ラプラスの悪魔はサイコロを振らない


 和泉が倒れた後、学校中、いつにも増して大騒ぎになった。
 和泉は保健室に運ばれ、俺は生徒指導室に呼ばれた。
 事情を聞かれたが、何をどう言えばいいのかわからない。
 暫くしてから、俺と和泉の一年生の時の担任である、英語の神山が指導室に入ってきて、「和泉くん、意識戻りました」と学年主任に伝えた。
 神山と目が合った。途端に逸らされて気分が悪い。コイツも噂話を真に受けて、怯える大人の一人なんだろう。
(つくづく、あの高見とは合わなさそうだけどな……)
 確かこの二人が結婚すると騒いでいたクラスの連中も、「神山じゃ高見の尻に敷かれる」だの何だの、似たようなことを言っていた。
 神山が出て行った後、少ししてから部屋のドアがノックされた。
 母親が青い顔で入ってくる。学年主任に向かって頭を下げた。
「この度は息子が本当に申し訳ありません」
 は? と思った。俺は何も悪いことなんてしていない。
 すると学年主任は慌てた様子で、手を顔の前で振る。
「いや、顔を上げてください。すみません、こちらの伝え方が悪かったですね。黒崎くんが何か問題を起こしたというわけではありません」
「え……、でもお友達が怪我をした、と伺いましたが……」
 母親が俺と学年主任を交互に見た。
「和泉は怪我してねえよ。……倒れはしたけど」
 俺の言葉に「倒れた?」と聞き返してくる。
「とりあえず、座ってください」
 学年主任に促され、母親が俺の隣に腰を下ろした。
 どうやら情報が錯綜しているようだ。母親は完全に俺が誰かと喧嘩して、怪我を負わせたと思っていたらしい。
 学年主任の説明を聞き、見る見るうちに母親は肩から力を抜いたが、同時に心配そうに眉根を寄せる。
「そういうわけですから、黒崎くんは寧ろ友達が倒れるのを支えてくれた、ということです。黒崎くんがいなかったら、頭を強く打っていた可能性もあります」
「そうですか……。それで、容態の方は……?」
「意識も戻りましたし、怪我もないようです。後ほど保護者の方が迎えに来られて、念のために病院に行く、ということでした」
 それを聞いて俺もホッとした。和泉の保護者ということは、親父さんだろう。病院の後、家に帰るのなら、学校にいるより安全だ。
 当然、俺にもお咎めはなかった。母親と共に指導室を出る。
「本当にもう……、心臓が止まるかと思っちゃったわよ」
 母親が息を吐いてから溢した。
「それで、遙斗は本当に怪我してないのね?」
「してねえよ」
「そう。それにしても刹那くん、大丈夫かしらね……」
 黒い痣のことは言えなかった。適当に相槌を打って、「顔色ちょっと悪かったから、しんどかったのかもな」と説明することにした。
「遙斗」
 俺を呼ぶ母親の声がいつもより真剣だったから、足を止めた。
「危ないことしちゃダメよ。わかってるとは思うけど……」
「……わかってるよ」
 そう返したけれど、母親がそれをどこまで信用しているかはわからない。
 家に帰ってから、スマホを何度も確認した。和泉からの連絡はない。
 一応、「大丈夫か」と送ったけれど、既読はつかなかった。
 その間もずっと、計算だけは欠かさなかった。
(俺のせいだ)
 俺の計算がもっと正確だったら。
 俺がミスなく、精度を高められていたら。
 和泉はあんなに苦しまなかった。
 浅香にも怖い思いをさせてしまった。
(俺が、もっとちゃんと……)
 何が、「この世の全ては計算で予測できる」だよ。
 実際、自分の身に計算し切れない何かが起こって初めて、「計算では解明できないもの」はこの世に存在するのかもしれない、と揺らいでいる。
(和泉が、あれだけ言ってたのに)
 言葉や声には力がある、その力が侵食し、現実に影響を及ぼすこともある、と。
 あれだけ言ってくれていたのに、俺は心のどこかで否定とまではいかないにしても、「そうは言っても、結局人間が一番怖いだろ」と思っていた。
 確かに0.6秒刻みの音、俺の足首に残った黒い痣、説明のつかないことは沢山ある。
 だが逆に説明できることも沢山あった。ビーカーの色が変わったことも、裏庭にいた時に落ちてきた植木鉢も、どう考えたって人の仕業だ。
 怪現象なのか、人の悪意なのか、それとも人の悪意が怪現象を引き起こすのか。
 俺はそれを確かめて、答えを出さなきゃならない。和泉に出会い、関わりを持つことになった理由は、きっとそこにある。
(しっかりしろ、俺)
 ピシャリと両頬を叩いた。
 今、俺が折れてどうする。
 俺には数学しかない。
 もう一度最初から、どこかにミスはないか、見落としていないか、徹底的に洗い直し、必ず解を導き出す。
 ふーっと息を吐いてから、部屋を出た。玄関で靴を履いていたら、後ろから母親が声をかけてくる。
「どこ行くの、遙斗」
「和泉んとこ」
「今日はやめておきなさい。ご迷惑よ。刹那くん、倒れたんでしょ?」
 母親の言うことは尤もだ。だがやっぱりどうしても、じっとしていられない。
「前まで行って、安心してえだけ」
 それだけ告げて、玄関のドアを開けた。後ろで母親が何か言ったけれど、聞こえていないフリをした。
 電車に乗っている間、これまでのことを振り返った。
 95%という死の確率を叩き出した和泉を放っておくことができず、声をかけたあの日から、まだ二ヶ月ほどしか経っていない。
(……いろんなことあったな)
 市岡の件があってから、和泉はずっと悔しくてしんどい思いをしていたんだろう。
 そこに加えて、俺がアイツを庇って負う怪我のことで気持ちが落ちていた。その疲れが溜まっていたんだと思う。
 俺も同じだ。精度を保てない計算に苛立ち、以前の何倍も気が抜けなくなった。
 常に神経を張り詰めているせいで、正直に言えば疲弊している。
 和泉を、倒れるまで追い込んだのは俺なんだ、と思うと胸が苦しい。
 駅に到着したのは午後七時を少し過ぎた頃だ。スマホを確認したが、やっぱり既読はついてない。
 ゆっくり時間をかけて、和泉の家に向かった。
 前まで辿り着いた時、もう一度スマホを見たけれど、結果は同じだ。
(……明かりは、ついてる)
 門柱からそっと窺う。玄関にも、庭に面した部屋の窓にも明かりが灯っていた。家に着いたのは確実だ。
 胸を撫で下ろした時、玄関の戸がガラリと音を立てた。
 出てきたのは細身で眼鏡をかけた中年男性だった。ここからでは顔ははっきり見えない。ついじっと見てしまって、視線がかち合う。
(やべ。……いや、ヤバくはねえか、でも……)
 不審者と思われたらどうしよう。
 立ち去ろうと踵を返したところで、「君」と声をかけられた。
 その声が、和泉の声を低くしたものだったのですぐにわかる。和泉の親父さんだ。
 振り返って、頭を下げる。親父さんも会釈しながら、「黒崎くんかい?」と言った。
「はい。でも、何で……」
「刹那から訊いていたからね。金髪で背が高い、と」
 なんて返していいのかわからず、首だけで頷く。
「あの、……いず、……刹那くんは……?」
「眠ってるよ。大丈夫」
 全身から力が抜けた。両膝に手を遣って、長く息を吐く。上体を起こしてから言った。
「それがわかったんで、安心しました。じゃあ、俺はこれで」
 帰ろうとした俺を親父さんが呼び止める。
「それだけのためにここまで?」
「あ、……はい。心配だったんで」
「そうか。……よかったら少し上がっていかないか。聞きたいこともあるし」
「……聞きたいことですか」
 親父さんの言葉をなぞった。そりゃあ、息子が学校で意識を失って、その現場に居合わせた人間がわざわざ家までやってきた、となれば、「話を聞いておきたい」と思っても不思議じゃない。
 案内されるがまま、俺は和泉の家にお邪魔することになった。
 以前、和泉が通してくれた和室に案内された。暫くして、親父さんが急須と湯呑みを運んできた。
 湯呑みに茶を注ぐその手元があの時の和泉に似ていて、思わずふっと笑ってしまう。
「? どうかしたかい」
「いえ。前にもお邪魔したことがあるんです。その時に和泉が今と同じようにお茶を淹れてくれたなって思い出して……」
「刹那と、仲良くしてくれているんだね」
 俺の前に湯呑みを置いた親父さんが言った。
「君と仲良くするようになってからは、家でも君の話ばかりしている。黒崎くんがああした、こう言ったってね。笑顔が増えたのは、君のおかげだと思ってるよ。ありがとう」
 瞳を細めて笑うその顔が、和泉に似ている。
「いや、俺は……、俺こそ、和泉と仲良くなってから、自分にはないものを和泉は沢山持ってるんだなって思うことが増えました」
 素直にそう言った。照れくささはあったが、和泉本人に聞かれてないのでまだマシだ。
「男手一つで育ててしまったけれど、刹那は気にしすぎるところがある。本当なら細かな気配りをしてやらなきゃいけないのに、……私が刹那と顔を合わせるのは一日の中でも限られた時間しかない。今日も学校から連絡がきて驚いた」
 静かな口調で、親父さんがぽつりぽつりと呟く。
「黒崎くんが刹那を支えてくれたから、頭をぶつけたりせずに済んだんだよ。本当にありがとう」
「いや、本当に俺は何にもしてないっていうか。……本当は、俺がもっとちゃんとしてれば、和泉が倒れるかもしれないことをちゃんと予測してれば……」
 そこまで言ってハッとした。未来を計算で予測できる、況してやあなたの息子さんがいつ死ぬのか計算しています、なんて言えるわけがない。
 詳しく尋ねられたらどう返そう、と、身構えていたら、親父さんは一度瞼を伏せてから俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「君くらいの歳だと、きっとそういう後悔が絶えないんだろうな。『もっとできたはず』『もっとちゃんとすればよかった』と、自分を責めることは、何も悪いことばかりじゃない。内省は大切だ」
 でも、と親父さんが続ける。
「でも、君に『もっと』はなかったと私は思う。充分やってくれたんじゃないかな、刹那のために」
 息が詰まる。こんなことで涙腺が緩むなんてみっともない。ぐっと顎を引いて、唇を噛んだ。
「刹那の母親のことは、知ってるのかな」
「……はい。事故で亡くなったって聞いています」
「うん、それが正しい。でも、刹那は今でも納得はしていないみたいだ。昔から繊細というか、人の声色や顔色を窺ってばかりの子で、それなのに何度危ない目に遭っても、誰かを助けようとする。私は息子が心配なんだ。勿論、君のことも」
 返す言葉が見つからなかった。
 母親の心配そうな顔が脳裏に蘇る。言わないだけで父親も、俺の怪我が増えていることに気づいているはずだ。
 気づいていながら、敢えて何も言わずにいてくれている。
 和泉の親父さんも同じなんだろう。何があったのか問い詰めたい気持ちをぐっと堪えて、俺と話をしてくれているに違いない。
 長い沈黙が流れた。親父さんが柔らかい声で、「呼び止めてすまなかったね」と言った。
「……あの」
「?」
「……絶対に起こさないように気をつけるので、……和泉に会わせてもらえませんか」
 図々しいお願いだということは百も承知だ。
 親父さんが口元に手を遣って考え込む。その癖が和泉と同じで、胸がきゅうっと締めつけられる。
「二階の右奥だよ」
 そう言われて、精一杯頭を下げた。
 ゆっくり階段を上がり、言われた通り、右奥の部屋のドアを開けた。
 薄暗い部屋の右側に机と本棚、左側にベッドがある。
 部屋の中の空気は驚くほどに澄んでいた。窓も開いていないのに、心地のいい風がふわりと部屋中に漂っている。
 机の上には、写真立てがあった。音を立てないように気をつけながら近づく。
 飾られていたのは三歳くらいの子どもと若い女の人の写真だ。
 子どもは面影がある。和泉だ。
(コイツ、全然顔変わってねえじゃん)
 ふっと表情が緩んだ。和泉を抱っこしている女性は、和泉のおふくろさんだろう。
(すげ。そっくり)
 親父さんも似ていると思ったのに、おふくろさんはもっと和泉に似ている。どう見ても和泉は母親似だ。
(……けど、仕草も癖も、親父さんに似てんだよな)
 そう思うと、和泉がいかに大事にされてきたのかわかった気がした。
 そっとベッドに歩み寄る。和泉は眠っていた。規則正しい、小さな寝息が聞こえる。
(……覚悟しなきゃな)
 俺の親にも和泉の親父さんにも、これ以上の心配をかけるわけにはいかない。
 そして何より、俺は和泉をもう危険な目に晒したくない。
(計算し切れないことは、確かにある)
 音の正体も噂の拡散スピードも、足首の黒い痣も、凝り固まった俺の『常識』では解けないものかもしれない。
 だけど、それはそれ、これはこれだ。
 俺に解けないものに固執するのではなく、解けるものだけに集中して精度を上げればいい。
(……俺一人で、やれるとこまでやってやる)
 指先を伸ばし、和泉の前髪を払う。
 死なせたくない、と改めて、強く強く思った。