その日は朝から雨が降っていた。
どこから仕入れてきたのか、クラスメイトたちが口々に話していたのは、英語教師の神山と化学の高見が結婚するらしい、という噂話だった。
神山は俺たちが一年の時の担任で、線が細くて、声も小さい、気弱そうな男性教師だ。
一方の高見は昨日、市岡に付き添って、化学室に一緒に入ったあの女性教師だが、どう見てもあの二人の相性はよくなさそうで、付き合っていたということに驚いた。
「高見先生、結構性格キツいのに、神山先生、大丈夫かな」「尻に敷かれるの、確実だよな」等とクラスの連中が話しているのが聞こえる。
暫くして和泉が教室の後ろのドアから入ってきた。その顔を見てギョッとする。真っ青だったからだ。
「和泉」
駆け寄ると、和泉は俺を見上げて口元を歪に曲げた笑顔を作る。
「黒崎くん……おはよう」
「おはようじゃねえよ、どうした、顔真っ青だぞ」
「うん……、風邪とかじゃないんだ。ちょっと……」
そこで言葉を区切った和泉が、迷う顔を見せた。誰かに聞かれたくないのかもしれない。
少し身体を傾けた。和泉がちょっとだけ背伸びをして、俺に耳打ちしてくる。
「……学校中に、黒い靄が視えるんだ」
「学校中に?」
和泉は頷くと、小さく口を開いた。
「色はそこまで濃くなくて、薄いグレーみたいな色なんだけど……」
勿論、俺には見えない。だが、空気が澱んでいる、とか、重苦しい、とかは理解できるので、和泉の「色」は似たようなものなんじゃないか、と勝手に解釈した。
「全体に靄がかかると、息苦しくて。……昔、こういう靄を経験したことあるんだ」
「いつ?」
「幼稚園の頃。……母さんが、死んだ日」
思いもよらない一言が聞こえて、一瞬思考が停止する。
詳しく訊ねようと口を開きかけた時、「やばい!」と叫びながら、一人のクラスメイトが教室に飛び込んできた。
「飛び降りだって!」
瞬時に教室中がざわついた。俺も和泉も、そいつの顔を凝視する。
「植え込みの奥にあったから、朝の見回りでは気づかなかったらしい! 二年の女子!」
「え、自殺?」
「飛び降りって、死んだの?」
みんなが一斉に騒ぎ出した。すると今度は別の生徒が教室に入ってくるなり、叫んだ。
「自殺だって! 市岡! 二組の市岡らしい!」
教室の中はパニックのようにざわつき、騒がしくなる。怖いと言って泣き出す生徒もいた。
和泉と目が合った。和泉はきゅっと唇を引き結んでいる。何かを耐えている顔だ。
黒板の上のスピーカーから、ガガッというマイクが入る音がした。少しの間の後、アナウンスが流れる。
「登校している生徒の皆さん、速やかに教室に入って待機してください。繰り返します。登校している生徒の皆さん、速やかに教室に入って待機してください」
アナウンスとほぼ同時のタイミングで、廊下からは「教室に入れ」という、教師の怒号とも言える声が響く。
間もなく担任が教室に入ってきた。和泉と話したかったが、とりあえず席に戻る。
担任は鎮痛な面持ちで「悲しいお知らせがあります」と切り出した。
「今朝、二年生の女子生徒が亡くなりました。詳しいことはまだわかりません。ですが、本日は臨時休校になりました。明日以降については追って連絡をします」
担任はそれ以上は何も言わなかった。何人かの生徒が「誰が亡くなったんですか」「自殺ですか」と訊ねたが、担任は「憶測で物を言ってはいけません」と諭しただけだ。
クラスの連中も無駄だと悟ったんだろう。担任の誘導に従い、俺たちは下校することになった。
校内は重苦しい空気に包まれている。あちこちで啜り泣きが聞こえてきて、現実なんだと思い知った。
和泉はまだ青い顔をしていた。側に寄ると俺の顔を見てから、瞼を伏せる。
正門の外にパトカーと救急車が停まっていた。思わずギクリとしてしまう。
雨の冷たさが気温を下げているせいで、冬でもないのに寒かった。
「和泉、大丈夫か」
「うん……」
言ってから間の抜けた質問だと思った。「大丈夫か」と聞かれたら、和泉のことだ。「大丈夫」としか返さないに決まっている。
「悪い、質問変える。俺にできることねえ?」
和泉はぐっと顎を引くと、躊躇いがちに何か言いたそうな顔を俺に向けた。
「言えよ。できることはやる。できねえことはちゃんと断る。俺、そういうのはっきり言うし」
俺の言葉に和泉が少し眉を下げる。
「……じゃあ、言おうかな」
「ん。なに?」
「……一人でいたくなくて。少しだけ、一緒にいてもいい?」
遠慮の塊みたいな和泉のセリフに、ハーッとわざと大きく息を吐いた。
「あのなあ、そんな真っ青な顔したヤツを放っとけるわけねえだろ、最初からそのつもりだっての」
和泉はぱちぱちと瞬きを繰り返した後、「ありがとう」と言った。
俺の家に呼ぼうかと考えていると、和泉が「よかったらうちにきて」と言ったので、お邪魔することにした。
思い返せば、和泉の家にはまだ入ったことがない。家の前まで送ったことがあるだけだ。
電車に乗り、和泉の家に向かった。電車の中では二人とも無言だったが、和泉の顔色が学校を離れる毎に少しよくなったのでホッとした。
電車を降りてから徒歩十五分。やっぱり無言で歩いた。和泉の家の前に到着する。
和泉は門扉をゆっくり押し開けると、「入って」と言った。
立派な一軒家だな、と改めて思う。古いけれど、頑丈で威厳のある建物に見えた。
家族は不在だった。和泉はひとりっ子だと言っていたし、父子家庭だとも言っていた。平日の朝だ、父親は出社した後だろう。
一階にある和室に通された。暫くしてから和泉は急須と湯呑みを運んできた。
「古い家でしょ」
「いや、なんつーか……そりゃ新しいかって言われたらそうは思わねえけど、立派だなって思った」
「昔は、じいちゃんとばあちゃんも一緒に住んでた。今は父さんと二人になっちゃったけど」
和泉が湯呑みに茶を淹れてくれた。手慣れていたので、普段からこうやって飲んでいるのかもしれない。
俺なんて家で湯を沸かす時は、カップラーメンを食う時くらいだ。
「和泉の親父さんって、仕事、何してんの」
「建築士」
「すげ」
「黒崎くんのお父さんは?」
「銀行マン」
中身のないような、そんな会話を少し続けた。二人とも、核心を避けている。
でも今は、この何気ない会話に救われる思いだった。
「じゃあ黒崎くん、お父さんに似たんだね」
和泉の言葉に「よく言われるけど、違うんだよな」と返す。
「俺が似たのはじいちゃん。大学で数学教えてた」
「すごい」
「俺の名前、『遙斗』、これじいちゃんがつけたんだよな。世界で一番美しい数式を発見した、レオンハルト・オイラーからもらったんだと」
カバンからノートを取り出し、オイラーの等式を書き込んだ。
eiπ=-1。
ネイピア数e、円周率π、虚数単位 i、数字のー1……お互いに関係なさそうな概念が集まって一つの等式になっている。
「お互いに独立してるようで、実は相互に関係してるってことをこんな短い式で表してる。これが美しいって言われてる理由」
「人間と同じだね」
思いもよらないことを和泉は口にした。
「人はみんな個々として独立してるのに、独りの人なんていない。みんな誰かと繋がってるし、相互に関係を持ってるから」
和泉らしい解釈だ、と思った。そしてそれはきっと、人間関係の本質なんだろう。
和泉が僅かに瞼を伏せた。睫毛が震えているのがわかる。
「……繋がってたのに。俺たち、……俺、昨日市岡さんと話したのに。彼女が怖い思いしてるの、わかってたのに。助けられなかった。……助けられなかった……!」
堰を切ったように和泉が言葉を吐き出していく。悲痛なその声が、俺の胸にじわりと広がった。
「俺のせいだ……、俺がもっとちゃんと、市岡さんに危ないから気をつけてって、きつく言えば、そうしたら彼女は……ッ」
「和泉!」
顔を覆おうとした和泉の手首を掴んだ。和泉は乱れた息のまま、俺をじっと見つめた。
「そうじゃねえだろ。お前が市岡のことを背負う必要なんかない。市岡が死んだ理由はまだわかってねえし、仮に! ……仮に自死だったとしても、お前に責任なんか一つもねえよ」
今、ここで俺が迷うわけにはいかない、と思った。
自責の念に駆られる和泉を、俺が真正面から受け止めた上で否定してやらなきゃ、コイツはどこまでも暗い海の底に引き摺られてしまう。そんな気がした。
和泉の唇が震える。眉根を苦しそうに寄せると、和泉の瞳に張った薄い膜が破れ、大粒の涙が頬を伝った。
「助けられなかったの、……二度目なんだ」
それは、俺の胸の真ん中を麻酔なしで切り開くような、鋭くて重たい一言だった。
(……俺と、同じ)
不意に脳裏に浮かぶ顔がある。
懐かしいその顔を必死に払おうとかぶりを振った。
俺と和泉は正反対だ。それなのに。
それなのに、心の奥で抱えているものが同じだなんて、思いもしなかった。
「……幼稚園の頃だよ。朝起きたら、母さんの身体に真っ黒な靄がかかってた。……正直言うとね、俺の家には常に薄墨みたいな色の靄が立ち込めてるんだ。その頃にはばあちゃんはもう死んでたけど、……近所の人たちもばあちゃんの予言みたいなのを信じてて、和泉さんのところの刹那くんは早死にするらしいって噂しててさ。……その噂がずっと家の周りや中に纏わりついてた」
信じたくない話だった。和泉が視えると言っていた靄のことじゃない。
まだ幼稚園に通う幼児に、早死にするだの何だの、そんな話を真に受けて、悪趣味極まりない噂話をする大人がいることを、だ。
「今日みたいな雨の日だった。いつもは母さんが幼稚園に迎えにきてくれるのに、その日はなかなか来なくて。ずっと幼稚園の入り口のとこで待ってた。先生たちも家に電話したりしてくれたけど、連絡つかなくて……夕方になって父親が来てくれた。そのまま病院に行ったら、母さんは寝かされてて……顔に、白い布がかけてあって」
「和泉、もういい」
遮ろうとした俺に、和泉は俯いて首を左右に振った。
「嫌じゃないなら、黒崎くんに聞いて欲しい」
「……嫌とかじゃねえよ。お前が、……辛いんじゃねえかって、思って」
「大丈夫。……ありがとう、黒崎くん」
礼を言われることじゃない。和泉といると何度も思うことを、また思った。
「交通事故だったんだ。アクセルとブレーキを踏み間違えたんだろうっていうのが、警察の見解。雨でスリップしてしまった、とも言ってた。遺書もなかったし。……でも、俺は自殺だったんじゃないかって思ってる。あるいは……」
「……あるいは?」
「……人の噂に殺されたんじゃないかと、思ってる」
背中を、冷たい汗がつーっと伝ったのがわかる。
俺は決して、霊的なものを信じたりはしない。
それでも、和泉の話には説得力があった。市岡の件がその後押しをしているのは明白だ。
「俺、母さんの笑顔ってほとんど覚えてないんだ。いつも悲しい顔してた。俺がちょっと怪我したり、風邪を引いたりすると、血相変えて病院に連れてく人でね。刹那ごめんね、刹那死なないでって泣くの。父さんはそんな母さんに呆れてた。ばあちゃんの言うことなんて信じるなって。でも母さんは信じてたから……、噂が母さんに纏わりついて、苦しくて、……それで、あんな最期になったんだと思う」
もう気安く、「そんな馬鹿げたこと、信じてんのかよ」なんて言えなかった。
和泉にとって噂は目に見えないものじゃない。母親の死と直接結びつく、目に視える現象なのだ。
それを、自分には見えない、と言って軽くあしらうのは、和泉に対して誠実ではない気がした。
「言葉や声には、力がある。噂が噂を呼び、現実に影響を及ぼすことは、悪いことだけで起こる現象じゃないでしょ?」
話を振られて和泉の顔を見た。いつの間にか泣き止んでいて、少しだけ安堵した。
「……まあ、口コミの影響みたいなのはあるよな。映画、ドラマ、食い物とか、口コミで影響されて流行ったり炎上したりってのは珍しくないっつーか」
「うん。だから噂話は怖さも秘めてる。……市岡さんに纏わりついてた黒い靄は、彼女を追い詰めてしまったんだと思う」
噂が人を殺すなんて、と思う気持ちは、ないわけじゃない。
だが実際には、芸能人が誹謗中傷で亡くなるというニュースを見たことは何度もあった。
俺には和泉が視えるような色は見えなくても、その影響を受けて亡くなる人がいる、という現実は見える。
「……和泉はさ、市岡のこと、どう思う?」
「……昨日の時点で、靄はかかってた。廊下にも残ってたし、……でも、……死に追いやられるほどの濃度だったかと言われたら、ちょっと違うなって……。黒崎くんは?」
和泉の言葉に、俺はノートをパラパラと捲り、目的のページを開いた。
「昨日帰ってから市岡の話を元に、あのコツコツって音と、ビーカーの中身が真っ赤に染まったって話をもっかい計算してみたんだよな。結論から言うと、恐らくビーカーの件は人間の仕業だ」
あれに関してはいくらでも細工ができた。市岡のビーカーだけに仕掛けるのは、そんなに難しいことじゃない。ただし、仕掛けられる人間は限られている。
「収納庫にも準備室にも化学室にも、鍵がかかってる。それを考えりゃ、生徒が仕掛けるにはハードルが高いよな」
「……先生がやったってこと?」
「仕掛けられる人間は限定的だって話だ。何が目的かまではわかんねえけどな」
和泉は考え込むように口元に手をやった。何を考えているのか、大体わかる。俺も似たようなことを考えている自覚があった。
(昨日の高見の態度はおかしかったよな)
市岡は気づいてなさそうだったが、どう見ても高見は面倒くさそうだったし、それを隠そうともしていなかった。
放課後に生徒に手を取られるのが鬱陶しいのか、と考えたが、それだけであんな露骨な態度を取るだろうか。
廊下で奇妙な音がした後も、平然と下校を促してきた。
「……昨日ね、先生の声、ちょっと変だったんだ」
「だろうな」
「え、なんで?」
「何でって、お前、高見が口開いた瞬間にびくってしただろ。色が視えるっつってたし、あー、なんか嫌な色視えちまったパターンかなって思ってた」
俺の言葉に和泉は目を丸くしてから、それを細める。
「……なんだよ」
「ううん。視えるって言ったこと、信じてくれてるんだなと思って」
バツが悪くて、髪を掻き混ぜた。
「……別に、俺に見えないからってお前を否定する理由にはなんねえから」
自分の言葉に自分で驚く。目に見えないものなんか信じない俺が、和泉の言葉を受け止めて、受け入れている。
「……で? どう変だったわけ?」
「うん。赤と黒が混じった色だった」
「黒は憎悪だろ。赤は何だっけ」
「怒り」
怒り、と聞いて、確かに妙だな、と考えた。
確かに面倒なことを頼んだかもしれないが、鍵を開け閉めするくらいで怒りにまで発展するとは思えない。
それに、憎悪も気になる。教師が生徒にそこまでの感情を抱くことなんて、なかなかないのではないか。
「……市岡さんに、特別な感情があるんだなって思った。でも、先生が生徒に対して抱くには、ちょっと強すぎる色だなって思って……」
「だけど、廊下から聞こえた音は高見じゃねえよ」
ノートをシャープペンシルの頭で、コツコツと叩く。
あの時、高見は俺たちと一緒に化学室にいた。最初に音が聞こえた時、高見も驚いた顔をしていたのを覚えている。
高見が何らかの仕掛けをしたとしても、化学室にいながら、廊下を移動するあの音を出せたとは思えない。
「あれは、噂話の振動かも」
「振動?」
「俺の家でもよく鳴るんだ。決まった間隔で、コツコツ、トントンって。ばあちゃんは、そういう音は人の声が振動になって、遅れてやってくる音だって言ってた。声として残らず、音として残るって」
「音ってのは振動だ。空気が揺れてるだけ。で、その揺れは壁とか床に当たって跳ね返るし、場合によっちゃ残響として残る。それは確かなんだよ」
媒質があれば基本的に、振動はどこまでも伝わる。空気でも床でも壁でもいい。一度エネルギーとして発生したら、減衰しながらも残っていく。
音もそれと同じだ。人が喋った声は空気を震わせて、それが波として広がる。普通はすぐに拡散して消えるけれど、条件が揃えば、反射して、重なって、妙な形で残ることもある。
恐らくそれが、夏の心霊番組なんかで「霊の声が聞こえた」などと騒ぐアレの正体だと俺は思っている。
「……けど、そう考えると辻褄が合わねえんだよな。きっかり0.6秒間隔の音は、振動だなんだでは説明できねえ」
計算に足りない何かがある。それを突き止められればあの音の正体がきっとわかるのに、今この瞬間に解けないことがもどかしい。
ノートの端に先ほど書き込んだ、オイラーの等式を見つめる。
一見すると関係なさそうな概念が集まっているのに、実は相互に関係がある──、市岡の死の裏に隠れた、噂話を始めとする複雑な関係を、俺たちはまだ何もわかっていないのかもしれない。
和泉がリュックのポケットを開けた。中からウサギの絆創膏を取り出す。昨日市岡からもらったものだ。
「……もう、後悔したくない。市岡さんに何があったのか、ちゃんとこの目で確かめたい。……ダメかな?」
和泉の真剣な眼差しの中に、俺を窺う感情が見えた。
後悔はしたくない、という言葉が、頭の中で繰り返し反響する。
(……そうなんだよな。俺も、後悔はしたくねえんだよ)
後悔したくないから、人と深く関わるのをやめた。
それなのに、その決意を破って和泉に関わることで、また後悔することになったら?
(二の舞はごめんだ)
二度と「あんな思い」をしたくないのなら、俺にできることは一つ。
和泉から目を離さず、和泉の死の確率を覆すこと。
市岡の件に首を突っ込むのなら、和泉の死亡フラグはなかなか回収できない。
何せコイツは、常時30%という高い確率で死と隣り合わせで、おまけに自らそこに飛び込んでいく。
「……お前、ほんと、マジで責任取れよ」
「責任?」
首を傾げる和泉に言ってやる。
「俺をこうさせた責任取れよって言ってんの。絶対死なせねえからな」
理不尽なことを言っている、と自分でも思う。
それなのに和泉は、口元を綻ばせて「責任取るよ」と言った。
どこから仕入れてきたのか、クラスメイトたちが口々に話していたのは、英語教師の神山と化学の高見が結婚するらしい、という噂話だった。
神山は俺たちが一年の時の担任で、線が細くて、声も小さい、気弱そうな男性教師だ。
一方の高見は昨日、市岡に付き添って、化学室に一緒に入ったあの女性教師だが、どう見てもあの二人の相性はよくなさそうで、付き合っていたということに驚いた。
「高見先生、結構性格キツいのに、神山先生、大丈夫かな」「尻に敷かれるの、確実だよな」等とクラスの連中が話しているのが聞こえる。
暫くして和泉が教室の後ろのドアから入ってきた。その顔を見てギョッとする。真っ青だったからだ。
「和泉」
駆け寄ると、和泉は俺を見上げて口元を歪に曲げた笑顔を作る。
「黒崎くん……おはよう」
「おはようじゃねえよ、どうした、顔真っ青だぞ」
「うん……、風邪とかじゃないんだ。ちょっと……」
そこで言葉を区切った和泉が、迷う顔を見せた。誰かに聞かれたくないのかもしれない。
少し身体を傾けた。和泉がちょっとだけ背伸びをして、俺に耳打ちしてくる。
「……学校中に、黒い靄が視えるんだ」
「学校中に?」
和泉は頷くと、小さく口を開いた。
「色はそこまで濃くなくて、薄いグレーみたいな色なんだけど……」
勿論、俺には見えない。だが、空気が澱んでいる、とか、重苦しい、とかは理解できるので、和泉の「色」は似たようなものなんじゃないか、と勝手に解釈した。
「全体に靄がかかると、息苦しくて。……昔、こういう靄を経験したことあるんだ」
「いつ?」
「幼稚園の頃。……母さんが、死んだ日」
思いもよらない一言が聞こえて、一瞬思考が停止する。
詳しく訊ねようと口を開きかけた時、「やばい!」と叫びながら、一人のクラスメイトが教室に飛び込んできた。
「飛び降りだって!」
瞬時に教室中がざわついた。俺も和泉も、そいつの顔を凝視する。
「植え込みの奥にあったから、朝の見回りでは気づかなかったらしい! 二年の女子!」
「え、自殺?」
「飛び降りって、死んだの?」
みんなが一斉に騒ぎ出した。すると今度は別の生徒が教室に入ってくるなり、叫んだ。
「自殺だって! 市岡! 二組の市岡らしい!」
教室の中はパニックのようにざわつき、騒がしくなる。怖いと言って泣き出す生徒もいた。
和泉と目が合った。和泉はきゅっと唇を引き結んでいる。何かを耐えている顔だ。
黒板の上のスピーカーから、ガガッというマイクが入る音がした。少しの間の後、アナウンスが流れる。
「登校している生徒の皆さん、速やかに教室に入って待機してください。繰り返します。登校している生徒の皆さん、速やかに教室に入って待機してください」
アナウンスとほぼ同時のタイミングで、廊下からは「教室に入れ」という、教師の怒号とも言える声が響く。
間もなく担任が教室に入ってきた。和泉と話したかったが、とりあえず席に戻る。
担任は鎮痛な面持ちで「悲しいお知らせがあります」と切り出した。
「今朝、二年生の女子生徒が亡くなりました。詳しいことはまだわかりません。ですが、本日は臨時休校になりました。明日以降については追って連絡をします」
担任はそれ以上は何も言わなかった。何人かの生徒が「誰が亡くなったんですか」「自殺ですか」と訊ねたが、担任は「憶測で物を言ってはいけません」と諭しただけだ。
クラスの連中も無駄だと悟ったんだろう。担任の誘導に従い、俺たちは下校することになった。
校内は重苦しい空気に包まれている。あちこちで啜り泣きが聞こえてきて、現実なんだと思い知った。
和泉はまだ青い顔をしていた。側に寄ると俺の顔を見てから、瞼を伏せる。
正門の外にパトカーと救急車が停まっていた。思わずギクリとしてしまう。
雨の冷たさが気温を下げているせいで、冬でもないのに寒かった。
「和泉、大丈夫か」
「うん……」
言ってから間の抜けた質問だと思った。「大丈夫か」と聞かれたら、和泉のことだ。「大丈夫」としか返さないに決まっている。
「悪い、質問変える。俺にできることねえ?」
和泉はぐっと顎を引くと、躊躇いがちに何か言いたそうな顔を俺に向けた。
「言えよ。できることはやる。できねえことはちゃんと断る。俺、そういうのはっきり言うし」
俺の言葉に和泉が少し眉を下げる。
「……じゃあ、言おうかな」
「ん。なに?」
「……一人でいたくなくて。少しだけ、一緒にいてもいい?」
遠慮の塊みたいな和泉のセリフに、ハーッとわざと大きく息を吐いた。
「あのなあ、そんな真っ青な顔したヤツを放っとけるわけねえだろ、最初からそのつもりだっての」
和泉はぱちぱちと瞬きを繰り返した後、「ありがとう」と言った。
俺の家に呼ぼうかと考えていると、和泉が「よかったらうちにきて」と言ったので、お邪魔することにした。
思い返せば、和泉の家にはまだ入ったことがない。家の前まで送ったことがあるだけだ。
電車に乗り、和泉の家に向かった。電車の中では二人とも無言だったが、和泉の顔色が学校を離れる毎に少しよくなったのでホッとした。
電車を降りてから徒歩十五分。やっぱり無言で歩いた。和泉の家の前に到着する。
和泉は門扉をゆっくり押し開けると、「入って」と言った。
立派な一軒家だな、と改めて思う。古いけれど、頑丈で威厳のある建物に見えた。
家族は不在だった。和泉はひとりっ子だと言っていたし、父子家庭だとも言っていた。平日の朝だ、父親は出社した後だろう。
一階にある和室に通された。暫くしてから和泉は急須と湯呑みを運んできた。
「古い家でしょ」
「いや、なんつーか……そりゃ新しいかって言われたらそうは思わねえけど、立派だなって思った」
「昔は、じいちゃんとばあちゃんも一緒に住んでた。今は父さんと二人になっちゃったけど」
和泉が湯呑みに茶を淹れてくれた。手慣れていたので、普段からこうやって飲んでいるのかもしれない。
俺なんて家で湯を沸かす時は、カップラーメンを食う時くらいだ。
「和泉の親父さんって、仕事、何してんの」
「建築士」
「すげ」
「黒崎くんのお父さんは?」
「銀行マン」
中身のないような、そんな会話を少し続けた。二人とも、核心を避けている。
でも今は、この何気ない会話に救われる思いだった。
「じゃあ黒崎くん、お父さんに似たんだね」
和泉の言葉に「よく言われるけど、違うんだよな」と返す。
「俺が似たのはじいちゃん。大学で数学教えてた」
「すごい」
「俺の名前、『遙斗』、これじいちゃんがつけたんだよな。世界で一番美しい数式を発見した、レオンハルト・オイラーからもらったんだと」
カバンからノートを取り出し、オイラーの等式を書き込んだ。
eiπ=-1。
ネイピア数e、円周率π、虚数単位 i、数字のー1……お互いに関係なさそうな概念が集まって一つの等式になっている。
「お互いに独立してるようで、実は相互に関係してるってことをこんな短い式で表してる。これが美しいって言われてる理由」
「人間と同じだね」
思いもよらないことを和泉は口にした。
「人はみんな個々として独立してるのに、独りの人なんていない。みんな誰かと繋がってるし、相互に関係を持ってるから」
和泉らしい解釈だ、と思った。そしてそれはきっと、人間関係の本質なんだろう。
和泉が僅かに瞼を伏せた。睫毛が震えているのがわかる。
「……繋がってたのに。俺たち、……俺、昨日市岡さんと話したのに。彼女が怖い思いしてるの、わかってたのに。助けられなかった。……助けられなかった……!」
堰を切ったように和泉が言葉を吐き出していく。悲痛なその声が、俺の胸にじわりと広がった。
「俺のせいだ……、俺がもっとちゃんと、市岡さんに危ないから気をつけてって、きつく言えば、そうしたら彼女は……ッ」
「和泉!」
顔を覆おうとした和泉の手首を掴んだ。和泉は乱れた息のまま、俺をじっと見つめた。
「そうじゃねえだろ。お前が市岡のことを背負う必要なんかない。市岡が死んだ理由はまだわかってねえし、仮に! ……仮に自死だったとしても、お前に責任なんか一つもねえよ」
今、ここで俺が迷うわけにはいかない、と思った。
自責の念に駆られる和泉を、俺が真正面から受け止めた上で否定してやらなきゃ、コイツはどこまでも暗い海の底に引き摺られてしまう。そんな気がした。
和泉の唇が震える。眉根を苦しそうに寄せると、和泉の瞳に張った薄い膜が破れ、大粒の涙が頬を伝った。
「助けられなかったの、……二度目なんだ」
それは、俺の胸の真ん中を麻酔なしで切り開くような、鋭くて重たい一言だった。
(……俺と、同じ)
不意に脳裏に浮かぶ顔がある。
懐かしいその顔を必死に払おうとかぶりを振った。
俺と和泉は正反対だ。それなのに。
それなのに、心の奥で抱えているものが同じだなんて、思いもしなかった。
「……幼稚園の頃だよ。朝起きたら、母さんの身体に真っ黒な靄がかかってた。……正直言うとね、俺の家には常に薄墨みたいな色の靄が立ち込めてるんだ。その頃にはばあちゃんはもう死んでたけど、……近所の人たちもばあちゃんの予言みたいなのを信じてて、和泉さんのところの刹那くんは早死にするらしいって噂しててさ。……その噂がずっと家の周りや中に纏わりついてた」
信じたくない話だった。和泉が視えると言っていた靄のことじゃない。
まだ幼稚園に通う幼児に、早死にするだの何だの、そんな話を真に受けて、悪趣味極まりない噂話をする大人がいることを、だ。
「今日みたいな雨の日だった。いつもは母さんが幼稚園に迎えにきてくれるのに、その日はなかなか来なくて。ずっと幼稚園の入り口のとこで待ってた。先生たちも家に電話したりしてくれたけど、連絡つかなくて……夕方になって父親が来てくれた。そのまま病院に行ったら、母さんは寝かされてて……顔に、白い布がかけてあって」
「和泉、もういい」
遮ろうとした俺に、和泉は俯いて首を左右に振った。
「嫌じゃないなら、黒崎くんに聞いて欲しい」
「……嫌とかじゃねえよ。お前が、……辛いんじゃねえかって、思って」
「大丈夫。……ありがとう、黒崎くん」
礼を言われることじゃない。和泉といると何度も思うことを、また思った。
「交通事故だったんだ。アクセルとブレーキを踏み間違えたんだろうっていうのが、警察の見解。雨でスリップしてしまった、とも言ってた。遺書もなかったし。……でも、俺は自殺だったんじゃないかって思ってる。あるいは……」
「……あるいは?」
「……人の噂に殺されたんじゃないかと、思ってる」
背中を、冷たい汗がつーっと伝ったのがわかる。
俺は決して、霊的なものを信じたりはしない。
それでも、和泉の話には説得力があった。市岡の件がその後押しをしているのは明白だ。
「俺、母さんの笑顔ってほとんど覚えてないんだ。いつも悲しい顔してた。俺がちょっと怪我したり、風邪を引いたりすると、血相変えて病院に連れてく人でね。刹那ごめんね、刹那死なないでって泣くの。父さんはそんな母さんに呆れてた。ばあちゃんの言うことなんて信じるなって。でも母さんは信じてたから……、噂が母さんに纏わりついて、苦しくて、……それで、あんな最期になったんだと思う」
もう気安く、「そんな馬鹿げたこと、信じてんのかよ」なんて言えなかった。
和泉にとって噂は目に見えないものじゃない。母親の死と直接結びつく、目に視える現象なのだ。
それを、自分には見えない、と言って軽くあしらうのは、和泉に対して誠実ではない気がした。
「言葉や声には、力がある。噂が噂を呼び、現実に影響を及ぼすことは、悪いことだけで起こる現象じゃないでしょ?」
話を振られて和泉の顔を見た。いつの間にか泣き止んでいて、少しだけ安堵した。
「……まあ、口コミの影響みたいなのはあるよな。映画、ドラマ、食い物とか、口コミで影響されて流行ったり炎上したりってのは珍しくないっつーか」
「うん。だから噂話は怖さも秘めてる。……市岡さんに纏わりついてた黒い靄は、彼女を追い詰めてしまったんだと思う」
噂が人を殺すなんて、と思う気持ちは、ないわけじゃない。
だが実際には、芸能人が誹謗中傷で亡くなるというニュースを見たことは何度もあった。
俺には和泉が視えるような色は見えなくても、その影響を受けて亡くなる人がいる、という現実は見える。
「……和泉はさ、市岡のこと、どう思う?」
「……昨日の時点で、靄はかかってた。廊下にも残ってたし、……でも、……死に追いやられるほどの濃度だったかと言われたら、ちょっと違うなって……。黒崎くんは?」
和泉の言葉に、俺はノートをパラパラと捲り、目的のページを開いた。
「昨日帰ってから市岡の話を元に、あのコツコツって音と、ビーカーの中身が真っ赤に染まったって話をもっかい計算してみたんだよな。結論から言うと、恐らくビーカーの件は人間の仕業だ」
あれに関してはいくらでも細工ができた。市岡のビーカーだけに仕掛けるのは、そんなに難しいことじゃない。ただし、仕掛けられる人間は限られている。
「収納庫にも準備室にも化学室にも、鍵がかかってる。それを考えりゃ、生徒が仕掛けるにはハードルが高いよな」
「……先生がやったってこと?」
「仕掛けられる人間は限定的だって話だ。何が目的かまではわかんねえけどな」
和泉は考え込むように口元に手をやった。何を考えているのか、大体わかる。俺も似たようなことを考えている自覚があった。
(昨日の高見の態度はおかしかったよな)
市岡は気づいてなさそうだったが、どう見ても高見は面倒くさそうだったし、それを隠そうともしていなかった。
放課後に生徒に手を取られるのが鬱陶しいのか、と考えたが、それだけであんな露骨な態度を取るだろうか。
廊下で奇妙な音がした後も、平然と下校を促してきた。
「……昨日ね、先生の声、ちょっと変だったんだ」
「だろうな」
「え、なんで?」
「何でって、お前、高見が口開いた瞬間にびくってしただろ。色が視えるっつってたし、あー、なんか嫌な色視えちまったパターンかなって思ってた」
俺の言葉に和泉は目を丸くしてから、それを細める。
「……なんだよ」
「ううん。視えるって言ったこと、信じてくれてるんだなと思って」
バツが悪くて、髪を掻き混ぜた。
「……別に、俺に見えないからってお前を否定する理由にはなんねえから」
自分の言葉に自分で驚く。目に見えないものなんか信じない俺が、和泉の言葉を受け止めて、受け入れている。
「……で? どう変だったわけ?」
「うん。赤と黒が混じった色だった」
「黒は憎悪だろ。赤は何だっけ」
「怒り」
怒り、と聞いて、確かに妙だな、と考えた。
確かに面倒なことを頼んだかもしれないが、鍵を開け閉めするくらいで怒りにまで発展するとは思えない。
それに、憎悪も気になる。教師が生徒にそこまでの感情を抱くことなんて、なかなかないのではないか。
「……市岡さんに、特別な感情があるんだなって思った。でも、先生が生徒に対して抱くには、ちょっと強すぎる色だなって思って……」
「だけど、廊下から聞こえた音は高見じゃねえよ」
ノートをシャープペンシルの頭で、コツコツと叩く。
あの時、高見は俺たちと一緒に化学室にいた。最初に音が聞こえた時、高見も驚いた顔をしていたのを覚えている。
高見が何らかの仕掛けをしたとしても、化学室にいながら、廊下を移動するあの音を出せたとは思えない。
「あれは、噂話の振動かも」
「振動?」
「俺の家でもよく鳴るんだ。決まった間隔で、コツコツ、トントンって。ばあちゃんは、そういう音は人の声が振動になって、遅れてやってくる音だって言ってた。声として残らず、音として残るって」
「音ってのは振動だ。空気が揺れてるだけ。で、その揺れは壁とか床に当たって跳ね返るし、場合によっちゃ残響として残る。それは確かなんだよ」
媒質があれば基本的に、振動はどこまでも伝わる。空気でも床でも壁でもいい。一度エネルギーとして発生したら、減衰しながらも残っていく。
音もそれと同じだ。人が喋った声は空気を震わせて、それが波として広がる。普通はすぐに拡散して消えるけれど、条件が揃えば、反射して、重なって、妙な形で残ることもある。
恐らくそれが、夏の心霊番組なんかで「霊の声が聞こえた」などと騒ぐアレの正体だと俺は思っている。
「……けど、そう考えると辻褄が合わねえんだよな。きっかり0.6秒間隔の音は、振動だなんだでは説明できねえ」
計算に足りない何かがある。それを突き止められればあの音の正体がきっとわかるのに、今この瞬間に解けないことがもどかしい。
ノートの端に先ほど書き込んだ、オイラーの等式を見つめる。
一見すると関係なさそうな概念が集まっているのに、実は相互に関係がある──、市岡の死の裏に隠れた、噂話を始めとする複雑な関係を、俺たちはまだ何もわかっていないのかもしれない。
和泉がリュックのポケットを開けた。中からウサギの絆創膏を取り出す。昨日市岡からもらったものだ。
「……もう、後悔したくない。市岡さんに何があったのか、ちゃんとこの目で確かめたい。……ダメかな?」
和泉の真剣な眼差しの中に、俺を窺う感情が見えた。
後悔はしたくない、という言葉が、頭の中で繰り返し反響する。
(……そうなんだよな。俺も、後悔はしたくねえんだよ)
後悔したくないから、人と深く関わるのをやめた。
それなのに、その決意を破って和泉に関わることで、また後悔することになったら?
(二の舞はごめんだ)
二度と「あんな思い」をしたくないのなら、俺にできることは一つ。
和泉から目を離さず、和泉の死の確率を覆すこと。
市岡の件に首を突っ込むのなら、和泉の死亡フラグはなかなか回収できない。
何せコイツは、常時30%という高い確率で死と隣り合わせで、おまけに自らそこに飛び込んでいく。
「……お前、ほんと、マジで責任取れよ」
「責任?」
首を傾げる和泉に言ってやる。
「俺をこうさせた責任取れよって言ってんの。絶対死なせねえからな」
理不尽なことを言っている、と自分でも思う。
それなのに和泉は、口元を綻ばせて「責任取るよ」と言った。


