ラプラスの悪魔はサイコロを振らない

『死亡フラグ』という言葉がある。
 映画や小説などの物語の中で、このキャラクターは死ぬかもしれない、という予感を抱かせる言動のことだ。
 わかりやすい例で言えば「この戦いが終わったら、結婚しよう」なんて言葉は、その後の展開を容易に想像させるし、目立たなかった脇役がいきなり大活躍するのも、そのすぐ後に退場する可能性を秘めている。
 つまり、死の危険を孕んだ言動が、死の確率をぐっと押し上げるのだ。
 そしてそれはフィクションの中だけの話じゃない。
 現実にも死亡フラグは存在する。
 俺はそれを数学で知り、そして今、その問題に直面していた。
 ──和泉刹那はしゃがみ込んだまま、呆けた顔で俺を見つめていた。
 肩につかないくらいの長さの髪、その上半分を後ろで小さくまとめているが、頭を抱えたせいでくしゃっと乱れている。
「……今の、偶然?」
「計算の答えだよ、解だ」
「けいさん……」
 足元のガラスに気をつけながら、復唱した和泉に歩み寄り、手を差し出した。和泉はその手をおずおずと掴み、立ち上がる。
「偶然なんてものはこの世に存在しねえんだよ。ラプラスの悪魔ってわかるか?」
 和泉は首を緩く左右に振った。
「簡単にいえば、この世の全ての情報を完璧に計算できれば、未来は予測できる。そういうやつ」
「予言みたい……オカルト的な?」
「オカルトじゃねえよ。勿論、それは理屈の上の理論だし、実際には全てを完璧に計算することは不可能だ。でもそれに『近いこと』はできる。ついさっき、野球ボールがガラスを割って飛び込んでくることを予測したように」
 和泉は信じられないという顔をしたけれど、すぐに俺の手元のボールと床のガラス片に視線を落とす。
「ごめん、俺、数学得意じゃないんだ……」
 現実から目を背けるように、和泉はぽつりと呟いた。
「得意かどうかは関係ねえよ。お前がこの数式を理解できないならそれでもいい。でも、俺の予測は外れない」
「それは、……うん。わかってる。黒崎くんってすごく頭がいいんでしょ」
「数学が好きなだけだ」
「すごいなあ、俺は数学は全然ダメなんだ」
「お前、数学だけじゃなくて、国語以外はほとんど苦手だろ」
 俺の言葉に和泉は目を少し丸くして、「黒崎くんって正直なんだね」と苦笑いをした。
 ほんの一瞬だけ、しまった、と思った。
 ついこういう余計な一言を口にしてしまう。
 六歳上の姉貴には、「遙斗(はると)はよく言えば素直、悪く言えばデリカシー皆無」と子供の頃からよく言われていた。
 てっきり気分を害しただろうと思ったのに、予想に反して和泉は口元を少し綻ばせると、「黒崎くんの長所だね」と言った。
 妙な違和感を覚えた。
(……コイツ、俺が言ったこと、ちゃんと聞いてたのか?)
 確かに俺が黒板に書いた数式は、和泉には理解できなかったかもしれない。
 だが、「お前は今日死ぬ」と宣告したというのに、和泉の態度はあまりにものんびりしている。
 普通ならもっと焦ったり、怖がったりするものなんじゃないのか。
 理由を訪ねようかと思ったが、疑問は一旦、頭の隅に追いやることにした。事は一刻を争うからだ。
「とにかく、このまま何もしなきゃ、お前は今日死ぬ可能性が高い。朝から一時間おきに計算してきたけど、時間が経つにつれ確率は上がってんだ。いつもはここまでじゃないのに」
「いつもは?」
 首を傾げた和泉を見て、また余計なことを言ってしまった、と思った。
 どうやら俺は、自覚しているよりもかなり焦っているらしい。
 それもそのはずだ。俺の計算では、和泉の『死の危険ゾーン』は放課後から夜の八時までが最も高い。
(……関わるつもりなんか、なかったのに)
 やっぱり計算なんかしなきゃよかった。
 三年前の出来事がふっと脳裏に蘇る。
 あの時も、俺が計算したせいで「あんなこと」になったのに、まだ懲りずに繰り返してしまった。
 その時、廊下を走ってくる足音が聞こえた。教室のドアをガラリと開けたのは野球部員数人だ。
「黒崎、……と、い、ずみか……」
 一人が呟くと他の連中が「え、和泉ってあの?」とざわつく。
 和泉は居た堪れなさそうに身を縮めた。
「黒崎、怪我してないか?」
「俺はな」
「え、じゃあ……和泉は?」
 恐る恐るという感じで野球部員が和泉に訊ねる。和泉は小さく笑って「大丈夫」と応えた。
「ガラスは俺たちで片付けるから。ごめんな、黒崎」
 どうして俺にだけ謝るのか。そう思ったけれど、口には出さないでおいた。今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「和泉、家どこ?」
 俺を見上げた和泉が「最寄りは××駅だよ」と応える。××駅は俺の最寄りとは逆方向だ。
 少なくとも夜の八時まで和泉から目を離すわけにはいかない。
「一緒に帰るぞ」
「え?」
 返事を待たずに、先に教室を出る。和泉が後をついてくるのが気配でわかった。
 野球部員の脇を和泉が通り抜ける時、一人が「こわ……」と呟き、他の部員も和泉を避けるように身体をずらす。
(何だよ、その態度)
 先ほども、「あの和泉?」と言っていた。和泉に対してあまり良くない感情を抱いているのは確かだ。
 本人を目の前にして良くやるな、と思った時だ。
「俺、友達と帰るの初めて」
 何とも場違いな和泉のセリフに、肩を落とす。
「友達じゃねえだろ、クラスメイトだ」
「クラスメイトと友達って違うの?」
 何気ない会話を続けながら、階段を降りた。下足場に向かう途中で、和泉は二度も躓いた。何もないところで、だ。
 本人は慣れているようで、「わ、びっくりした」と全然びっくりしているとは思えないトーンで小さく呟いた。
(やっぱりか)
 頭の中では冷静にそう思えたが、嫌な汗が背中を伝ったのがわかる。
 靴を履き替え、正門を出るタイミングで、門柱の角から自転車のベルの音が聞こえた。
 和泉はその音が聞こえていないのか、ふらふらと門の外へ足を踏み出そうとしている。
(まずい、コイツが廊下で躓くことを計算に入れてなかった!)
 計算上では、正門を出るまでは安全なはずだったのに。
「……和泉!」
 咄嗟に手が出た。和泉の腕を引っ張る。
 自転車は急ブレーキで停車した。和泉の靴の先、僅か数センチのところに自転車の後輪がある。
 自転車に乗っていた中年の男は、盛大に舌打ちをして「急に飛び出すな!」と怒鳴りながら去っていった。
(……今のはかなり危なかったな……)
 ちょっとした現象で計算が狂うことなんて、よくあることだとわかっていたのに。
(誤差は許されない。……少しでも気を抜けば和泉は死ぬ)
 息を整えてから和泉に目を遣る。俺がいきなり引っ張ったせいで、和泉はバランスを崩し、俺にもたれかかっていた。
「ごめん……」
 申し訳なさそうに和泉が言う。
「……あのな、今のはおっさんが悪いだろ。あと俺も。急に引っ張ったからな」
「でも黒崎くんのおかげでぶつからなかった。ありがとう」
 和泉は素直に礼を述べると、ぺこりと頭を下げた。
 どうにも調子が狂う。
 今日死ぬと宣告されたくせに、怖がっている様子もない。逆に俺の方が「絶対死なせない」と気を張っている。
(関わっちまった以上、死なせるわけにはいかねえからな……)
 無視できるくらいなら、本人にわざわざ死の確率を話したりしなかった。
 進行方向に横断歩道が見えた。
 俺の計算では、ここが一番危険な場所だ。
 信号は点滅している。俺が横断歩道の手前で足を止めたので、和泉も止まった。
「和泉」
「なに?」
「三歩、下がれ」
 ぴくりと眉を上げて、和泉が「わかった……」と呟く。
 和泉がそろりそろりと三歩下がり終えたその時、和泉の後ろから歩きスマホの女性が現れた。
 前を全く見ていないその女性が、和泉の背中にぶつかる。
 和泉はその衝撃で前につんのめった。
「え?」
 和泉がそう呟いた瞬間、トラックが和泉の目の前を猛スピードで通過する。
 三歩下がらせたとはいえあまりにもギリギリで、和泉のリュックを思い切り引き寄せた。
 勢いよく引っ張ったせいで和泉は後方に倒れ込み、その場に尻餅をつく。
 その直後、トラックは対向のガードレールに凄まじい音を立ててぶつかった。
 悲鳴と叫び声があちこちから聞こえる。周囲の人が一斉にトラックの方を向いた。駆け寄る人、逃げる人、スマホ片手に撮影する人、さまざまだ。
 俺の足元には尻餅をついたままの和泉がいて、俺を見上げていた。
(あと数秒、引っ張るのが遅かったら、確実に和泉は轢かれてた……)
 やっぱり尋常じゃない。どう考えたって和泉は『死』が近すぎる。
 心臓が早鐘を打っていた。どんなに予測できたとしても、実際目の前でコイツのこの危うさを見てしまうと、冷や汗どころの話じゃない。
 和泉は「びっくりした……」と他人事みたいに呟くと、掌を見つめた。地面に後ろ手をついたせいで、擦り傷ができている。
 俺はしゃがみ込み、和泉の顔を覗き込んだ。
「悪かったな、怪我させて」
「黒崎くんが謝ることじゃないよ。俺がドジなだけ」
「それ本気で言ってんだよな?」
 俺の問いに和泉はきょとんとした目を向けた。質問の意味がわかっていないようだ。
 ため息をひとつ吐いてから、カバンからポケットティッシュを取り出し、和泉の手の砂を払った。
「立てるか?」
「うん、大丈夫」
 慎重な動作で立ち上がった和泉と一緒に、トラックを見つめる。和泉が「運転手さん、大丈夫かな」と呟いた。
 人の心配してる場合かよ、と思ったけれど、言うのはやめた。どうにもコイツとは会話が噛み合わない気がするからだ。
「ちょっと一回、計算させてくれ」
 断りを入れてから、カバンの中を探る。ノートとペンを取り出し、数字を書き込んでいく。
 P_death = 1 − π(1 − pᵢ × kᵢ)……発生確率だけじゃ足りない。致命傷に至る係数を掛けて、初めて意味が出る。
 さらに、時間帯や人の流れを重みとして加算する。D = Σ (wᵢ × pᵢ × kᵢ)。
 猛スピードのトラック。歩きスマホの女。点滅信号のタイミング。和泉が立ち止まった地点。
(ああ、くそ、何なんだよ、この数値は)
 どれだけ計算しても、常識では考えられない確率が積み上がっていく。
 救急車のサイレンが聞こえてきた。
 和泉が視線を向ける。やがて到着した救急車から救急隊員が出てきて、野次馬を掻き分けるようにしながらトラックに駆け寄った。
(この世に偶然はない。どんな現象も計算でおおよその説明はできる)
 できるはずなんだ。
 だからこんなことは思いたくない。思いたくはないけれど、まるで見えない誰かが和泉を死の淵に追いやろうとしているように思えた。
(馬鹿馬鹿しい、あるわけねえだろ、そんなこと)
 ──だが、数値は明らかに異常値を示している。
 クシャクシャと髪を掻き混ぜ、ノートを閉じた。
「計算終わったの?」
「まあな」
「どうだった? やっぱり今日、俺って死ぬの?」
 明日の天気の話でもしているかのような、そんな口調で和泉が言うから、俺の方が何だか落ち着かなくなる。
 危機感がまるでない和泉の顔を凝視しながら、俺は和泉との出会いを思い出していた。