ラプラスの悪魔はサイコロを振らない


 その日の放課後、高見に、忘れ物をした、と嘘をついて化学室の鍵を借りた。
 今日は二年生の担当教員が集まる会議がある。高見はそれに参加しなきゃならない。つまり、鍵を俺に預けるしかないのだ。
 市岡の時みたいに、同行して動きを見張ることができない。
 和泉には教室で待つように伝えた。まだ本調子ではないだろうし、やっぱりこれ以上の負担を和泉にかけたくない。狙われていたのが和泉ではなく俺なのだとしたら尚更だ。
 化学室に入り、机の陰に身を隠す。仕込んだ餌に相手が食いついてくれれば、まもなく現れるはずだ。
 息を潜めて待つ。やがて、微かな音を立ててドアが開いた。
 引き摺るような足音が響く。その音が、俺が隠れている机の、隣の机の前で止まった。
 気づかれないように机の陰からゆっくりと這い出た。
 椅子をひっくり返したり、机の下を床に這いつくばって何かを探している神山を見下ろす。
「探してるものなら、そこにはないですよ、先生」
 大袈裟なくらいにビクッと肩を上げた神山が、床に四つん這いになったまま、俺を見上げた。
「黒崎……」
「探してるのはコレでしょ?」
 そう言ってポケットから白い紙を取り出す。神山は慌てた様子で立ち上がると、「それを返せ!」と叫んで向かってきた。
 ひらりと躱すと神山は勢い余って躓き、転んだ。
「残念だけど、これは市岡の遺書なんかじゃないですよ。浅香に頼んであんたに届けてもらった手紙の内容は、俺が作ったでたらめだから」
 神山は顔を真っ青にして、尻餅をついた状態で俺から目を逸らす。
 放課後、和泉を教室に残し、すぐに浅香の元に向かった。俺を見て怯えた浅香は、逃げるように背を向けたけれど、必死に事情を説明した。
 犯人がわかったこと、その犯人に罠を仕掛けたいこと、そのために神山に手紙を書いて届けてほしいこと。
 浅香はびくびくしながらも、「結衣の無念が晴れるなら」と協力してくれた。
 手紙の内容はこうだ。『結衣が生前に書いてくれた手紙が見つかった。どうやら化学室に遺書を隠したらしい。見つけたいので明日同行してもらえませんか』──これを見て、神山は先回りして、あるはずのない市岡の遺書を回収しに化学室にのこのこと現れた、というわけだ。
「それにしても先生、気弱で大人しそうなあんたが、まさか市岡を殺したなんてね」
 俺の言葉に神山はぶるぶると震えながら、懸命に首を左右に振った。
「僕じゃない……! ひ、人殺しなんて、そんな恐ろしいこと……!」
「じゃあ何で市岡は死ななきゃなんなかったんだよ。まあ、大方想像はつくけど」
 神山は頭を抱えて俯くと、独り言のようにぶつぶつと言葉を繰り出した。
「し、仕方なかったんだ……、高見先生から結婚を迫られて、後には引けなくて、それで、市岡には終わりにしようって言った……、そしたら、市岡は泣き喚いて、でも……!」
「でも、なんだよ」
「でも、市岡が悪いんだ……! 僕は最初乗り気じゃなかった、それなのに向こうから誘ってきて、それでずるずる関係を続けただけだったのに、まるで彼女みたいに振る舞って、高見先生はそれに激怒して僕に怒鳴るし、怖くて、僕が結婚することを伝えたら、市岡は泣き喚きはしたけど、そんなの子どもの駄々みたいなもので、だから……!」
 聞いてられなくて、思わず神山の襟首を引っ掴んだ。
「だからなんだよ! だから市岡が泣いてんのに放って帰ったってのか!」
「か、帰ったんじゃない……! 市岡が教室を出て行ったんだ! 僕はそれを追いかけなかっただけだ……!」
 腹の底から怒りが湧いてくる。
 市岡の顔が脳裏に鮮やかに蘇った。
 恐怖に押し潰されそうになりながらも、社会人の彼氏に心配をかけたくない、と言って微笑んだ市岡の、あの言葉には、ただただ彼氏のことが好きだという気持ちが込められていたのに。
 大好きな人が自分を裏切っていた。しかも別れ話だけではなく、結婚まですると聞かされ、更には泣いて飛び出した自分を追いかけてきてくれない。
 市岡の心が限界を迎えたのは想像に難くない。
 自殺なんて心の弱い人間がすること。そう切って捨てる人もいるだろう。
 だけど俺は、市岡が苦しんだ末に「選んでしまった」選択を、責める気持ちにはなれなかった。
「で? 市岡が恋愛でトラブって自殺したって噂が流れたことが都合が悪かったってことか? それでわざわざあんな、市岡を幽霊に仕立て上げて、死んでからも貶しめるような噂で上書きしたのかよ……!」
「仕方なかったんだよ……!」
 一体どこに仕方のない要素があるというのか。
 俺が狙われたのはコレが原因だった。最初の噂がどこですり替わったのか、調べて回る俺は神山にとって脅威だったんだろう。
 不愉快と怒りで、手足がバラバラになりそうな錯覚がする。それくらい、頭に血が上っていた。
「でも! 最初の一回だけだ!」
「なにが!」
「ゆ、幽霊のふりをして、屋上の扉の前で生徒を驚かせたのは、最初の一回だけなんだよ……!」
 神山は血の気の引いた顔を両手で覆いながら叫ぶ。
「一回しかしてないんだ、本当なんだ、それなのに、どんどん目撃情報が出て、不気味な音が至るところで聞こえたり、しまいには啜り泣きまで聞こえるって噂になって……! いるんだよ、本当に、市岡の霊が、いるんだ、だから……!」
 神山はそこまで一気に捲し立てると、ガタガタと震えて膝を抱えた。
「僕が悪いんじゃない……、あんなことで自殺する方がどうかしてるんだ、……その上、化けて出るなんて……呪い殺されるんだ、僕は、市岡に殺される……」
 涙でぐちゃぐちゃの神山の顔からは、市岡に申し訳ないという気持ちが全く感じられなかった。あるのは自己保身だけだ。
 コイツがクズなことは間違いない。間違いないけれど──。
(……じゃあ、最初の一回以降は何だったんだ)
 その時だった。
 コツ、コツ、というあの音が、化学室の外の廊下から響く。
 神山は「ひ……!」と叫んで耳を塞いだ。
(何で……)
 どうしてあの音が、今、鳴るんだ……!
 この音を最初に聞いたのは、市岡と和泉、それから高見と一緒に化学室にいた時だ。
 ビーカーの中身をすり替えたのは高見だろう。
 神山の話から察して、高見は神山と市岡の関係を知っていた。怒りの矛先は神山ではなく市岡に向き、嫌がらせをしていたと考えられる。
 生徒より自分が大事。つくづく「お似合い」のカップルだ。
 だが、この音に関しては高見ではあり得ない。
 つまり何らかの方法で神山が、市岡を怯えさせるためにやったのだとばかり思っていた。
 だがその説は正しくなかった。
 神山は今、俺の目の前で無様な姿で震えている。
(……和泉……)
 弾かれるように化学室を出て走った。
 神山でもない。高見でもない。勿論、市岡でも浅香でもない。だとしたら。
 だとしたら。
(間に合ってくれ……!)
 もう二度と、あんな思いはしたくない。
 したくないんだよ、頼む、間に合ってくれ!
 廊下を駆け抜ける俺の脳裏を掠めたのは、あの時の後悔と共に、かつて俺が助けられなかった、吉野風磨の顔だった。