和泉にまつわる『噂』の存在を知ってから、注意深くクラスメイトたちの会話を分析したが、その『噂』は驚くほど統率されたものだった。
まるで誰かがストーリーを作り上げて、それを流したみたいだ。
具体的にはこうだ。
・和泉刹那は呪われている。
・和泉刹那に関わると呪われる。
・和泉刹那に関わると不幸になる。
・和泉刹那は悪い霊に取り憑かれている。
これらに、実際に自分の友達が巻き込まれて怪我をした、友達の友達が病気になった、友達の知り合いは死んだらしい、等という、俺からしたらせせら笑ってしまいそうになるような「体験談」がくっついている。
友達の友達、知り合いの友達。これらがいかに胡散臭いものなのか、噂を信じている連中にはわからないんだろうか。
(……いや、わかんないんじゃねえか……)
普通なら「ただの偶然」「あり得ない」で済むような話でも、和泉の場合は根も葉もない噂話とは言えないところが厄介だ。
実際、和泉が怪我ばかりしていることは、事実として知れ渡っている。それがこの『噂』に真実味を持たせてしまっていた。
(それに……、俺も怪我は増えたんだよな)
和泉の怪我や事故を計算で予測することで、先回りする癖がついた。
階段を踏み外しそうになった和泉を引き上げようとしたら、後ろの壁に頭をぶつけたり、段差で躓いた和泉の手を掴んだら、俺まで蹴躓いたりする。
ただし、これは和泉のせいじゃない。
予測に変数は付き物だ。俺自身もただの観測者じゃなく、変数になり得る。ただそれだけのことだ。
帰り際、それとなく和泉に噂のことを知っているのか聞いてみた。和泉は実にあっけらかんと、「知ってるよ」と言った。
「嫌じゃねえのかよ」
「え……、嫌とか考えたことない。子供の頃からそう言われてきたし、俺に関わった人で大きな怪我をしなかったのは、黒崎くんくらいだよ」
慣れている、と言えばその通りなのだろうけれど、和泉のこの従順さは一体どこからくるのか。
「それに、呪われてるって噂だけじゃないよ。和泉刹那は早死にするって噂もある」
「は? 死んだばあちゃんの口癖ってだけじゃないのかよ」
上履きを履き替えようとした和泉がしゃがみ込む。立ち上がる瞬間に靴箱の扉が、キィ……と軋みながら開いた。
反射的に手を出し、扉と和泉の頭の間に手を差し入れて、ぶつかるのを防いだ。
「……あのな、和泉。口癖だか噂だか知らねえけど、そんな非科学的なことがこの世に存在するって本気で思ってんのか?」
「だって」
「だって、何だよ」
「だって、みんなそう言ってるし……」
「はあ?」
自分の眉根が訝しげに寄ったのがわかった。
(みんな言ってる? みんなって誰だよ)
その『みんな』は一体、何人なのか。全員が一言一句、同じことを言ってるのか。
少なくとも俺はその『みんな』には含まれていない。そのことだけを考えても、和泉の『みんな』がいかに根拠のないものなのかわかる。
ふと見ると、和泉は困ったみたいに眉を下げていて、俺が和泉の言葉を理解できないように、和泉も俺の反応が理解できないようだ。
(落ち着け、俺。ここは一旦、和泉の話を聞こう)
和泉にも、コイツなりの理屈がきっとあるんだろうし。
「一応聞くけど、その『みんな』ってのは誰だよ」
「え……っと、近所の人とか、……学校のみんなとか」
また出た、『みんな』。
和泉の話は抽象的だ。
数学には曖昧な集合は存在しない。それが当たり前の世界で生きている俺とは、全く相容れない和泉の話は、輪郭を捉えるだけでも厄介だった。
だがここで逃げるわけにはいかない。
途中で投げ出すくらいなら、最初から計算も監視もしなかったし、況してや和泉の運命を俺の計算で捻じ曲げてやろう、なんて考えなかった。
「ちなみに俺はその『みんな』には含まれてねえし、絶対に含むなよ」
強めに言い切ると、和泉は少し目を丸くしてから眉尻を下げる。口元を綻ばせた。
「うん。黒崎くんの声は怖くないから、本気でそう思ってくれてるんだなってわかる」
声が怖くない、と言われたのは二回目だ。やっぱりどうにも引っ掛かる。
「なあ。お前、前にも言ってたよな。俺の声は怖くないからって」
「うん」
「それ、どういう意味? 前聞いた時は、まだ言えないって言ってたけど」
和泉の目線が逡巡するように左右に彷徨った。口を開きかけたその時だ。
「……あの、……和泉くん」
声のした方を二人で振り返る。靴箱の向こうに、一人の女子が立っていた。
緩いウェーブのかかった髪を、耳の下でふたつに分けて結んでいる。見覚えはあるけれど、名前まではわからない。
和泉が小さな声で「市岡さん」と呼んだ。
「知ってんの?」
「中学が一緒だったから」
そう答えてから、和泉は市岡という女子に微かに笑いかけた。
「どうかした?」
和泉の問いかけに、市岡は迷うように瞼を一度伏せてから口を開く。
「……少し、話せないかな……」
思い詰めた雰囲気を纏っている市岡を見て、お邪魔かもしれない、と思った。
(何だよ、結構モテんじゃねえの、和泉)
そんな呑気なことを考えながら、「俺、正門のとこで、話終わるの待ってる」と言ったら、市岡は「あの」と声を上げる。
「できれば、二人に聞いてもらいたくて」
「……俺も?」
心当たりが全くなくて首を傾げた。和泉と目が合う。
「黒崎くん、時間ある?」
「あるけど……」
「じゃあ、二人で聞こうよ」
和泉がそう言ったので、言う通りにすることにした。市岡はホッとしたように息を吐いている。
三人で教室に戻った。適当な席に座り、市岡が話し始めるのを待った。
市岡はずっと俯きがちだ。言い出しにくいことを言おうとしていることはわかった。
場を取り繕うためなのか、和泉がわざと明るい声を出す。
「黒崎くん、紹介しとくね。市岡結衣さん。中学二年の時、クラスメイトだったんだ」
市岡は小さく「市岡結衣です」と名乗った。
「市岡さん、黒崎くんのこと知ってるかな。黒崎遙斗くんです」
知ってるかな、と訊ねておきながらフルネームを紹介する、という和泉らしいズレたセリフに、「黒崎です」と一応会釈しておく。
何とも言えない沈黙が続いた。しばらくしてから漸く市岡が重い口を開く。
「……突然話しかけて、ごめんね、和泉くん」
「ううん、そんなの気にしないで」
「でも、わたし……和泉くんなら話を聞いてくれるんじゃないかって思って……。それに……」
そこで言葉を切った市岡が、上目で俺を見た。
「……それに、黒崎くんにも聞いてもらって、分析っていうか、……そういう確信みたいなのが欲しいの。数学、得意だって聞いたから」
ますます話が見えてこない。
苛立つほどまではいかないにしても、持って回った言い方に呆れてしまいそうになったのに、和泉はそうはならないらしい。
真剣な眼差しを市岡に向けている。
「俺でよかったら聞くよ、何でも」
和泉の言葉に市岡は安心したように頷くと、ぽつりぽつりと話し始めた。
「あのね、わたし……今、変な噂で悩んでて」
思わずピクリと眉が動く。ついさっき和泉の噂について話をしていたせいで、過剰に反応してしまう。
「……噂?」
和泉が優しい声で尋ね返した。
「わ、わたしに近寄ると……呪われるっていう噂があって……」
市岡は声の震えを必死に抑えるように、拳を握る。だがその手さえも震えていた。
(和泉と同じ噂……)
都市伝説や怪談は学校には付き物。そう思う反面、「どいつもこいつも好きだな、噂」と思った。
何がそんなに怖いのか、どうしてそこまで他人が気になるのか、俺には理解できない。
だが世の中にはこういうものを信じて、気に病む人間はいる。今の市岡が正にそうだ。
逆に噂を受け入れて生きている和泉の方が、異端なのかもしれない。
「俺、……その噂、聞いたことあるよ」
その言葉にギョッとして、和泉を見た。
「結構噂になってるよね」
「嘘だろ、俺、初めて聞いたぞ」
俺がそう答えると和泉は「黒崎くんはいろんな意味で噂に左右されないし……」と溢した。
市岡はハンカチを取り出し、それをきゅっと握り締めながら話を続ける。
「……二週間くらい前から、身の回りでおかしなことが起こり始めたの」
「おかしなこと?」
こくり、と頷いて市岡が俺たちを交互に見た。
「最初は、物がなくなったの。教科書がなくなって、探したらゴミ箱に捨てられてた。……間違えて捨てられたのかな、まさかイジメじゃないよねって思った」
その状況なら俺でもイジメを疑うだろうな、と考える。
「次に、体育の授業を終えて、着替えようとしたら……制服がなくなってて。これも探したら、トイレの中に捨てられてて……」
和泉が「ひどい」と呟いた。それとほぼ同時に、つい「イジメじゃねえの?」と訊ねたら、市岡はふるふると首を左右に振った。
「わたしもそうじゃないかって思ったの。でも心当たりはなくて……」
「市岡に心当たりがなくても、イジメられることってあるだろ」
「違うの。話はそれだけじゃないの」
ぐっと顎を引き、市岡は声を少し張る。和泉が唾を呑み込んだのがわかった。
「……放課後、日直で教室に一人で残ってた時、変な音が聞こえて」
「変な音……?」
和泉の相槌に市岡が大きく頷いた。
「ピシッとか、パンッとか、……そういう音だった。びっくりして、怖かったけど廊下を見たの。でも誰もいなくて……」
話の質が変わった、とはっきり感じた。和泉は市岡の声に聞き入るように、じっと市岡を見つめている。
「それからなの。誰かに見られてる気がしたり、誰もいないはずなのに大きな音が何度もしたり。廊下を歩いてると、わたしの足音だけじゃなくて、コン、コン、コツ、コツ、ってまるで後をつけてくるみたいな音がしたりして……。一人の時だけじゃないの、教室で授業を受けてる時、わたしが先生に当てられて発言しようとした途端に、ドンッてすごい音が響いて……。昨日の移動教室の時なんて……、階段を降りようとしたら誰かに背中を押されたの。手摺りを掴んでたから、下までは落ちずに済んだけど……、慌てて振り返ったけど誰もいなかった」
今にも泣き出しそうな顔で、市岡が悲痛な声を出す。
ふと足元を見ると、市岡の膝には包帯が巻かれていた。階段から落ちた時に怪我をしたのかもしれない。
(……和泉と似てる。だけど、違和感あるな……)
ノートを取り出した。市岡の話は、俺には「何か」が起こったというより、「誰か」が起こしているように思える。
「移動教室って何時間目?」
「……四時間目」
「背中を押された気がして、落ちて、振り向くまでに体感で何秒あった? 思い出せる範囲でいいから、その時の状況を教えてくんねえかな」
俺の質問の意味がわからず、困惑した顔を見せた市岡に和泉が柔らかく言った。
「黒崎くんに任せてみて」
市岡は少し迷ったようだったが、「正確じゃなくてもいいの?」と呟く。
「可能な限りでいい。全部思い出せるわけないしな」
「……振り向くまでは、多分十秒以上はあったと思う。膝から血が出て、そっちに気を取られちゃったから」
十秒以上あった、という自覚があるのなら、おそらく実際にはその倍はかかっただろう。
つまり、誰かが市岡の背中を押したとしても、逃げる時間は充分ある。
具体的な場所、時間帯、振り向くまでの秒数。あらゆる物を数値に変換し、ノートに書き込んだ。
Λ(t) = e^{0.18×8} · Σ(i=1→3){ (wᵢ pᵢ(t) kᵢ) } = e^{1.44} · [ (0.5×0.6×1.2) + (0.7×0.4×1.5) + (0.3×0.8×1.1) ]……最後の解を出せない。
情報が少なすぎて、正解な確率を出せないことが歯痒かった。
市岡は俺の手元を見つめながら、「計算で何かわかるの……?」と訊ねてくる。
「この世に偶然は存在しねえから。全ての事象に理由とルールがある。市岡に起こってる出来事も、正解な数値がわかればどうしてそんなことが起こったのか、はわかる。……だけど」
そこで言葉を切った。この先は、数学の限界を認める必要がある。
「……だけどわかるのは、過去の事象についてと、それを元に計算した未来の予測だけだ。起こっちまったことを変えることはできない」
だから市岡の怪我をなかったことにはできないし、市岡が感じた怖さも消滅することはない。
俺が予測できるのは、あくまで未来のことだけだからだ。
「他には、何かない? おかしなこと」
空気を変えるように和泉が問いかけた。
「……ビーカーの中の水溶液に別の液体を混ぜて、反応を確かめるっていう化学の授業があったの」
俺たちも同じ授業を先週受けた。用意されていたのは水道水、食塩水、砂糖水、重曹水で、その全てに指示薬を混ぜて反応を見る、というものだ。
授業が早めに終わったので、時間が勿体ない、という理由でやった実験で、言わば遊びの延長みたいな実験だった。pH比較は中学の時にやったので、物珍しいものでもない。
「他のみんなは無色透明で……それが正しいはずなの。なのに、わたしだけ……まるで血みたいに真っ赤に染まって……クラス中が大騒ぎになって……」
市岡の顔は真っ青だった。和泉も眉根を寄せている。
「混ぜ方の問題かもしれないって先生は言ってくれたけど、何回やっても真っ赤なの、わたし、もう怖くて……!」
市岡が、わぁっと顔を覆うようにして叫んだ。
計算する手を止めた。今の市岡に必要なのは、未来の予測ではない、と気づいたからだ。
「……それから、変な噂が立つようになったの。市岡は呪われてるって。近寄ったら危ないって。……クラスメイトからはほとんど無視されてて、わたし、本当に辛くて……」
目元を赤くして、市岡が和泉を見つめる。
「和泉くんは、……和泉くんも噂されてるでしょ? ……どうやって耐えてるの? わたし、苦しくて、怖くて……ねえ、わたし、本当に呪われてるのかな。死んじゃうのかな。和泉くんならわたしのこの気持ち、わかってくれるんじゃないかって思って……」
その一言に、自分でも驚くほどの不快感が広がった。
市岡は和泉と同じ中学だ。つまりその頃から和泉にまつわる噂を耳にしていたはず。
噂を信じて和泉から距離を取っていただろうことは、「急に話しかけてごめんね」という言葉に表れている。
(……和泉を避けておいて、いざ自分がその立場になったら、「和泉くんなら気持ちをわかってくれる」か)
随分虫のいい話だ。
だが和泉はそう捉えなかったようで、持ち前の人の良さを惜しみなく態度で示している。
心配そうに眉を下げてから口を開いた。
「市岡さんが辛くて怖いのは、わかる。噂には力があるって俺も思うし……、人の声の集合体が噂だからね」
「怖いの……、本当に自分が呪われてるような気がして……。和泉くんならその怖さがわかると思ったし、……それに、黒崎くんなら否定してくれるんじゃないかって思ったの」
急に話の矛先を向けられて、一瞬反応が遅れる。
市岡が苦しんでいるのは事実だろうが、俺にはどうにも納得できなくて、それを振り払うように髪を掻き混ぜた。
「……俺は、そういう呪いだの取り憑かれてるだのは信じてねえよ。だから市岡の身に起こったことは何かの仕業じゃなくて、誰かの仕業だとしか思えねえけど」
ちらりと和泉を見る。和泉は少し考えるみたいに口元に手を遣ってから、顔を上げた。
「市岡さん。俺は、噂が持つ力を知ってる。黒崎くんは、目に見えないものを信じてない。俺たちは真逆なんだ。でも真逆だからこそ、その両方から市岡さんを苦しめてる噂について検証っていうのかな、……そういうのができれば、市岡さんも安心できたりしない?」
和泉の提案に目を見張ったのは市岡だけじゃない、俺もだ。
(検証? 俺たちが? 市岡のために? 何で?)
だが、この疑問を和泉にぶつけたところで結論は変わらないだろう。
コイツは人のために動くことに何の疑いも持たないタイプだし、今だって頭の中は「市岡さんを少しでも安心させてあげたい」でいっぱいなんだと思う。つくづくお人好しだ。
(和泉から目を離したら、コイツのことだからまたどっかで怪我したりするだろうしな……)
日常で起こる小さな怪我の種は、俺が先回りすることで一応は回避している。
だが、ほんの僅かな誤差が、和泉を死に追いやることだってないとは言えない。何せコイツは通常でも死亡フラグが30%の男なのだ。
結局、和泉が市岡を助けるというのなら、俺もそれに付き合うしかない。
「検証って具体的に何すんの」
仕方なくそう訊ねた。
「……え、っと……黒崎くんが怪現象の発生を予測したり……?」
語尾にハテナがついている時点で、和泉に具体策があるわけじゃないことはわかった。それでも何かしてあげたい、という気持ちになったんだろう。
「予測はできても、もう発生しちまったものに関しては正確な数値がわかんねえから、原因突き止めるのは難しいぞ。でも一つ言えるのは、世間で言うところの霊現象とか怪現象ってのは、らゆる事象が積み重なって起こる解であって、呪いなんかじゃねえってことだ」
馬鹿馬鹿しいと一蹴するのは楽だが、怯える人間には逆効果になる可能性だってある。
「とりあえず一番はっきり再現性がありそうなのは、音がするってやつだな。あとは実験中の水溶液が赤く染まったってやつ」
「化学室に行ってみるのはどうかな。噂には力があるって俺は思うけど、実験結果だけは噂の力が及んだとは思えないし……」
和泉にしては珍しく俺寄りの言葉を口にした。
誰もいないはずの場所から音がした、なんてことは正直に言えばありがちだと思う。
自殺の名所として知られるマンションで、市岡が聞いたような音がする、霊の仕業かもしれない、という特集が組まれたテレビを、子供の頃に見たことがあった。
なんてことはない、あれは建物の軋み、温度や湿度の変化、建材の経年変化によって引き起こされるものだ。
市岡が聞いた音もおそらくその類で、自然に発生した音がタイミングよく聞こえたことによって、恐怖と結びついた可能性がある。
だが、実験結果だけはそこに作為を感じた。誰かが市岡を怖がらせるために細工を施したのだとしたら、タチが悪い。
三人で化学室に行ってみることにした。市岡は職員室に鍵を借りに行く、と言って先に教室を出る。
和泉と一緒に廊下で待ちながら、「どう思う?」と話を振った。
「……実験の話だけは、ちょっと変かなって思った。ラップ音とか俺もよく聞くから、それはおかしくないって思うけど」
しれっと言うから思わず和泉を見下ろす。
「ラップ音ってアレだろ? ミシッとか、パンッとか。市岡が言ってたやつ」
「うん。黒崎くんからしたらそんなの説明できる現象だって思うかもしれないけど……、俺はこの世には計算とか科学とかで証明できないことはあると思ってる」
和泉が市岡に、俺たちは真逆だ、と説明してことを思い出していた。
確かに俺たちは正反対だ。
目に見えないものの力を信じて、自分は早死にすると思い込んでいる和泉と、目に見えないものは存在しない、と言い切って、和泉の死亡フラグを0にしようとしている俺。
噂に惑わされたヤツらから避けられているのに、それでも誰かを救いたいと思う和泉と、「あの一件」以来、人とは距離を置いてきた俺。
真逆なのに、成り行きとはいえこうして市岡の手助けをすることになるなんて、ちょっと前なら考えもしなかった。
「それにしても……黒崎くんが本当に付き合ってくれるとは思わなかったなあ……」
他人事みたいに和泉が呟く。
「あのな、俺だって霊だの呪いだのに付き合いたくねえよ。あんなのは数学とは正反対だからな。けどお前がやるっていうなら付き合うしかねえだろ」
「うん。見守ってくれてありがとう」
「だから見守ってんじゃなくて監視」
何度目かわからない否定をしてから、改めて和泉に問う。
「目に見えないものは存在するって、本気で信じてんだよな?」
「信じてる。……でも、本当言うとね、目に視えないわけじゃないんだ」
和泉の言葉にギョッとしてしまった。
まさか幽霊が視えるなんて言い出すんじゃないだろうな。
「黒崎くんは信じないかもしれないけど、俺……」
「待った。まさかとは思うけど霊感がある、幽霊が視えるみたいな類の話じゃねえよな?」
念押しみたいに言った。その手の話は俺には通用しない、と牽制したつもりだった。
ところが和泉は苦笑いを溢してから、首を左右に振る。
「幽霊は視えないよ。そうじゃなくて、……色が視えるんだ」
「……色?」
うん、と頷き、和泉が俺を真っ直ぐ見つめてきた。
「少なくとも市岡さんは嘘は言ってないし、心から怖いと思ってるよ。彼女の声には、そういう色が視えるから」
自分の眉間に皺が寄ったのがわかる。和泉はそれを見て、「何言ってるんだって思うよね」も続けた。
「子供の頃からなんだ。人の声に色がついてるように視える。大きく分けて五色で、喜怒哀楽ともう一つを表してる。色の濃淡でその人の感情の強さがわかるんだ」
「……本気で……」
「本気で言ってる。市岡さんの声は濃い青だった。青は悲しみの色だよ」
俺の言葉を奪うように、和泉が言う。
冗談で言っているわけではなさそうだ。そもそも冗談を言うメリットが、和泉にはない。
「喜びは黄色、怒りは赤、それから楽しさは橙色になる。それらが混じって複雑な色になることもあるよ。市岡さんの声は、青に赤が少し混じってた」
「……悪いけど、はいそーですかって信じることはできねえかな」
正直に答えた。和泉は「うん、わかってる」と小さく笑みを浮かべる。
「黒崎くんに、お前は今日死ぬって言われた日、ああ、そうか、今日なんだ、本当に十八になる前に死ぬんだって思った。ばあちゃんの言葉は確定してるから、普通に受け入れられた。でも一番は、黒崎くんの声に色がなかったから、今日なんだなって納得できた」
「納得してんじゃねえよ。あの日、俺がどれだけお前を死なせねえように神経使ってたと思ってんだ」
ため息と共に抗議してから、疑問を口にする。
「四色ともう一色って言ってたけど、色がないってことは透明ってことか?」
信じたわけじゃないけれど、気になったことを訊ねてみた。和泉は首を振り、それを否定した。
「もう一色は黒だよ」
「黒?」
「憎悪の色」
和泉の声音は何も変化がなかった。それなのに一瞬だけ、周囲の空気がピリッと冷えた気がした。
「黒崎くんは、俺が出会った中で唯一、声に色が視えないんだ。何でだろうってずっと考えてたけど……声には感情があるよね? 怒ってる人は大きな声になるし、悲しんでる人は小さな声になる。黒崎くんにはそれがないんだなって思ってる」
「俺にだって喜怒哀楽くらいあるけど?」
「そうじゃなくて、その喜怒哀楽や憎悪を、黒崎くんは他人には向けないんじゃないかなって。感情よりも理性と理屈を重んじてるから。だから黒崎くんの声には感情が乗らない。俺に視えるのは、誰かに向けられた声の感情が、可視化された色だから」
俄かには信じ難い。だけど厄介なことに、和泉が嘘を言うようなヤツじゃないことだけは、この数週間の付き合いの中で確信していた。
(あー……、くそ、……マジで何でコイツに関わっちまったんだよ)
和泉はこうやって簡単に、俺の常識や価値観を飛び越えてくる。根底から揺るがして、覆そうとしてくる。
だが、俺にだってプライドというものがある。
二度と死の確率を計算しない、誰かと深く関わらない。その誓いを破ってまで和泉に関わったからには、和泉の確率を0に導くという最大の目的は必ず達成しなければ。
俺が黙っているからか、和泉は眉尻を斜めにして「信じてくれなくてもいいよ」と言った。
「……数学の起点は、疑うことだ。疑って、疑って、角度を変えて、方法を変えて、あらゆる面から可能性を見出し、一つずつそれを潰して答えに辿り着く。だから俺は、お前の話を鵜呑みにはしねえよ」
「うん。黒崎くんらしいと思う」
「ただし、疑うってことは悪じゃないってことも覚えとけよ。信じるために疑うんだ。思考停止で、信じるよ、なんて誰にでも言えるだろ。俺は、お前が嘘を言わないことはわかってる」
和泉は少し目を丸くする。それからはにかむように表情を崩した。
戻ってきた市岡の隣には、化学担当教諭がいた。確か名前は高見だったと思う。二十代後半の女性教師だ。
「高見先生に話したら、一緒に来てくれたの」
市岡の表情には安堵が混じっていた。一方で高見の顔には面倒くさそうな感情が滲み出ている。
「用が済んだら帰りなさいね。もうすぐ下校時間だから」
和泉が高見の声にぴくりと肩を上げたのがわかった。
高見を先頭に化学室に向かう。途中の階段で和泉の足元を注意して見ていたら、案の定、二段目を踏み外しそうになっていた。
俺も手慣れたものだ。和泉の腕を掴み、前を歩く市岡にぶつからないように阻止する。
和泉が俺を振り返り、「黒崎くん、ありがと」と言った。
いちいち礼なんて言わなくていい、と言ったところでコイツはこれからも律儀に言うんだろう。
市岡は高見がいるからか先ほどよりは顔に血の気が戻っていたが、廊下を歩く時も常に周りに目を配っていた。びくびくしている、と言ってもいい。
化学室の前で生徒数人とすれ違った。
「うわ、和泉と市岡じゃん」「呪われる」等と馬鹿げたことを聞こえるように言い、市岡はあからさまに肩を落とし、廊下の隅に寄る。
仮にもし『呪い』なんてものが存在して、俺がそれを操れるとしたら、真っ先にああいう連中を呪うと思う。そんな非科学的な妄想をしてしまった。
化学室のドアを高見が開けた。当たり前だけど、中は通常の授業の時と何も変わらない。
俺の後ろに和泉が、その後ろから市岡がついてくる。
「市岡はどこに座って実験やってた?」
俺の質問に市岡が、ゆっくり該当の席に移動した。
窓際の一番前の席だ。一つの机に四人が座れるようになっている。市岡は右端に座っていたらしい。
実験は二人一組で行ったが、市岡の相手がたまたま休みだったようで、一人で行ったということだった。
「特に変わったことはなかったんだよね?」
和泉の問いに市岡は首を縦に振った。
「先生、ビーカーは普段はどこにあんの?」
訊ねると高見は壁際の棚を指差し、「鍵をかけて保管してあるわ」と応える。
棚に近づいた。取手に手をかけたが、確かに鍵がかかっていた。
薬品関連は黒板横の扉から入れる、準備室に保管してある。準備室にも鍵がかかっていて、鍵は高見ともう一人の化学教諭、それから校長が持つ三本のようだ。
(……うちの学校に化学部はない、……となると生徒が鍵を持ち出すことは簡単じゃねえよな)
その時、廊下から音がした。コツ、コツ、という誰かが歩く音に聞こえた。
市岡は一瞬で青ざめて耳を塞いだ。高見も眉を寄せている。
和泉と目が合う。俺は時計を確認し、音の間隔を測った。
コツ、コツ、コツ。
0.6秒の間隔で音が鳴る。人の歩幅の間隔は約0.6秒。だから何も不思議はない。これは人の足音だ。
(……整いすぎてる)
ぞわりと背中に鳥肌が立つ。
人の歩幅なんて毎秒ズレるのが基本だ。寸分の狂いなく0.6秒間隔で歩けるわけがない。
(足音じゃないとしたら、この音は何だ?)
床の上をコツ、コツ、と叩くその音を聞きながら、もう一度、和泉と目を合わせた。
市岡は半泣きの状態で蹲り、「怖い、助けて」と繰り返す。
和泉と二人、目配せしながらドアに近づいた。
音は化学室の前を通り過ぎていく。
遠ざかる音の正体を暴くため、勢いよくドアを開けた。
──だが、そこには誰もいなかった。
「……いない」
俺が呟くと、和泉はゆっくり首を左右に振り、「でも、残ってる」と言った。
「残ってる?」
「黒崎くん、今の音って計算で説明できる?」
和泉の言葉に、頭の中で数式を並べ、簡単な計算を始めた。その隙に、和泉は市岡の方に歩み寄り、「大丈夫だよ」と声をかける。
「もういいかしら。さあ、三人とも教室を出て」
過ぎ去った音のことはどうでもいいのか、高見は心底面倒くさそうに言った。結局、俺たちは追い払われる形で化学室を出る。
その間も和泉は泣き顔の市岡に寄り添い、俺は頭の中で計算を続けた。
D = Σ(i=1→n) { (Δt_i - 0.6)^2 }……化学室の湿度と温度は、壁にかけられていた温度計でわかる。現象の起こった時刻、音の方向、大きさ、それら全てを考慮しながら計算を繰り返した。
(……人の仕業じゃねえな)
少なくとも人間の足音ではない。
「どう? 黒崎くん」
和泉が訊ねてくる。俺は髪を掻き混ぜてから答えた。
「人間の仕業じゃねえってことは、確か」
市岡がかたかたと震え始める。
「やっぱり呪いなの……? 怖い、どうしよう、怖い……!」
「待て待て、人間の仕業じゃねえとは言ったけど、呪いだなんて言ってねえだろ」
和泉と市岡の顔を交互に見比べた。
「確かにあの音の間隔は、人間の足音では出せない。けど、人間の足音じゃないってことだけだ。別の音ならいくらでも説明はつく」
例えば建物由来のもの、配管の振動、空調設備。
次に反響。別の場所の音が、遅れて届いているだけの可能性もある。
だが、どれも決定打に欠けることは確かだ。等間隔で鳴る、音が移動していることを考えれば、既存のどれにも一致しない。
説明はつく、と二人に断言したものの、自分の中で答えを導けないでいた。
(……それに、和泉の一言も気になる)
和泉はあの時、「でも、残ってる」と言った。
一体、何が残っていたのか。俺に見えない何かが、和泉には見えたというのか。
「市岡さん、俺も黒崎くんが言うように、音は説明がつくと思う」
意外なことを和泉が口にしたので、少々面食らってしまった。
「家鳴りってわかる? 温度とか湿度が原因でコツコツとかミシミシとか、そういう音がするんだ。黒崎くんが人間じゃないって言うなら、俺はその可能性が高いと思う」
市岡は真っ赤になった目で和泉を見つめる。
「本当……? 呪いじゃないの……?」
「断言はできないけど、俺はそう信じたいな。市岡さんにまつわる噂も、偶然が重なったことを大袈裟に言ってるだけなんだと思う」
「でも、和泉くんは同じような噂、されてるし……」
市岡の反論に和泉は穏やかに首を振った。
「俺のは年季入ってるもん。でも市岡さんの噂は最近できたものだから。大丈夫だよ、堂々としてれば。みんなすぐに飽きるよ」
らしくない、と思った。
和泉のスタンスとは真逆のことを、市岡に諭している。
何か裏があるな、と思ったが、今この場で問いただすことじゃないことはわかった。
今、和泉がしているのは市岡を安心させるための会話だからだ。
「実験のことだけど」
俺もそう言って加わることにした。
「あっちはもっと簡単に説明がつく。恐らく市岡のビーカーの中身だけが違うものだったんだ。注ぐと赤に変色したってことは、市岡のビーカーには水酸化ナトリウムが入ってたんじゃねえかな」
これなら「血のように真っ赤に染まった」というのも頷ける。
「でも、どうしてわたしだけ……?」
「嫌がらせか悪戯か……どっちにしてもスポイトなんかで簡単に混ぜられるだろうから、呪いのせいってより誰かがやったと思った方が現実的だと思うけど」
市岡がハンカチで目元を拭いながら、「そっか……」と呟いた。
「ごめんね、わたし、本当に怖かったから……。でも二人にそう言ってもらえて、ちょっとだけ落ち着いたかも。怖いけど……気にしすぎて過敏になっちゃってるとこもあるし……」
確かに市岡は周りを気にして、ずっとそわそわしていた。あれではなんてことない音や影にさえ怯えてしまうだろう。
気の持ちよう、と本人が思えるなら、それに越したことはない。
(だけど……なあんか引っ掛かるんだよな……)
和泉の市岡を励ましたいという気持ちは理解できる。必要以上に怖がることはない、というアドバイスもだ。
だが、和泉自身にだってそれは当てはまるはずなのに、怖がることこそしないけれど、和泉は自分にまつわる噂も受け入れているし、死んだばあちゃんの口癖も信じている。
俺からしたら、「そっくりそのまま自分に言えよ」と思ってしまうくらいだ。
「だけど市岡さん。怪我とかは気をつけてね。ほら、他に気を取られてると階段踏み外しちゃったり、壁にぶつかったりするから」
和泉の真面目な一言に、思わず市岡と顔を見合わせた。盛大に噴き出してしまう。市岡も苦笑いを溢した。
「え、何で笑うの、二人とも」
「和泉さあ、それ、お前が言うかあ? さっきだって階段踏み外しそうになったの、市岡じゃなくてお前だろうが」
和泉は頬を赤くして、「そうだった……」と呟く。市岡もくすりと笑ってから、カーディガンのポケットからウサギのイラストが描かれたピンクの絆創膏を一枚取り出すと、和泉に差し出した。
「あげる。次に転んだりした時に使って」
和泉は絆創膏を受け取ると、俺を上目で見て、「これってフラグ?」と言う。俺も市岡も笑った。
「大丈夫、ただのお守りだよ」
市岡の言葉に和泉は、嬉しそうに表情を崩し、「ありがとう」と言った。
「けど、冗談抜きで気をつけろよな。歩きスマホしてると視野って狭くなるだろ。通常の20分の1にまで減少するって言われてんだよ。あれと一緒で、考え事してたり他のこと気にしてると、いつもは普通にやれてることができなくなったりするから」
「……うん、わかった」
「それから誰かに後をつけられてるような気配を感じたら、コンビニでも何でもいいからその辺の店に入って様子見しろ。人目があるだけでもだいぶ安心するだろ」
市岡はこくりと頷いた。和泉が更に続ける。
「もし可能なら誰かに相談とかした方がいいかも。友達とか……いるなら彼氏とか」
すると市岡は曖昧な笑みを見せて、少し俯いた。
「……親友には話せてないの。学力テストが終わったら話そうかなって思ってる。彼氏にはちょっと言えないかな。忙しい人だから」
「忙しい?」
俺の問いに市岡は、「彼氏、社会人だから」と溢した。
「社会人って、……条例違反だぞ、念のために言うけど」
俺が口にすると、和泉が俺の脇腹を肘で突いてくる。
「黒崎くんって本当に思ったこと、すぐ口に出すよね……」
「本当のことだろ」
市岡は俺たちのやり取りを聞きながら、ほんの少し笑みを浮かべた。
「黒崎くんの言う通りだから。でも好きなの。好きだからあんまり心配かけたくないの」
「市岡さんの気持ち、わかるよ」
和泉が共感を示したので、黙ることにした。この手の話は俺より和泉の方が適性が高い。
「二人とも、本当にありがとう。気をつけながら、気にしすぎないようにするね」
ハンカチをカーディガンのポケットにしまって、市岡は手を振って階段を降りていく。
二人になってから、俺は和泉の旋毛を見下ろした。
「なあ」
「なに?」
「さっき、お前、言っただろ。廊下を見た時、残ってるって。あれ何?」
和泉が視線を上げて俺を見る。
「……声に色が視えるって言ったよね? その色は感情が強いほど濃くなる。でも稀に声がないのに色が視えることがあるんだ」
「声がないのに、視える?」
和泉の目線が、市岡が消えた方向に向いた。俺も自然とそれを辿る。
「……噂話には色がある。噂が蔓延する場に色が残ってることがあって、市岡さんの周りにも、さっきの廊下にも黒い靄が少し残ってた」
黒い靄と言われて、和泉の説明を思い出した。黒は確か……。
「憎悪だよ。市岡さんは誰かに恨まれてるのかも。その感情が彼女の周りでおかしな現象を引き起こしてるのかもしれない」
和泉の顔を見つめる。本気で言っているとわかって、胸がどこかざわついた。
(……俺は、非科学的なことは信じねえ主義だ)
自分の目で見たものを信じている。俺には黒い靄なんて見えなかった。
だけど、目の前の和泉の言葉に嘘がないことはわかるから、足元の砂を波に削られるような感覚を覚える。
それは俺が十七年、疑わなかった世界に存在する、小さな綻びのようなものだったのかもしれない。
──市岡結衣が教室の窓から転落死したのは、翌日のことだった。


