず七森の傍らに座り込むと、腕に埋めた顔のあたりから押し殺した下手くそな息継ぎがいくつも、かすかに耳に届くようになった。
「頼るのも助けられるのも下手くそすぎるだろ……」
「……ナナモリさんなら、失敗しないし、ひとりでやれる……」
「………」
黙って胸ポケットから十円玉を出し、頭のそばに置いてやる。本当はもう少し劇的な感じで見せるつもりだった。どうだ見たか、と。お前の仕込みを見事回収してやったぞ、と。
今の七森を見たら、そんな見栄はどうでもよくなってしまった。
硬い音に誘われて、つり眼が覗く。赤くなった眼が、硬貨を捉えて見開かれた。
「……なんで……代わりに、やっちゃったの……」
「代わりもくそもあるかよ。命の危険がなきゃ、余裕なふりやめらんねえのか」
「だって、ナナモリさんなのに……」
まだそんなことを言っている。小さく丸まった姿に「何でも解決してくれるナナモリさん」の面影などない。
「だから、ひとりでできなくていいんだよ。俺はもうお前のこと『ナナモリさん』にしておけねえんだから」
俺の眼の前にいるのは、変なとこ共感性が低くて、甘いものが大好きで、体力がなくて、構われるのが嫌いで、張り切ると失敗する臆病者だ。
オカルトじみたおまじないや変なキャラで売ってる顔のいいやつでは、済まなくなってしまった。
「お前も俺のこと『相談者』のままにしておけなかったんじゃねえのか」
武藤さんの言葉に、声を詰まらせていたのを思い出す。
——友だちにさ、「わからない」「できない」って、今さら言える?
「だから、交渉失敗したんだろ」
「………っ」
弱みを突いているようで良心が痛む。だけど、武藤さんも七森も、友人に「できない」と言えないばっかりに精神をすり減らす羽目になってしまった。恨まれてもいいから、言っておきたかった。
「お前も俺のこと友だちだと思ってんなら、いいかっこだけしようとすんな」
恥ずかしくても、言っておきたかった。
見下ろしたつり眼がいっそう丸くなり、こぼれた涙が乾いた床に水玉模様を描いた。瞳が揺れて細められ、そのまま笑うかと思われた。
応じる準備はしていたのに、乱れた髪から覗く眼は結局、じっとりと俺を睨んだ。思わず身構える。
「心読むのやめてよ……」
何を言われるのかと思えば。
緊張がゆるんだ拍子に、ふ、と吹き出してしまう。
「俺の気持ちがわかったか」
見透かされるのは、恥ずかしいから怖い。
ずっと見透かす側だった——隠す側だった七森には受け入れ難いようで、また顔を伏せてしまう。ただ、ぐすぐすと洟を啜る音には遠慮がなくなった。悔しげに、これ見よがしなくらいに。
泣き顔は隠されてしまったが、これでよしとした。
俺と七森は、これでいい。
「……七森くん、ごめんな」
何に対する「ごめん」なのか、多すぎて自分でもわからなかった。ひとつひとつ罪状を挙げていきたい気持ちがないではなかったが、やめた。
「あと、ありがとう」
こいつに対して細かいことを気にしたくなかったし、されたくもなかった。そのためなら、多少の居心地の悪さは飲み込める気がした。
返事を待つでもなく、丸まった友人を眺めていると、不意に縮こまっていた四肢がゆるんだ。
「……………臨城くん」
「なに」
「祭壇、切れない……」
自然と唇の端が上がった。
「……任せろ」
○
十円玉は自販機で使い、ばらした祭壇は河原で燃やした。何世代も使われることを想定して作られた机は頑丈で、解体作業を完遂した手足がだるい。これは間違いなく、七森には無理だっただろう。俺ですら、授業をサボりぶっ通しで作業したのに夕方までかかってしまった。
橋の下、武藤さんの十円玉で買った茶を飲みながら、拾ったバケツのなかで燃える四八枚の木片を眺める。
「長い戦いだったなあ……」
その辺の枯れ草をくべる背中を録画しながらつぶやくと、肩越しに振り返って七森が笑う。
「まだ終わってないけどねえ」
つり眼はまだ少し赤い。しかし精神のほうはずいぶん持ち直したようだった。俺が懸命に鋸を振るう間、近くで丸まったり転がったりと存分にぐずついたおかげだろう。「ちょっと替われ」と何回も喉まで出かかった。
「でも、臨城くんのおかげであとは説得頑張るだけだね」
「調子いいこと言いやがって……」
「持つべきは元サッカー部の友だちだねえ」
わざとらしい友だちづらだ。苦笑する。
「だろ。あとはオカルトに強い友だち頼みだわ」
「任せて」
七森はてらいなく頷いた。
燃えかすを水に晒す。湯気と煙の混じった雲が細くたなびき、消えていく。劇的な出来事がないせいか実感は湧かないが、これでひとつ儀式が終わった。
あとは俺たちのこっくりさんを終わらせるだけだ。
暮れていく空を見上げる。解体作業に時間を取られたせいで、すでに遠くの山際は赤から藤色に変わりはじめていた。空気が青みを帯びていく。
どちらからともなく、視線を交わした。
「さすがに最終決戦は邪魔されたくないよな」
けりをつけるつもりで臨むなら、途中で人が来てしまうような場所は避けたい。一方、いざというときには人目のあるところへ逃げ込める状態も保っておきたかった。
「学校……は人いなくなる時間だよな」
「駅の近くにしよっか」
儀式は以前こっくりさんをした高架下で、物陰に隠れて決行することになった。
土手を這い上がった先の橋には、日が暮れてもひっきりなしに車が行き交っている。ヘッドライトは街灯の灯りすら霞ませる強さで、歩道をいく俺たちを照らした。隣を歩く七森の横顔が真っ白に光っては薄闇に沈んで見えなくなる。つり眼が眩しげに瞬きをして、ふいと欄干の向こうに視線を投げた。川の両岸は黒く闇が溜まり、その少し上に街の灯りが散らばっている。星空よりも星空らしい。
「臨城くん」
「うん?」
「俺は絶対終わらせるつもりでいくから、臨城くんもそのつもりでいてね」
「こっちの台詞ですが」
シャツの襟から覗く白い包帯を見ていると、七森が振り向いて満足げに笑った。
儀式の会場に選定したのは、高架下にある植え込みの陰だ。人影のない寂しげな道の、さらに暗く沈んだ場所。しゃがんでこっくりさんの準備をする七森の横で、俺は靴紐を結び直した。足に負担のかからない体勢を探り、いざというとき逃げる準備をする。仕上げにスマホを近くに立て、いつでも録画開始できるように角度を調整していると、早々に支度を終えた七森が揃えた膝頭に腕を乗せてしみじみとつぶやいた。
「慎重派だねえ」
「びびりで悪かったな。保険なんかどんだけかけてもやりすぎってことはねえんだよ」
「たしかに。頼りにしてるね」
柔らかく笑う。その言葉が俺への気遣いから出たものではないことは、もうわかる。
「有事の対応は任せとけ」
「うん。それじゃ遠慮なく」
はじめようか。
ひょいとその場にあぐらをかいて、七森が言った。タイルの敷かれた地面には文字の書かれた白い紙。赤い鳥居の上には十円玉がある。その上で、細い指が俺の参加を待っていた。
「………了解」
迷いなく、向かい側に指を乗せた。それを合図に、七森が深く息を吸い込む。促されるように眼を閉じると、瞼の裏に濃い闇が広がった。静かな暗闇のなかで、俺の心臓の音が大きく聞こえる。そこに七森の声が重なる。
——こっくりさんこっくりさん、おいでください。
すっかり耳に馴染んだ、甘く歌うような声。余韻が消えるのを待って、眼を開けた。
「………っ」
白い指は、きちんと来ていた。
思わず息を呑むが、身体はもう逃げ出そうとはしない。恐怖だけではなく、負けられない勝負を前にした緊張感がある。
「………」
深く息をつくと、向かいからかすかな吐息が聞こえた。
「じゃ、参ろうか」
どうやら俺の様子を窺っていたらしい。
「こっくりさんこっくりさん——」
慎重派はどっちだ、と言ってやりたいのを堪えて、七森の質問に意識を集中した。
「もう帰れますか?」
前提をすっ飛ばした端的な問いかけだ。それでも十円玉は戸惑う様子もなく動いていく。
——はい
「………」
やはり、武藤さんとの儀式がネックだったらしい。苦労したかいがあった。
「ではお帰りいただけますか?」
——いいえ
「なんで……!」
思わず洩らすと、十円玉はするすると文字の間を滑った。
——しね
答えではない。
——しね
——しね
——しね
「——ッ」
示されたのは一方的な要求だった。何度も何度も、二文字の間を行き来する。俺たちの手を振り回すような勢いで十円玉は紙面を走った。指先が冷たくなっていく。
もう帰らない理由はないはずなのに、なぜ。
混乱する頭に、静かな笑い声が降ってきた。
「定番定番」
「——……」
七森は動じていない。のんびりとした口ぶりに、背中を濡らす嫌な汗が引いていく。
「——にしても」
しかし、次のひと言に血の気まで引いた。
「ほんっと、小物だよねえ」
直球の嘲笑だった。
「おい……!」
顔を上げたくなるのを堪えて呼びかける。十円玉は一瞬止まり、先ほどとは比べものにならない勢いで「こ」と「ろ」と「す」の間を往還しはじめた。
完全に怒らせてしまった。
しかし七森は黙らない。笑いを噛み殺したような声で更に問う。
「ひかりちゃんに散々いじめられたから憂さ晴らししたいんでしょう?」
——いいえ
「ダサ。じゃあ聞くけどさ」
こっくりさんの手に力がこもる。何ごとか伝えようと十円玉が動きだしたが、七森は鼻で笑って無視した。
「最初はひかりちゃんがひとりで呼んだんだよね?」
——はい
「だけどサシで会うのは怖くなった。ちがう?」
——いいえ、いいえ、いいえ
ぐるぐると同じところを回る。
「ならどうして今は『二人』じゃないと来てくれないのかなあ」
「………!」
考えたこともなかった。
十円玉を見つめるが、動かない。
「これ、なんのためのきまりなの?」
動かない。
「答えられないんだ?」
動かない。
「言い訳もできないのに、なんで嘘なんかつくの?」
動けないのだ。
嫌なところをあちこちから刺されて、こっくりさんは返事をできずにいる。宣言通りの遠慮のなさだった。こっくりさんを押さえつける武藤さんを散々いじっていたが、こいつも大概だ。人間だろうと幽霊だろうと、姿が見えようと見えまいと関係なく、よく見ている。
心の底を見透かしてしまう。
七森は優しさも容赦も手放して、「お告げ」をする側に慣れきっているこっくりさんを苛烈に追い詰めていた。
「………」
しかし、そこで七森は一度口をつぐんだ。何ごとかと思っていると、次の質問が密やかな声で告げられる。
「怖い?」
「——」
その問いはこっくりさんに向けられたものではないと、すぐに気づいた。どこか不安げな、囁くような声だった。
苦笑を飲み込む。
「……怖かねえけど性格悪そうだなあとは思う」
「よかった。性格悪いのは事実だからねえ」
嘘ばっかりだ。演技のくせに。だけど今は、否定しない。任せると決めたから、物申したくても七森の邪魔はしない。
「敵には回したくねえわな……」
「でしょう?」
代わりに援護射撃してみると、向かいから小さく喉を鳴らすような笑い声が答えた。
「こっくりさんも、聞いた?」
十円玉は三本の指を乗せたまま、凍りついたように動かない。
「俺はひかりちゃんの百倍怖いよ」
武藤さんを引き合いに出された途端、質問には答えずに白い指は乱暴に十円玉を滑らせはじめた。
——だからなに
「君が嫌がることは見つけ次第全部する、ってこと」
——そんなのない
「そう? じゃ、まずは君の顔の撮影、頑張ってみようかな。ブログに載っけたらウケそうだし」
白い手がぎくりとこわばる。何か答えようと十円玉を動かそうとするが、七森は待ってくれない。
「俺を殺すまでに何されちゃうか、想像できる?」
これは質問ではない。
「俺を殺すのにどれくらいかかるか、想像できる?」
想像しろ、という命令で、脅しだ。
「俺を殺せると思う?」
「いやさせねえから」
考えるより先に口から出た。
やっと答えられる質問がきた、とばかりに「はい」へと動こうとした十円玉が、驚いたように動きを止める。七森が小さく息をのんだ。
「させねえよ。七森は殺せない」
指先を離さないように、腰を浮かせる。場に呑まれようとしていた足に力が戻ってくる。十円玉は中途半端な場所で静止していた。「はい」に動こうとしているが、俺が阻止しているからだ。指先に力を込めて「いいえ」に引っ張る。反則だろうが関係ない。
「殺せる」なんて言わせてたまるか。
「………だってさ」
執念を見せるこっくりさんと臨戦態勢に入った俺の間を、場違いに軽やかな笑い声が転がっていった。
「だから帰ったほうがいいよ。こんなの君もつまんないでしょう?」
嬉しそうな声だった。性格の悪いふりを忘れてしまった、優しい、柔らかい問いかけだった。やんわり細められたつり眼が瞼に浮かび、緊張の糸を切られてしまう。
「お前なあ……」
せっかく体勢を整えたのに、援護射撃だってしたのに、これだ。呆れ半分諦め半分で手許の硬貨を見下ろした。指先から力が抜けてしまったが、硬貨は動いていなかった。十円玉に刻まれた文字を削り取りそうなほど爪を立てていた白い指も、呆気にとられたようにゆるんでいる。
七森は耳に馴染んだ、穏やかな声で促した。
「帰ろうよ」
十円玉はそれでも往生際悪く震えていたが、やがてとぼとぼと動き出した。

