好きだった子が、なんだか変わってしまった。
初夏、まだ明るい空の下で吐き出した俺の悩みごとは、自分の耳にも恥ずかしいほど感傷的に響いた。
梅雨が明けたばかりとはいえ日差しはずいぶん鋭くなっており、身をひそめている給水塔の影は濃い。一日炙られた空気を昨夜の雨の名残をはらんだ風がかき混ぜて、汗ばんだ肌を生ぬるく撫でていった。
「それで、どうして俺に話しかけてきたの?」
隣から返ってきたのは、確認の言葉だった。強い口調ではないのに、怯んでしまう。一瞬遅れて、寄り添ってもらえることを期待していた自分に気づいた。羞恥心が上乗せされ、項垂れるついでのように頷く。
「まあ、そういう反応になるよな……」
今までほとんど話したことのない相手だ。不思議がられるのは当たり前だ。こんなのは予想の範疇、予想の範疇。
「ただ、さ……」
自分相手にフォローを入れながら、横目に相談相手の姿を窺う。抱えた膝に頬を乗せて、じっとこちらを見ていた。視線ががっちりと重なってしまう。涼しげな顔には「心底わからない」と書かれていて、話そうと焦る喉が締めつけられた。
いつも、誰かの話を穏やかに聞いている男が、自分には受け入れる姿勢を示してくれていない。
いかついやつに突っかかられるよりも余程逃げ出したくなる状況だったが、俺の方から半ば強引に連れ出してしまった手前、そんなことはできなかった。視線を外せないまま、強張った唇を開く。
「……七森くんは……オカルトに強い、って、聞いてて……」
詰まる喉から、無理やり言葉を絞り出した。また質問で返されたら、今度は答える自信がなかった。身を固くして次の一手を待ち構えていると、相談相手——七森明(ななもりあける)は、やっと優しげに整った顔に笑みを浮かべ、頷きを返してくれた。
「なるほど、臨城くんの好きな子って、『あの』界隈にいる子なんだね」
りんじょうくん。字も響きもなんとなくごつい俺の名字すら、七森の声で発せられるとどこか丸みを帯びて聞こえた。誘われるように、ふっと呼吸が楽になる。「『あの』界隈」という言い方が引っかからないわけではなかったが、これだけで、気の弱そうな連中に頼られる理由は十分に察せられた。今日とて俺が声をかけなければ、ここで他の誰かの悩みや弱音を聞かされていたことだろう。
そして今日の相談者は、俺だ。
「……七森くん」
互いの間に置かれたきりになっていた「お供物」を改めて手に取り、七森へと差し出す。自分ならまず食べない、可愛らしいパッケージのチョコレートを。
そして、神頼みでもする心地で、同級生に頭を下げた。
「あの子を元に戻したいんだ。助けてくれ」
祈るように、ぐっと眼を閉じる。
「……理屈はわかったよ」
優しい、微かな吐息が鼓膜を掠める。
「でも臨城くん、俺のこと嫌いでしょう?」
背中がひんやりとした。
弾かれたように顔を上げる。率直な台詞に反して、俺を見る表情は柔らかい。細い髪のかかる眼はやんわりと弧を描いていて、微笑みはいっそ甘やかですらあった。
「それでも俺に頼みたいの?」
どこか眠そうな瞳の奥には、ひっそりとした不快が滲んでいた。
○
今年の梅雨は息苦しかった。
空を覆う雨雲は厚く、降る雨は大粒だった。進級で入れ替わった顔ぶれにもだいぶ馴染んできた時期だったが、親交をもう一歩深めようと出かけるには億劫な天気が続いていた。代わりに室内で机を囲むのにちょうどいい「遊び」が必要で、そのうちのひとつとして誰かが始めたのが、こっくりさんだった。ちょっと懐古的なものが流行っていたからか、気になることを共有するのにちょうどよかったからか。細く開けた窓からまだ少し肌寒い風が吹き込むなか、幾人かの男女が机を覗き込んではしゃぐのを何度も見かけた。
俺も一度だけ参加したことがある。
どこか薄暗い日だった。電気の白っぽい光が降るなか、机を覗き込む友人たちの影は輪郭がぼやけて、湿った空気に滲み出すように見えた。
調子のいいやつが十円玉を都合のいい方へと引き寄せる。参加しているやつが大袈裟に責め、そばで見ている女の子たちが身を寄せ合う。雨に閉ざされた教室に笑い声がぎゅうぎゅうと押し込められる。囃す声に追い立てられるように、十円玉は紙の上を右往左往した。
——はい
——いいえ
——きらい
——ばか
——しね
あはは。
笑い声の弾けるなか、ふと疑問が脳裏をよぎった。
これ、本当に冗談か?
笑いを取るための単なるおふざけだと、頭では理解していた。だけどそのなかに本音が隠されていなかったなんて、誰が証明できるのか。疑ったのは一瞬だったが、それだけで俺はもう参加できなくなった。一回やったきり、あとはいくら誘われても「幽霊が怖い」ふりをして、外から眺める程度に努めた。幸いなことに、こっくりさんは一瞬だけ流行って、すぐに廃れていった。
ただ、たいていの流行り物がそうであるように、一部の人間は流行りが過ぎてからも続けていたようだ。
そのうちの一人が俺の好きだった子——武藤ひかりだ。
彼女が続けていなければ、こっくりさんのことなんて今ごろ忘れ去っていたことだろう。
発覚したのは梅雨も終わりに近づいたある日だった。放課後は友だちと席で話していることの多かった武藤さんが、近ごろ教室にいない。気づいてすぐ、共通の友人に行き先を尋ねてみた。
「ひかりなら、こっくりさんしてるらしいよ」
嘘だろ、と思った。
一年生のときから同じクラスだった。人当たりは柔らかいのに、笑い方はからっとしているところが、いいな、と思った。そんな彼女が、いってはなんだが「湿っぽい」遊びにはまっているのが意外に思えた。
詳しく聞きたかったが、誰とどんなふうにしているのかはその友だちも知らなかった。得られたのは時間と会場の情報だけだ。その日すぐ、放課後に武藤さんがこっくりさんをしているという社会科準備室に、行ってみた。
件の部屋と同じ並びにある教室はどれも照明が落とされていて薄暗い。近くで活動している部も用事のある人間もないようで、廊下はひっそりとしていた。雨音が切れめなく続くうち、耳鳴りとすり替わってしまいそうなほどだった。問題の準備室の扉に窓はなく、軽く引いてみたが鍵がかけられていた。
やはり、友人の勘違いではないか。
一瞬証言を疑ったとき、異音が雨の音をすり抜けてきた。
「——……」
傷んだ木の扉の向こうで、声がしていた。人数も、男女の別もわからない。耳を澄ませても、言葉を聞き取ることはできない。ただ、湿気を吸い込んだ校舎に低く響き、鼓膜をざらりと震わせた。複数の声が折り重なり絡まり合い、雨に降り込められた獣の唸りのようにも思えた。
武藤さん?
呼んでみようとした口からは声が出なかった。
扉を叩いてみる勇気も、出なかった。
「昨日さ、社会の準備室とか、いた?」
代わりに翌日、武藤さんに直接尋ねてみた。
昼休み、弁当を食べ終わって所用を済ませた瞬間を見計らった。彼女を眼で追うようになって一年ほどが経つ。何気ないふうを装って廊下で声をかけるのは朝飯前だ。ただ、かける言葉にいつもより白々しさが滲んでしまうのは、どうしようもなかった。
武藤さんはきょとんと瞬き、すぐに眼を丸くした。
「あー、いたいた! 昨日、ドア開けようとしたの、もしかして臨城くん?」
答える声はいつもどおりだった。勝手に、関係が変わってしまうような反応を想像していただけに、肩透かし感すらあった。顔のこわばりが解けるのが自分でもわかった。
「気づいてたんだ。なんか、なかから声聞こえてたから、もしかして、って思ってさ」
「うわー、私のこと探してくれてた? ごめんね」
彼女には、隠したり後ろめたく思ったりしている様子はまるでなかった。顔の前で小さな両手を合わせて、首をすくめて見せる。
「こっくりさんの最中って、誰も出入りできないようにしてるんだ」
そしてあっさりと、なかで行われていたことを口に出した。その扱いは教室でこっくりさんが流行っていたころと変わりない。軽い遊びを語る言葉だ。前日、廊下を満たしていた異様な雰囲気は影もない。
俺も軽く笑った。自然に笑えた。
「めっちゃ本格的じゃん。やっぱ継続勢はやり方にこだわりとかあるんだ?」
言いながら、からかっていると思われたら嫌だな、と思った。しかし彼女に気を悪くした気配はない。ただ、下げた指の先を顎に当て、しげしげと俺の顔を見つめた。
「興味、あるの?」
ことり、と首を傾げてみせる。丸い瞳が上目遣いに俺を見た。正直、こっくりさんにはまったく興味がない。
「ある」
即答した。武藤さんは上体を斜めにして、思案げな吐息を漏らした。
「んんー……」
鼻唄でも歌うような、楽しげな響きだ。肩にかかる髪が、カーディガンの上を滑っていく。
「臨城くんになら、教えてもいっかなー? どうしよっかなー?」
俺になら、という言葉に胸が弾んだ。
「絶対、人には言わない! 内緒にする!」
勢い込んで言うと、武藤さんはおかしそうに笑った。よく知っている、あの気持ちのいい笑い声だった。弾むように身体を縦に戻して、俺をまっすぐに見つめる。
「では君に、秘伝の技を軽ーく伝授してあげよう」
秘密だよ、とでも言うように指を一本立てて唇に当てて見せる。
「お願いします」
神妙に頷くと、彼女は笑みを深めて廊下の壁に背中を預けた。窓から差す午後の光が雨に拡散されて、白い頬をほんのりと光らせる。
武藤さんは唇に当てた指の先を芝居がかった仕草で俺に向けた。
「まず、鍵のかかる部屋を用意すること。途中参加は不可。途中退場も絶対不可」
「初手から秘伝じゃん」
「門扉は広く開かれておりまーす。ただし、ちゃんときまりを守ってくれる人にはね。実際、参加するのは何人でもいいんだ」
でもね、と、立てられた指が二本に増える。
「十円玉に指を置くのは二人だけ」
「三人じゃなくて?」
思わず素で口を挟んでしまった。教室でやっていたときは無理やり大人数で指を置くこともあったが、なんとなく三人でやるのが本式なのだと思っていた。ホラー映画の影響かもしれない。
それを見透かされたのか、武藤さんはしたり顔でピースサインを俺に突きつけてきた。今にも俺の胸に触れてしまいそうで、つい仰け反ってしまう。
「そう。ここがコツなんだ。はっきり人数制限はないんだけど、机を囲める人数で、指を置くのは二人だけ」
「……ふたりきり、でもいいの?」
喉が鳴りそうになるのを堪える。
「いいよ。やったことある。成功したよ」
彼女は立てた指を再び一本に戻し、床を指すような仕草をした。
「それで、参加者はみんな、十円玉だけを見ること」
弾む胸を宥めながら、指先に視線を向ける。その場に幻の机が立ち上がる。
「十円玉と、置かれている右手の人差し指に集中すること。指を置いてない人も一緒。儀式の最中は絶対に顔を上げちゃだめ」
ぎしき、という単語が飛び出したことに苦笑しそうになるのを飲み込んだ。ここで笑えば、ふたりきりのこっくりさんへの道は確実に絶たれる。
「全員が十円玉を見てることを確認したら、一度みんなで眼を閉じて、代表者が呼びかけるの」
「こっくりさん、こっくりさん、おいでください、って?」
言いながら、視線を彼女の顔に戻した。
「そうそう」
彼女は笑っていた。
「ゆっくり唱えて、眼を開けるんだ。するとね」
——右手がひとつ、増えてるの。
「——」
「そうしたら、成功だよ」
彼女はその後の作法も丁寧に教えてくれたが、俺は結局、用意していた言葉を言えなかった。俺としようよ、なんて言えなかった。
湿り気を帯びた微笑みは、知らない人の顔をしていた。
○
梅雨は明けた。俺は誰にも相談できずにいた。
話せる友人がいなかったわけじゃない。思い浮かぶ顔のうち誰に話しても、親身に聞いてくれただろう。
だけど、嫌だった。
たかがこっくりさん、たかが俺の違和感のために、武藤さんが何か別の枠に入れられてしまいそうで、嫌だった。
かといって、何もなかったことにはどうしてもできそうにない。俺の好きな笑顔を見るたびにあのときの顔が重なって、胸の奥が薄暗く澱むのを振り払うことができなかった。
梅雨の間散々悩んで最終的に頼ったのが、大して話したこともない同級生だ。
「七森くん、怖い話好きなんだろ? 集めてるんだろ?」
乗り気でなさそうな七森に必死に言い募る。進級したとき、最初の自己紹介で確かにそう言っていた。顔のいいやつが変なキャラで売ってるな、というような感想を持った。よく覚えている。加えて、こっくりさんが流行していたころは周囲に引き摺り込まれるようにしてよく参加していた。七森が入ると動く、なんて話まであった。
しかし七森は困ったように眉を下げる。
「俺、怖い話が好きなだけで、霊感体質とかそういうのじゃないんだけど」
当時、この台詞も何度か聞いていた。表情まで同じだが、声にはほんのり棘を感じる。俺を怯ませるには十分な拒絶だった。引き下がりたくなるのを堪えて、チョコレートをさらに突きつける。
梅雨の間に何度も聞いた言葉を唱えた。
「っこっくりさんと似たようなモノなんだろ? 頼むよ『ナナモリさん』!」
俺の言葉を聞くなり、七森の眉根がかすかに寄った。
「……それ、俺が言い出したんじゃないんだよねえ。始めたのも俺じゃないし」
声が低くなる。背中に嫌な汗が滲んだ。
「でも、嫌いな俺を頼ってきた理由はよくわかったよ」
——屋上にいる「ナナモリさん」にお供物をすると、悩みごとを解決してくれる。
一年生のころ、友人から聞いた話だ。いくつかのきまりを守って屋上にいる男子生徒に相談をすると、どんな悩みも解決するという噂。当時はよくあるオカルトじみたおまじないの類だと思って、すぐに忘れた。二年になって同じ教室に七森の姿を見たときも、「ナナモリさん」の話を思い出すことはなかった。クラスの連中に「学校の怪談」的ないじられ方をしているのを見てやっと、七森が「ナナモリさん」であることに気づいた。
そのくらい、オカルトにも七森にも関心がなかった。
「それにね、俺、たぶん臨城くんが期待してるような大層な存在じゃないよ。心霊系の相談の解決実績とかもないし」
だから七森の反応は別に理不尽なものではない。十分わかっている。わかるが。
「俺が七森くんの客層とちがうのはよくわかるよ。でも本当に困ってるんだ。このとおり……!」
ここで断られたら、俺に打つ手はない。
ぐうっと頭を下げる。
「客層ってねえ……」
「結果だめでも構わない! 聞いてくれるだけで大感謝祭だから!」
「どういうことなのそれ……」
細いため息が蒸した空気をかき混ぜた。それ以上の言葉はなく、沈黙が降りる。顔を上げられない。引き際もわからない。
いや、引き際などない。
そう決め込んで、必死に頭を下げ続けた。
「………っ」
どれほど経ったころだろうか。不意に、く、と手許のお供物を引かれた。
「……溶けちゃうよ、そんな握ったら」
顔を上げると、七森の細い指がチョコレートの箱にかかっていた。呆れたような眼と視線がぶつかる。二度、三度と箱をゆすられて、慌てて手を離した。
「ごめん……」
七森は答えず、難しい顔でファンシーなパッケージを見つめた。
「臨城くん、あんまりチョコ食べないでしょう?」
「え? ……あ、もしかしてそれ、あんまりうまくないやつ? うわ、ごめん!」
俺からしたらちょっとお高めではあるが、所詮はコンビニで買ってきたものだ。お供物としては不十分だったのかもしれない。返品交換なら謹んで受けようと思ったのだが。
「いや、うまいよ。俺は好き」
そう言って、さらに顔を顰める。気に入らないわけではないのに、この顔。意味がわからなかった。
「ただ、夏にチョコだし、握っちゃうしさ……」
作法の問題だったのか。
「なんかさ、そういう一生懸命なとこ、ずるいよねえ……」
こぼして、苦笑した。瞳がころりと動いて、切れ上がった眦に寄る。俺を見る。
「……本当にこういう相談は受けたことないから、解決するかわかんないよ」
「……受けてくれるってこと?」
「甘いものも怖い話も好きだから、臨城くんが俺のこと嫌いそうなのは、まあ眼を瞑るよ」
「受けてくれるってことか!」
「責任重そうな言い方しないでよぉ……」
居心地悪そうに身をすくめるが、否定はしなかった。
「ありがとう!」
思わず頭を下げると、視界の端で薄い身体がびくりと跳ねるのが見えた。
ともかく俺は、相談相手を手に入れたらしい。
「嫌いでしょう」という問いには、はいともいいえとも言わないまま。
初夏、まだ明るい空の下で吐き出した俺の悩みごとは、自分の耳にも恥ずかしいほど感傷的に響いた。
梅雨が明けたばかりとはいえ日差しはずいぶん鋭くなっており、身をひそめている給水塔の影は濃い。一日炙られた空気を昨夜の雨の名残をはらんだ風がかき混ぜて、汗ばんだ肌を生ぬるく撫でていった。
「それで、どうして俺に話しかけてきたの?」
隣から返ってきたのは、確認の言葉だった。強い口調ではないのに、怯んでしまう。一瞬遅れて、寄り添ってもらえることを期待していた自分に気づいた。羞恥心が上乗せされ、項垂れるついでのように頷く。
「まあ、そういう反応になるよな……」
今までほとんど話したことのない相手だ。不思議がられるのは当たり前だ。こんなのは予想の範疇、予想の範疇。
「ただ、さ……」
自分相手にフォローを入れながら、横目に相談相手の姿を窺う。抱えた膝に頬を乗せて、じっとこちらを見ていた。視線ががっちりと重なってしまう。涼しげな顔には「心底わからない」と書かれていて、話そうと焦る喉が締めつけられた。
いつも、誰かの話を穏やかに聞いている男が、自分には受け入れる姿勢を示してくれていない。
いかついやつに突っかかられるよりも余程逃げ出したくなる状況だったが、俺の方から半ば強引に連れ出してしまった手前、そんなことはできなかった。視線を外せないまま、強張った唇を開く。
「……七森くんは……オカルトに強い、って、聞いてて……」
詰まる喉から、無理やり言葉を絞り出した。また質問で返されたら、今度は答える自信がなかった。身を固くして次の一手を待ち構えていると、相談相手——七森明(ななもりあける)は、やっと優しげに整った顔に笑みを浮かべ、頷きを返してくれた。
「なるほど、臨城くんの好きな子って、『あの』界隈にいる子なんだね」
りんじょうくん。字も響きもなんとなくごつい俺の名字すら、七森の声で発せられるとどこか丸みを帯びて聞こえた。誘われるように、ふっと呼吸が楽になる。「『あの』界隈」という言い方が引っかからないわけではなかったが、これだけで、気の弱そうな連中に頼られる理由は十分に察せられた。今日とて俺が声をかけなければ、ここで他の誰かの悩みや弱音を聞かされていたことだろう。
そして今日の相談者は、俺だ。
「……七森くん」
互いの間に置かれたきりになっていた「お供物」を改めて手に取り、七森へと差し出す。自分ならまず食べない、可愛らしいパッケージのチョコレートを。
そして、神頼みでもする心地で、同級生に頭を下げた。
「あの子を元に戻したいんだ。助けてくれ」
祈るように、ぐっと眼を閉じる。
「……理屈はわかったよ」
優しい、微かな吐息が鼓膜を掠める。
「でも臨城くん、俺のこと嫌いでしょう?」
背中がひんやりとした。
弾かれたように顔を上げる。率直な台詞に反して、俺を見る表情は柔らかい。細い髪のかかる眼はやんわりと弧を描いていて、微笑みはいっそ甘やかですらあった。
「それでも俺に頼みたいの?」
どこか眠そうな瞳の奥には、ひっそりとした不快が滲んでいた。
○
今年の梅雨は息苦しかった。
空を覆う雨雲は厚く、降る雨は大粒だった。進級で入れ替わった顔ぶれにもだいぶ馴染んできた時期だったが、親交をもう一歩深めようと出かけるには億劫な天気が続いていた。代わりに室内で机を囲むのにちょうどいい「遊び」が必要で、そのうちのひとつとして誰かが始めたのが、こっくりさんだった。ちょっと懐古的なものが流行っていたからか、気になることを共有するのにちょうどよかったからか。細く開けた窓からまだ少し肌寒い風が吹き込むなか、幾人かの男女が机を覗き込んではしゃぐのを何度も見かけた。
俺も一度だけ参加したことがある。
どこか薄暗い日だった。電気の白っぽい光が降るなか、机を覗き込む友人たちの影は輪郭がぼやけて、湿った空気に滲み出すように見えた。
調子のいいやつが十円玉を都合のいい方へと引き寄せる。参加しているやつが大袈裟に責め、そばで見ている女の子たちが身を寄せ合う。雨に閉ざされた教室に笑い声がぎゅうぎゅうと押し込められる。囃す声に追い立てられるように、十円玉は紙の上を右往左往した。
——はい
——いいえ
——きらい
——ばか
——しね
あはは。
笑い声の弾けるなか、ふと疑問が脳裏をよぎった。
これ、本当に冗談か?
笑いを取るための単なるおふざけだと、頭では理解していた。だけどそのなかに本音が隠されていなかったなんて、誰が証明できるのか。疑ったのは一瞬だったが、それだけで俺はもう参加できなくなった。一回やったきり、あとはいくら誘われても「幽霊が怖い」ふりをして、外から眺める程度に努めた。幸いなことに、こっくりさんは一瞬だけ流行って、すぐに廃れていった。
ただ、たいていの流行り物がそうであるように、一部の人間は流行りが過ぎてからも続けていたようだ。
そのうちの一人が俺の好きだった子——武藤ひかりだ。
彼女が続けていなければ、こっくりさんのことなんて今ごろ忘れ去っていたことだろう。
発覚したのは梅雨も終わりに近づいたある日だった。放課後は友だちと席で話していることの多かった武藤さんが、近ごろ教室にいない。気づいてすぐ、共通の友人に行き先を尋ねてみた。
「ひかりなら、こっくりさんしてるらしいよ」
嘘だろ、と思った。
一年生のときから同じクラスだった。人当たりは柔らかいのに、笑い方はからっとしているところが、いいな、と思った。そんな彼女が、いってはなんだが「湿っぽい」遊びにはまっているのが意外に思えた。
詳しく聞きたかったが、誰とどんなふうにしているのかはその友だちも知らなかった。得られたのは時間と会場の情報だけだ。その日すぐ、放課後に武藤さんがこっくりさんをしているという社会科準備室に、行ってみた。
件の部屋と同じ並びにある教室はどれも照明が落とされていて薄暗い。近くで活動している部も用事のある人間もないようで、廊下はひっそりとしていた。雨音が切れめなく続くうち、耳鳴りとすり替わってしまいそうなほどだった。問題の準備室の扉に窓はなく、軽く引いてみたが鍵がかけられていた。
やはり、友人の勘違いではないか。
一瞬証言を疑ったとき、異音が雨の音をすり抜けてきた。
「——……」
傷んだ木の扉の向こうで、声がしていた。人数も、男女の別もわからない。耳を澄ませても、言葉を聞き取ることはできない。ただ、湿気を吸い込んだ校舎に低く響き、鼓膜をざらりと震わせた。複数の声が折り重なり絡まり合い、雨に降り込められた獣の唸りのようにも思えた。
武藤さん?
呼んでみようとした口からは声が出なかった。
扉を叩いてみる勇気も、出なかった。
「昨日さ、社会の準備室とか、いた?」
代わりに翌日、武藤さんに直接尋ねてみた。
昼休み、弁当を食べ終わって所用を済ませた瞬間を見計らった。彼女を眼で追うようになって一年ほどが経つ。何気ないふうを装って廊下で声をかけるのは朝飯前だ。ただ、かける言葉にいつもより白々しさが滲んでしまうのは、どうしようもなかった。
武藤さんはきょとんと瞬き、すぐに眼を丸くした。
「あー、いたいた! 昨日、ドア開けようとしたの、もしかして臨城くん?」
答える声はいつもどおりだった。勝手に、関係が変わってしまうような反応を想像していただけに、肩透かし感すらあった。顔のこわばりが解けるのが自分でもわかった。
「気づいてたんだ。なんか、なかから声聞こえてたから、もしかして、って思ってさ」
「うわー、私のこと探してくれてた? ごめんね」
彼女には、隠したり後ろめたく思ったりしている様子はまるでなかった。顔の前で小さな両手を合わせて、首をすくめて見せる。
「こっくりさんの最中って、誰も出入りできないようにしてるんだ」
そしてあっさりと、なかで行われていたことを口に出した。その扱いは教室でこっくりさんが流行っていたころと変わりない。軽い遊びを語る言葉だ。前日、廊下を満たしていた異様な雰囲気は影もない。
俺も軽く笑った。自然に笑えた。
「めっちゃ本格的じゃん。やっぱ継続勢はやり方にこだわりとかあるんだ?」
言いながら、からかっていると思われたら嫌だな、と思った。しかし彼女に気を悪くした気配はない。ただ、下げた指の先を顎に当て、しげしげと俺の顔を見つめた。
「興味、あるの?」
ことり、と首を傾げてみせる。丸い瞳が上目遣いに俺を見た。正直、こっくりさんにはまったく興味がない。
「ある」
即答した。武藤さんは上体を斜めにして、思案げな吐息を漏らした。
「んんー……」
鼻唄でも歌うような、楽しげな響きだ。肩にかかる髪が、カーディガンの上を滑っていく。
「臨城くんになら、教えてもいっかなー? どうしよっかなー?」
俺になら、という言葉に胸が弾んだ。
「絶対、人には言わない! 内緒にする!」
勢い込んで言うと、武藤さんはおかしそうに笑った。よく知っている、あの気持ちのいい笑い声だった。弾むように身体を縦に戻して、俺をまっすぐに見つめる。
「では君に、秘伝の技を軽ーく伝授してあげよう」
秘密だよ、とでも言うように指を一本立てて唇に当てて見せる。
「お願いします」
神妙に頷くと、彼女は笑みを深めて廊下の壁に背中を預けた。窓から差す午後の光が雨に拡散されて、白い頬をほんのりと光らせる。
武藤さんは唇に当てた指の先を芝居がかった仕草で俺に向けた。
「まず、鍵のかかる部屋を用意すること。途中参加は不可。途中退場も絶対不可」
「初手から秘伝じゃん」
「門扉は広く開かれておりまーす。ただし、ちゃんときまりを守ってくれる人にはね。実際、参加するのは何人でもいいんだ」
でもね、と、立てられた指が二本に増える。
「十円玉に指を置くのは二人だけ」
「三人じゃなくて?」
思わず素で口を挟んでしまった。教室でやっていたときは無理やり大人数で指を置くこともあったが、なんとなく三人でやるのが本式なのだと思っていた。ホラー映画の影響かもしれない。
それを見透かされたのか、武藤さんはしたり顔でピースサインを俺に突きつけてきた。今にも俺の胸に触れてしまいそうで、つい仰け反ってしまう。
「そう。ここがコツなんだ。はっきり人数制限はないんだけど、机を囲める人数で、指を置くのは二人だけ」
「……ふたりきり、でもいいの?」
喉が鳴りそうになるのを堪える。
「いいよ。やったことある。成功したよ」
彼女は立てた指を再び一本に戻し、床を指すような仕草をした。
「それで、参加者はみんな、十円玉だけを見ること」
弾む胸を宥めながら、指先に視線を向ける。その場に幻の机が立ち上がる。
「十円玉と、置かれている右手の人差し指に集中すること。指を置いてない人も一緒。儀式の最中は絶対に顔を上げちゃだめ」
ぎしき、という単語が飛び出したことに苦笑しそうになるのを飲み込んだ。ここで笑えば、ふたりきりのこっくりさんへの道は確実に絶たれる。
「全員が十円玉を見てることを確認したら、一度みんなで眼を閉じて、代表者が呼びかけるの」
「こっくりさん、こっくりさん、おいでください、って?」
言いながら、視線を彼女の顔に戻した。
「そうそう」
彼女は笑っていた。
「ゆっくり唱えて、眼を開けるんだ。するとね」
——右手がひとつ、増えてるの。
「——」
「そうしたら、成功だよ」
彼女はその後の作法も丁寧に教えてくれたが、俺は結局、用意していた言葉を言えなかった。俺としようよ、なんて言えなかった。
湿り気を帯びた微笑みは、知らない人の顔をしていた。
○
梅雨は明けた。俺は誰にも相談できずにいた。
話せる友人がいなかったわけじゃない。思い浮かぶ顔のうち誰に話しても、親身に聞いてくれただろう。
だけど、嫌だった。
たかがこっくりさん、たかが俺の違和感のために、武藤さんが何か別の枠に入れられてしまいそうで、嫌だった。
かといって、何もなかったことにはどうしてもできそうにない。俺の好きな笑顔を見るたびにあのときの顔が重なって、胸の奥が薄暗く澱むのを振り払うことができなかった。
梅雨の間散々悩んで最終的に頼ったのが、大して話したこともない同級生だ。
「七森くん、怖い話好きなんだろ? 集めてるんだろ?」
乗り気でなさそうな七森に必死に言い募る。進級したとき、最初の自己紹介で確かにそう言っていた。顔のいいやつが変なキャラで売ってるな、というような感想を持った。よく覚えている。加えて、こっくりさんが流行していたころは周囲に引き摺り込まれるようにしてよく参加していた。七森が入ると動く、なんて話まであった。
しかし七森は困ったように眉を下げる。
「俺、怖い話が好きなだけで、霊感体質とかそういうのじゃないんだけど」
当時、この台詞も何度か聞いていた。表情まで同じだが、声にはほんのり棘を感じる。俺を怯ませるには十分な拒絶だった。引き下がりたくなるのを堪えて、チョコレートをさらに突きつける。
梅雨の間に何度も聞いた言葉を唱えた。
「っこっくりさんと似たようなモノなんだろ? 頼むよ『ナナモリさん』!」
俺の言葉を聞くなり、七森の眉根がかすかに寄った。
「……それ、俺が言い出したんじゃないんだよねえ。始めたのも俺じゃないし」
声が低くなる。背中に嫌な汗が滲んだ。
「でも、嫌いな俺を頼ってきた理由はよくわかったよ」
——屋上にいる「ナナモリさん」にお供物をすると、悩みごとを解決してくれる。
一年生のころ、友人から聞いた話だ。いくつかのきまりを守って屋上にいる男子生徒に相談をすると、どんな悩みも解決するという噂。当時はよくあるオカルトじみたおまじないの類だと思って、すぐに忘れた。二年になって同じ教室に七森の姿を見たときも、「ナナモリさん」の話を思い出すことはなかった。クラスの連中に「学校の怪談」的ないじられ方をしているのを見てやっと、七森が「ナナモリさん」であることに気づいた。
そのくらい、オカルトにも七森にも関心がなかった。
「それにね、俺、たぶん臨城くんが期待してるような大層な存在じゃないよ。心霊系の相談の解決実績とかもないし」
だから七森の反応は別に理不尽なものではない。十分わかっている。わかるが。
「俺が七森くんの客層とちがうのはよくわかるよ。でも本当に困ってるんだ。このとおり……!」
ここで断られたら、俺に打つ手はない。
ぐうっと頭を下げる。
「客層ってねえ……」
「結果だめでも構わない! 聞いてくれるだけで大感謝祭だから!」
「どういうことなのそれ……」
細いため息が蒸した空気をかき混ぜた。それ以上の言葉はなく、沈黙が降りる。顔を上げられない。引き際もわからない。
いや、引き際などない。
そう決め込んで、必死に頭を下げ続けた。
「………っ」
どれほど経ったころだろうか。不意に、く、と手許のお供物を引かれた。
「……溶けちゃうよ、そんな握ったら」
顔を上げると、七森の細い指がチョコレートの箱にかかっていた。呆れたような眼と視線がぶつかる。二度、三度と箱をゆすられて、慌てて手を離した。
「ごめん……」
七森は答えず、難しい顔でファンシーなパッケージを見つめた。
「臨城くん、あんまりチョコ食べないでしょう?」
「え? ……あ、もしかしてそれ、あんまりうまくないやつ? うわ、ごめん!」
俺からしたらちょっとお高めではあるが、所詮はコンビニで買ってきたものだ。お供物としては不十分だったのかもしれない。返品交換なら謹んで受けようと思ったのだが。
「いや、うまいよ。俺は好き」
そう言って、さらに顔を顰める。気に入らないわけではないのに、この顔。意味がわからなかった。
「ただ、夏にチョコだし、握っちゃうしさ……」
作法の問題だったのか。
「なんかさ、そういう一生懸命なとこ、ずるいよねえ……」
こぼして、苦笑した。瞳がころりと動いて、切れ上がった眦に寄る。俺を見る。
「……本当にこういう相談は受けたことないから、解決するかわかんないよ」
「……受けてくれるってこと?」
「甘いものも怖い話も好きだから、臨城くんが俺のこと嫌いそうなのは、まあ眼を瞑るよ」
「受けてくれるってことか!」
「責任重そうな言い方しないでよぉ……」
居心地悪そうに身をすくめるが、否定はしなかった。
「ありがとう!」
思わず頭を下げると、視界の端で薄い身体がびくりと跳ねるのが見えた。
ともかく俺は、相談相手を手に入れたらしい。
「嫌いでしょう」という問いには、はいともいいえとも言わないまま。
