×
こっくりさんが、来ている。
指を離さずに済んだのは、事前調査のために散々怖い話を読んで慣れていたおかげだろう。部屋を包む雨音が現実感を切り離していたせいもあるかもしれない。最初の衝撃をやり過ごせば、頭は徐々に冷静になってくれた。
きまりを守れば大丈夫。指を離さなければ、ひとまずは問題ない。
手の震えを懸命に抑え、ゆっくりと息を吸い込む。
「……こっくりさん、こっくりさん——」
こっくりさんは何でも答えてくれた。
精度の確認のために自分のことをいくつか尋ねてみたところ、誰にも言ったことのない秘密まで知っていた。名前を呼び合うあの子ですら見通せないだろうという薄汚い内心まで詳らかにされていく。心を切り刻むような正確さは痛く、不快なほどで——
「………」
——ひどく、安心した。
「こっくりさん、こっくりさん……」
試しに、友人が昨日自分のもとに持ち込んだ相談をぶつける。
十円玉の描く軌道に迷いはない。差し出される答えは合理的だ。
「こっくりさんこっくりさん」
気がつけば、口は日々胸を濁らせている苦悩を吐き出していた。尋ねるたびに、青白い指がするすると硬貨を滑らせていく。向かい側に置いている指は従順についていく。
——あたまわるいから
——せいかくぶす
——ぎぜんしや
どんなに傷つくような内容でも、二本の指は一緒に答えを指し示す。
「こっくりさんこっくりさん」
なるほど、これだな。
なぜ友人は自分ごときに相談を持ちかけるのか。弱音を吐露するのか。その疑問が解消していく。
「こっくりさんこっくりさん」
答えを示してもらうのは、とても安らぐ。
問題を確実に解決できるわけでもない自分にすら需要があったのも納得だ。皆、この感覚を求めていたのだろう。
他人に言われると、たとえ受け入れ難い答えでも諦めがつく。
呼吸がふっと楽になった。肩から力が抜ける。自然と視線が白い手の持ち主へと向かう。受容をもたらしてくれた救世主の姿を、ひと目見たい。
崇めるような心持ちでそっと眼を上げると、視線が交わった。
そこにいたのは、自分と同じ制服を着た少女だった。華奢な身体つき、細い首に乗っかった顔はぐしゃりとひしゃげている。血が滴って、夏服のシャツを赤く濡らしていた。
涼やかな眼だな、と思った。
浮かんだ感想は、それだった。「怖い」より早く、どこか夢見心地な頭でそんなふうに思った。この眼差しが、自分を解剖してくれたのだな、と。
「こっくりさんこっくりさん——」
冷ややかに微笑むその瞳に向けて、感謝の言葉をかけようとした。
そのときだった。
「……?」
こちらを見る眼が、みるみる見開かれていった。
何ごとだろう。
戸惑うこちらが何か尋ねる前に、暗い瞳が雄弁にその心を語り出す。
衝撃、憎悪、嫉妬——
「待っ……」
——劣等感。
白い手がその顔を覆い隠したのを最後に、こっくりさんの姿は消えてしまった。
×
狭い部屋は薄青く陰っていた。位置が悪いのか、古ぼけたカーテンのせいか。社会科準備室には、雨降りとも夕暮れともちがう仄暗さが水っぽく満ちていた。
「急に無理言っちゃってごめんね」
華奢な背中がゆるやかにしなる。肩越しに振り返って、すまなそうに眉を下げて見せた。影のなかでも、武藤さんの態度に陰鬱さはない。いつもどおりの人好きする彼女だった。
「や……大丈夫……」
それがかえって、落ち着かない。
七森としたこっくりさんの答えが本当ならば、昨日、こっくりさんは武藤さんの呼びかけに答えなかったはずだ。その理由に彼女が気づかないはずはない。俺たちが嗅ぎ回っていたことを、一昨日の時点でこっくりさんに教えてもらっているのだから。一方で、こうも考えられる。
「こっくりさんが離れたから、武藤さんは元に戻ったのだ」と。
そうであればいい、と思うのに、そういうことなんだろう、とも思うのに。
「……どうせ、暇してるから。気にせんで……」
どうにも、武藤さんに背中を向ける勇気が出ない。かといって自分から核心に触れる気概もなく、煮え切らない返事をしながら彼女につき従って、ここまで来てしまった。
梅雨のころの俺ならば、大喜びで手伝っていただろうにな。
武藤さんの手で鍵のかけられた扉に寄りかかり、スマホのロック画面を盗み見た。七森からのメッセージが表示されている。
——だいじょうぶ。
「………」
取り急ぎ俺から送った「絶対ひとりになるな」への返事だ。状況報告もなければ俺への要望もない。相槌のみの返信は、信頼されているのか、放置されているのか微妙なところだ。少しは俺の手厚さを見習ってほしい。ため息がもれる。
「もしかして、明くんと約束あった?」
武藤さんの声に、心臓が跳ねた。顔を上げると丸い瞳がこちらを窺っている。
「あ、いや、その……!」
咄嗟に言い訳しようとする俺に、武藤さんはいたずらっぽく笑った。
「すぐ終わらせるから、ちょーっとだけつき合ってね」
そう言って顔を背ける。その視線の先には机があった。
「どうしても、確認したいことがあって、さっ!」
細い腕で、ぎっしりとファイルの詰まった段ボールを持ち上げようとしていた。慌てて駆け寄り、横から箱の底に指をかける。
「っ待って待って待って、俺するよ!」
「うわ、ありがと。助かる」
そこで一瞬、躊躇う。
彼女があまりに自然にどけようとするものだから、俺も自然に手が出てしまった。しかしこの下には。
「やっぱり見たんだ」
「——っ」
「いいよ。気にしなくて」
さっさと始めちゃお。
柔らかい声、何気ない口調。教室で聞くのと変わりない。
だからこそ、隣に立つ顔を見ることができなかった。
俺の好きだった彼女と、変わってしまった彼女が、重なろうとしている。
「……うん」
不意に湧き上がった嫌な想像を慌てて打ち消した。
昨日、屋上で七森と話し合ったことを思い返す。こっくりさんは七森に取り憑いて、だから武藤さんのほうは解決した。今のところはそれが正しく見えるし、正しいと確認するためにこれからこっくりさんをするんだと思えばいい。うまくすれば七森からこっくりさんを追い払う手がかりだって見つかるかもしれない。
よし、これでいこう。
構え方を決め、ぐ、と両腕に力を込めた。埃を吸った段ボールの下から、掘り込まれた文字たちが顔を出す。青みを帯びた影のなかで、鳥居の赤は深く沈んでいた。飲まれないように、顔を上げる。
「おっしゃ。はじめよ。呪文は武藤さんに任せていい?」
床に箱を下ろして向き直ると、彼女は甘く整った相貌に、頼もしげな笑みを浮かべた。
「了解。任せて」
机のなかではなく、胸ポケットから十円玉を出して。
◯
「こっくりさんこっくりさん、おいでください」
幾度めかの呼びかけを聞き終えて、眼を開ける。
「……だめかあ」
十円玉に乗っている指は二本。俺と、武藤さんのものだ。残念そうなため息はすっかり耳に馴染んでしまっていた。
予想どおり、武藤さんが呼んでもこっくりさんは答えなかった。
意外だったのは、彼女が一度では諦めなかったことだ。てっきり、こっくりさんがこないことを示して俺を責めるつもりなのだろうと思っていた。元の武藤さんに戻っていてもいなくても、俺たちのしたこととその結果について咎めるだろう、と。このタイミングで俺をこっくりさんに誘う目的なんて、そのくらいしか思いつかない。しかしそんな予想に反して、彼女は粘り強く同じ儀式を繰り返している。以前教えてくれたのと変わらない、秘伝のこっくりさんだ。
こうなると、俺はどう動けばいいのかわからなくなってしまった。落ち着かないまま、ただ諾々と彼女の儀式につき合っている。
「うまくいかんね……」
かといって自分から言い訳するわけにもいかず、白々しい相槌を打つ。眼を開くたび、七森との作戦が成功したと証明される。武藤さんが失敗するたび、安心してしまっている。
「今日は調子悪いんかな……」
彼女の気配を窺いながら、曖昧に慰めるばかりだ。
「もう一回。もう一回いい?」
この台詞も本日何度めだろう。顔を見なくても、悔しそうに頬を膨らませているのが眼に浮かぶ。根気よく繰り返せばいずれはこっくりさんが来ると信じているかのような、俺と七森がこっくりさんを取り上げてしまったことになど気づいていないかのような、含みのない真摯さだった。
「………」
本当に気づいていないんじゃないか?
ひょっとして「憑き物が落ちたから、取り憑かれていた間の記憶は失われた」とか、そんなホラー映画みたいなことが起きているのではないか。
手がかりがない一方で可能性だけは無限に出てきて、混乱してしまう。もう少し七森と、武藤さんの現状について話し合っておくべきだった。後悔するがもう遅い。
「……いいよ。ここまできたら何回でもつき合うわ」
いずれにせよ、何度やっても同じだと俺は知っていて、それを口には出せないことに変わりはない。
「ありがと。じゃあもう一回いくね」
だったら代わりに、彼女の気が済むまでつき合おうと決めた。
流されるままだったさっきまでとはちがい、確かな意志を持って眼を閉じる。待っていたように呪文が唱えられた。
「こっくりさんこっくりさん、おいでください」
眼を開く。何もいない。また瞼を閉じる。もう一度やろう、と示すように。
「こっくりさんこっくりさん、おいでください」
呼ばう声は切実で、こっくさんが答えないようにしたのは俺だった。その事実が、少し痛い。
「こっくりさんこっくりさん、おいでください」
ふと思う。彼女はどうしてこんなにもこっくりさんを呼びたがるのだろう。
「こっくりさんこっくりさん、おいでください」
武藤さんは繰り返す。何度も呼ぶ。武藤さんからの号令がなくなっても、俺は自ら瞼を開け、閉じる。ゆっくりとした瞬きみたいに。何かのおまじないみたいに。
「こっくりさんこっくりさん」
代わりになるものを俺が見つけられたらいいのに。
「先に指を離したのはどっちですか?」
「——っ!」
弾かれたように顔を上げた。しっかりと視線が交わる。
「あーあ、眼を逸らしちゃだめって言ったじゃん」
しょうがないなあ。
武藤さんは呆れたように苦笑した。その表情を見て、直感した。彼女は最初から十円玉なんて見ていなかった。最初から俺を観察していた。
俺の違和感は間違っていなかったのだ、と。
「ご……めん……」
自分でもなぜ謝ったのかわからない。眼を逸らしたことか、彼女からこっくりさんを取り上げたことか。本当のことを言わないことか。はっきりしているのは、安っぽい芝居を見抜かれた今、どんな言い訳も無意味だということだけだった。
俺の謝罪には答えず、武藤さんの唇が淡く笑みを刷く。
「先に手を離したのは明くんだったかあ」
取り憑かれるなら、君だと思ったのに。
冗談めいた口ぶりだが、茶色の眼は笑っていない。こっくりさんは来なかったのに、もう彼女は答えを手に入れていた。いや、今こっくりさんが来なかったことこそが答え合わせだったのだ。
俺と七森、こっくりさんに取り憑かれているのはどちらなのか、という疑問への。
「どうして……」
声が震えるのを抑えることができなかった。武藤さんはふっと表情を消した。感慨もなさそうに、十円玉を引き寄せて胸ポケットにしまう。置き去りにされた俺の指が祭壇に触れた。
彼女は少し迷うように小首を傾げたあと、ゆっくりと話しはじめた。
「昨日、私たちが呼んでもこっくりさんが来なかったんだ。知ってると思うけど」
語る温度は低い。俺たちのしたことを責めるでもなく、俺が知らん顔していたことを怒るでもない。それが返って不安にさせた。
「ここで、私たちとおんなじ方法で誰かが呼んで、きちんと帰さなかったんだ、って思った」
本当に、すべて把握されていた。
凍りついた俺の手のそばで、華奢な指が祭壇を撫でる。机に貼り込まれた紙の縁を辿り、刻まれた文字を気まぐれになぞっていく。何度も使うことを想定された、丁寧な仕事だ。
「じゃなきゃ、私のとこに来ないはずないんだよね。私のこっくりさんは、まだ終わってないんだから。こっくりさんは、私の呼びかけには答えなきゃいけないの」
武藤さんは俺たちを責めない代わりに、自分のかけた労力を示しているように見えた。こっくりさんのために作り上げた舞台に、愛おしげに触れてみせる。
「あ、わかってるよ。わざとじゃない、失敗しちゃったんだよね。帰さなかったんじゃなくて帰せなかった。でしょ?」
俺は何も言っていないのに、武藤さんはひとりで会話を続けてしまう。台本を読むように、俺の台詞を飛ばして話を進めてしまう。
「大丈夫、そこは怒ってないし。正直、そこまでは予想どおりだったんだ。『対処』する自信もあった」
丸い瞳が一度机を見下ろし、再び俺を映す。
「きまりを破るとしたら、臨城くんだと思ったからね」
つき合ってくれてありがとね。
最後にいつもの顔で笑った武藤さんは、振り返らずに部屋を出ていった。俺の返事など、まるで期待していないようだった。
俺が返事をできないことなど、お見通しのようだった。
◯
本気で走った。目指すは屋上だ。
武藤さんの姿が消えてすぐ、我に返って七森にメッセージを送った。「武藤さんにばれた」と。返事どころか既読もつかない。十秒待って見切りをつけた。どうせ居場所は屋上だろう。部屋を飛び出す。
俺が空振りだったのだから、武藤さんは次は七森に会いにいくだろう、という単純な考えだった。武藤さんが七森に何かすると思ったわけではないが、放っては置けない。そもそもあいつがこっくりさん対策をちゃんとしているかも心配だ。
一刻も早く合流したい。
その思いで校内を駆け抜けてきた足が、屋上に続く最後の階段、その踊り場を切り返したところで止まった。
扉の前に、ぽつんと小さな直方体が置かれている。
「——」
お茶。相談者か。
「………」
本当に?
不安が膨らむ。待つか否か迷う。だめだ。待っていられる気がしない。扉の向こうにいるのが普通の相談者なら申し訳ないが、割り込んでしまおう。覚悟を決めて疲れ切った足をもう一度持ち上げようとしたとき、屋上の扉が開いた。出てきたのは女の子だった。重い扉が閉まる音を背景に、小柄な影がお茶を回収して、顔を上げる。そこで彼女も俺に気づいたようだ。
「あ……」
どちらの声だったのかはわからない。視線は一瞬だけ交わり、すぐに逸らされた。足早に階段を降りてくる。
武藤さんではない。
だが、俺のそばを足早にすり抜けていった横顔には見覚えがあった。誰だ。瞬く間に頭のなかが顔でひしめき合う。答えは思ったよりすぐに出た。
「……——」
武藤さんのこっくりさん仲間だ。
にわかに背筋が粟立つ。階段を駆け上がり、扉を蹴り開けた。
「七森くん!」
「うぅわびっくりしたー」
給水塔の影から、暢気な声が聞こえた。七森だ。転げるように回り込む。
息を切らして見下ろすと、七森はつり眼を丸くしていた。
「どうしたの、臨城くん……ひかりちゃんと何かあった?」
俺の剣幕に驚いたのだろう、ぎゅっと身を縮めている。一見して異常はない。緊張の糸が切れ、どっと膝をついた。床に突っ伏す。
「むと……っ、こっ……お、前……さっきの……っ」
「大丈夫? とりあえず座りなよ。あ、こっちから撮ってるから、そっちに」
顔を上げたすぐそこにスマホが立てられていた。きちんとこっくりさん対策がされていたことに、まずはひとつ安心する。しかし、聞きたいことも伝えたいこともまだまだ山ほどある。力を振り絞って立ち上がった。
「……っ……っ」
「結構早かったね。こっくりさん、来た?」
首を横に振って、スマホの反対側に腰を下ろす。ぬるい。日に温められたのではない、人間の残していった温度がズボン越しに伝わってくる。
「は……ひぃ……っ」
「ひかりちゃんは俺たちのしたことに気づいてた?」
首を縦に振る。心配そうに様子を窺う七森の手には、涼しげな水色の金平糖が詰められた袋が乗っていた。俺の視線に気づいた七森が差し出してくるが、今度は首を横に振る。鞄からペットボトルの茶を取り出して呷った。心臓が痛い。
「………」
「取り憑かれたのが俺のほうだってことは、やっぱりばれちゃったかな」
首を縦に振る。メッセージは見ていないらしい。相談者がいたからか。思い返せば俺といるとき、七森はスマホを見ない。
「それで、心配して急いできてくれたわけだね。ありがとう」
「……俺の説明すること、なくなっちゃっただろうが!」
ようやく整った息で、喚いた。半眼で睨むと、七森はにんまりと笑って金平糖をひとつ口に放り込む。その仕草に教室で見たときと変わったところはない。やばい幽霊に取り憑かれているくせにどこかのんびり構えている七森だった。
「じつはちょっと心配してたんだよね。ひかりちゃんが無茶なことするとは思ってなかったけど、こっくりさん自体は割とガチめなやつだったから」
「そこんとこ心配するのは俺のほうだろ。お前はなんもなかったんだろうな」
首に巻かれた包帯はきちんと巻かれている。掴まれたり引っ掻かれたりした形跡はない。その下で薄い肩がひょいとすくめられた。
「見てのとおりなんもないよ。見ててくれる子もいたしね。その辺ですれ違ったと思うけど」
「あっそれ! それだよ! あれ……っ」
「まあ、一回落ち着いて」
痩せた手が押しとどめてくる。汗をかいた身体に不満がとぐろを巻いた。俺の気が急いていることなどお見通しだろうに、優しげに整った顔はいつもの穏やかな笑みを向けてくる。
「まずはそっちの話から。臨城くんの眼から見てどうだったか、詳しく教えて」
「えぇ……」
すでに伝わっていることを説明するよりも七森側の報告を聞きたかった。どう過ごしていたのか、こっくりさん仲間とは何を話していたのか。しかし、柔らかく細められた眼で促されると、自然と口が開いてしまう。
「……どうったって……別に、予想どおりだよ。社会科準備室に連れてかれて……それで……」
さらっと済ませようと思ったのに、語り出すと途端に言葉が散らかりはじめた。七森は穏やかに頷いてみせる。聞いてるよ、と示してくれる。抗えずに、舌が滑りはじめる。
「なんか、武藤さんいつも通りで、別になんか、隠す気もなさそうで……っ」
走っている間は忘れていられた衝撃が、記憶をたぐるたびに戻ってくる。声が震えてしまう。
自分が意外なくらい動揺していたことに気づく。
七森は僅かに眼を見開いた。情けなさに顔を伏せるが、一度決壊したものを留められない。
準備は彼女が全てしたこと。あの祭壇でこっくりさんをしたこと。武藤さんは何度も何度も呼ぼうとしていたこと。何度呼んでも十円玉は動かなかったこと。それから。
「……十円玉から手を離したのは、俺だと思ってた、って」
全部見通した上で、俺を観察していた。驚きも落胆も、責める言葉すらなかった。予想が外れたな、と、それだけだった。俺が相手なら「対処」できると思っていたのに、とそれは少し残念そうだったが、そんなことはとりあえずどうでもいい。
そんなことよりも。
「こっくりさんはいなかったのに、元に戻ってなかった……!」
それどころか、もっとずっと、遠い人になってしまったような感じがした。
「………」
吐き出し切ってしまうと、もう言葉が出てこない。胸には、軽くなったぶんだけ虚しさに似た寒々しい感覚が居座った。ため息がこぼれる。
「……とりあえず、そんな感じだった」
吐き出した言葉を振り返ってみると、昨日までの成果が出ていないばかりか俺はびびって右往左往しただけだったことまでわかってしまった。やるせなさに悔しさが上乗せされる。何やってんだ俺は。
「……そっか」
ぽつ、と七森が応じた。音にすれば短いが、自分の失態を告白したばかりの俺には重い。しょげている場合ではない。全力疾走の疲労がのしかかる全身に力を込めて、顔を上げた。
「——……」
七森はやはり、俺を見てはいなかった。
「ひかりちゃん、思ったより強火できちゃったんだなあ……引き止めるか、いっそのこと空気読まずに俺も参加しちゃえばよかったね」
七森は項垂れていた。細い首に巻かれた包帯が、初夏の空を映して青い。表情の薄い横顔だった。それでも笑みとも呼べない程度に持ち上げられた唇の端には、後悔が覗いている。
明言こそしなかったが、謝っているも同然だった。
「……あのなあ」
口が苦く歪んでしまう。
「ここは俺を責めるところだろうが!」
「ええ?」
全力で突っ込むと七森は跳ねるように顔を上げた。わけがわからないと書いてある。言葉を失う七森に、鼻を鳴らした。
「せっかくこっくりさんについて聞くチャンスだったのに、とか、いっそ問い詰めてこいよ、とか、もっと言うことあるだろうが!」
何を慰めようとしているのか。朝の太々しさはどこにやった。
「たしかに武藤さんの俺の扱い、ショックはショックだし普通に凹むけど、お前が気にするべきとこそこじゃねえだろ。殺されそうなんだぞお前」
黒い瞳はじっと俺を見つめてくる。半ば睨むように視線を返す。そこまでしてやっと、いつもの柔らかい笑みが戻ってきた。
「……たしかに。昨日はあんなに活躍してたのに、今日どうしちゃったの?」
「めちゃくちゃびびって何にもできませんでした!」
「幽霊相手には根性見せてくれた人が?」
あはは。
笑ってくれるが、幽霊相手だからこそ根性を見せられたと言ってもいい。命の危険がないときの俺など、こんなものだ。
「今後に期待してくださいよ、ったく……」
立てられているスマホに視線をやる。インナーカメラを使っているようで、録画画面がこちらからも見える。奇妙なものは映っていない。ただひとしきり笑った七森が水色の星を口に運ぶ様子が記録されていた。かりこりと微かな音が、鼓膜をくすぐる。
「……で?」
「うん?」
俺の報告が終わったことは察しているだろうに、何も話そうとしない。予想通りだからそこに不満はない。待つだけ無駄だということはこの数日で学んでいた。
こいつ、相談を受ける側に慣れきってしまって、自分からは何も話さない。
「お前のほうはどうだったんだよ」
「ああ」
促すと思い出したように顔を俺に向けた。やはり忘れていたようだ。画面のなかに丸い後頭部と顰めっ面の俺が映し出される。
「いつもどおりナナモリさんをやってたよ」
金平糖の袋を軽く振ってみせた。今日のお供物なのだろう。鈴を振るより密やかな音が耳を打つ。
「報告が雑すぎるんだわ。秘密主義っつーか何つーか……」
給水塔に寄りかかってじっくり聞く体勢を整えると、スマホは七森の影に隠れてしまう。現実のほうで視線がぶつかり、七森は首を傾げた。本気で心当たりがなさそうだ。無防備にすら見えるその鼻先に、人差し指を突きつけた。
「さっきの、武藤さんのこっくりさん仲間だろ」
ひゅ、と息を呑む音が響いた。切れ上がった瞼のなかで、黒い瞳が俺の指先と顔とをゆっくりと往復する。
「……臨城くん、人のことよく見てるねえ」
いたずらのばれた子どものような笑い方だ。
「なんか言われたか? 大丈夫だったのかよ」
話題逸らしには乗っからず追求する。七森は薄く唇を開き、しかし何も言わずにふらりと瞳を彷徨わせた。
「——……うー……んと、ねえ……」
薄汚れた床を見て、俺を見て、金平糖の袋を握った手許に視線を落とす。薄い身体を丸めると、口許は立てた膝に隠れてしまった。
「……なんていうか……本当に、ただ相談に来てただけなんだけどねえ……」
「こっくりさん派が、今、わざわざ、ほかでもないナナモリさんに、したい相談ってなんだよ」
関係ないわけないだろう、という圧をかけると、七森はやんわりと首を傾げて言い澱みつつも、口を開いた。
「……ひかりちゃんが、心配なんだってさ」
意外な内容だった。
「ど……ういうことだそれ?」
受け取り方に迷う。俺の相槌をどう解釈したのか、七森は観念したようにつけ足した。
「ひかりちゃん、こっくりさんが来ないの、結構ショックだったみたいっていうか……」
「……予想してたみたいだったけど」
「ホラー映画でもさ、来るぞ来るぞーって思ってても、来たらびっくりするし怖くない?」
「それはちょっとちがうだろ」
「ちょっとちがったね」
あはは。
笑い飛ばす声を聞きながら、考える。
武藤さんが落ち着いているように見えたのは、七森にも仲間を差し向けていたからだろうか。俺のほうが空振りでも仲間がうまくやってくれると思っていたのか。こうして話している今も武藤さんが現れないのはそのせいか?
筋は通るが、どこかしっくりこない。七森の口ぶりには、そんな物々しいやりとりが交わされた気配はない。
「……それで、こっくりさんを返せって?」
背中を預けた給水塔が、火照った身体に冷たい。
「そうは言ってなかったよ」
七森の返事は曖昧だ。こんな状況にも関わらず、他人の悩みを勝手に共有するのは気が進まないのかもしれない。ただそれ以上に、他人を無闇に疑わせるのは気が咎めたらしい。袋詰めの金平糖に眼を落とし、ぽつりとつけ足した。
「ただ……『自分に何ができるだろう』ってさ」
返事に詰まった。
それは梅雨の間、俺も考えていたことだった。
武藤さんがこっくりさんを始めたとき、彼女が変わってしまったと思って、どうすればいいのかと悩んだ。結果、ナナモリさんに相談した。俺と同じことを、ちがうタイミングでさっきの女の子はしたということだ。
俺より武藤さんの近くにいるはずのあの子は、こっくりさんが来なくなった「今」こそ、武藤さんの変化を感じたということだった。
俺の好きだった彼女と、変わってしまった彼女が、重なろうとしている。
嫌な想像が戻ってくる。それが「想像」では済まなくなってきていることを、俺はもう理解してしまっていた。
「そ、……っか……」
どう受け取るべきか、何をすべきか。そもそも、どこを目指せばいいのか。
情報が入り乱れる頭はただただ重たく空回りをした。
「……臨城くんはさ」
ふ、と七森の声に無意味な思考を断ち切られる。知らずうつむいていた顔を上げた。七森は珍しくこちらを見ていた。しかし視線がぶつかると、ふいと顔をうつむけて手許に眼を落とす。こっくりさん仲間の女の子が持ってきたという、夏の空を映したような青い砂糖菓子に静かな眼差しを注いだ。
「臨城くんは、今も、元のひかりちゃんに戻ってほしい?」
やはり、心を読まれているな、と思った。
俺が今日の相談者と自分を重ねたことを、見透かされた。そのせいで揺らいだことまで、きっとばれてしまっている。ただ、俺に気持ちの整理を促す一方で、七森自身もどこか迷っているように見えた。
相談の根元が揺らぎはじめた今、俺がどうしたいのか、俺の口から聞きたがっているようだった。
「………」
一昨日、チョコレートを受け取ってくれた手を見た。昨日、こっくりさんに掴まれていた首を見た。
「……俺は……」
最初こそ渋ったが、七森はひどいめに遭っても、「助けてくれ」と言った俺につき合ってくれている。ここまでつき合わせたのだから、今さらやめるなんて言えない。いつもの俺なら、きっとそう判断する。
「………」
だけど頷けなかった。
ここまで真面目につき合ってくれたからこそ、そんな理由で頷くのはだめだと思った。そんないい加減なこと、七森相手にしたくなかった。
貸しとか借りとかではなく、自分がどうしたいのかを考える。たしかに「武藤さんをなんとかしたい」と思ったのは嘘ではないし、今も変わりない。
だが。
「………わかんねえ」
その気持ちを今もまだ「元の武藤さんに戻ってほしい」と表現していいのかは、わからなかった。「なんとかしたい」に「七森を助けたい」も加わって、いっそう気持ちの輪郭がわからなくなっていた。
「ただ、前みたいに、楽しそうに笑ってくれるようになればいい、と思ってる」
今も断言できるのは、それだけだ。
七森は砂糖菓子から眼を逸らし、再び俺に視線を据えた。つり眼がじっと見つめてくる。黒い瞳は濃い影のなかでも瞬きのたびに光を拾う。
やがて小さく頷いた。
「……そうだね。俺もそう思う」
優しげに整った顔に、柔らかな笑みが戻った。こちらの肩の力を抜くような、曇りの晴れた笑い方だった。ぐっと痩身を伸ばして、天を仰ぐ。俺を見ていた眼が空の青を映して、瞳の境を曖昧にした。
「ほんじゃ、できる限りのことはしてみるかあ。さっきの子にも頼まれちゃったしねえ」
その口ぶりは優しいが、どこか吹っ切れてしまったような明るさをはらんでいた。
「……七森くん取り憑かれ問題も、何とかするぞって思ってるからな、俺は」
思わず言い添えると、七森はにんまり笑って視線をよこす。
「知ってる。頼りにしてるよ」
伸ばした身体を縮めて鞄とスマホを拾い上げると、すっくと立ち上がった。
「ほんじゃ早速、次の作戦会議しよっか」
×
しばらく、動けなかった。
こっくりさんが消えてひとりきりになった社会科準備室には、再び雨の音が侵入してきていた。細く開けた窓からはぬるく湿った風が吹き込んでくる。雨足は激しさを増したようで、軒で跳ねた雫が古いカーテンにぽつぽつと水玉模様を描いていた。
彼女が——こっくりさんが見せた表情には、見覚えがあった。
中学生のころ、親からもらっただけのこの顔にあの眼差しを向けられたことがある。
調子に乗るな、と吐き捨てる顔に、いつも貼りつけられていた表情だ。
「……そうか」
不快なまでに率直な回答は、そういうことか。
傷つけるようなお告げの数々は、そういうことか。
「あー……そう、そういうことかあ……」
正直さではなく、単純に攻撃だったのだ。
調子に乗った女がひとりでこっくりさんなんてイタいことしてるから、おもちゃにしてやろうという、そういうことだったのか。
手許を見下ろす。無駄に真剣に用意した文字盤がある。
「何やってんだか……」
予定どおりの言葉を口にする。声は潤んでいて、無様だ。笑い飛ばすことはとてもできそうにない。何も起きなければできたはずのことが、今はできない。自虐のためのくだらない遊びだったのに。ひとりだったら笑えたはずなのに。
こんなの、笑えない。
「あーあ」
どこまで狙ったものかはわからないが、私を傷つけたかった彼女は今ごろ高笑いでもしているだろう。顔を見られた不快感も上乗せされて、嘲笑は苛烈を極めているにちがいない。勝手に同一視したり崇めたりして、やっぱり馬鹿な女だ、と。
想像して、やっと笑えた。想定していたよりも余程卑屈な笑いが洩れた。かけた時間の分だけ滑稽さが増してくる。
今日はもう、帰ろう。
自己嫌悪を無理やり打ち切って片づけを始めようとした。
そのとき、気づいた。
「——」
十円玉はまだ私の指の下にある。冷えた肌と同じ温度で、「はい」と「いいえ」の間にとどまっている。
「……あはは」
その意味するところに気づいて、笑いがこぼれた。それはさっきよりずっと明るくて、嫌な笑いだった。唇が嗜虐的に歪む。
「やっちゃったね、こっくりさん」
こっくりさんが帰るまでは十円玉から指を離してはいけない。
もっとも有名なきまりだ。破った者には数々の災難が降りかかる。それは何も、呼んだ人間にだけ適用される規則ではないだろう。彼女だって参加者なのだ。わざわざ、これ見よがしに参加してきたのだ。
「そっちが先に仕掛けてきたんだからね」
私で遊ぶためだけに。
「今度は私が遊ぶ番だよ」
気が済むまでは、終わらせない。
十円玉を胸ポケットにしまい、美術室へと向かった。
梅雨が終わる、前の週のことだった。
×
「こっくりさんを真っ向から説得するのは無駄だろうなって思うんだよね」
七森の前には、初手で苺を食われたショートケーキがある。今日のお供物だ。
充電的にも容量的にも四六時中スマホで録画し続けるのは現実的ではないということで、駅前のファミレスに来ていた。ここなら他の客の眼に加えて防犯カメラもある。それでも俺が安心できず、窓際の席に座った。晴れた駅前は人で賑わっている。眩しさに眼を細めた。
「まあ正直話になんない感じはあったよな……」
俺もドリアを頼んだのだが、すでに食べ切ってしまっていた。武藤さんとのこっくりさんで相当消耗していたらしい。我ながら驚くべき早食いだった。七森がちんたらとケーキを切り崩している前で、何となく薄い気がするコーラを啜る。ドリンクバーの支払いは各自だ。
「呼べば質問には答えてくれるんだろうけど、——……」
「殺意えぐいもんねえ」
「心読むなってば」
七森からは、いつもの「ただの勘だよ」は出てこなかった。ケーキに集中している。
「なんか、似たような怪談とかねえのかなあ……この際ホラー映画とかでもいいんだけど」
こっくりさんを呼ぶには人目を避ける必要がある。となると呼ぶ前後で襲われる確率は跳ね上がる。説得への切り札がない状態で呼んでみるのは自殺行為のような気がした。
そこでさっきから「こっくりさん」でネット検索しているのだが。
「日本人こっくりさんに呪われすぎだろ……」
帰ってくれないこっくりさんに困る話は山ほど引っかかった。しかし武藤さんのようにこっくりさんを奪い返そうとする勢力が登場する話となると見つからない。加えて、こっくりさん絡みの怪談は、取り憑かれた人が死んだり人格が変わったりするオチが多い。今の俺には絶望的な話だ。
「お祓い作戦……は、やっぱ最終手段だよなあ……」
「………」
じりじりとスマホの画面を指で擦り続ける俺をよそに、七森はじっくりとケーキに取り組んでいる。
「…………七森くん、なんかねえの」
どうにかその手を止める驚きの一手を打ち出したかったが、俺では歯が立ちそうにない。白旗を上げると、待っていましたとばかりに視界の端でフォークが下ろされた。
「じつは一個試してみたいことがあるんだよね」
「おい」
人のこと弄びやがって。
苦情を言うために画面から眼を上げると、自信ありげな眼差しとぶつかった。思わず唾液を飲み込んで、続きを待つ。
七森は唇の端をそっとつり上げた。
「名づけて、ひかりちゃんのこっくりさんを先に終わらせる作戦」
「おぉ……ぉ……? ……どういうことだそれ?」
どや、と効果音をつけたくなるような堂々たる姿で発表してくれたが、盛り上がりきれなかった。そのままとしか言いようのない名づけの一方、効果や目的はさっぱりわからない。素直に説明を求めると、七森はよくぞ聞いてくれた、とばかりに鞄から紙とペンケースを取り出した。ケーキの皿を脇に寄せる。
「まず、各勢力の要望を整理するとさ」
と、紙に丸を三つ書いた。何の紙かと思えば例によって数学の課題だ。提出する気がないのだろうか。
「俺たちはこっくりさんを終わらせたい、ひかりちゃんはこっくりさんを取り戻したい、こっくりさんは俺を殺したがってる」
丸のなかに「俺たち」「ひかりちゃん」「こっくりさん」と書かれる。筆跡は相変わらず力の抜けたのどかなものだ。
しかし。
「……いやおかしいだろ! なんっっっで七森くんを殺したがってんのマジで!」
ぐしゃりと頭を抱えてしまう。店のなかということで声を抑えるくらいの理性は働いたが、理不尽すぎる要望への苛立ちは抑えられない。セットが乱れるのも構わずに頭を掻きむしってしまう。そこへ、明るい声が降ってくる。
「それそれ、そこなんだよね。なんで、っていうとこ」
「ええ?」
前髪の隙間から見上げる。我が意を得たり、と頷いてくれるが、正解を引き当てた実感はない。痩せた指がシャーペンの尻をノックした。
「順番に説明するね」
七森がペン先を紙に走らせるのを覗き込む。
「まず、俺たちとひかりちゃんが対立してるのはわかるよね。俺たちとこっくりさんが対立してるのもわかる」
二つの丸の間に、両矢印が書き込まれる。鋒が二つ「俺たち」に向けられて、どきりとした。味方がいない心細さが胸を突く。怖気付いた俺を置き去りにして、鋭いペン先は、とん、と残る空白を突いた。
「じゃあ、ひかりちゃんとこっくりさんは?」
「俺たち」を狙う二つの丸の真ん中を。
「——……」
考えてもみなかった。
呆気に取られて空白を見つめていると、七森はシャーペンをフォークに持ち替えた。白い山が切り崩される。
「ヒントはちょっとだけあってさ」
先ほどまでとは打って変わり、ケーキを口に運ぶ七森の顔は思案げだ。
「ひかりちゃん、こっくりさんのこと怖がってなさそうでしょう」
咀嚼する口許をフォークを持った手で隠す。ころりと喉仏が動いた。
「こっくりさんが終わってないのは同じなのに、俺みたいにいじめられたりしてないし」
「……協力関係にあるってことか?」
声が上擦る。つり眼はこちらを見やって笑った。
「それがそうとも言い切れないんだよね」
安心させるように、柔らかく弧を描く。
「こっくりさんがひかりちゃんと仲良しなら、俺なんか殺してないでさっさと帰っちゃえばいいんだよ。俺だって帰ってほしいんだから」
でも帰らない。
その言葉でようやく、作戦名の意味がわかってきた。
「武藤さんはこっくりさんに戻ってきてほしいけど、こっくりさんは武藤さんのところに戻りたくない……?」
黒い瞳が細められた。
「『かわって』はさ、お前が代われってことなんじゃないかな」
お前が死んで、こっくりさんになれ。
半袖の腕に鳥肌が立った。
こっくりさんは俺たちのところから帰れば、また武藤さんに呼び出されてしまう。武藤さんの儀式が終わっていないからだ。こっくりさんはそれが嫌だから帰らないし、きまりを破ったせいで呪われた七森を幽霊にして身代わりに差し出そうとしている。
一方の武藤さんは、こっくりさんを取り戻したがっている。今日俺を誘ったのは、こっくりさんを呼び出して帰らせるつもりだったのだろう。俺たちの儀式を終わらせて、また自分の手で呼び出すために。
「……つまり、武藤さんのこっくりさんを先に終わらせれば、俺たちのところからも帰ってくれるかも、ってことか」
「そうそう。俺たちのところから帰りたくない理由をなくしちゃおうっていう作戦」
どうかな。
七森はゆるりと首を傾げた。傾げるついでのようにストローを咥え、メロンソーダを啜る。
筋は通っている、が。
「……武藤さん、終わらせてくれるか?」
元の武藤さんなら間違いなく助けてくれるが、今の彼女はどうだろう。乾いてくる喉へコーラを流し込みながら、七森に目配せする。七森はストローから口を離して首を傾げた。
「そうだねえ……」
黒眼はゆるやかに巡ったあと、俺のほうへ戻ってきた。固唾を飲む。
「……多少は粘られるだろうけど、なんだかんだ優しいからね、ひかりちゃん」
ほ、と肩の力が抜けた。
「だよな。さすがに七森くんの命がかかってるって聞いたら、助けてくれるよな」
七森も今度は確信を持って頷いてくれる。
「うん。話運び次第では、助けてくれる気がする」
「となれば、説得だな」
方針が決まると、肝が据わった。今日はびびるだけで終わってしまったが、仮説も目的も立っている今ならば、もうちょっとましな対応ができるだろう。いや、してみせる。
作戦立案に向けて脳みそに栄養をやろうとメニューを開いた。
「それなんだけどさ」
気合い十分の俺に、七森が神妙に挙手する。
「一旦俺だけで行ってみたいんだよね」
「ここでそうくるか!」
勢い余って呼び出しボタンを押してしまった。軽快な呼び出し音を背景に、七森が渋面を作ってみせる。
「俺たち二人でいくのはまずいと思うんだよなあ」
「何がだよ」
店員さんの近づいてくる気配がする。仕事が速い。迷う暇はなさそうだ。開いているページにさっと眼を走らせた。しかし苦い顔をした七森は悩む隙を与えてくれない。
「想像してみてよ、俺と臨城くんに武藤さんが囲われてるところ」
「ああ? そんなの……」
金髪の俺と、ピアスだらけの七森に詰められる華奢な武藤さん。
「………」
「事案でしょう」
「……事案だな」
ぐうの音も出ない。
決着のついたところへちょうど店員さんがやってきてしまった。反射的に口が「ドリアひとつお願いします」と動いてしまう。立て続けにドリアだ。何となく恥ずかしい。恨みがましく対面に視線を向けると、ショートケーキはもうほとんど残っていなかった。メニューを差し出してみるが、七森は首を横に振る。制服を着たお兄さんはそれだけで了解してくれたらしく、完璧な笑顔を残して厨房へと立ち去っていった。
「ドリア好きなの?」
「……好きだよ」
「反射で頼んじゃうくらいに?」
「そうだよ俺はドリア党なんだよ! それは今はどうでもいいんだよ!」
からからと笑う七森に歯噛みする。撹乱されたが、議論はまだ終わっていない。俺が説得に行くという選択肢だってあるはずだ。まっすぐ伸びたお兄さんの背中から、正面に向き直る。
「それより——……」
そこで頭が冷えた。シャツの襟と尖った顎の間の包帯が、眼に止まった。
「………」
「どうかした?」
「……や、俺が言うのもあれだけど、眼に見える被害があったほうがいいこともあるかもなって……」
七森の判断は合理的だ。二人で行くべきではないことも、七森が行ったほうがいいということも、たしかに理にかなっている。
「でしょう」
ほらね、と言わんばかりの笑みには思うところがないではない。心配なことにも変わりない。正直「お前なあ」なんて言葉が喉元まで出かかった。
だけど、七森は俺に黙って単独行動することだってできたのに、そうしなかった。
俺の機嫌を取るために二人でできることを提案しようともしなかった。つまり、俺への説明や説得の面倒を承知の上で、一番いい作戦を共有してくれたということだ。
「………」
その意味がわからないわけではない。
「……そうだな」
それなら俺も、気持ちだけで反対するわけにはいかなかった。無理に割り込むよりも、ちゃんと助けになることをしたい。
「任せてくれるの?」
素直に頷いた俺に、つり眼が少し丸くなる。もう少し手こずると予想していたのだろう。残念ながら、今回は読みきれていない。自然と唇の端が上がった。背もたれに身を預け肩をすくめて見せる。
「『武藤さん』の俺より『ひかりちゃん』の七森が行ったほうが話が早いかもしれんし」
「その自虐、笑いづらいよぉ……」
「笑えよ逆につらいわ」
大袈裟に項垂れる。軽やかな笑い声が鼓膜をくすぐった。顔を上げれば、正面にいる七森と、ちゃんと視線が合う。
「交渉は七森くんに任せる。頼むな」
「……ありがとう。任せといて」
きちんと対策したおかげで今日は何も怖いことは起きなかったが、七森は送られてくれた。ちょっと嫌そうに、だけどときどき俺を振り返りながら。
◯
まさか授業をサボるとは思わなかった。
翌日、二限目のあとの休み時間。ひょいと席を立った七森は武藤さんのそばにいき、小さな声でひと言ふた言かけていた。作戦開始か、と身構えたのだが、軽く頷いた武藤さんは友だちに声をかけて一人で教室を出ていってしまった。七森は七森でそのまま席に戻ったから、約束でも取りつけたのかな、なんて思っていた。しかし三限めが始まってみれば、武藤さんは戻ってきていないし七森まで姿を消している。
なんだその待ち合わせスキルは。
一応七森に方針は聞いていた。しかし「状況次第でふんわりかなあ」とのことで、具体的なことは何もわからなかった。誤魔化しているのかとも思ったが、どうやら本人もわかってなさそうだったので仕方なしに様子を窺っていたら、これだ。
すでに教師は来てしまっていたので、慌てて俺も急遽腹痛を起こし、保健室に行くことにしたのだった。
任せると言った言葉に嘘はない。
しかし内容が内容だ。少なくとも人目につかないところで話すことになるだろうし、そうなれば当然こっくりさんの襲撃を受ける確率も上がる。交渉を円滑に進めるためにも、こっくりさんが出ないように隠れて見守るつもりでいた。今回の俺の役割はそれだろうな、と。ただ七森に言えば「手厚すぎる」とか言ってかなり嫌がるだろうと踏んで、本人には内緒でやるつもりだった。
こんなことなら、嫌な顔をされてでも打ち合わせしておくべきだった。
自分の迂闊さに歯噛みしつつ、授業をしている他クラスの眼を逃れ、足音を忍ばせて二人の姿を探す。どこで交渉するのかすら知らされていなかったが、サボって話のできる場所など高が知れている。心当たりを順番に当たっていってもすぐ見つけられるだろう。こっくりさんの襲撃に間に合うかどうかは俺の移動速度と運次第だ。
そう判断してまず屋上に向かったのだが、辿り着く前に足が止まってしまった。
「例の机と十円玉、始末して」
「絶対にいや」
低く、冷たい声だった。
それは屋上に向かう最後の階段、いつもお茶が置かれているあたりから聞こえた。反射的に踊り場の手前でしゃがみ込み、息を殺す。階段に沿って斜めに切られた壁の向こう、眼の前の踊り場を折り返した先に、人がいる。
「俺めちゃくちゃ困ってるんだけどなあ」
七森の声だ。
「私もめちゃくちゃ困ってるんだよね」
こっちは武藤さんの声。
「さすがにそっちは命かかってないでしょう」
「そっちこそ好きで首突っ込んできたくせに」
間違いない。二人の声だ。一発で正解を引けるとは思わなかった。だけど安心も喜びもない。じわじわと背中に汗がにじみ出す。
「見てよこれ。ひっどい傷でしょう? 俺が死んだらひかりちゃん、不便じゃないの」
「自分の不都合を私に押しつけるのやめてくれない? 死にたくないなら一緒にこっくりさんしてって言うならつき合うけどさ」
「それで俺のほうからこっくりさんを帰らせるってわけ? アレに言うこと聞かせる自信あるとか怖すぎでしょ」
「話すり替えるの、いい加減にしてほしいな。別にこっちは明くんがこっくりさんになってくれてもいいんだけど?」
「ほんとに? 俺がひかりちゃんの質問に真面目に答えてあげると思ってるの? 可愛いとこあるんだね」
これは、誰だ。
ふたりの声には、遠慮が感じられなかった。だけどそこに「気が置けない」とか「親しげ」とか、そういった甘やかさは一切ない。どこかで聞いた、感じたことのある、薄暗さをはらんでいる。
冷たく、刺々しい。
「………」
教師に見つからないよう気配を殺していたのが幸いして、俺の存在は二人にはバレていないようだった。苦しく脈を打つ心臓を押さえながら、耳を澄ませる。おそらく階段を椅子代わりにして話をしている。今から死角を取って見守るのはまず無理だ。であれば、異常があったときすぐに助けに入れるよう近くで備える以外、できることはない。
だから、これは、盗み聞きなんかじゃない。
「……明くんて、そういうとこほんと性格悪いよね」
「だからうまくいってるんでしょう、俺たちは」
「性格いい子は『特別仲のいい異性のふり』とかやってらんないって?」
「そうそう。ひかりちゃんのこと、好きになっちゃう」
「気色悪」
「口悪」
あはは。
いつもの笑い方。しかしひどく乾いて、空々しい。どんな顔をしているのか想像もつかない。手すりの下に身を縮めて、動けない。手足が冷たくなっていく。
すぐそこで言葉を交わしているのは、本当に俺の知っている二人なのか?
確認することはできなかった。顔を出せば見つかってしまうということだけが理由ではない。
今の二人を見るのが怖い。
「話を戻すよ。明くん、死にたくないならマジで私とこっくりさんしなよ」
「それでこっくりさんを脅して鳥居からお帰りいただくの? こっわ」
「冗談じゃなくてさ。その傷、結構グロいよ。次は本当に殺されちゃうんじゃない? か弱い君じゃあさ」
「それはそうなんだけどねえ」
「明くんは助かって、私はこっくりさんを取り戻せて、誰も損しないじゃん。何が不満なわけ?」
「不満はないんだけどねえ」
重いため息。
「ひかりちゃんさあ、こっくりさん取り戻したら、また無料相談会するわけでしょう」
「やめる理由がないもん。今のところ解決率十割だからね」
「取り囲んで質問責めにして答えろ答えろってするんだ」
「なーんかやな言い方。身内向けのナナモリさんみたいなものでしょ?」
「こっくりさんも身内にカウントしてあげてる?」
「何それ?」
武藤さんの問いは皮肉げだった。それを受ける唸りは思案げだ。ここ数日で何度も聞いた、鼻歌のような甘い響き。しかし七森の次の言葉が、空気を凍らせた。
「……俺ねえ、こっくりさんの気持ち、ちょっとわかってきちゃったんだよなあ」
「——」
「ひかりちゃんだって、わかってるよね」
は、と息を呑む音がする。二つ重なった音のうち、ひとつは俺の喉から漏れたものだ。しかしふたりに気づいた様子はない。武藤さんは答えない。七森の甘い声が、棘を孕んで続けた。
「美人でかわいいのにさっぱりしてて人懐っこくてすっごく優しい武藤さん、なら、わからないわけないよねえ?」
いいかっこしてるうちに頼りにされすぎて身動き取れなくなっちゃったモノの気持ちがさ。
ひどく、嫌みったらしい口ぶりだった。
痛いほど空気が張り詰める。緊張の糸を揺らすように、再び、は、と息が喉を通る音が響いた。
「……なるほどね」
それは笑い声だった。短くとも疑いようのない、嘲笑だ。
「イケメンで変わり者なのに穏やかで真面目ですっごく優しい七森くん、は、こっくりさんも救ってあげたいってわけだ」
ふ、と思い当たった。
この会話は、俺の一人反省会に似ている。布団のなかで自分の言動を一つ一つ点検していくときの、嫌な暗さ。あの感じが、漂っている。
「こっくりさんの気持ちがわかるって?」
「うん」
二人の語り口は、とてもよく似ていた。
「こっくりさんがかわいそう?」
「そうそう」
どちらがどちらの言葉がわからなくなりそうなほど。
「だから終わりにしてあげたいの?」
「そうだよ」
同じ温度で、痛い言葉をぶつけ合う。
「笑わせないでくれる?」
弱みを知り尽くしているから、的確に傷つけられる。
「こっくりさん、別に君に『助けて』とか言ったわけじゃないんでしょ? ただ首をへし折ろうとしてきただけでさ。それを明くんが頼まれもしないうちから解決してあげようとするとか、有り得ないわ。自分から首をへし折ってあげたいーっていうならありそうだけどね」
「……めっちゃ言うね」
「言うに決まってるでしょ。嘘つき」
「………」
言われたくないことなど、すべてお見通しだ。
「頼みごとするときくらい、本音で話したら?」
二人の会話は、自問自答だった。
七森と武藤さんを「近い」と思うことは何度かあった。それは距離だったり、筆跡だったりしたが、本質はそこではなかった。
もっと根本的なところで、二人はよく似ていた。
他人と関わるときの距離感、声の響かせ方、こちらの気持ちに寄り添う立ち回り。
何より、心を見透かす眼差しが。
この無遠慮さは、お互い見透かされているのがわかっているからこそのものだった。防御も誤魔化しも建前すらも通用しないと承知しているから、全部放棄して剥き出しで殴り合っている。俺に割り込む隙などありはしない。
——一旦俺だけで行ってみたいんだよね。
すくみ上がった耳許に、七森の声が甦る。聞いた当初は信頼から出た言葉だと思った。
「………っ」
あれは、戦力外通告だったのではないか。
二人の間には沈黙が横たわっている。七森が押していたように見えた空気は、すっかり反転していた。武藤さんが返事を待ち、七森は何も答えない。ただかすかに、言葉になりきらない吐息がいくつも薄暗い空気を震わせていた。
不意に、上履きと床の擦れる音が重苦しい静けさを破る。
「『こっくりさんを助けたい』っていうのを本音にしておきたいなら、私の返事は『お断り』だよ。そんな嘘のために友だちを裏切れない」
武藤さんが立ち上がったらしい。降りてこられるとまずい。咄嗟に腰を浮かせた。
「っ待って!」
きゅ、と床を踏み締める音がした。進もうとして立ち止まった音だ。掠れた呼吸が、二度、三度。武藤さんは急かさない。気がつけば、俺は壁にぎゅっと身体を押しつけていた。耳を澄ませる。もう、何を聞こうとしているのか自分でもわからない。何が聞きたいのか、わからない。壁の向こうでは曖昧な音が続いている。床とゴム底の触れ合う音がかき消す。
「言わないなら戻るけど」
途端、鋭く息を吸う音が鼓膜を突いた。
「ッ臨城くん!」
なんで。
「臨城くん、が……」
なぜ、俺の名前が出る。
「……って、いうか……臨城くん、て、さ……いいやつ、なんだよ」
「………っ」
声も出せない口を、手のひらで覆う。俺の動揺が静まるのを待たずに、七森は言葉を重ねる。
「本気で『武藤さん』のこと、心配してる。君が変わっちゃったんだ、って、すごく心配してるんだ」
「——」
頬が鋭く痛んだ。口を抑える手が、爪を立てている。
「君が楽しくなさそうなことが、臨城くんは自分のことみたいに苦しいんだよ」
なんで。
「俺はそれを、何とかしたくて、だから……っ」
どうして。
「……だから、例の机と十円玉、処分してください」
どうして、七森が交渉の場に俺を連れてこなかったのか。
俺が足手纏いだからですらなかったと、わかってしまった。
——今も、元のひかりちゃんに戻ってほしい?
——ほんじゃ、できる限りのことはしてみるかあ。
——なんだかんだ優しいからね、ひかりちゃん。
あいつは、俺が剥き出しの「武藤ひかり」を見ないで済むように遠ざけやがったのだ。
俺を元通りの能天気な日常に戻してやるために。
「………ッ」
奥歯が鈍く音を立てた。体温を上げているこの感覚が、何なのかわからない。侮られたことへの悔しさか。それとも勝手な思い込みだったと突きつけられた恥ずかしさか。
「七森に信頼されている」なんて、思い込みだった、と。
「……それが本音なら、私の返事、わかるでしょ?」
武藤さんの返事が遠くに聞こえる。
「七森くんは、できる? 臨城くんに言える?」
「………」
「友だちにさ、『わからない』『できない』って、今さら言える?」
「……それは……そう、だねえ……」
「私も一緒。だからこっくりさんは終わらせない。絶対取り返すから」
そっちも頑張って。
熱くなった頭がぼんやりしていた。足音が近づいてくるのに、動けない。やがて眼の前で紺色のスカートが揺れた。びくりと動きを止めた二本の脚を辿って視線を上げる。大きな瞳が俺を見下ろしていた。
「——……」
武藤さんは何も言わず、下手くそな笑みだけ残して俺の横をすり抜けていった。
きゅ、と小さな音が耳を打つ。音は前から聞こえた。ほどなくして、ひょいと小さな顔が覗く。武藤さんの動きを不審に思ったのだろう。不思議そうなつり眼が覗き込み、俺を捉えた。
視線が重なる。
「——」
七森の顔がみるみるこわばっていった。
◯
鐘の音が聞こえた。四限めが始まったらしい。
正午間近、給水塔の影はひどく短い。それでも膝を抱えた七森を収めるには十分だった。薄い身体を小さく畳んで、黙りこくっている。いつもはふらっと消えてしまいそうなほど気配が薄いのに、今は鬱陶しいほど存在を主張していた。全身で俺の様子を窺っているのが、手に取るようにわかった。
あの七森が、動揺していた。
盗み聞きしていたことがバレた瞬間、後ろめたさよりも逃すまいという気持ちが前に出た。その場に立ちすくむ七森の腕を掴み、屋上へと引き摺り出した。長くしゃがんでいたせいで痺れているはずの脚は、奇妙なほど効率的に動いてくれた。お互い、ひと声もあげなかった。
隣で小さく丸まっている姿と、さっきまで他人に尖り切った言葉を投げつけていた声がつながらない。かといって穏やかに俺の話を聞いてくれた同級生とも、甘いものや怪談に眼を輝かせていた男とも、重ならない。
姿の同じ、ばらばらの存在のように思えた。
「……盗み聞きして悪かったよ」
ようやく絞り出した言葉が、これだった。どうにか冷静に話をしようとしていた。しかし、呟くような謝罪ひとつに七森は大袈裟なほどに飛び上がった。
それをきっかけに、全身を渦巻いていた未整理の感情が一気に苛立ちへと収束する。
「けどお前——」
反射的に口をつぐもうとしたが間に合わない。
「——俺のこと、なんだと思ってんの」
同じような台詞を、前にも七森に言った。あのときは冗談にできた。だけど、これはできない。そんな温度感ではない。どれほど飲み込んでも、言葉は次から次へと湧き上がってきた。
「見せらんねえもの勝手に判断して、俺が納得するような理由用意して、遠ざけてさあ」
言い募るほど、七森が身体を丸める。視界の端で小さくなる。唇を引き結ぶ横顔は青ざめていた。その反応の一つ一つが、俺の推測が単なる被害妄想ではなかったと証明していた。頭の片隅で、もうやめておけと声がする。
「俺は子どもか? 守ってあげなきゃいけない赤ちゃんか?」
いつもの俺なら言えなかった。臆病で当たり障りない俺なら、こんなこと言わなかった。だけど口を動かすほどに頭の芯が熱く、白くなっていく。自分の言葉が、自制心を焼き切っていく。
「助けてくれてありがとう、って、あれは『お手伝いよくできたね』って、そういうことか?」
眼の奥が痛い。視界が狭まって、そばにいるはずの七森が見えなくなる。
「頼ったり任せたりできるって思ったのは、俺だけだったのかよ!」
返事はひとつもない。
「………」
吐き捨てた怒りは、独り言じみて響いた。
赤くなった視界が、ゆっくりと元の景色を取り戻していく。いつの間にやら耳を塞いでいた耳鳴りが引いていき、真昼の屋上に遠い生活音の混じった沈黙を重ねた。瞬きを忘れていた眼がひりつく。慎重に閉じて、開く。気を抜けば視界が歪んでしまいそうで、初夏の光を返す床を睨み続けた。
痛む喉で唾液を飲み込む。
「……何とか言えよ」
「何が聞きたいの?」
即座に返事があったことに、狼狽えた。気がつけば七森は静けさを取り戻していた。気配は薄く、平坦な声音からは何も読み取れない。思わず振り向く。
七森はいつもどおり俺を見てはおらず、口許に静かな笑みを浮かべて影の外を見つめていた。瞳は空の青を映して、ひんやりとしていた。
「——」
「そうだよ、って、最初から茶番だったよって、言えばいい?」
一番聞きたくない言葉だった。七森は止まらない。
「ひかりちゃんは変わっちゃったんじゃなくて、隠さなくなっただけなんだよって言ったら、納得する? なら最初からそう言ってあげればよかったね。ごめんね」
痩せた手が首を撫でる。包帯の上を往復する。瞳にふと影が差した。
「でも、ねえ? 臨城くん、覚えてるかなあ」
過去を辿るように、ゆるやかに視線を巡らせる。
「君が最初に相談してきたときのこと」
その眼差しがゆっくりと俺を捉えた。優しげに笑いながら心を読む、人を見透かす、鋭い眼が。
「臨城くん、武藤さんのこと、こう言ったんだよ」
好き『だった』子って。
「——」
「だから俺、相談乗るのやだったんだよ。こんなの茶番だなって、わかってたから」
薄々感じてはいたが、知らないふりをしていた。俺が自覚するより早く、七森は見抜いていた。
最初に話したときの、うっすら不快そうな眼差しが甦る。眼の前の七森の双眸と重なる。
「案外人って、人のこと見てないんだよ」
それが自分のことだってね。
「な、なもり……」
「臨城くんの好きだった『武藤さん』なんて最初からいない。君もそれに気づいてて、知らん顔してただけ。諦め悪く俺を巻き込んで誤魔化そうとしてただけなんだよ」
「七森、くん……」
「もう気が済んだでしょう。解決したってことにしてくれない?」
そしたらあとは、俺だけの問題だから。
「——……」
はっきりとした拒絶だった。
ぶつけられた言葉をすぐには飲みきれない。七森は説明しないし、もう待ってもくれなかった。軽い動作で立ち上がり、影の外へと足を踏み出す。俺の視界の外へと出ていく。
「じゃあ、お疲れさま」
重い扉の閉まる音が、遠くで聞こえた。
その日、社会科準備室から机が消えた。
こっくりさんが、来ている。
指を離さずに済んだのは、事前調査のために散々怖い話を読んで慣れていたおかげだろう。部屋を包む雨音が現実感を切り離していたせいもあるかもしれない。最初の衝撃をやり過ごせば、頭は徐々に冷静になってくれた。
きまりを守れば大丈夫。指を離さなければ、ひとまずは問題ない。
手の震えを懸命に抑え、ゆっくりと息を吸い込む。
「……こっくりさん、こっくりさん——」
こっくりさんは何でも答えてくれた。
精度の確認のために自分のことをいくつか尋ねてみたところ、誰にも言ったことのない秘密まで知っていた。名前を呼び合うあの子ですら見通せないだろうという薄汚い内心まで詳らかにされていく。心を切り刻むような正確さは痛く、不快なほどで——
「………」
——ひどく、安心した。
「こっくりさん、こっくりさん……」
試しに、友人が昨日自分のもとに持ち込んだ相談をぶつける。
十円玉の描く軌道に迷いはない。差し出される答えは合理的だ。
「こっくりさんこっくりさん」
気がつけば、口は日々胸を濁らせている苦悩を吐き出していた。尋ねるたびに、青白い指がするすると硬貨を滑らせていく。向かい側に置いている指は従順についていく。
——あたまわるいから
——せいかくぶす
——ぎぜんしや
どんなに傷つくような内容でも、二本の指は一緒に答えを指し示す。
「こっくりさんこっくりさん」
なるほど、これだな。
なぜ友人は自分ごときに相談を持ちかけるのか。弱音を吐露するのか。その疑問が解消していく。
「こっくりさんこっくりさん」
答えを示してもらうのは、とても安らぐ。
問題を確実に解決できるわけでもない自分にすら需要があったのも納得だ。皆、この感覚を求めていたのだろう。
他人に言われると、たとえ受け入れ難い答えでも諦めがつく。
呼吸がふっと楽になった。肩から力が抜ける。自然と視線が白い手の持ち主へと向かう。受容をもたらしてくれた救世主の姿を、ひと目見たい。
崇めるような心持ちでそっと眼を上げると、視線が交わった。
そこにいたのは、自分と同じ制服を着た少女だった。華奢な身体つき、細い首に乗っかった顔はぐしゃりとひしゃげている。血が滴って、夏服のシャツを赤く濡らしていた。
涼やかな眼だな、と思った。
浮かんだ感想は、それだった。「怖い」より早く、どこか夢見心地な頭でそんなふうに思った。この眼差しが、自分を解剖してくれたのだな、と。
「こっくりさんこっくりさん——」
冷ややかに微笑むその瞳に向けて、感謝の言葉をかけようとした。
そのときだった。
「……?」
こちらを見る眼が、みるみる見開かれていった。
何ごとだろう。
戸惑うこちらが何か尋ねる前に、暗い瞳が雄弁にその心を語り出す。
衝撃、憎悪、嫉妬——
「待っ……」
——劣等感。
白い手がその顔を覆い隠したのを最後に、こっくりさんの姿は消えてしまった。
×
狭い部屋は薄青く陰っていた。位置が悪いのか、古ぼけたカーテンのせいか。社会科準備室には、雨降りとも夕暮れともちがう仄暗さが水っぽく満ちていた。
「急に無理言っちゃってごめんね」
華奢な背中がゆるやかにしなる。肩越しに振り返って、すまなそうに眉を下げて見せた。影のなかでも、武藤さんの態度に陰鬱さはない。いつもどおりの人好きする彼女だった。
「や……大丈夫……」
それがかえって、落ち着かない。
七森としたこっくりさんの答えが本当ならば、昨日、こっくりさんは武藤さんの呼びかけに答えなかったはずだ。その理由に彼女が気づかないはずはない。俺たちが嗅ぎ回っていたことを、一昨日の時点でこっくりさんに教えてもらっているのだから。一方で、こうも考えられる。
「こっくりさんが離れたから、武藤さんは元に戻ったのだ」と。
そうであればいい、と思うのに、そういうことなんだろう、とも思うのに。
「……どうせ、暇してるから。気にせんで……」
どうにも、武藤さんに背中を向ける勇気が出ない。かといって自分から核心に触れる気概もなく、煮え切らない返事をしながら彼女につき従って、ここまで来てしまった。
梅雨のころの俺ならば、大喜びで手伝っていただろうにな。
武藤さんの手で鍵のかけられた扉に寄りかかり、スマホのロック画面を盗み見た。七森からのメッセージが表示されている。
——だいじょうぶ。
「………」
取り急ぎ俺から送った「絶対ひとりになるな」への返事だ。状況報告もなければ俺への要望もない。相槌のみの返信は、信頼されているのか、放置されているのか微妙なところだ。少しは俺の手厚さを見習ってほしい。ため息がもれる。
「もしかして、明くんと約束あった?」
武藤さんの声に、心臓が跳ねた。顔を上げると丸い瞳がこちらを窺っている。
「あ、いや、その……!」
咄嗟に言い訳しようとする俺に、武藤さんはいたずらっぽく笑った。
「すぐ終わらせるから、ちょーっとだけつき合ってね」
そう言って顔を背ける。その視線の先には机があった。
「どうしても、確認したいことがあって、さっ!」
細い腕で、ぎっしりとファイルの詰まった段ボールを持ち上げようとしていた。慌てて駆け寄り、横から箱の底に指をかける。
「っ待って待って待って、俺するよ!」
「うわ、ありがと。助かる」
そこで一瞬、躊躇う。
彼女があまりに自然にどけようとするものだから、俺も自然に手が出てしまった。しかしこの下には。
「やっぱり見たんだ」
「——っ」
「いいよ。気にしなくて」
さっさと始めちゃお。
柔らかい声、何気ない口調。教室で聞くのと変わりない。
だからこそ、隣に立つ顔を見ることができなかった。
俺の好きだった彼女と、変わってしまった彼女が、重なろうとしている。
「……うん」
不意に湧き上がった嫌な想像を慌てて打ち消した。
昨日、屋上で七森と話し合ったことを思い返す。こっくりさんは七森に取り憑いて、だから武藤さんのほうは解決した。今のところはそれが正しく見えるし、正しいと確認するためにこれからこっくりさんをするんだと思えばいい。うまくすれば七森からこっくりさんを追い払う手がかりだって見つかるかもしれない。
よし、これでいこう。
構え方を決め、ぐ、と両腕に力を込めた。埃を吸った段ボールの下から、掘り込まれた文字たちが顔を出す。青みを帯びた影のなかで、鳥居の赤は深く沈んでいた。飲まれないように、顔を上げる。
「おっしゃ。はじめよ。呪文は武藤さんに任せていい?」
床に箱を下ろして向き直ると、彼女は甘く整った相貌に、頼もしげな笑みを浮かべた。
「了解。任せて」
机のなかではなく、胸ポケットから十円玉を出して。
◯
「こっくりさんこっくりさん、おいでください」
幾度めかの呼びかけを聞き終えて、眼を開ける。
「……だめかあ」
十円玉に乗っている指は二本。俺と、武藤さんのものだ。残念そうなため息はすっかり耳に馴染んでしまっていた。
予想どおり、武藤さんが呼んでもこっくりさんは答えなかった。
意外だったのは、彼女が一度では諦めなかったことだ。てっきり、こっくりさんがこないことを示して俺を責めるつもりなのだろうと思っていた。元の武藤さんに戻っていてもいなくても、俺たちのしたこととその結果について咎めるだろう、と。このタイミングで俺をこっくりさんに誘う目的なんて、そのくらいしか思いつかない。しかしそんな予想に反して、彼女は粘り強く同じ儀式を繰り返している。以前教えてくれたのと変わらない、秘伝のこっくりさんだ。
こうなると、俺はどう動けばいいのかわからなくなってしまった。落ち着かないまま、ただ諾々と彼女の儀式につき合っている。
「うまくいかんね……」
かといって自分から言い訳するわけにもいかず、白々しい相槌を打つ。眼を開くたび、七森との作戦が成功したと証明される。武藤さんが失敗するたび、安心してしまっている。
「今日は調子悪いんかな……」
彼女の気配を窺いながら、曖昧に慰めるばかりだ。
「もう一回。もう一回いい?」
この台詞も本日何度めだろう。顔を見なくても、悔しそうに頬を膨らませているのが眼に浮かぶ。根気よく繰り返せばいずれはこっくりさんが来ると信じているかのような、俺と七森がこっくりさんを取り上げてしまったことになど気づいていないかのような、含みのない真摯さだった。
「………」
本当に気づいていないんじゃないか?
ひょっとして「憑き物が落ちたから、取り憑かれていた間の記憶は失われた」とか、そんなホラー映画みたいなことが起きているのではないか。
手がかりがない一方で可能性だけは無限に出てきて、混乱してしまう。もう少し七森と、武藤さんの現状について話し合っておくべきだった。後悔するがもう遅い。
「……いいよ。ここまできたら何回でもつき合うわ」
いずれにせよ、何度やっても同じだと俺は知っていて、それを口には出せないことに変わりはない。
「ありがと。じゃあもう一回いくね」
だったら代わりに、彼女の気が済むまでつき合おうと決めた。
流されるままだったさっきまでとはちがい、確かな意志を持って眼を閉じる。待っていたように呪文が唱えられた。
「こっくりさんこっくりさん、おいでください」
眼を開く。何もいない。また瞼を閉じる。もう一度やろう、と示すように。
「こっくりさんこっくりさん、おいでください」
呼ばう声は切実で、こっくさんが答えないようにしたのは俺だった。その事実が、少し痛い。
「こっくりさんこっくりさん、おいでください」
ふと思う。彼女はどうしてこんなにもこっくりさんを呼びたがるのだろう。
「こっくりさんこっくりさん、おいでください」
武藤さんは繰り返す。何度も呼ぶ。武藤さんからの号令がなくなっても、俺は自ら瞼を開け、閉じる。ゆっくりとした瞬きみたいに。何かのおまじないみたいに。
「こっくりさんこっくりさん」
代わりになるものを俺が見つけられたらいいのに。
「先に指を離したのはどっちですか?」
「——っ!」
弾かれたように顔を上げた。しっかりと視線が交わる。
「あーあ、眼を逸らしちゃだめって言ったじゃん」
しょうがないなあ。
武藤さんは呆れたように苦笑した。その表情を見て、直感した。彼女は最初から十円玉なんて見ていなかった。最初から俺を観察していた。
俺の違和感は間違っていなかったのだ、と。
「ご……めん……」
自分でもなぜ謝ったのかわからない。眼を逸らしたことか、彼女からこっくりさんを取り上げたことか。本当のことを言わないことか。はっきりしているのは、安っぽい芝居を見抜かれた今、どんな言い訳も無意味だということだけだった。
俺の謝罪には答えず、武藤さんの唇が淡く笑みを刷く。
「先に手を離したのは明くんだったかあ」
取り憑かれるなら、君だと思ったのに。
冗談めいた口ぶりだが、茶色の眼は笑っていない。こっくりさんは来なかったのに、もう彼女は答えを手に入れていた。いや、今こっくりさんが来なかったことこそが答え合わせだったのだ。
俺と七森、こっくりさんに取り憑かれているのはどちらなのか、という疑問への。
「どうして……」
声が震えるのを抑えることができなかった。武藤さんはふっと表情を消した。感慨もなさそうに、十円玉を引き寄せて胸ポケットにしまう。置き去りにされた俺の指が祭壇に触れた。
彼女は少し迷うように小首を傾げたあと、ゆっくりと話しはじめた。
「昨日、私たちが呼んでもこっくりさんが来なかったんだ。知ってると思うけど」
語る温度は低い。俺たちのしたことを責めるでもなく、俺が知らん顔していたことを怒るでもない。それが返って不安にさせた。
「ここで、私たちとおんなじ方法で誰かが呼んで、きちんと帰さなかったんだ、って思った」
本当に、すべて把握されていた。
凍りついた俺の手のそばで、華奢な指が祭壇を撫でる。机に貼り込まれた紙の縁を辿り、刻まれた文字を気まぐれになぞっていく。何度も使うことを想定された、丁寧な仕事だ。
「じゃなきゃ、私のとこに来ないはずないんだよね。私のこっくりさんは、まだ終わってないんだから。こっくりさんは、私の呼びかけには答えなきゃいけないの」
武藤さんは俺たちを責めない代わりに、自分のかけた労力を示しているように見えた。こっくりさんのために作り上げた舞台に、愛おしげに触れてみせる。
「あ、わかってるよ。わざとじゃない、失敗しちゃったんだよね。帰さなかったんじゃなくて帰せなかった。でしょ?」
俺は何も言っていないのに、武藤さんはひとりで会話を続けてしまう。台本を読むように、俺の台詞を飛ばして話を進めてしまう。
「大丈夫、そこは怒ってないし。正直、そこまでは予想どおりだったんだ。『対処』する自信もあった」
丸い瞳が一度机を見下ろし、再び俺を映す。
「きまりを破るとしたら、臨城くんだと思ったからね」
つき合ってくれてありがとね。
最後にいつもの顔で笑った武藤さんは、振り返らずに部屋を出ていった。俺の返事など、まるで期待していないようだった。
俺が返事をできないことなど、お見通しのようだった。
◯
本気で走った。目指すは屋上だ。
武藤さんの姿が消えてすぐ、我に返って七森にメッセージを送った。「武藤さんにばれた」と。返事どころか既読もつかない。十秒待って見切りをつけた。どうせ居場所は屋上だろう。部屋を飛び出す。
俺が空振りだったのだから、武藤さんは次は七森に会いにいくだろう、という単純な考えだった。武藤さんが七森に何かすると思ったわけではないが、放っては置けない。そもそもあいつがこっくりさん対策をちゃんとしているかも心配だ。
一刻も早く合流したい。
その思いで校内を駆け抜けてきた足が、屋上に続く最後の階段、その踊り場を切り返したところで止まった。
扉の前に、ぽつんと小さな直方体が置かれている。
「——」
お茶。相談者か。
「………」
本当に?
不安が膨らむ。待つか否か迷う。だめだ。待っていられる気がしない。扉の向こうにいるのが普通の相談者なら申し訳ないが、割り込んでしまおう。覚悟を決めて疲れ切った足をもう一度持ち上げようとしたとき、屋上の扉が開いた。出てきたのは女の子だった。重い扉が閉まる音を背景に、小柄な影がお茶を回収して、顔を上げる。そこで彼女も俺に気づいたようだ。
「あ……」
どちらの声だったのかはわからない。視線は一瞬だけ交わり、すぐに逸らされた。足早に階段を降りてくる。
武藤さんではない。
だが、俺のそばを足早にすり抜けていった横顔には見覚えがあった。誰だ。瞬く間に頭のなかが顔でひしめき合う。答えは思ったよりすぐに出た。
「……——」
武藤さんのこっくりさん仲間だ。
にわかに背筋が粟立つ。階段を駆け上がり、扉を蹴り開けた。
「七森くん!」
「うぅわびっくりしたー」
給水塔の影から、暢気な声が聞こえた。七森だ。転げるように回り込む。
息を切らして見下ろすと、七森はつり眼を丸くしていた。
「どうしたの、臨城くん……ひかりちゃんと何かあった?」
俺の剣幕に驚いたのだろう、ぎゅっと身を縮めている。一見して異常はない。緊張の糸が切れ、どっと膝をついた。床に突っ伏す。
「むと……っ、こっ……お、前……さっきの……っ」
「大丈夫? とりあえず座りなよ。あ、こっちから撮ってるから、そっちに」
顔を上げたすぐそこにスマホが立てられていた。きちんとこっくりさん対策がされていたことに、まずはひとつ安心する。しかし、聞きたいことも伝えたいこともまだまだ山ほどある。力を振り絞って立ち上がった。
「……っ……っ」
「結構早かったね。こっくりさん、来た?」
首を横に振って、スマホの反対側に腰を下ろす。ぬるい。日に温められたのではない、人間の残していった温度がズボン越しに伝わってくる。
「は……ひぃ……っ」
「ひかりちゃんは俺たちのしたことに気づいてた?」
首を縦に振る。心配そうに様子を窺う七森の手には、涼しげな水色の金平糖が詰められた袋が乗っていた。俺の視線に気づいた七森が差し出してくるが、今度は首を横に振る。鞄からペットボトルの茶を取り出して呷った。心臓が痛い。
「………」
「取り憑かれたのが俺のほうだってことは、やっぱりばれちゃったかな」
首を縦に振る。メッセージは見ていないらしい。相談者がいたからか。思い返せば俺といるとき、七森はスマホを見ない。
「それで、心配して急いできてくれたわけだね。ありがとう」
「……俺の説明すること、なくなっちゃっただろうが!」
ようやく整った息で、喚いた。半眼で睨むと、七森はにんまりと笑って金平糖をひとつ口に放り込む。その仕草に教室で見たときと変わったところはない。やばい幽霊に取り憑かれているくせにどこかのんびり構えている七森だった。
「じつはちょっと心配してたんだよね。ひかりちゃんが無茶なことするとは思ってなかったけど、こっくりさん自体は割とガチめなやつだったから」
「そこんとこ心配するのは俺のほうだろ。お前はなんもなかったんだろうな」
首に巻かれた包帯はきちんと巻かれている。掴まれたり引っ掻かれたりした形跡はない。その下で薄い肩がひょいとすくめられた。
「見てのとおりなんもないよ。見ててくれる子もいたしね。その辺ですれ違ったと思うけど」
「あっそれ! それだよ! あれ……っ」
「まあ、一回落ち着いて」
痩せた手が押しとどめてくる。汗をかいた身体に不満がとぐろを巻いた。俺の気が急いていることなどお見通しだろうに、優しげに整った顔はいつもの穏やかな笑みを向けてくる。
「まずはそっちの話から。臨城くんの眼から見てどうだったか、詳しく教えて」
「えぇ……」
すでに伝わっていることを説明するよりも七森側の報告を聞きたかった。どう過ごしていたのか、こっくりさん仲間とは何を話していたのか。しかし、柔らかく細められた眼で促されると、自然と口が開いてしまう。
「……どうったって……別に、予想どおりだよ。社会科準備室に連れてかれて……それで……」
さらっと済ませようと思ったのに、語り出すと途端に言葉が散らかりはじめた。七森は穏やかに頷いてみせる。聞いてるよ、と示してくれる。抗えずに、舌が滑りはじめる。
「なんか、武藤さんいつも通りで、別になんか、隠す気もなさそうで……っ」
走っている間は忘れていられた衝撃が、記憶をたぐるたびに戻ってくる。声が震えてしまう。
自分が意外なくらい動揺していたことに気づく。
七森は僅かに眼を見開いた。情けなさに顔を伏せるが、一度決壊したものを留められない。
準備は彼女が全てしたこと。あの祭壇でこっくりさんをしたこと。武藤さんは何度も何度も呼ぼうとしていたこと。何度呼んでも十円玉は動かなかったこと。それから。
「……十円玉から手を離したのは、俺だと思ってた、って」
全部見通した上で、俺を観察していた。驚きも落胆も、責める言葉すらなかった。予想が外れたな、と、それだけだった。俺が相手なら「対処」できると思っていたのに、とそれは少し残念そうだったが、そんなことはとりあえずどうでもいい。
そんなことよりも。
「こっくりさんはいなかったのに、元に戻ってなかった……!」
それどころか、もっとずっと、遠い人になってしまったような感じがした。
「………」
吐き出し切ってしまうと、もう言葉が出てこない。胸には、軽くなったぶんだけ虚しさに似た寒々しい感覚が居座った。ため息がこぼれる。
「……とりあえず、そんな感じだった」
吐き出した言葉を振り返ってみると、昨日までの成果が出ていないばかりか俺はびびって右往左往しただけだったことまでわかってしまった。やるせなさに悔しさが上乗せされる。何やってんだ俺は。
「……そっか」
ぽつ、と七森が応じた。音にすれば短いが、自分の失態を告白したばかりの俺には重い。しょげている場合ではない。全力疾走の疲労がのしかかる全身に力を込めて、顔を上げた。
「——……」
七森はやはり、俺を見てはいなかった。
「ひかりちゃん、思ったより強火できちゃったんだなあ……引き止めるか、いっそのこと空気読まずに俺も参加しちゃえばよかったね」
七森は項垂れていた。細い首に巻かれた包帯が、初夏の空を映して青い。表情の薄い横顔だった。それでも笑みとも呼べない程度に持ち上げられた唇の端には、後悔が覗いている。
明言こそしなかったが、謝っているも同然だった。
「……あのなあ」
口が苦く歪んでしまう。
「ここは俺を責めるところだろうが!」
「ええ?」
全力で突っ込むと七森は跳ねるように顔を上げた。わけがわからないと書いてある。言葉を失う七森に、鼻を鳴らした。
「せっかくこっくりさんについて聞くチャンスだったのに、とか、いっそ問い詰めてこいよ、とか、もっと言うことあるだろうが!」
何を慰めようとしているのか。朝の太々しさはどこにやった。
「たしかに武藤さんの俺の扱い、ショックはショックだし普通に凹むけど、お前が気にするべきとこそこじゃねえだろ。殺されそうなんだぞお前」
黒い瞳はじっと俺を見つめてくる。半ば睨むように視線を返す。そこまでしてやっと、いつもの柔らかい笑みが戻ってきた。
「……たしかに。昨日はあんなに活躍してたのに、今日どうしちゃったの?」
「めちゃくちゃびびって何にもできませんでした!」
「幽霊相手には根性見せてくれた人が?」
あはは。
笑ってくれるが、幽霊相手だからこそ根性を見せられたと言ってもいい。命の危険がないときの俺など、こんなものだ。
「今後に期待してくださいよ、ったく……」
立てられているスマホに視線をやる。インナーカメラを使っているようで、録画画面がこちらからも見える。奇妙なものは映っていない。ただひとしきり笑った七森が水色の星を口に運ぶ様子が記録されていた。かりこりと微かな音が、鼓膜をくすぐる。
「……で?」
「うん?」
俺の報告が終わったことは察しているだろうに、何も話そうとしない。予想通りだからそこに不満はない。待つだけ無駄だということはこの数日で学んでいた。
こいつ、相談を受ける側に慣れきってしまって、自分からは何も話さない。
「お前のほうはどうだったんだよ」
「ああ」
促すと思い出したように顔を俺に向けた。やはり忘れていたようだ。画面のなかに丸い後頭部と顰めっ面の俺が映し出される。
「いつもどおりナナモリさんをやってたよ」
金平糖の袋を軽く振ってみせた。今日のお供物なのだろう。鈴を振るより密やかな音が耳を打つ。
「報告が雑すぎるんだわ。秘密主義っつーか何つーか……」
給水塔に寄りかかってじっくり聞く体勢を整えると、スマホは七森の影に隠れてしまう。現実のほうで視線がぶつかり、七森は首を傾げた。本気で心当たりがなさそうだ。無防備にすら見えるその鼻先に、人差し指を突きつけた。
「さっきの、武藤さんのこっくりさん仲間だろ」
ひゅ、と息を呑む音が響いた。切れ上がった瞼のなかで、黒い瞳が俺の指先と顔とをゆっくりと往復する。
「……臨城くん、人のことよく見てるねえ」
いたずらのばれた子どものような笑い方だ。
「なんか言われたか? 大丈夫だったのかよ」
話題逸らしには乗っからず追求する。七森は薄く唇を開き、しかし何も言わずにふらりと瞳を彷徨わせた。
「——……うー……んと、ねえ……」
薄汚れた床を見て、俺を見て、金平糖の袋を握った手許に視線を落とす。薄い身体を丸めると、口許は立てた膝に隠れてしまった。
「……なんていうか……本当に、ただ相談に来てただけなんだけどねえ……」
「こっくりさん派が、今、わざわざ、ほかでもないナナモリさんに、したい相談ってなんだよ」
関係ないわけないだろう、という圧をかけると、七森はやんわりと首を傾げて言い澱みつつも、口を開いた。
「……ひかりちゃんが、心配なんだってさ」
意外な内容だった。
「ど……ういうことだそれ?」
受け取り方に迷う。俺の相槌をどう解釈したのか、七森は観念したようにつけ足した。
「ひかりちゃん、こっくりさんが来ないの、結構ショックだったみたいっていうか……」
「……予想してたみたいだったけど」
「ホラー映画でもさ、来るぞ来るぞーって思ってても、来たらびっくりするし怖くない?」
「それはちょっとちがうだろ」
「ちょっとちがったね」
あはは。
笑い飛ばす声を聞きながら、考える。
武藤さんが落ち着いているように見えたのは、七森にも仲間を差し向けていたからだろうか。俺のほうが空振りでも仲間がうまくやってくれると思っていたのか。こうして話している今も武藤さんが現れないのはそのせいか?
筋は通るが、どこかしっくりこない。七森の口ぶりには、そんな物々しいやりとりが交わされた気配はない。
「……それで、こっくりさんを返せって?」
背中を預けた給水塔が、火照った身体に冷たい。
「そうは言ってなかったよ」
七森の返事は曖昧だ。こんな状況にも関わらず、他人の悩みを勝手に共有するのは気が進まないのかもしれない。ただそれ以上に、他人を無闇に疑わせるのは気が咎めたらしい。袋詰めの金平糖に眼を落とし、ぽつりとつけ足した。
「ただ……『自分に何ができるだろう』ってさ」
返事に詰まった。
それは梅雨の間、俺も考えていたことだった。
武藤さんがこっくりさんを始めたとき、彼女が変わってしまったと思って、どうすればいいのかと悩んだ。結果、ナナモリさんに相談した。俺と同じことを、ちがうタイミングでさっきの女の子はしたということだ。
俺より武藤さんの近くにいるはずのあの子は、こっくりさんが来なくなった「今」こそ、武藤さんの変化を感じたということだった。
俺の好きだった彼女と、変わってしまった彼女が、重なろうとしている。
嫌な想像が戻ってくる。それが「想像」では済まなくなってきていることを、俺はもう理解してしまっていた。
「そ、……っか……」
どう受け取るべきか、何をすべきか。そもそも、どこを目指せばいいのか。
情報が入り乱れる頭はただただ重たく空回りをした。
「……臨城くんはさ」
ふ、と七森の声に無意味な思考を断ち切られる。知らずうつむいていた顔を上げた。七森は珍しくこちらを見ていた。しかし視線がぶつかると、ふいと顔をうつむけて手許に眼を落とす。こっくりさん仲間の女の子が持ってきたという、夏の空を映したような青い砂糖菓子に静かな眼差しを注いだ。
「臨城くんは、今も、元のひかりちゃんに戻ってほしい?」
やはり、心を読まれているな、と思った。
俺が今日の相談者と自分を重ねたことを、見透かされた。そのせいで揺らいだことまで、きっとばれてしまっている。ただ、俺に気持ちの整理を促す一方で、七森自身もどこか迷っているように見えた。
相談の根元が揺らぎはじめた今、俺がどうしたいのか、俺の口から聞きたがっているようだった。
「………」
一昨日、チョコレートを受け取ってくれた手を見た。昨日、こっくりさんに掴まれていた首を見た。
「……俺は……」
最初こそ渋ったが、七森はひどいめに遭っても、「助けてくれ」と言った俺につき合ってくれている。ここまでつき合わせたのだから、今さらやめるなんて言えない。いつもの俺なら、きっとそう判断する。
「………」
だけど頷けなかった。
ここまで真面目につき合ってくれたからこそ、そんな理由で頷くのはだめだと思った。そんないい加減なこと、七森相手にしたくなかった。
貸しとか借りとかではなく、自分がどうしたいのかを考える。たしかに「武藤さんをなんとかしたい」と思ったのは嘘ではないし、今も変わりない。
だが。
「………わかんねえ」
その気持ちを今もまだ「元の武藤さんに戻ってほしい」と表現していいのかは、わからなかった。「なんとかしたい」に「七森を助けたい」も加わって、いっそう気持ちの輪郭がわからなくなっていた。
「ただ、前みたいに、楽しそうに笑ってくれるようになればいい、と思ってる」
今も断言できるのは、それだけだ。
七森は砂糖菓子から眼を逸らし、再び俺に視線を据えた。つり眼がじっと見つめてくる。黒い瞳は濃い影のなかでも瞬きのたびに光を拾う。
やがて小さく頷いた。
「……そうだね。俺もそう思う」
優しげに整った顔に、柔らかな笑みが戻った。こちらの肩の力を抜くような、曇りの晴れた笑い方だった。ぐっと痩身を伸ばして、天を仰ぐ。俺を見ていた眼が空の青を映して、瞳の境を曖昧にした。
「ほんじゃ、できる限りのことはしてみるかあ。さっきの子にも頼まれちゃったしねえ」
その口ぶりは優しいが、どこか吹っ切れてしまったような明るさをはらんでいた。
「……七森くん取り憑かれ問題も、何とかするぞって思ってるからな、俺は」
思わず言い添えると、七森はにんまり笑って視線をよこす。
「知ってる。頼りにしてるよ」
伸ばした身体を縮めて鞄とスマホを拾い上げると、すっくと立ち上がった。
「ほんじゃ早速、次の作戦会議しよっか」
×
しばらく、動けなかった。
こっくりさんが消えてひとりきりになった社会科準備室には、再び雨の音が侵入してきていた。細く開けた窓からはぬるく湿った風が吹き込んでくる。雨足は激しさを増したようで、軒で跳ねた雫が古いカーテンにぽつぽつと水玉模様を描いていた。
彼女が——こっくりさんが見せた表情には、見覚えがあった。
中学生のころ、親からもらっただけのこの顔にあの眼差しを向けられたことがある。
調子に乗るな、と吐き捨てる顔に、いつも貼りつけられていた表情だ。
「……そうか」
不快なまでに率直な回答は、そういうことか。
傷つけるようなお告げの数々は、そういうことか。
「あー……そう、そういうことかあ……」
正直さではなく、単純に攻撃だったのだ。
調子に乗った女がひとりでこっくりさんなんてイタいことしてるから、おもちゃにしてやろうという、そういうことだったのか。
手許を見下ろす。無駄に真剣に用意した文字盤がある。
「何やってんだか……」
予定どおりの言葉を口にする。声は潤んでいて、無様だ。笑い飛ばすことはとてもできそうにない。何も起きなければできたはずのことが、今はできない。自虐のためのくだらない遊びだったのに。ひとりだったら笑えたはずなのに。
こんなの、笑えない。
「あーあ」
どこまで狙ったものかはわからないが、私を傷つけたかった彼女は今ごろ高笑いでもしているだろう。顔を見られた不快感も上乗せされて、嘲笑は苛烈を極めているにちがいない。勝手に同一視したり崇めたりして、やっぱり馬鹿な女だ、と。
想像して、やっと笑えた。想定していたよりも余程卑屈な笑いが洩れた。かけた時間の分だけ滑稽さが増してくる。
今日はもう、帰ろう。
自己嫌悪を無理やり打ち切って片づけを始めようとした。
そのとき、気づいた。
「——」
十円玉はまだ私の指の下にある。冷えた肌と同じ温度で、「はい」と「いいえ」の間にとどまっている。
「……あはは」
その意味するところに気づいて、笑いがこぼれた。それはさっきよりずっと明るくて、嫌な笑いだった。唇が嗜虐的に歪む。
「やっちゃったね、こっくりさん」
こっくりさんが帰るまでは十円玉から指を離してはいけない。
もっとも有名なきまりだ。破った者には数々の災難が降りかかる。それは何も、呼んだ人間にだけ適用される規則ではないだろう。彼女だって参加者なのだ。わざわざ、これ見よがしに参加してきたのだ。
「そっちが先に仕掛けてきたんだからね」
私で遊ぶためだけに。
「今度は私が遊ぶ番だよ」
気が済むまでは、終わらせない。
十円玉を胸ポケットにしまい、美術室へと向かった。
梅雨が終わる、前の週のことだった。
×
「こっくりさんを真っ向から説得するのは無駄だろうなって思うんだよね」
七森の前には、初手で苺を食われたショートケーキがある。今日のお供物だ。
充電的にも容量的にも四六時中スマホで録画し続けるのは現実的ではないということで、駅前のファミレスに来ていた。ここなら他の客の眼に加えて防犯カメラもある。それでも俺が安心できず、窓際の席に座った。晴れた駅前は人で賑わっている。眩しさに眼を細めた。
「まあ正直話になんない感じはあったよな……」
俺もドリアを頼んだのだが、すでに食べ切ってしまっていた。武藤さんとのこっくりさんで相当消耗していたらしい。我ながら驚くべき早食いだった。七森がちんたらとケーキを切り崩している前で、何となく薄い気がするコーラを啜る。ドリンクバーの支払いは各自だ。
「呼べば質問には答えてくれるんだろうけど、——……」
「殺意えぐいもんねえ」
「心読むなってば」
七森からは、いつもの「ただの勘だよ」は出てこなかった。ケーキに集中している。
「なんか、似たような怪談とかねえのかなあ……この際ホラー映画とかでもいいんだけど」
こっくりさんを呼ぶには人目を避ける必要がある。となると呼ぶ前後で襲われる確率は跳ね上がる。説得への切り札がない状態で呼んでみるのは自殺行為のような気がした。
そこでさっきから「こっくりさん」でネット検索しているのだが。
「日本人こっくりさんに呪われすぎだろ……」
帰ってくれないこっくりさんに困る話は山ほど引っかかった。しかし武藤さんのようにこっくりさんを奪い返そうとする勢力が登場する話となると見つからない。加えて、こっくりさん絡みの怪談は、取り憑かれた人が死んだり人格が変わったりするオチが多い。今の俺には絶望的な話だ。
「お祓い作戦……は、やっぱ最終手段だよなあ……」
「………」
じりじりとスマホの画面を指で擦り続ける俺をよそに、七森はじっくりとケーキに取り組んでいる。
「…………七森くん、なんかねえの」
どうにかその手を止める驚きの一手を打ち出したかったが、俺では歯が立ちそうにない。白旗を上げると、待っていましたとばかりに視界の端でフォークが下ろされた。
「じつは一個試してみたいことがあるんだよね」
「おい」
人のこと弄びやがって。
苦情を言うために画面から眼を上げると、自信ありげな眼差しとぶつかった。思わず唾液を飲み込んで、続きを待つ。
七森は唇の端をそっとつり上げた。
「名づけて、ひかりちゃんのこっくりさんを先に終わらせる作戦」
「おぉ……ぉ……? ……どういうことだそれ?」
どや、と効果音をつけたくなるような堂々たる姿で発表してくれたが、盛り上がりきれなかった。そのままとしか言いようのない名づけの一方、効果や目的はさっぱりわからない。素直に説明を求めると、七森はよくぞ聞いてくれた、とばかりに鞄から紙とペンケースを取り出した。ケーキの皿を脇に寄せる。
「まず、各勢力の要望を整理するとさ」
と、紙に丸を三つ書いた。何の紙かと思えば例によって数学の課題だ。提出する気がないのだろうか。
「俺たちはこっくりさんを終わらせたい、ひかりちゃんはこっくりさんを取り戻したい、こっくりさんは俺を殺したがってる」
丸のなかに「俺たち」「ひかりちゃん」「こっくりさん」と書かれる。筆跡は相変わらず力の抜けたのどかなものだ。
しかし。
「……いやおかしいだろ! なんっっっで七森くんを殺したがってんのマジで!」
ぐしゃりと頭を抱えてしまう。店のなかということで声を抑えるくらいの理性は働いたが、理不尽すぎる要望への苛立ちは抑えられない。セットが乱れるのも構わずに頭を掻きむしってしまう。そこへ、明るい声が降ってくる。
「それそれ、そこなんだよね。なんで、っていうとこ」
「ええ?」
前髪の隙間から見上げる。我が意を得たり、と頷いてくれるが、正解を引き当てた実感はない。痩せた指がシャーペンの尻をノックした。
「順番に説明するね」
七森がペン先を紙に走らせるのを覗き込む。
「まず、俺たちとひかりちゃんが対立してるのはわかるよね。俺たちとこっくりさんが対立してるのもわかる」
二つの丸の間に、両矢印が書き込まれる。鋒が二つ「俺たち」に向けられて、どきりとした。味方がいない心細さが胸を突く。怖気付いた俺を置き去りにして、鋭いペン先は、とん、と残る空白を突いた。
「じゃあ、ひかりちゃんとこっくりさんは?」
「俺たち」を狙う二つの丸の真ん中を。
「——……」
考えてもみなかった。
呆気に取られて空白を見つめていると、七森はシャーペンをフォークに持ち替えた。白い山が切り崩される。
「ヒントはちょっとだけあってさ」
先ほどまでとは打って変わり、ケーキを口に運ぶ七森の顔は思案げだ。
「ひかりちゃん、こっくりさんのこと怖がってなさそうでしょう」
咀嚼する口許をフォークを持った手で隠す。ころりと喉仏が動いた。
「こっくりさんが終わってないのは同じなのに、俺みたいにいじめられたりしてないし」
「……協力関係にあるってことか?」
声が上擦る。つり眼はこちらを見やって笑った。
「それがそうとも言い切れないんだよね」
安心させるように、柔らかく弧を描く。
「こっくりさんがひかりちゃんと仲良しなら、俺なんか殺してないでさっさと帰っちゃえばいいんだよ。俺だって帰ってほしいんだから」
でも帰らない。
その言葉でようやく、作戦名の意味がわかってきた。
「武藤さんはこっくりさんに戻ってきてほしいけど、こっくりさんは武藤さんのところに戻りたくない……?」
黒い瞳が細められた。
「『かわって』はさ、お前が代われってことなんじゃないかな」
お前が死んで、こっくりさんになれ。
半袖の腕に鳥肌が立った。
こっくりさんは俺たちのところから帰れば、また武藤さんに呼び出されてしまう。武藤さんの儀式が終わっていないからだ。こっくりさんはそれが嫌だから帰らないし、きまりを破ったせいで呪われた七森を幽霊にして身代わりに差し出そうとしている。
一方の武藤さんは、こっくりさんを取り戻したがっている。今日俺を誘ったのは、こっくりさんを呼び出して帰らせるつもりだったのだろう。俺たちの儀式を終わらせて、また自分の手で呼び出すために。
「……つまり、武藤さんのこっくりさんを先に終わらせれば、俺たちのところからも帰ってくれるかも、ってことか」
「そうそう。俺たちのところから帰りたくない理由をなくしちゃおうっていう作戦」
どうかな。
七森はゆるりと首を傾げた。傾げるついでのようにストローを咥え、メロンソーダを啜る。
筋は通っている、が。
「……武藤さん、終わらせてくれるか?」
元の武藤さんなら間違いなく助けてくれるが、今の彼女はどうだろう。乾いてくる喉へコーラを流し込みながら、七森に目配せする。七森はストローから口を離して首を傾げた。
「そうだねえ……」
黒眼はゆるやかに巡ったあと、俺のほうへ戻ってきた。固唾を飲む。
「……多少は粘られるだろうけど、なんだかんだ優しいからね、ひかりちゃん」
ほ、と肩の力が抜けた。
「だよな。さすがに七森くんの命がかかってるって聞いたら、助けてくれるよな」
七森も今度は確信を持って頷いてくれる。
「うん。話運び次第では、助けてくれる気がする」
「となれば、説得だな」
方針が決まると、肝が据わった。今日はびびるだけで終わってしまったが、仮説も目的も立っている今ならば、もうちょっとましな対応ができるだろう。いや、してみせる。
作戦立案に向けて脳みそに栄養をやろうとメニューを開いた。
「それなんだけどさ」
気合い十分の俺に、七森が神妙に挙手する。
「一旦俺だけで行ってみたいんだよね」
「ここでそうくるか!」
勢い余って呼び出しボタンを押してしまった。軽快な呼び出し音を背景に、七森が渋面を作ってみせる。
「俺たち二人でいくのはまずいと思うんだよなあ」
「何がだよ」
店員さんの近づいてくる気配がする。仕事が速い。迷う暇はなさそうだ。開いているページにさっと眼を走らせた。しかし苦い顔をした七森は悩む隙を与えてくれない。
「想像してみてよ、俺と臨城くんに武藤さんが囲われてるところ」
「ああ? そんなの……」
金髪の俺と、ピアスだらけの七森に詰められる華奢な武藤さん。
「………」
「事案でしょう」
「……事案だな」
ぐうの音も出ない。
決着のついたところへちょうど店員さんがやってきてしまった。反射的に口が「ドリアひとつお願いします」と動いてしまう。立て続けにドリアだ。何となく恥ずかしい。恨みがましく対面に視線を向けると、ショートケーキはもうほとんど残っていなかった。メニューを差し出してみるが、七森は首を横に振る。制服を着たお兄さんはそれだけで了解してくれたらしく、完璧な笑顔を残して厨房へと立ち去っていった。
「ドリア好きなの?」
「……好きだよ」
「反射で頼んじゃうくらいに?」
「そうだよ俺はドリア党なんだよ! それは今はどうでもいいんだよ!」
からからと笑う七森に歯噛みする。撹乱されたが、議論はまだ終わっていない。俺が説得に行くという選択肢だってあるはずだ。まっすぐ伸びたお兄さんの背中から、正面に向き直る。
「それより——……」
そこで頭が冷えた。シャツの襟と尖った顎の間の包帯が、眼に止まった。
「………」
「どうかした?」
「……や、俺が言うのもあれだけど、眼に見える被害があったほうがいいこともあるかもなって……」
七森の判断は合理的だ。二人で行くべきではないことも、七森が行ったほうがいいということも、たしかに理にかなっている。
「でしょう」
ほらね、と言わんばかりの笑みには思うところがないではない。心配なことにも変わりない。正直「お前なあ」なんて言葉が喉元まで出かかった。
だけど、七森は俺に黙って単独行動することだってできたのに、そうしなかった。
俺の機嫌を取るために二人でできることを提案しようともしなかった。つまり、俺への説明や説得の面倒を承知の上で、一番いい作戦を共有してくれたということだ。
「………」
その意味がわからないわけではない。
「……そうだな」
それなら俺も、気持ちだけで反対するわけにはいかなかった。無理に割り込むよりも、ちゃんと助けになることをしたい。
「任せてくれるの?」
素直に頷いた俺に、つり眼が少し丸くなる。もう少し手こずると予想していたのだろう。残念ながら、今回は読みきれていない。自然と唇の端が上がった。背もたれに身を預け肩をすくめて見せる。
「『武藤さん』の俺より『ひかりちゃん』の七森が行ったほうが話が早いかもしれんし」
「その自虐、笑いづらいよぉ……」
「笑えよ逆につらいわ」
大袈裟に項垂れる。軽やかな笑い声が鼓膜をくすぐった。顔を上げれば、正面にいる七森と、ちゃんと視線が合う。
「交渉は七森くんに任せる。頼むな」
「……ありがとう。任せといて」
きちんと対策したおかげで今日は何も怖いことは起きなかったが、七森は送られてくれた。ちょっと嫌そうに、だけどときどき俺を振り返りながら。
◯
まさか授業をサボるとは思わなかった。
翌日、二限目のあとの休み時間。ひょいと席を立った七森は武藤さんのそばにいき、小さな声でひと言ふた言かけていた。作戦開始か、と身構えたのだが、軽く頷いた武藤さんは友だちに声をかけて一人で教室を出ていってしまった。七森は七森でそのまま席に戻ったから、約束でも取りつけたのかな、なんて思っていた。しかし三限めが始まってみれば、武藤さんは戻ってきていないし七森まで姿を消している。
なんだその待ち合わせスキルは。
一応七森に方針は聞いていた。しかし「状況次第でふんわりかなあ」とのことで、具体的なことは何もわからなかった。誤魔化しているのかとも思ったが、どうやら本人もわかってなさそうだったので仕方なしに様子を窺っていたら、これだ。
すでに教師は来てしまっていたので、慌てて俺も急遽腹痛を起こし、保健室に行くことにしたのだった。
任せると言った言葉に嘘はない。
しかし内容が内容だ。少なくとも人目につかないところで話すことになるだろうし、そうなれば当然こっくりさんの襲撃を受ける確率も上がる。交渉を円滑に進めるためにも、こっくりさんが出ないように隠れて見守るつもりでいた。今回の俺の役割はそれだろうな、と。ただ七森に言えば「手厚すぎる」とか言ってかなり嫌がるだろうと踏んで、本人には内緒でやるつもりだった。
こんなことなら、嫌な顔をされてでも打ち合わせしておくべきだった。
自分の迂闊さに歯噛みしつつ、授業をしている他クラスの眼を逃れ、足音を忍ばせて二人の姿を探す。どこで交渉するのかすら知らされていなかったが、サボって話のできる場所など高が知れている。心当たりを順番に当たっていってもすぐ見つけられるだろう。こっくりさんの襲撃に間に合うかどうかは俺の移動速度と運次第だ。
そう判断してまず屋上に向かったのだが、辿り着く前に足が止まってしまった。
「例の机と十円玉、始末して」
「絶対にいや」
低く、冷たい声だった。
それは屋上に向かう最後の階段、いつもお茶が置かれているあたりから聞こえた。反射的に踊り場の手前でしゃがみ込み、息を殺す。階段に沿って斜めに切られた壁の向こう、眼の前の踊り場を折り返した先に、人がいる。
「俺めちゃくちゃ困ってるんだけどなあ」
七森の声だ。
「私もめちゃくちゃ困ってるんだよね」
こっちは武藤さんの声。
「さすがにそっちは命かかってないでしょう」
「そっちこそ好きで首突っ込んできたくせに」
間違いない。二人の声だ。一発で正解を引けるとは思わなかった。だけど安心も喜びもない。じわじわと背中に汗がにじみ出す。
「見てよこれ。ひっどい傷でしょう? 俺が死んだらひかりちゃん、不便じゃないの」
「自分の不都合を私に押しつけるのやめてくれない? 死にたくないなら一緒にこっくりさんしてって言うならつき合うけどさ」
「それで俺のほうからこっくりさんを帰らせるってわけ? アレに言うこと聞かせる自信あるとか怖すぎでしょ」
「話すり替えるの、いい加減にしてほしいな。別にこっちは明くんがこっくりさんになってくれてもいいんだけど?」
「ほんとに? 俺がひかりちゃんの質問に真面目に答えてあげると思ってるの? 可愛いとこあるんだね」
これは、誰だ。
ふたりの声には、遠慮が感じられなかった。だけどそこに「気が置けない」とか「親しげ」とか、そういった甘やかさは一切ない。どこかで聞いた、感じたことのある、薄暗さをはらんでいる。
冷たく、刺々しい。
「………」
教師に見つからないよう気配を殺していたのが幸いして、俺の存在は二人にはバレていないようだった。苦しく脈を打つ心臓を押さえながら、耳を澄ませる。おそらく階段を椅子代わりにして話をしている。今から死角を取って見守るのはまず無理だ。であれば、異常があったときすぐに助けに入れるよう近くで備える以外、できることはない。
だから、これは、盗み聞きなんかじゃない。
「……明くんて、そういうとこほんと性格悪いよね」
「だからうまくいってるんでしょう、俺たちは」
「性格いい子は『特別仲のいい異性のふり』とかやってらんないって?」
「そうそう。ひかりちゃんのこと、好きになっちゃう」
「気色悪」
「口悪」
あはは。
いつもの笑い方。しかしひどく乾いて、空々しい。どんな顔をしているのか想像もつかない。手すりの下に身を縮めて、動けない。手足が冷たくなっていく。
すぐそこで言葉を交わしているのは、本当に俺の知っている二人なのか?
確認することはできなかった。顔を出せば見つかってしまうということだけが理由ではない。
今の二人を見るのが怖い。
「話を戻すよ。明くん、死にたくないならマジで私とこっくりさんしなよ」
「それでこっくりさんを脅して鳥居からお帰りいただくの? こっわ」
「冗談じゃなくてさ。その傷、結構グロいよ。次は本当に殺されちゃうんじゃない? か弱い君じゃあさ」
「それはそうなんだけどねえ」
「明くんは助かって、私はこっくりさんを取り戻せて、誰も損しないじゃん。何が不満なわけ?」
「不満はないんだけどねえ」
重いため息。
「ひかりちゃんさあ、こっくりさん取り戻したら、また無料相談会するわけでしょう」
「やめる理由がないもん。今のところ解決率十割だからね」
「取り囲んで質問責めにして答えろ答えろってするんだ」
「なーんかやな言い方。身内向けのナナモリさんみたいなものでしょ?」
「こっくりさんも身内にカウントしてあげてる?」
「何それ?」
武藤さんの問いは皮肉げだった。それを受ける唸りは思案げだ。ここ数日で何度も聞いた、鼻歌のような甘い響き。しかし七森の次の言葉が、空気を凍らせた。
「……俺ねえ、こっくりさんの気持ち、ちょっとわかってきちゃったんだよなあ」
「——」
「ひかりちゃんだって、わかってるよね」
は、と息を呑む音がする。二つ重なった音のうち、ひとつは俺の喉から漏れたものだ。しかしふたりに気づいた様子はない。武藤さんは答えない。七森の甘い声が、棘を孕んで続けた。
「美人でかわいいのにさっぱりしてて人懐っこくてすっごく優しい武藤さん、なら、わからないわけないよねえ?」
いいかっこしてるうちに頼りにされすぎて身動き取れなくなっちゃったモノの気持ちがさ。
ひどく、嫌みったらしい口ぶりだった。
痛いほど空気が張り詰める。緊張の糸を揺らすように、再び、は、と息が喉を通る音が響いた。
「……なるほどね」
それは笑い声だった。短くとも疑いようのない、嘲笑だ。
「イケメンで変わり者なのに穏やかで真面目ですっごく優しい七森くん、は、こっくりさんも救ってあげたいってわけだ」
ふ、と思い当たった。
この会話は、俺の一人反省会に似ている。布団のなかで自分の言動を一つ一つ点検していくときの、嫌な暗さ。あの感じが、漂っている。
「こっくりさんの気持ちがわかるって?」
「うん」
二人の語り口は、とてもよく似ていた。
「こっくりさんがかわいそう?」
「そうそう」
どちらがどちらの言葉がわからなくなりそうなほど。
「だから終わりにしてあげたいの?」
「そうだよ」
同じ温度で、痛い言葉をぶつけ合う。
「笑わせないでくれる?」
弱みを知り尽くしているから、的確に傷つけられる。
「こっくりさん、別に君に『助けて』とか言ったわけじゃないんでしょ? ただ首をへし折ろうとしてきただけでさ。それを明くんが頼まれもしないうちから解決してあげようとするとか、有り得ないわ。自分から首をへし折ってあげたいーっていうならありそうだけどね」
「……めっちゃ言うね」
「言うに決まってるでしょ。嘘つき」
「………」
言われたくないことなど、すべてお見通しだ。
「頼みごとするときくらい、本音で話したら?」
二人の会話は、自問自答だった。
七森と武藤さんを「近い」と思うことは何度かあった。それは距離だったり、筆跡だったりしたが、本質はそこではなかった。
もっと根本的なところで、二人はよく似ていた。
他人と関わるときの距離感、声の響かせ方、こちらの気持ちに寄り添う立ち回り。
何より、心を見透かす眼差しが。
この無遠慮さは、お互い見透かされているのがわかっているからこそのものだった。防御も誤魔化しも建前すらも通用しないと承知しているから、全部放棄して剥き出しで殴り合っている。俺に割り込む隙などありはしない。
——一旦俺だけで行ってみたいんだよね。
すくみ上がった耳許に、七森の声が甦る。聞いた当初は信頼から出た言葉だと思った。
「………っ」
あれは、戦力外通告だったのではないか。
二人の間には沈黙が横たわっている。七森が押していたように見えた空気は、すっかり反転していた。武藤さんが返事を待ち、七森は何も答えない。ただかすかに、言葉になりきらない吐息がいくつも薄暗い空気を震わせていた。
不意に、上履きと床の擦れる音が重苦しい静けさを破る。
「『こっくりさんを助けたい』っていうのを本音にしておきたいなら、私の返事は『お断り』だよ。そんな嘘のために友だちを裏切れない」
武藤さんが立ち上がったらしい。降りてこられるとまずい。咄嗟に腰を浮かせた。
「っ待って!」
きゅ、と床を踏み締める音がした。進もうとして立ち止まった音だ。掠れた呼吸が、二度、三度。武藤さんは急かさない。気がつけば、俺は壁にぎゅっと身体を押しつけていた。耳を澄ませる。もう、何を聞こうとしているのか自分でもわからない。何が聞きたいのか、わからない。壁の向こうでは曖昧な音が続いている。床とゴム底の触れ合う音がかき消す。
「言わないなら戻るけど」
途端、鋭く息を吸う音が鼓膜を突いた。
「ッ臨城くん!」
なんで。
「臨城くん、が……」
なぜ、俺の名前が出る。
「……って、いうか……臨城くん、て、さ……いいやつ、なんだよ」
「………っ」
声も出せない口を、手のひらで覆う。俺の動揺が静まるのを待たずに、七森は言葉を重ねる。
「本気で『武藤さん』のこと、心配してる。君が変わっちゃったんだ、って、すごく心配してるんだ」
「——」
頬が鋭く痛んだ。口を抑える手が、爪を立てている。
「君が楽しくなさそうなことが、臨城くんは自分のことみたいに苦しいんだよ」
なんで。
「俺はそれを、何とかしたくて、だから……っ」
どうして。
「……だから、例の机と十円玉、処分してください」
どうして、七森が交渉の場に俺を連れてこなかったのか。
俺が足手纏いだからですらなかったと、わかってしまった。
——今も、元のひかりちゃんに戻ってほしい?
——ほんじゃ、できる限りのことはしてみるかあ。
——なんだかんだ優しいからね、ひかりちゃん。
あいつは、俺が剥き出しの「武藤ひかり」を見ないで済むように遠ざけやがったのだ。
俺を元通りの能天気な日常に戻してやるために。
「………ッ」
奥歯が鈍く音を立てた。体温を上げているこの感覚が、何なのかわからない。侮られたことへの悔しさか。それとも勝手な思い込みだったと突きつけられた恥ずかしさか。
「七森に信頼されている」なんて、思い込みだった、と。
「……それが本音なら、私の返事、わかるでしょ?」
武藤さんの返事が遠くに聞こえる。
「七森くんは、できる? 臨城くんに言える?」
「………」
「友だちにさ、『わからない』『できない』って、今さら言える?」
「……それは……そう、だねえ……」
「私も一緒。だからこっくりさんは終わらせない。絶対取り返すから」
そっちも頑張って。
熱くなった頭がぼんやりしていた。足音が近づいてくるのに、動けない。やがて眼の前で紺色のスカートが揺れた。びくりと動きを止めた二本の脚を辿って視線を上げる。大きな瞳が俺を見下ろしていた。
「——……」
武藤さんは何も言わず、下手くそな笑みだけ残して俺の横をすり抜けていった。
きゅ、と小さな音が耳を打つ。音は前から聞こえた。ほどなくして、ひょいと小さな顔が覗く。武藤さんの動きを不審に思ったのだろう。不思議そうなつり眼が覗き込み、俺を捉えた。
視線が重なる。
「——」
七森の顔がみるみるこわばっていった。
◯
鐘の音が聞こえた。四限めが始まったらしい。
正午間近、給水塔の影はひどく短い。それでも膝を抱えた七森を収めるには十分だった。薄い身体を小さく畳んで、黙りこくっている。いつもはふらっと消えてしまいそうなほど気配が薄いのに、今は鬱陶しいほど存在を主張していた。全身で俺の様子を窺っているのが、手に取るようにわかった。
あの七森が、動揺していた。
盗み聞きしていたことがバレた瞬間、後ろめたさよりも逃すまいという気持ちが前に出た。その場に立ちすくむ七森の腕を掴み、屋上へと引き摺り出した。長くしゃがんでいたせいで痺れているはずの脚は、奇妙なほど効率的に動いてくれた。お互い、ひと声もあげなかった。
隣で小さく丸まっている姿と、さっきまで他人に尖り切った言葉を投げつけていた声がつながらない。かといって穏やかに俺の話を聞いてくれた同級生とも、甘いものや怪談に眼を輝かせていた男とも、重ならない。
姿の同じ、ばらばらの存在のように思えた。
「……盗み聞きして悪かったよ」
ようやく絞り出した言葉が、これだった。どうにか冷静に話をしようとしていた。しかし、呟くような謝罪ひとつに七森は大袈裟なほどに飛び上がった。
それをきっかけに、全身を渦巻いていた未整理の感情が一気に苛立ちへと収束する。
「けどお前——」
反射的に口をつぐもうとしたが間に合わない。
「——俺のこと、なんだと思ってんの」
同じような台詞を、前にも七森に言った。あのときは冗談にできた。だけど、これはできない。そんな温度感ではない。どれほど飲み込んでも、言葉は次から次へと湧き上がってきた。
「見せらんねえもの勝手に判断して、俺が納得するような理由用意して、遠ざけてさあ」
言い募るほど、七森が身体を丸める。視界の端で小さくなる。唇を引き結ぶ横顔は青ざめていた。その反応の一つ一つが、俺の推測が単なる被害妄想ではなかったと証明していた。頭の片隅で、もうやめておけと声がする。
「俺は子どもか? 守ってあげなきゃいけない赤ちゃんか?」
いつもの俺なら言えなかった。臆病で当たり障りない俺なら、こんなこと言わなかった。だけど口を動かすほどに頭の芯が熱く、白くなっていく。自分の言葉が、自制心を焼き切っていく。
「助けてくれてありがとう、って、あれは『お手伝いよくできたね』って、そういうことか?」
眼の奥が痛い。視界が狭まって、そばにいるはずの七森が見えなくなる。
「頼ったり任せたりできるって思ったのは、俺だけだったのかよ!」
返事はひとつもない。
「………」
吐き捨てた怒りは、独り言じみて響いた。
赤くなった視界が、ゆっくりと元の景色を取り戻していく。いつの間にやら耳を塞いでいた耳鳴りが引いていき、真昼の屋上に遠い生活音の混じった沈黙を重ねた。瞬きを忘れていた眼がひりつく。慎重に閉じて、開く。気を抜けば視界が歪んでしまいそうで、初夏の光を返す床を睨み続けた。
痛む喉で唾液を飲み込む。
「……何とか言えよ」
「何が聞きたいの?」
即座に返事があったことに、狼狽えた。気がつけば七森は静けさを取り戻していた。気配は薄く、平坦な声音からは何も読み取れない。思わず振り向く。
七森はいつもどおり俺を見てはおらず、口許に静かな笑みを浮かべて影の外を見つめていた。瞳は空の青を映して、ひんやりとしていた。
「——」
「そうだよ、って、最初から茶番だったよって、言えばいい?」
一番聞きたくない言葉だった。七森は止まらない。
「ひかりちゃんは変わっちゃったんじゃなくて、隠さなくなっただけなんだよって言ったら、納得する? なら最初からそう言ってあげればよかったね。ごめんね」
痩せた手が首を撫でる。包帯の上を往復する。瞳にふと影が差した。
「でも、ねえ? 臨城くん、覚えてるかなあ」
過去を辿るように、ゆるやかに視線を巡らせる。
「君が最初に相談してきたときのこと」
その眼差しがゆっくりと俺を捉えた。優しげに笑いながら心を読む、人を見透かす、鋭い眼が。
「臨城くん、武藤さんのこと、こう言ったんだよ」
好き『だった』子って。
「——」
「だから俺、相談乗るのやだったんだよ。こんなの茶番だなって、わかってたから」
薄々感じてはいたが、知らないふりをしていた。俺が自覚するより早く、七森は見抜いていた。
最初に話したときの、うっすら不快そうな眼差しが甦る。眼の前の七森の双眸と重なる。
「案外人って、人のこと見てないんだよ」
それが自分のことだってね。
「な、なもり……」
「臨城くんの好きだった『武藤さん』なんて最初からいない。君もそれに気づいてて、知らん顔してただけ。諦め悪く俺を巻き込んで誤魔化そうとしてただけなんだよ」
「七森、くん……」
「もう気が済んだでしょう。解決したってことにしてくれない?」
そしたらあとは、俺だけの問題だから。
「——……」
はっきりとした拒絶だった。
ぶつけられた言葉をすぐには飲みきれない。七森は説明しないし、もう待ってもくれなかった。軽い動作で立ち上がり、影の外へと足を踏み出す。俺の視界の外へと出ていく。
「じゃあ、お疲れさま」
重い扉の閉まる音が、遠くで聞こえた。
その日、社会科準備室から机が消えた。

