そのけもののけもの

二:奉公

×

 実験をしたのは、雨の激しい日だった。
 友人の誘いを断って訪れた社会科準備室は、ひどくかび臭かった。放置されていた机に積もった埃を払い、用意した紙と十円玉を乗せる。連日の雨で綿埃は絡み合い、重たげに床に降り積もった。
 文字を書くのには唾液を混ぜた墨を使った。この部屋の窓は西向きだ。カーテンは閉じたまま、細く開く。雨音が大きくなった。
 聞きかじった知識を集めて、なるべく本格的になるように努める。使えるもので工夫して、丁寧に場を構築した。こういう「遊び」は真剣にやるほど馬鹿馬鹿しくていい。茶化してくれる友人を呼ばず、ひとりでやるならなおさらだ。順当に失敗して「何やってんだか」と笑うためには必要な準備だった。
 誰かを誘おうか、と思わなかったわけではない。頭に浮かぶ顔はいくつかあった。
 教室でふざけ合う彼女。
 いつも頼ってくれるみんな。
 名前で呼び合うあの子。
 誰に声をかけてもつき合ってくれるだろう。だからこそ、誰も呼ばなかった。こんな自虐的な実験に他人を巻き込む気がしなかった。
 これは、ひとりでなければ楽しめない「遊び」だ。
 たっぷり時間をかけて準備を整えた。扉に鍵はかけたし、そもそもこの部屋に用のある人間などいないだろう。時間をかけるほどに雨雲の向こうで日が傾いていく。部屋の影が濃くなるにつれて儀式的な気分が高まる。いよいよこっくりさんに呼びかけるという段に至っては、深呼吸までしてしまった。
 すっかり胸が高鳴っていた。
 十円玉に指を乗せ、眼を閉じてゆっくりと肺に息を溜める。
 ——こっくりさん、こっくりさん、おいでください。
 ことさら丁寧に呪文を唱えた。
 そして、それが実験終了の合図になった。
 唱える自分の声を聞いた途端、緊張の糸が切れてしまった。雨の音に負けないよう、しかし外の人には聞こえないよう、慎重に紡がれた声は自分の耳にも真剣に響いて、滑稽さに笑ってしまいそうになる。儀式気分はもう戻ってきそうにない。
 本当に来ちゃったら、どうするんだ。
 心のなかで茶化しながら、眼を開く。
 十円玉に乗る指は、二本になっていた。

×

「あのあと、何もなかったか? なんも出なかったか?」
「全然、普通の夜だったよ」
 放課後の屋上、給水塔の影は今日もくっきりしている。一日温められた大気は一昨日の雨をすっかり乾かしてしまい、日陰にいても汗ばむくらいの気温だった。ぬるい風が七森の前髪を攫う。わずかな異常も見逃すまいと眼を凝らしていると、ひんやりと整った横顔が控えめに笑った。
「本当、なんてこっちゃない夜だったんだよ。だからこれはさすがに……」
 見下ろす膝の上には、俺の渡した今日のお供物が手つかずのまま乗っていた。細いリボンで括られた繊細な花模様の小箱のなかには、一部屋一部屋分けてチョコレートが詰められている。昨日、七森を強引に家まで送った帰り道に、駅前の百貨店で買ったものだ。懐にはかなり痛い金額だったが、そうせずにはいられなかった。
「なんかちょっと、申し訳ないなって思っちゃうなあ……」
 俺の罪悪感など見透かされているのだろう。七森は高級感あふれる箱を見るやいっそ「抵抗」と表現したほうが相応しい勢いで遠慮したし、受け取らされた今も手をつけずにいる。蓋すら開けていない。
 何も起きていないし、何も解決していないのだから、と。
 しかし俺にも言い分がある。
「昨日の話聞いたら、たぶん十人が十人『それじゃ足りない』って言うだろ」
 なんせ、俺のせいで何かに取り憑かれた疑惑がある。おまけに庇われた分際でキレ散らかした。何も起きていないというのも「今のところは」だ。何をきっかけに恐ろしいめに遭うかわかったものではない。
 それでも七森は納得がいかないようで、散りばめられた青い花々をじっとりと眺め回している。
「こっくりさんの話に限ったらそうかもしれないけどさあ」
 黒眼が切れ上がったまなじりにそろりと寄って、俺を見た。
「臨城くんだって、俺の変な嘘のせいで困ったことになってるでしょう?」
「ああ……」
 先ほどのことを言っているのだと、すぐに察しがついた。相槌を打つ口がつい、苦く歪む。
 ほんの十分前——終礼後のことだ。
 俺は昨日と同じく、七森が教室を出てから捕まえる作戦を取った。友人に「ナナモリさんに相談している」と知られるのはやはり避けたい。七森はそのあたり心得ていて、こちらをちらとも見ずにひとりで教室を出ていった。笑みは交わしても引き止めるやつはいない。俺も、周囲にさらっと別れの挨拶をしてあとを追った。そこまではよかったのだが。
「謙介、と、七森くん?」
 茶を買い忘れていたのが敗因だ。急ぎ足に合流してしまったのも悪かった。どうにも七森の無事を確認したくてたまらなかった。廊下の途中で捕まえたところで茶の買い忘れに気づき、そのまま状況確認をしながら自販機に寄り道をしたのもよくなかった。一旦別れて屋上で集合するべきだった。
 要約すれば、俺の堪え性がなかったばっかりに、部活に向かう友人たちと二人揃って出くわしてしまったのだった。
 当然、珍しい組み合わせに疑問符を投げられたが、誤魔化す道などいくらもない。あとあとのことまで考慮するならば、武藤さんにしたのと同じ小芝居を打つのが最善だ。
 そうなると、こうなる。
「マジか! とうとう謙介がピアスデビューねえ!」
「がんばれよ」
「今度似合うの探しいくかー」
 こうなってしまうと、俺の言えることなどひとつしかない。
「おー、ありがと! うまくいくこと祈ってて!」
 やる気満々といった体で力瘤まで作ってしまった。
 以上がことの顛末だ。
 ため息がふたつ、屋上の空気をかき混ぜる。横眼に七森を見ると、向こうもこちらに視線を投げてきたところだった。口許は申し訳程度に笑っているが、眉根は寄っている。
「俺が昨日変な設定作っちゃったから、こんなことになっちゃったわけでしょう」
 ころり、と喉仏が動いた。細い指を揃え、お供物を捧げ持つようにして、顔を伏せる。声がくぐもる。
「別に本当にピアスあけなくていいし、思い直した理由くらいは考えるつもりだけど……それはそれとして、いい迷惑だよね」
 ごめんね。
 絞り出すような謝罪だった。
 俺の視点では、すべて俺の失策が重なった結果なのだが、七森から見ると一切が自分のせいになってしまうらしい。見ているこちらがつらくなるほど落ち込んでいた。
「それなあ……」
 思わず二度めのため息を吐き出すと、丸まった背中がぎゅっと縮んだ。叱責に備える子どものようで、思わず苦笑してしまう。
 これだから、なんでもそつなくこなすやつはだめだ。
「せっかくだし、解決したら記念にあけることにした。言い訳考えるより、そっち手伝ってくれ」
 前々からあけたいとは思っていたし、つけたいピアスを買ってすらいる。怖気づいて先延ばしにしていただけだから、これはむしろ覚悟を決めるいい機会だ。
 予想を裏切られたらしく、七森が唖然として顔を上げた。
「……でも、痛いよ」
「心読むなって」
 俺がピアスをあけられずにいた理由を正確に言い当ててきた。しょんぼりするなら、正直そっちを遠慮してほしい。
 萎れた顔を見るうち、ふ、と吹き出してしまった。
「そこまで読むんなら、お供物に込められたものも察してほしいんだけど」
 ここまでくると、落ち込むよりも笑ってしまう。七森が不思議そうに首を捻った。嫌いな数学教師を真似た偉そうな動作で手を伸ばし、手つかずのお供物を小突いた。
「いいか。こいつには、『昨日はごめん』『ありがとう』『今日もよろしくお願いします』『ピアスも頼んます』的な念が込められてんだよ」
「……盛るねえ」
「そうだよ。盛り盛り有り余る感情の塊なわけだよ。だから黙って受け取ってくれ」
 言い捨てて、手を引くついでに箱のリボンを解いてやった。つり眼が大きく見開かれ、空の青を映す白いリボンを視線で追う。両端がしなりと膝にかかるのを見届けて、ようやく表情が和らいだ。
「……それじゃ、ありがたくいただこっかな」
 観念した、と言わんばかりの照れ笑いだった。骨ばった指が厚紙の蓋をそっと開く。かわいらしく形作られたチョコレートに、瞳の翳りがみるみる消え失せていった。薄い唇が奇妙な曲線を描く。見るからに、込み上げる笑みを堪えている。
「気に入ったんなら大喜びしてくれたほうが嬉しいんだけど?」
 助け舟を出してみるが、七森はいたずらを指摘されたように首をすくめた。力の限り遠慮した手前、がっつくのは気まずいらしい。蓋を恭しく捧げもったまま、わざとらしい咳払いをした。
「……まあ? 臨城くんの悩みは解決した気がするし? そのお祝いも上乗せして、遠慮なくいただきまあす」
「なんて?」
 解決。何が。
 事態は悪化したとしか思えなかったが、七森の視点ではちがうらしい。聞き捨てならない台詞を吐いた張本人はチョコレートを口に放り込んですっかり幸せそうな顔をしている。
「ちょい、どういうことだよ。何が解決したって?」
 食い気味に尋ねるが、七森は返事をしなかった。もったいぶっているのかと思えば、原因は口のなかのお供物らしい。待て、と手のひらをこちらに向けて、焦ったいほどじっくり味わっている。
「おい、まだ八個もあるだろ。さっさと飲み込め」
 飲み込まない。噛みすらせずに舌の上でころころやっている。いらつく俺が楽しむのに邪魔なのか、瞼を伏せてしまった。こんなことなら奮発するんじゃなかった。
「七森くん、七森くんってば。おい、おーい」
 いくら呼ぼうが知らん顔だ。いらいらと上体を揺らす俺をよそに、音楽でも聴くような優雅さで味わっている。
 こちらが諦めの境地に達したころにようやく飲み下し、黒い眼に俺を映した。
「なんの話だっけ」
「おい」
「ああ、そうそう」
 お供物の余韻でやや夢見心地だった眼が、現実を捉え直す。
「臨城くんの相談って、こっくりさんをどうにかすることだったでしょう。そしたら、元のひかりちゃんに戻ってくれるかもっていう」
「そうだけど……」
「そのこっくりさんが俺に取り憑いたんなら、ひかりちゃんは元に戻るんじゃないかな」
 ってことは、解決でしょう。
「……そういうもんなのか?」
 せっかく説明してくれたのに、怪談の文脈がわからない俺にはぴんとこない。生きた人間が別々の場所に同時発生しないのはわかるが、幽霊も同じように考えていいのだろうか。ホラー映画では何人も同時に呪われている。
 しかし俺の違和感が七森にはいまいちわからないようだ。
「ガキの儀式につき合う幽霊なんて、そんなもんじゃない?」
「じゃない? と言われましてもな……」
 話運びが怪談初心者に優しくない。ナナモリさんは戸惑う相談者そっちのけで小箱を覗き、次の獲物を選びはじめた。昨日十円玉に乗せられていた細い指が、おもちゃじみたお菓子の上をゆっくりと巡回する。あまりの真剣さに追加質問をためらっていると、七森は不意に狩りをやめて蓋を閉ざした。とっておくことにしたらしい。
「ま、差し当たり解決ってことにして、ひかりちゃんのことは経過観察してみてもいいんじゃないかなあ」
「……そういうことなら、まあ、わかるな」
 大切そうにリボンを結び直し、こちらに向き直る。こちらも居住まいを正す。
「そういうわけだから」
「うん」
 視線が交わる。
「またなんかあったら声かけてね」
「七森くんのほうに集中ってことだな」
 声は重なって混ざり合っていたが、七森の台詞は聞き取れた。聞き取れてしまった。
「………」
「………」
 こいつ今なんて言った。
「お前……お前……俺のこと何だと思ってんの……っ」
 声が震えてしまう。七森は誤魔化すように笑った。
「いや、とりあえずの区切りではあるよなって」
「それで『解決やったー終わり!』とはならんだろ! 普通! お前が取り憑かれてんだから!」
「いやなんかこう、あとはこっちでやっとくよっていう……」
「……! ………!」
 もう言葉も出てこない。昨日から感じてはいたが、この男、俺への期待値が低すぎる。頼りがいのない怪談初心者だということを差し引いても、俺から嫌われていると思っているにしても、あんまりだ。
 俺がどんな気持ちで夜更かししたと。
 喉元まで出かかったが、恩着せがましい気がして一度飲み込む。
「近くの神社調べてくれてたの?」
「ッ寺も調べたよぉ! 心を読むなってば!」
「ただの勘だよ」
 痩せた指が自分の眼許を指し示す。取りなすように、鋭い眼が柔らかく弧を描いていた。
「眼が赤かったからさ、夜通しいろいろ考えてくれたのかもなって」
 反射的に眼許を隠した。こういう単純さのせいで、行動を当てられてしまうのだろうか。
「ありがとね」
 いや、やっぱり七森が鋭すぎる。何を隠しても無駄だと割り切った方がいい。何度も思うのに、割り切れない。
 歯噛みしたいのをこらえて、口を開く。
「……素人の浅知恵ってやつかもしれんけどぉ、ホラー映画だとだいたい霊能者とかのお祓いで解決するし……ネット怪談も、そういうの多いし……とか……そういう……俺なりの考え、が、あって……です、ねぇ………」
 言葉にすると、馬鹿みたいだった。昨夜は真剣に考えて「アリ」と判断したはずなのに説明するほどに視線が下がっていき、最後には項垂れてしまう。
「………」
 これはもしや、七森の言うとおり任せてしまったほうがいいのではないか。
 嫌な閃きに呻きが漏れそうになる。
「……一理あるね」
 だから、つむじあたりにそんな返事が降ってきたときは、また慰めか冗談かと思った。
「——」
 慌ててしょうもない解決策を撤回しようと顔を上げると、七森がお供物を鞄に仕舞い込むところだった。ひょいと肩越しに振り返って、唇の端を上げて見せる。装飾の類は一切つけていない鞄を肩に担ぎ、まっすぐに立ち上がった。
 笑んだ瞳が、俺を見下ろす。
「臨城くんの作戦、試してみようか」



 一番近くの神社は、高校と最寄駅のちょうど真ん中あたりにある。大通りを少し脇道に逸れたところに位置しており、そこそこ大きい。ひとまずそこに行ってみることになった。
 七森は果たしてどこまで本気なのか。いつ「冗談でした」と言われるのか。身構えたまま薄い背中についていくうち、校門を出てしまっていた。本気で俺の作戦を実行するつもりらしい。提案しておいてなんだが、そんな行き当たりばったりでいいのか。
「なんか、こんな明るいうちに帰るの、久しぶりかも」
 中心街に向かう橋の上で、七森がしみじみと言った。緊張感のかけらもない。まるきり、放課後遊びに繰り出す同級生、だ。橋を渡る風に髪を遊ばせながら、天を仰ぐ。頭上では大きく空に迫り出した上部材の白が、夏空をくっきりと切り分けていた。眩しい。
 市のシンボルにもなっている大橋の上には、俺たちと同じ制服の男女が、俺たちと同じ方向に歩みを進めていた。早足に追い抜かれ、ふざけ合う集団を追い抜く。喉を反らす七森がぶつかるんじゃないかと勝手にはらはらしたが、どういう仕組みか、空に視線を投げたまま器用に身をかわしていく。
「いつも何時まで屋上にいんの?」
 七森のつぶやきを拾う形で尋ねると、視線だけこちらにくれた。ぐぅっと痩身をしならせて伸びをする。
「下校時刻まで」
「ナナモリさん働きすぎじゃねえの……」
「ひとりでぼおっとして終わる日も結構あるよ」
「それは待機時間だろ。やっぱ働きすぎだよ」
 現在進行形で働かせている俺が言うことでもないが。
 聞けば聞くほど、七森に何の得があるのかわからない。お供物が目当てなのか。高いところが好き、と言っていたから、趣味のついでに「ナナモリさん」をやっているのだろうか。いずれにせよ、割に合うとは思えない。
 首をひねっていると、七森がくるりと身を翻して、半歩後ろを行く俺に向き直った。
「臨城くんは? 部活行かなくていいの?」
 興味があるのかないのか、問いを返してきた。俺の暮らしぶりなど、どうせお見通しだろうに。
「帰宅部だよ」
「あれ、サッカーやってるのかと思ってた」
「だからさあ! なんでわかんの! 何が見えてんの!」
「いや、ただの勘だよ」
 勘の射程が広すぎる。そばにいるだけで皮を剥がれて、赤裸にされてしまう。心許なさをため息で逃した。
「……中学ではやってたよ。もう辞めた。モテなかったから」
 嘘だった。真剣にやっているつもりだったが、不意に自分が「真剣にやっているふり」をしているだけだと気づいて、辞めた。周りは驚いていたし、引き留めてくれるやつもいたが「才能がないのに続けるのはつらいから」と押し切った。最初から最後まで嘘つきだった。思い出すと後ろめたさがこみ上げる。
 この感覚も、見抜かれているんだろうか。
 もう一度深く息をついて、ひりつく胸を宥める。七森は思案げに首を傾げ、鞄を揺すりあげた。
「体育の時間にね、サッカーしてるんだなって思ったんだよ」
 恒例のネタバラシのようだ。しかし今回は見当はずれだった。
「体育でサッカー、やってないじゃんよ」
 やったのはバスケだ。慰めなら失敗だぞ、と少し意地の悪い気分で千里眼を流し見る。七森はもう、俺を見ていなかった。強い風の吹いてくるほうを見はるかして、眼を細める。
「バスケしてるときの動きがサッカー部の子たちと似てたから、サッカー部なんだなって勝手に思ってたんだ」
 染みつくほど、やってたんだね。
「——」
 七森は言うだけ言って橋の欄干から身を乗り出した。川面は流れが静かで止まって見える。俺たちが進むたび、きらきらと光る。
「……まあな」
 七森の言葉がフォローなのか、本当の感想なのか。俺にはやっぱりわからない。



 車の多い街だ。橋を渡り切ると途端に信号が増える。大小さまざまな車体が足止めされて、片側二車線の道路にぎっしりと詰まっていた。排熱に横っ面を炙られる。色とりどりの鉄の塊がぎらついて、暑苦しさを加速させた。そそくさと脇道に逸れる。
「七森くん、この辺よく来る?」
「いや、ぜんぜん。臨城くんは?」
「俺も来ない」
 会話が宙に浮く。暑さが遠ざかった代わりに、居心地悪さがまとわりついていた。普段と立ち位置が少しずれただけで、まるで知らない街だ。広く開かれた商店よりも「会社」然とした無機質なビルがぐっと増えた。よそよそしい通りをいく人々は誰も彼も目的地が定まっているようで、足取りは均質だ。迷いはなく、よそ見もしない。落ち着かない。子どものころから住んでいる街だというのに、よそ者にでもなった気分だった。
 足が速まるに任せて、住宅街へと抜けた。
「ちょっと……サッカー部……インドア派に配慮して……」
 声は後ろから聞こえた。ぎょっとして隣を見ると、七森がいない。身体ごと振り向けば足を引きずるようにしてずいぶん後ろを歩いていた。もう一度驚く。
「元サッカー部だよ……ごめん、大丈夫か?」
 ちょっと急いだだけだというのに、七森はずいぶんぐったりとしていた。うつむいた額からぽたりと汗が落ちて、埃っぽいアスファルトの色を変える。いじるのも気が引けるような有様だ。
 日差しの強さのせいもあるかもしれない。近くの家の塀から大きく庭木の枝がはみ出しているのを見つけ、これ幸いと葉陰に押し込んだ。衣替えの済んでいない長袖のシャツが、痩せた身体にまとわりついていた。捲った袖から覗く腕にはくっきりと血管が浮いている。ふらつく肩をやんわりと押して、その場にしゃがませた。
「ちょっとこれ、飲んで飲んで」
 屋上から立ち去るときに回収した、パックのお茶を差し出す。
「ありがとう……」
 気だるげな手つきでストローを刺す。ひと口、ふた口と、少しずつ水分を飲み下していく。がっつく気力もないようだ。
「あとちょっとなんだけど、頑張れそうか?」
 件の神社には初詣で何度か行ったことがある。もう五分も歩けば着くだろう。しかし、よくつるんでいる友人が運動部員ばかりのせいか、俺より体力のない人間と歩くことがほとんどない。ちびちびと茶を啜っている七森が保つのかどうか、未知数だ。
 途方に暮れていると、小さな頭が微かに上下した。
「……うん。だいぶ、元気になった」
 地面に向けられた笑顔には、力がない。それでも重たげに立ち上がり、先立って歩き出した。
「元気って……」
 後ろ姿は身体の芯が左右に振れている。不安しかない。
「……無理になったら言えよ、ほんと」
 周囲には人の住処が新旧入り乱れて並んでいる。庭に水を巻く人や、手ぶらで駆けていく小学生の姿も見えた。のどかな風景だが、今は少し鬱陶しい。
「いるか? 大丈夫?」
 七森は気配が薄い。すれ違う人の存在感だけで簡単にかき消されてしまう。気配が途切れるたびに振り返って、姿を確認する。
「いるよ……大丈夫……」
 神社に近づくにつれて、確認の頻度が高くなっていく。振り返ればちゃんといるが、見るたび遅れが大きくなっていった。俺が歩調を緩めても効果はない。隣を歩いても気づけば後ろにいる。目的地まで本当に保ってくれるのか。鳩尾がじりじりする。
「ちょい、鞄貸して」
 何度めかの確認の折、たまらず駆け戻って手を差し出した。七森がぎゅっと鞄の紐を握る。小さな頭をふらふらと横に振った。
「いやそこまでは……」
「いや遠慮できる状態かよ」
 いくら日差しが強いとはいえ、この疲労具合はおかしい。七森の通学路の半分にも満たない距離しか歩いていない。もちろん、直射日光とか気温とか、インドア派だからとか、消耗の理由はそれなりに思いつく。
「ほら、あとちょっとだ」
 だとしても。
 妙な胸騒ぎがして、半ば強引に七森の鞄を奪い、肩にかけた。軽い。引き受けた効果があるかどうか疑わしいが、これ以上負担を引き受けようと思ったら、本人を背負うしかなさそうだ。七森はきっと嫌がるだろうし、俺もそれは最終手段にしたい。どうにかこのまま目的地まで頑張ってほしい。加えて足を進めるごとに人の姿が減ってきたせいか、ひとりで道に迷っているような心許なさが募ってきた。一歩一歩祈るように進む。
「ごめん、ちょっと……」
 しかし残念ながら祈りは通じず、石造りの鳥居が見えたところで、とうとう七森が音を上げた。
「……これ以上は、無理そう……」
「えぇここでぇ?」
 もうほとんど到着しているというのに。
 振り返ると、三、四歩後ろで七森はふうふうと荒く息をついていた。眼もどこか虚ろだ。シャツの胸をぎゅっと握って、かろうじて立っているという状態だった。
「ちょ、おい……!」
 宥めすかそうと用意した台詞が、ひと目で消し飛んだ。駆け寄って、前に傾いだ顔を覗き込む。
「大丈夫か? もしかして体調悪かった? 疲れただけ?」
 もともと血色の悪い顔が真っ青だ。首の後ろがざわつく。
「……って、いうか……神社、近づくと……なんか……っなんか、ねえ……」
 返事は歯切れが悪かった。ざらついた声を吐き出すたびに、苦しげに胸を喘がせる。瞳がふらりと宙を彷徨って、遠慮がちに俺に据えられた。
「……俺、なんか……どうか、なってない……?」
「どうかって何が?」
 要領を得ない問いだった。具合は悪そうだし、それはそれで「どうかなっている」といえる。しかし不安げな瞳を見るにそういう問題ではなさそうだ。何を聞かれているのかわからないながらも、一歩引いて観察しようとした。
 だが、そうする前に、気づいてしまった。
「——」
 細い首に、四本の指が絡みついている。
「……っ……っ……!」
「あ、やっぱり……っどうか、なってるんだ。どう、なってる……?」
「ど、う……って……っ」
 七森の背後から伸びた紙のように白い手は、華奢な作りには似合わない乱暴さで、痩せた首を掴んでいた。一瞬七森が自分で握っているのかと思ったが、骨ばった手は二つとも胸の前にある。首に絡んだ指から手首へと視線を走らせるが、持ち主の姿は見えない。七森の足元にはひとり分の影しか落ちていない。
 それでも、細い指は現実的な力を帯びていた。
 なだらかに浮いた喉仏に爪がかかって、ぎりぎりと音がしそうなほど、食い込んでいる。
「ぁ……あ……」
 いつから。
 なぜ。
 どうしよう。
 言葉が頭の中で散らかって、何ひとつ七森に伝えることができない。
「………、……」
 七森も、もはや声を発することができないようだ。黒い瞳は焦りを滲ませて、俺に訴えかけてくる。状況を説明しろ、と。
「は……ぁ……っと……そ、の……」
 俺は俺で、何を言えばいいのかわからない。一方で、自分の手が中途半端に持ち上げられていることにはなぜか気づいてしまう。七森を助けようと咄嗟に伸ばしかけ、即座に躊躇って空中で止まってしまった。この異常事態に怖気づいていた。
 七森は昨日、躊躇なく俺を庇ってくれたのに。
 場違いな自己嫌悪が込み上げる。
「……っちょ、と……まて……待て……っ!」
 そんなものにかかずらっている場合ではない。
 ぐっと自分の手のひらに爪を立てる。
 どうする。
 引き剥がすか。
 俺にできるのか?
 この手を触る?
 くそ、無理だ。
 くそ。
 どうしよう。
 周囲に人の影はない。
 助けは期待できない。
 神社に駆け込むか。
 俺一人で?
 靴底と砂が擦れ合う。
 七森がじっと俺を見つめる。
 つり眼には涙が溜まっている。
「……ぃん……じょ……、……っ?」
 消え入りそうな声が鼓膜を揺らした。
 無理だ。七森から眼を離せない。
 眼を離している間に、これ以上の何かが起きてしまったら。
 なら七森を連れて?
「——」
 一瞬、脳裏を過った。
 痩せた首を、真っ白な手が握り潰す様。
 ——神社に近づくと、なんか……
 だめだ。
「——ッ」
 もう、迷ってはいられなかった。
「……っ?」
 突然腕を掴まれた七森が眼を丸くする。構わず走り出した。
 神社とは反対方向へ、来た道を全力で駆け戻った。



「ほんっっとにごめん……」
 首にはくっきりと指の形の痣が残り、爪でも立てられたのか、ところどころ血が滲んでいる。広場には人通りが多い。視線が気になって、つい七森を隠すように身動ぎした。
 とにかく人の多い場所へ、と思って逃げてきたのが、駅前だ。ぐにゃぐにゃに疲れ切った七森をベンチに放り出したときには、もうあの白い手は影も残っていなかった。ただ生々しい痣だけが、今も細い首にくっきりと巻きついている。
「助けるはずが怪我さすとか、マジでないわ……」
 傷のそばにタオルを添えて消毒液をかけると、七森は僅かに首をすくめた。思わず手を止めてしまう。
「っ、いいよいいよ、そんな気にしなくて」
 痩せた手が俺の手ごとボトルを掴み、握った。エタノールが傷口へと派手に噴射される。
「ぉわ……っ」
「このくらいは怪談の定番だしねえ」
 言葉は通常運転だが、潰された喉を通った声は掠れていた。胸がじくりと痛む。気前よく使われて軽くなった消毒液の容器を鞄に放り込み、大手チェーン薬局の袋から絆創膏の箱を取り出した。
「でかいの選んだけど、隠れるかなこれ……」
「そんなグロくなってる?」
「グロくはねえけど、めっちゃ『被害者』って感じにはなってる……」
「……ちょっと見たいなそれ。鏡ない?」
「ねえよ」
 あるけど。
 嘘を指摘される前に包み紙を破いた。大きな絆創膏で、痣を覆い隠す。やはり一枚では足りず、二枚。正面から左横を回り込んで、項の手前には親指の痕がくっきりと残っている。隠せばおぞましさは軽減されたが、痛々しさが増した。これはこれで「被害者」っぽい。
「……ほんと、ごめん……」
「いや、大丈夫。どうなってるか見てないけど」
 あはは。
 笑い飛ばす声は、もう平時の柔らかさを取り戻していた。貼られた絆創膏を、痩せた指が掻く。
「なんにしろ、本当に取り憑かれてることはわかったし、一個収穫だね」
 ね、と言われても頷ける気がしない。
「支払ったものに対して収穫がささやかすぎるだろ……」
 代わりに冗談めかすつもりだったのに、出てきた声は押しつぶされたように低かった。それでも七森は笑ってくれた。まだ少し青い顔で、ざらついた声で、大したことなど何もなかったと言わんばかりに、笑って見せた。
「そんなことないよ。俺にとっては結構大きい——」
「七森くん、俺のこと励ましすぎるのやめてくださいよ……」
「——」
 それが、耐えられなかった。
 七森が笑みを消して眼を瞬かせる。薄く開いた口からは返事が出てこない。意図を掴みかねているようだ。疲れているところに要らん負担をかけている気がして、胸が詰まった。
 それでもナナモリさんが汲めない以上は、自分で恥を言語化するしかない。痛む喉で深く息を吸った。
「どう考えても、俺の作戦がまずかったじゃん。しかも無理さしたじゃん。で、怪我させたじゃん。そもそも俺が相談ねじ込んだせいでのこの状況じゃん」
「……言われてみれば……?」
「すぐそうやってしらばっくれる! そういうのだよ!」
「えぇ……」
 七森の表情はわけがわからないと言わんばかりだ。
 眼の奥がじんわりと重くなる。上を向くか、うつむくか。迷うまでもなく、情けなさが首を垂れさせた。
「俺の手に負えないから七森くんに頼ったわけだけどさあ……ここでクビにされてもきついけどさあ……」
 握りっぱなしの絆創膏のごみが嫌に眼につく。
「……だからこそ、言い訳ぐらいは自分でやらせてくれよ……」
 手放そうにも拳がほどけなかった。
「………」
 視界の端に七森の脚が見える。ぴくりとも動かないし、返事もない。賑やかな喧騒のなかで、二人して黙りこくる。
「……的な……」
 無反応に耐えきれず、焦点をずらしてしまう。自分が嫌になった。
「……昨日ね」
 不意に七森が口を開いた。ぎくりと肩が揺れてしまう。
 淡白な語り出しに、恐る恐る視線を持ち上げた。
「本当に、びっくりするくらい何もなかったんだよね」
 七森は例によって俺を見ていなかった。表情は薄く、眼差しは何を見るでもなく宙に投げられている。首をさする仕草は無意識のようだった。黒い瞳が、瞼に沿ってころりと動く。心許なげに、彷徨う。
「なんていうか、俺ね、これでも結構怖がってて……ほんとの心霊体験とかはじめてだったし……寝てる間になんか出てたらやだなって、部屋んなかスマホで録画して、朝とか即行で確認しちゃってて……それで……」
 言葉が途切れる。
「……なんもなかった?」
 意識するより先に、尋ねていた。
「……なんもなかった」
 小さな頭が頷く。着地点を見つけたように、確かな動きだった。彷徨っていた眼が寄る方を見つけたように、こちらを見る。俺を映す。
「だからさ、安心しちゃってたんだよね。何も起きないって」
 それで、これだよ。
 首をさする手が止まった。浮かべられた笑みはいつものように柔らかかったが、ほんの少し恥ずかしそうだった。
「だから、ちゃんと気をつけとかないとひどいめに遭うんだなっていうのがわかったのは、大きいよ。本当に」
 そこまで聞いてようやく、話がつながった。
 慰めているわけではないのだ、と伝えてくれていた。不器用で遠回りだったが、そういうことらしかった。
「……嘘じゃない?」
 それを素直に受け取っていいものか。俺のいる場所とは見ている景色も理屈もちがいすぎて、わからない。
「ないない。ありがとね」
 それでもさすがに礼を言われるのはおかしい気がした。しかし突き返したところで、また納得させられてしまうのだろうな、という予感もあった。
「……まあ、そんなら、俺のことは上手に使ってくれればいいわ。頼むな」
 だから、わからないということがわかっただけで、よしとした。
 張り詰めていた空気が、ようやくゆるむ。俺がごみを薬局の袋にまとめはじめると、七森は膝に頬杖をついた。
「とりあえず、下手なことしなければ普通に過ごせちゃうってことだし、このまま日々トライアンドエラーでうまくつき合っていこうかなあ」
「それはさすがに嘘だろ!」
「はは、心読んでくるねえ」
 袋を鞄に押し込みながら噛みつくと、七森は顔を伏せて忍び笑いを洩らした。
「臨城くん、リンジョウさんの才能、開花したんじゃない?」
 こちらが気をゆるめた途端、からかってくる。本当に掴めない。
「ねえよ……ほんで? うまくつき合う作戦は断固なしとして、どうする?」
 俺は正直ネタ切れだ。もともと怪談には疎い。そのぶん、何を振られても答えるぞ、というつもりで二人分の鞄を担ぎ上げた。
 七森は思案げに地面を見ていたが、ひょいと顔を上げると、そのまま立ち上がった。
「とりあえず、本職に頼るのは捨て身の最終手段にしよっかな。神職系が近づいてきただけで呪いが発動して死ぬかもだし」
「こわ……」
「だから次は俺の作戦、つき合ってくれる?」



「確認なんだけど、俺の首を掴んでたのは左手だったんだよね?」
「うん? うん。痣の形も、左手だった。間違いない」
「ってことは、秘伝のこっくりさんの『右手』の部分は絶対の条件じゃないわけだ」
「そうなんのかな」
「それに、さっき出た場所は外、『鍵のかかる部屋』じゃなかった。これも絶対条件じゃない」
「そう……だな……?」
 場所は少し移動して、駅近くの高架下。人工の川や石造りのベンチが設置されてはいるが、人通りはない。高いコンクリートの柱が一定間隔で聳え、その上を走る線路が光を遮って、夕方にはまだ早い時間だというのに薄暗い。申し訳程度に流されている水のにおいは澱んで、鼻にまとわりついた。
 七森は鞄から出した白紙をベンチに広げ、ペンを走らせている。メモをとっているわけではない。赤い鳥居は、薄闇にも鮮やかだった。
「これ、何の確認だ?」
 俺はというと、手持ち無沙汰ななか、よくわからない質問を続けて投げられている。手のなかで十円玉をこねくり回しながら首を捻った。昨日使った十円玉は武藤さんに怪しまれないように祭壇と一緒に置いてきてしまっていて、七森は小銭がないというので、俺の財布から出したものだ。まだ儀式には使っていないのに何となく呪わしい気がしてしまう。
「こっくりさんがどんな幽霊なのかなっていう確認だよ」
 五十音の下に漢数字が並べられていく。
「それがなんかの役に立つのか?」
 ぱちん、と軽い音を立てて、ペン先が収められた。
「言ったでしょう?」
 準備を終えて、第二作戦立案者が顔を上げた。整った相貌に自信ありげな笑みを刷く。
「よくわかんないものをわかんないわかんないって言ってても、何にもわかんないよ」
 まずは相手をよく見なきゃね。
 そういうわけで、条件を変えて試してみるのだという。
 完成した紙には丸みを帯びた文字が並んでいた。ところどころふにゃふにゃとほどけて、下手ではないが達筆でもない。それでも、俺の字と比べればずいぶん整っている。緊張感やおぞましさとは無縁の柔らかな筆跡が、かえって用途の禍々しさを際立たせるようだった。
 じっと見るうち、微かな違和感が首をもたげる。
「……なんか、武藤さんの字と似てないか?」
「そうなの? ひかりちゃんの字、真剣に見たことないからわかんないな」
 本当なのか、どうか。
 首を傾げる仕草に含みはない。あまり関心もないようで、痩せた指は文字ではなく赤い鳥居に乗せられる。とん、とつついて、上目遣いにこちらを見た。
「では、参ろうか」
 本気でやるつもりらしい。七森がそのつもりなら、俺の返事など決まっている。
「——了解……」
 体温ですっかり温んだ十円玉を、丸い爪のそばに置いた。
「俺が言うのも何だけど、さっきあんなことあったのに怖くねえの?」
「怖い話って、怖いからいいんだよ」
「怖いってことだろそれ」
「そう、怖いんだよ」
 ふふふ。
 怖がって聞こえないのは、真っ向から肯定してくるからだろうか。硬貨に指を乗せる動きは淀みない。躊躇いがない。挑発的ですらある。
 望むところだ。
「……今日は庇うなよ」
 向かい側に、指を乗せた。昨日と同じように。
「それは臨城くん次第。それじゃ、眼を閉じて——」
 ツッコミを入れるより早く、七森が息を吸い込んだ。慌てて眼を閉じる。
 ——こっくりさん、こっくりさん、おいでください。
 昨日と同じ、柔らかくて甘い声だ。微かな水音を背景に、使い古された呪文が浮いて響く。余韻が消えるとともに、今日は自然と瞼が開かれた。
 白い指が、加わっていた。
「——ッ」
「離さないで」
「は……なさ……ねえ、けど……っ」
「指も眼もだよ」
「……っだから、心読むなって……!」
 顔を上げたくなるのを必死で堪える。覚悟していたこともあって昨日ほどの衝撃はなく、おかげでなんとか逃げずに済んだが、肩に力が入って仕方なかった。日に焼けてこわばった俺の指と、血色の悪い七森の指、どちらとも似ていない真っ白でしなやかな指は、何度瞬きしても消えずにそこにあった。小さな硬貨の上で、三本の指は爪先が触れそうなほど近くにある。
 確かに、いる。
「………っ……」
 咄嗟に、左手で右腕を掴んでいた。逃げ出すことを許すまいと、力を込める。支える。微かに震えていた指先が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
 それを待っていたように、正面から声がかかる。
「ほんじゃ、始めていくよ」
 十円玉は勝手に動き出したりしない。語りもしない。こっくりさんは待っている。
「よし、こい……!」
 こちらの質問を。
 俺の返事を合図に、穏やかな、けれどいつもより少し硬い声が、そこにいる「何か」に向けて、呼びかける。
「こっくりさんこっくりさん、昨日はちゃんと終わらせなくて申し訳ありません。お帰りいただけますか?」
 十円玉が鳥居を離れる。迷いなく、動き出す。
 ——いいえ
「ッ……」
「定番、定番。ここからだよ……」
 俺を宥める言葉は細く、吐息混じりだ。さすがの七森も緊張しているらしい。
「こっくりさんこっくりさん、あなたはひかりちゃんの呼んでいたこっくりさんですか?」
 ——はい
「俺のところから帰らなくても、ひかりちゃんの呼びかけに答えられるんですか?」
 ——いいえ
「だってさ。よかったねえ」
「いやなんもよくねえわ」
「だよね。俺もそう思う」
 何なんだこいつは。
 やはり七森はツッコミを入れる隙を見せず、次の質問を飛ばす。
「こっくりさんこっくりさん、ひかりちゃんのところからはお帰りくださってたんですよね?」
 ——はい
「なのに俺のところからはお帰りいただけないんですか?」
 ——はい
「それは嫌がらせですか?」
「おい」
 ——いいえ
 ひと呼吸分、七森が迷いを見せる。
「……俺にしてほしいことが、あるとか?」
 ——はい
「ちょ、これ……! 希望見えてきてねえ?」
 思わず声が弾んだ。条件を満たせば帰ってもらえるかもしれない。顔を見合わせたくなる衝動をぐっとこらえる。七森からの返事はなかったが、次の質問を繰り出す声は、はやる心を抑えているように聞こえた。
「こっくりさんこっくりさん、あなたの望みはなんですか?」
 十円玉が初めて、はいといいえのそばを離れた。ベンチの石は磨き整えられている。硬貨は滑らかに紙面を走っていく。
「か……」
「わ……」
 なぜだか、交代で示された文字を読んでしまう。
「つ……」
 焦れったい。
「て……」
 ——かわつて
「カワツテ?」
 続きを待ってみるが、十円玉は「はい」と「いいえ」の間に戻って止まった。「かわつて」で終わりらしい。
「んん……かわって、かな?」
 かわって。「変わって」? 何に。「川って」は、ないか。かわって、かわって、かわって……

 ——代わって

「……な、なもり、くん……」
 寒気が全身にまとわりついた。心臓が嫌な感じに跳ねている。声が情けなく震えた。まだ「代わって」だと決まったわけではないし、そうだとしても意味するところはわからない。だけど、その奇妙な字面が頭にこびりついて離れない。汗が背中を伝う。七森は俺の呼びかけには答えなかった。顔は見えず、気配も薄い。心情を推し量ることができない。
 沈黙は長くは続かなかった。息を吸う音が、微かに耳に届く。
「こっくりさん、こっくりさん、それは——」
 尋ねる声は揺らいでいた。その響きで、何を聞けばいいのか迷っていたのがわかった。それでも、言葉を重ねようとした。そのときだった。
「え——……」
 指が消えた。
 真っ白なこっくりさんの手が、瞬きの間に消えていた。視線は上げていないし、指も離していない。
 思わず漏れた声に、硬質な音が被さる。
 こつん。
「——ッ」
 飛び上がって音源へと視線を向けた。少し離れたところに、女性がいる。黒ずくめで、髪は長い。
 こつん、こつん。
「………」
 スーツを着た、会社員ふうの若者だ。年は俺たちよりも少し上くらいだろう。それ以上のことはわからないが、少なくとも幽霊には見えない。生きた人間だ。
 こつ、こつ。
「………」
 耳を打ったのは、石の敷かれた道をパンプスの底が叩く音だった。急激に張り詰めた緊張の糸が切れて、腹の底からため息をつく。
 勢いよく視線を向けてしまった俺を、女性は不審げに見返してきた。しかし眼が合うと、さっと顔ごと背けられる。
「……?」
 こつこつこつこつ。
 足早に立ち去っていく後ろ姿を見て、気づいた。人通りのない場所でたむろっている金髪の男に突然凝視されたら、怖いだろう。
「あ……」
 待ってくれ言い訳させてくれ。
 頭のなかは即座に大騒ぎになるが、追いかけるどころか声をかけても墓穴を掘るだけだ。諦めて心のなかで謝罪する。お姉さん、怖がらせてごめんなさい。
「……ふうん」
 低い吐息に振り返ってみれば、七森は十円玉から指を離して、腕を組んでいた。つり眼を細めて文字盤を眺め回している。急展開などなかったかのように、思案に耽っていた。
「『鍵のかかる部屋』……『十円玉から眼を逸らさない』……録画している部屋……通行人……」
 じわりと汗が滲み出す。うつむき加減の黒い瞳は光を返さない。口のなかでつぶやかれる音が、社会科準備室の扉越しに聞こえた声を思い出させた。
「七森くん……?」
 恐る恐る呼んでみると、ふっと口をつぐんだ。その唇が柔らかく弧を描く。
「なるほど。出現状況を整理するに、こっくりさんは自分の姿——全身を見られたくないわけだね」
「いや冷静すぎんか?」
 俺が反省会を開いている横で、こっくりさん学会が大きく前進していたらしい。異常事態かと思った。張り詰めた筋肉が一気にゆるむ。
「これが当たりなら、身を守る上では大発見じゃないかなあ。どう思う?」
 七森は紙を見つめてばかりでこちらをまるで見ないので「どちら」に聞いているのか、判断が遅れた。こっくりさんは消えてしまったのだから俺に決まっている。
「……今んとこは筋が通ってるような気がするけど。とりあえず、なるべくカメラ回しといたほうがいいんじゃねえの……」
 無駄にびびらされたことに文句を言いたいのをぐっと堪えた。正体も目的も不明の幽霊が相手だ。どう対策すれいいかわからない現状では、試せることが増えたというだけで喜ばしい。素直に同意を示すと、七森がおかしそうに笑った。やっと顔を上げて俺を見る。
「常に自撮りするやつが完成しちゃうね」
 その首には、十本の指が絡んでいた。
「——」
 笑った口許が引き攣る。「どうかなった」のがわかったのだろう、即座にベンチから立ちあがろうとするが、背後からの急襲に力負けして座り込んだ。
「な、なもりくん!」
 そのまま川に転がり落ちそうになるのを、肩を掴んで阻止する。指先から伝わる骨ばった感触が、あまりの急展開に真っ白になりかけた頭を現実に引き止めた。
「——ッ」
 ためらったのは一瞬だ。恐怖を押し殺して七森の肩をこちらに引き寄せた。こっくりさんへの対抗方法はたった今わかったばかりだ。
 姿を見れば、消せる。
「ぅ……ぐッ」
 背後を覗き込もうとしたが、嫌な感触が七森の骨を通して伝わって、咄嗟に力をゆるめた。白い手に引かれ、細い首が大きく仰け反る。俺が肩を引っ張るのと同じか、それ以上の強さがかけられている。
「くそ……っ」
 引き寄せるのは諦める。代わりにこちらから身体を傾けて七森の背後を覗き込んだ。白い手が首を捻り上げて七森の向きを強引に変えた。完全に盾にしている。
「ん、ぐ……!」
 七森の指が、こっくりさんの手も自分の首も区別なく掻きむしった。貼ったばかりの絆創膏が捲れ、食いしばった口から唾液がこぼれる。無理な力をかけられて、痩せた首が不穏な音を立てた。
 折られる。
 物理の授業など真面目に受けた試しはないが、それでも簡単に想像できた。総毛立ち、脚が震えだす。
「ぁ……ぅ、ぅ……ッ……」
 思考停止しかけた俺の眼の前で、硬く瞑られていた瞼が薄く開かれる。黒眼が薄暗い路地を懸命に彷徨い、やがて俺を見つけた。
 俺を見つめた。
「——ッ」
 のんびり検討している暇はない。怖気づいてばかりでもいられない。
 いたくない。
 七森の肩を片手に掴んだまま、文字盤と十円玉を乱暴に鷲掴みにして、ズボンのポケットに押し込んだ。二人分の鞄をまとめて担ぐ。
「っちょ……っと!無理さす!」
 丸い後頭部と鎖骨にがっちりと手をかけ、両側から力をかける。強引だが、しなっていた首はまっすぐになった。ただ、折られる心配がなくなっても締める力に変化はないのだろう、鈍い呻きが耳を突く。
「ごめん!」
 怯む心を押さえ込んで、力尽くで痩身を立たせた。下手に隣に並ぼうとすれば首が捩じ切られそうだ。位置は七森の斜め前、シャツの胸ぐらをしっかりと掴む。
 そのまま七森を引きずるようにして、駅前広場へと駆け出した。



 日の落ちかけた広場の片隅で、二人蹲る。七森に至っては地面にべったりとへたり込み、側溝に頭を突っ込むような体勢だ。先ほどからずっと吐いていて、そろそろ出るものもなくなってきていた。
 だけど、生きている。
 無理やりで労りのかけらもない、思い返せば勝算すら薄い力技に耐えて、生き延びてくれていた。
 肋の浮いた胸を支えてやりながら、背中をさする。手を離せば吐瀉物のなかに頭から突っ込みそうなほど力が抜けていたが、それでも手のひらには脈が伝わってくる。
 生きている。
「頑張ってくれて、ありがとうな……」
 涙が滲むのを堪える気すら起きなかった。
 ぐす、と洟を啜る。嘔吐する高校生を介抱しながら泣く不良、という珍妙な組み合わせは、家路を急ぐ人たちの視線を集めていた。さっきここにいたときは人目が気になってたまらなかったのに、今は見守られているような心地になっている。
 ふと、七森の重心が下半身へと動いた。慌てて意識を戻すと、吐くのをやめて座る体勢を整えていた。
「大丈夫か? 口ゆすぐか?」
 涙と涎と鼻水と、おそらく汗も混じっているだろう。疲れ切った顔はぐっしょりと濡れていた。鞄からタオルを出して顎下に当ててやると、覚束ないながらも受け取って、無言で拭いはじめる。返事は急がずに、緩慢な手つきを見守った。やがてタオルから眼許を覗かせ、瞬きを二度、三度と繰り返す。眉を顰めた。
「……ぃん、じょぅ……く……ぅげっほ!」
「うん、うん。ゆっくり話してくれ」
 七森は幾度か咳き込んだあと、瞼を閉じて深呼吸した。ゆっくりと眼を開き、深刻そうに俺を見る。思わず、背筋が伸びた。
「……コンタクト……おとした……」
「あああ⁉︎ どこに⁉︎」
 逃げている最中なら見つけようがないし、現場だと言われても戻る気がしない。
「げろのなか……」
 七森が眼をこすりながら呟いた。どうも、吐瀉物とともに浮かんできた涙で押し流されてしまったらしい。側溝に溜まっている胃液を見やる。
「……もう諦めろ。命には代えらんねえ」
 口に出してすぐ、心臓が跳ねた。
 命。
「………」
 汚れた手を眼許から引き剥がしてやりながら、俺は何も言えなくなる。無惨に剥がれ落ちた絆創膏のそばには、新しい傷がある。こっくりさんの爪あとと七森の掻きむしった痕とが血を滲ませていた。
「死ぬかと、思ったね。思ったでしょう?」
 七森の語り口はもう、普段の調子を取り戻していた。声は、まだざらついている。
「……思った」
 七森の首がもう少しやわだったら、俺が諦め悪くこっくりさんを「見て」追い払おうとしていたら。
 あのとき、俺を頼ってくれなかったら。
 焦りの引いた全身に、どっと汗が吹き出した。生々しい傷から、七森の顔へと視線をずらす。青ざめて、口許は引き攣っていた。話し方だけは平静を装えても、身体は頭に従わない。不自由ななか、赤くなった眼と歪んだ唇で、それでも七森は笑おうとしていた。いつもどおりに、柔らかく。
「だよね。俺も、ひとりだったら死んでた気がする」
 助けてくれて、ありがとね。
 俺をまっすぐ見て、笑おうとしてくれていた。その顔を見て、ようやく、逃げ切った実感が湧いた。
 七森を助けられたのだ、と思えた。
 俺の緊張がゆるんだのが伝わったのか、七森のこわばった笑みがわずかに和らぐ。
 かけられた笑顔も言葉も、励ましなのか本気なのかは相変わらずわからない。わからなくてもいい。
「……七森くんも、助かってくれて、ありがとな」
 ただ、七森も俺の言葉でほっとしてくれたのだけは、わかった。
 ふつりと会話が途切れる。同時に、いつもの放課後と呼んでいいような、ゆるんだ空気が戻ってきた。七森が未練がましく吐瀉物を凝視ししはじめる。険しい表情を乗せると整った顔立ちは途端に近寄りがたさを醸し出した。
 思わず視線を外しかけて、すぐに戻す。
「……録画、録画録画録画!」
「早くない? まだ人目もあるし——」
「今から始めろすぐ始めろ!」
「スマホの容量——」
「今! ナウ! 録画ッ!」



 こっくりさんは七森を殺すつもりだろう。
 「かわって」の意味はまだわからない。「変わって」なのか「代わって」なのか、もっと他の読み方があるのか。聞いてみないことにはなんとも言えない。それでも、人目がなくなった途端に狙ってくるところを見ると、こっくりさんが七森に死んでほしがっているのは明らかだった。
 以上が、七森を家まで送り届ける最中、そして一晩考えて今朝、登校中に話し合った結果だった。
 コンタクトを落としたせいもあって昨夜は素直に送られてくれたが、朝、家の前で待つ俺を見つけた七森はかなり嫌そうな顔をした。見慣れない眼鏡の奥で、眼差しがじとりと湿る。
「ちょっと、手厚すぎじゃないの、相談者さん」
 昨日の一件で遠慮がなくなったらしい。申し訳なさそうにされるよりは余程気が楽で、自然と口の端が上がった。
「眼は多いに越したことないだろ」
「それはそうなんだけどさあ……」
「俺の心の平穏のためにもつき合ってくれよ」
 どこで衆目が途切れるかわからない。それはつまり、いつ襲われるかわからないということだ。力勝負になったとき、七森が自分で抵抗し切れるかという点はかなり怪しい。物理的には遠回りをすることにはなるが、心配して過ごす長い時間を思えば送迎するのは精神的にはかなりの時短だった。
 七森も、最初こそ文句らしき台詞を吐いたものの、逃げたり突き放したりすることはなかった。昨日のことがずいぶん応えているらしい。俺の半歩前を自撮りしながらゆっくり歩く。少し歩いては俺を振り返ってくる。いるぞと笑って見せるとほんの少し悔しそうに眼を逸らされた。迎えにきてよかったな、と思った。
 そんなわけだから、もうナナモリさんとつるんでいることを隠す気にはなれず、会う人会う人にピアスをあける宣言をした。
 放課後も今日は一緒に教室を出てやるつもりだったのだが、七森を捕まえるより早く声がかかった。
「ねえ臨城くん、ちょっといい?」
 武藤さんだった。
 普段と変わらない明るい笑みに、背中がひやりとする。
「頼みたいことがあるんだけど、忙しいかな」
 机の狭間をするりと抜けて、華奢な身体が触れそうなほどそばに来る。切り揃えられた前髪の下で、眉が下がるのが見えた。
「あ、俺……」
 言葉が続かない。
 ひょっとしたらついていけば事態の解決に役立つ情報が得られるのかもしれない。しかし今は七森を一人にしたくなかった。特に放課後は校内から人が減る。どうにかやんわり断りたいが、誘いは先約がない限り全て受ける主義なのが祟って、断り文句の持ち合わせがない。頼みの綱とばかりに七森に視線をやると、興味深げにこちらを見ていた。
 いや、助けろよ。
「えーと……」
 馬鹿みたいに返事を引き延ばす俺に、武藤さんは小さく笑った。ひょいと背伸びして、顔を近づける。表情が見えなくなる。
「こっくりさんしよ」
 ふたりで。
 耳許で囁く声は、しっとりと甘かった。