ラプラスの悪魔はサイコロを振らない


「たくさん食べてね」と母親が晩飯を運んできたのは夜七時だ。
 和泉はハンバーグを丁寧に箸で割って食べた。箸使いが綺麗だったので、ちょっと意外だった。
 コイツのことだからぼろぼろ零すんじゃないか、と思っていた。
 思っていただけならいい。つい口に出していた。
「もっとぼろぼろ零すと思ってた」
「箸使いだけは、大丈夫」
「味噌汁熱いから火傷すんなよ、お前は慎重に慎重を重ねるくらいでちょうどいいんだから」
「黒崎くんって思ってること、何でも言葉にするんだね」
 和泉が苦笑いで返してくる。
「でも、だからなのかな。黒崎くんの声は怖くない」
 今日死ぬと言われてもどこか他人事だった和泉が、「声は怖くない」と言ったことに驚いた。
 コイツに怖いという感情があったのか、とも思ったし、そもそも声が怖くないってどういう意味だよ、と思った。
「なに、俺の声は怖くないって」
 これも思ったまま訊ねてみる。和泉は少し目線を宙に投げた後、俺を真っ直ぐ見つめた。
「……今は、まだ言えない」
 何で、と言おうとしてやめた。和泉だって踏み込んでこなかったんだから、俺がここであれこれ質問するのはフェアじゃない。
 飯を食い終えて、時計を確認した。夜八時まであと二分。このタイミングでもう一度、計算をしておきたい。
 ノートを広げる俺を見て、和泉もスマホを見た。
「もうすぐ八時だね」
「確率がいつもと同じ程度にまで下がってりゃ、少なくとも今日死ぬってことはないだろ」
 素早く数式を書き込む。
 事故発生率、時刻、今朝から今に至るまで積み上げたものたち。
 空間平均式から位置、方向、ばらつきを数値化し、和泉の現時点での死の確率を算出した。
「……27%……」
 呟くと同時に肩から力が抜けていく。
 常人の確率から考えると高い数値ではあるものの、和泉の「平常時」を考えれば悪くない確率だ。
(それにしても……)
 なんだって和泉からは、これほどまでに『死の匂い』がするのか。
「黒崎くん、どうだった……?」
 俺が息を吐いたのを見て、和泉が恐る恐るといった風に訊ねてくる。
 顔を上げ、和泉と目を合わせた。
「とりあえず、今日のあの異常な高さは解消した。でも油断はナシだ」
 俺の言葉に和泉は小さく顎を引く。
 帰り支度を済ませて、部屋を出た。和泉を先に行かせてしまったことは、俺のミスだ。
 あれだけ和泉に油断するなと言ったのに、俺の方がしてしまっていたらしい。
 階段の中ほどで、和泉がずるりと足を滑らせた。
「っ、和泉!」
 慌てて手を出したが遅かった。和泉は尻餅をついた状態で、階段を滑り落ちていく。
 その音に母親もキッチンから飛び出してきた。
「大丈夫か、和泉!」
 駆け降りて和泉の元に急いだ。和泉は一番下までずり落ちていて、「大丈夫」と答えたもののすぐには立てなかったようだ。
「刹那くん、大丈夫? ごめんなさいね、今日階段にワックスを掛けたの」
 おろおろした様子の母親に、和泉は笑顔を見せて、「俺がドジなだけです」と言った。
 ゆっくり立ち上がる和泉を見て、考えたことは二つ。
 一つは、例えワックスを掛けた後だったとしても、俺の家族はこの階段で滑ったことは一度もない、ということ。
 もう一つは、やっぱり和泉に起こる事故率の異常さは、度を超しているということだった。
 馬鹿馬鹿しい、と一蹴したはずなのに、見えない誰かが和泉を殺そうとしている、というあの考えは、あながち間違っていないんじゃないか。
 そんなことを思わされる。
「家まで送る」
「え、いいよ、大丈夫」
 和泉は手を顔の前で振って断ってきたけれど、母親も「ちゃんと送り届けなさいね」と言った。
 家を出てからも気を抜けなかった。下がったはずの確率が脳裏にちらつく。
(95%よりはだいぶ下がった、ってだけなんだよな)
 改めて気を引き締め直す。
 対する和泉は、言葉を選ばずにいえば「のんびり」していた。緩い足取りで、俺の隣を歩いている。
 今日だけでも、窓ガラスを割ってボールが飛び込んできたし、廊下で躓き、正門を出たところで自転車にぶつかりそうになり、トラックに轢かれかけ、自販機の前では人とぶつかった。おまけに階段から落ちている。
 それなのに和泉はそのどれもに、ものすごく驚くでもなく、怖がるでもなく、ただ淡々と事象を受け入れていた。
 そう、コイツはこの異常さを受け入れている。
(……違和感はコレだ)
 和泉を取り巻く、死の気配とも言える事象の数々にも、勿論違和感はある。だが最も強い違和感の正体は、これだったのだとやっとわかった。
 電車に乗るまでも、乗ってからも、降りてからも、和泉の案内で和泉の家の前まで歩く間も、俺は神経を研ぎ澄ますようにしてアンテナを張り続けた。
 頭の中に浮かぶ数式と、和泉の様子を何度も比べて暗算する。
 途轍もなく疲れる作業ではあったけれど、とにかく和泉が家に入るまでは目を離さないと誓った。
 駅から歩いて十五分ほどで、「ここだよ」と和泉が言った。
 住宅街の角にある、一軒家だった。日本家屋らしい佇まいの家で、門扉の奥には立派な庭がある。
「最後にもっかい、計算してえんだけど」
 俺がそう言うと和泉は、「うん」と頷いた。
 カバンからノートを出し、その場で計算を始める。今日何度も解いた数式なのに、それでも緊張した。俺がひとつでもミスれば、和泉の危険は回避できない。
 解き終えてからノートを閉じた。この数値なら、もう大丈夫。そう思えた。
「今日死ぬっていう予測は、解消した。勿論、お前は常に30%前後の死亡フラグ男だから、0にはなんねえけどな」
 昼すぎ辺りからどんどん上昇していく数値に、関わるしかない、と決意した。とにかく今日一日を乗り越えることだけを考えて過ごしたけれど、今こうして和泉は生きている。
 何とか当初の目的は果たせた。これで俺の役目は終わり。明日からはまた、ただのクラスメイトだ。
 そう思ったのに。
「じゃあ、明日かな」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……は?」
「俺、早死にするって決まってるんだ」
 和泉が何を言っているのか、全然わからない。
 いや、違う。言葉の意味は理解できるのに、全く頭に入ってこなかった。
「……何言ってんだ、お前」
 辛うじて言えたのはそれだけだ。俺の困惑をよそに和泉は、どういうわけかはにかむように表情を和らげる。
「今日かな、明日かなってずっと思ってて、黒崎くんに今日だって言われた時も、あ、そうなんだ、今日なんだって思った。黒崎くんが俺を助けようとしてくれたの、嬉しかった。ありがとう」
 ありがとう、と言われたところで一つもピンとこない。和泉は俺の戸惑いを感じ取ったのか、少し目を伏せてから続けた。
「病気とかじゃないよ。心配しないで」
「んなこと心配してねえよ」
 漸く頭が回転し始めたけれど、言語化するまでに時間がかかる。
 俺が黙っているからか、和泉は「それじゃあ、今日は本当にありがとう」と勝手に完結させて、門の中へと入ろうとしていた。
「ちょっと待て」
 和泉が足を止めて振り返る。
「……早死にって何だよ」
 少し考えるように和泉は目線を空に投げた。
「口癖だよ。死んだばあちゃんの。刹那は長くは生きられない、十八になるまでに死ぬって」
 和泉の言葉を反射的に右手で制し、反対の手で頭を抱えながら和泉に近寄った。
「お前、それ本気で言ってんのか?」
 人を指で差してはいけない。そんなことはわかっていても、指差さずにはいられなかった。
 和泉は俺の人差し指を見つめてから、上目で俺を見上げると、「本気だけど……」と戸惑ったみたいな声を上げる。
 冗談じゃない、この場合、戸惑うのは俺の方だろ。
 そう思うのと同時に、違和感の理由に完全に説明がついた気がした。
 死の宣告を、自分の身に起こるさまざまな怪我を伴う現象を、和泉が抵抗なく受け入れている理由。それがまさか「ばあちゃんの口癖」を根拠にしたものだったなんて。
 乾いた笑いが喉の奥から漏れる。
(──ふざけんなよ)
 そんな非科学的なことがあって堪るか。
 この世に偶然なんて存在しない。
 全ての現象には理由があるし、それらは計算の解だ。
 そしてその解には必ずルールが存在する。
 つまり、神はサイコロを振ったりしない。
「……てやる」
「え?」
 体の内側から強烈な衝動が沸き立つ。後から考えればそれは、計算し切れない本能のようなものだったのかもしれない。
「覆してやるって言ったんだよ」
 和泉を真正面から捉えて、言い放つ。
「死なせねえよ。お前の死の確率は、俺が必ず0にしてやる」
 神がサイコロを振らないのなら、ラプラスの悪魔だって振らねえんだよ。
 俺はそれを証明するために、和泉刹那に纏わる『確率』を、俺だけのものにする。
 そう誓った。