ラプラスの悪魔はサイコロを振らない


 屋上から落ちたことは、流石に誤魔化しようがなかった。
 散々教師陣に詰められて、和泉が苦し紛れに「バンジージャンプごっこをしていました」なんてバレバレの嘘を言ったもんだから、余計に怒られた。
 結局、一週間の謹慎処分を受けた。
 母親は泣き、父親は苦い顔で俺の頭を(はた)く。
 和泉の父親も似たようなものだ。落下の事実を聞き、絶句し、呆然としたまま和泉の頭を(はた)いた。
 後から知ったけれど、和泉が親父さんに(はた)かれたのはこれが初めてだったらしい。
 謹慎中は和泉と四六時中、ラインでやり取りした。文字のやり取りも悪くない。だけどやっぱり時々通話もした。
「で? お前、何であの時、落ちそうになったわけ?」
 電話の向こうの和泉に訊ねる。
「音を辿ったら屋上に着いて、黒崎くんがいるかも、黒崎くんが危ないかもって思って辺りを見回してたら、黒い靄が足元を這うみたいに近づいてきて……」
 そのまま引き摺られるようにして宙吊りになった、と和泉が溢した。
 結局、今も音の正体はわかっていない。
 モヤモヤしないと言ったら嘘になるが、過ぎたこと、と思って一応は納得している。
「黒崎くんは何で屋上ってわかったの?」
「簡単にわかったと思うなよ……、俺はあの時、学校中を駆けずり回ったんだからな……」
 恨めしい声でそう答えると、和泉はふふっと笑った。何笑ってんだよ。
「俺ね、黒崎くん」
「なに」
「あの時、初めて黒崎くんの声に色が視えたんだよ」
「あの時って?」
「黒崎くんが、だからお前の確率は0にならないって叫んでくれた時」
 改めて言われるとかなり気恥ずかしい。今すぐ電話を切りたい衝動に駆られる。
「……ずっと無色透明だった黒崎くんの声が、初めて色づいて視えた。だから俺、黒崎くんを信じたい、死にたくないって思ったんだ」
「……ふーん、そう」
 わざと素っ気ない返事をした。
 俺の声に色がないことを、和泉は「黒崎くんは感情よりも理性と理屈を重んじてるから。だから声に感情が乗らない」と言っていた。
 つまり。
(つまり、俺はあの瞬間、憚ることなく感情的に声を張り上げたってことだよな……)
 それが、和泉を死なせたくない、という感情だったというわけだ。
(やっぱ、すげー恥ずかしいんだけど)
 そうは思うものの、和泉が嬉しそうにしているので、それでいいと思うことにした。
 謹慎期間を終えて学校に登校すると、空気は一変していた。
 誰も噂話なんてしていない。
 それどころか俺たちを見て、「大変だったな」「死ななくてよかったね」「もう危ないことすんなよ」とまで言い出す始末だ。
 変わったことはまだある。神山と高見が退職していた。
 一身上の都合により、ということらしい。
 どちらにしろ、あの二人が予定通りに結婚するとは思えなかった。
 市岡が転落した植え込みの側には、綺麗な花が供えられていた。
 手を合わせて祈る浅香の周りには、他の生徒たちも数人いて、胸がきゅっと締めつけられる。
 放課後、和泉と二人で教室に残った。
 俺は黒板に数式を書き込んでいく。和泉はそれを真ん中の席から眺めている。
 死亡確率95%を告げた、あの日の再現みたいだ。
「そうだ。あのね、黒崎くん」
「ん?」
「俺の下の名前。刹那っていうんだけど」
「知ってるわ。何、お前、俺が知らないとでも思ってたのかよ」
「ううん。そうじゃなくて、あのね」
 口を開くタイミングが重なった。その声に被せるように、黒板に向き合ったまま言う。
「いい名前だよな。時間の最小単位。一瞬を何度も繰り返して永遠に変えていく」
 カッ、カッ、とチョークの音を響かせた。粉が舞う。その粉が光に反射して、キラキラと光る。
「……俺、ずっと、……ばあちゃんがつけたんだと思ってたんだ。ほんの一瞬しか生きられない、だから刹那なんだって、ずっとそう思ってた」
 和泉の声がほんの少し震えているのがわかった。振り向いてやらない方がいい、と判断したした。
「……でも、違ったんだ。父さんから聞いた。俺の名前、母さんがつけてくれたんだって。……『今、この瞬間を大切に生きる』、そういう願いが、込められてるんだって」
「ん。だから最初から思ってた。いい名前だなって」
 数式を書く手を止めずに、続ける。
「和泉のばあちゃんもさ、そういう意味で言ったんじゃないんじゃねえかって、俺、思うんだよな。孫に自分より先に死なれて喜ぶばあちゃんなんていねえよ。……きっとさ、言葉のニュアンスとか、受け取り方に行き違いがあっただけなんじゃねえかな」
「……そうかな?」
「そう思っとけよ」
 和泉は少し間を空けてから、「そうだね」と静かに呟いた。
 最後の数字を書き終える。
 それは、焦がれ続けた『0』だった。
 和泉を振り返る。
「お前の死亡フラグは、回収完了だ。確率は0。お前は、死なない」
 和泉は黒板いっぱいに書かれた計算式を見つめて、瞳を細め、力強く頷いた。
「よし、んじゃ帰るか」
「え、消して帰らなくていいの?」
「いいだろ、そのまんまで」
 二人で並んで教室を出る。出ようとした。その時だ。
 黒板の隅に、書いた覚えのない数字が見えた。
『0≠0』とある。
 数学的には絶対に成立しない数字。
『0は0ではない』。
 ──お前が0だと思っているのは、果たして本当に0なのか。
「黒崎くん、どうかした?」
 和泉が俺を見上げてくる。
「……いや? 何でもねえよ」
 和泉の頭を軽くポンと叩いた。
(俺は、見誤ったのかもしれない)
 黒板に記した数式は、和泉刹那の「あの時点」での方程式だ。
 95%を叩き出したあの時点、つまり俺は和泉の人生に食い込んでいない。
 俺と和泉の関係性の変化を、この数式は反映していない。
(……まさかな)
 そんな前提を覆してしまったら。
 果たして本当に、0は0なのか。
『0≠0』──これは前提を覆してしまった後の、解。

 to be continued?

 
 ─了─