怪我のことは親には話せなかった。
学校に関しておかしな噂を近所から聞かされている母親は、きっと過剰なほど心配するだろうし、父親の耳に入れば、なぜ怪我をしたのか話す必要がある。
そうなると死の確率を計算していたことを話さなくてはならなくなって、間違いなく怒鳴られるだろう。場合によってはぶん殴られるかもしれない。
翌日から、和泉は前にも増して俺を避けるようになった。
気持ちはわかる。だけど俺だってここで諦めるわけにはいかない。
意地でも和泉にくっついて回った。これまで以上に予測が大事だと判断し、計算にも力を入れた。
事あるごとに数字を弾き、解を出す。
しかし、その精度が落ちていく。
数学は本来、再現性があるものだ。同じ数字、同じ条件、これらが揃えば答えは同じ。それが数学だ。
なのに、ブレていく。ズレていく。式は合っているのに、値が収束しない。
しかも不気味なことに和泉に対しての計算だけが、狂う。
他の計算、例えば天気、クラスメイトの話の流れ、音の反響。こういったものはこれまでと同じ精度なのに、和泉のことを計算する時だけにズレが生じるのだ。
だから、何度も計算してしまう。一度計算して低い値が出たら、本当なら安心していいはずなのに、時間と共に不安になる。
また一から計算を繰り返す。そしてその値は、驚くほどに振り幅が大きい。こんなことは今まで一度もなかった。
つまり、俺は自分の計算を信用できなくなっていた。和泉のことに関してだけは。
どこかで計算ミスをしているのか、数値そのものが間違えているのか、どれだけ数式を読み解こうとしても答えが出ない。これは俺にとってかなりストレスだった。
俺の焦りと、和泉の罪悪感からきた拒絶をよそに、噂は更に大きなうねりになっていた。
今では教師でさえ和泉を避ける。俺に対しても似たようなものだ。まるで腫れ物に触るかのような扱いだった。
学校の中で、俺たちだけが孤立していくのが肌でわかる。
(……市岡も、こんな気持ちだったのかもしれないな)
そう思うと、胸の奥がキリキリと痛んだ。
計算がズレることによって、冷や汗を掻く場面が倍増していく。
これまでならちょっとした危険は回避できたのに、今はそれができない。
そのせいで和泉を危険に晒してしまうことが増えた。
段差に注意していたら、角から現れた生徒にぶつかりそうになる。回避するために和泉の腕を引く。すると今度は避けた先にあったロッカーから、掃除用具が和泉目掛けて降ってくる。
そしてそれを更に回避しようと俺が間に入ると、モップの柄の金具が外れ、俺の頬を掠めた。
薄く切れた皮膚から血が出て、和泉は焦り、周りの生徒たちは大騒ぎ、という具合だ。
怪我の連鎖を止められない。そしてそれを予測できないでいる。
俺が怪我をする度に、和泉の苦しげに寄った眉根が俺を更に焦らせるのだ。
一刻も早く、こんな悪循環から抜け出し、和泉を安心させてやりたい。
そう願えば願うほどに空回りしていく。
いつしかそのズレは、俺と和泉がこれまで積み上げてきた関係性を、根底から揺るがし兼ねない大きさにまで膨れ上がっていた。
市岡の死をきっかけに加速した噂。校内で起こる怪奇現象と幽霊騒ぎ。俺たちにはこの真相を突き止める、という目的があった。
現象に対してのアプローチの仕方は確かに違ったかもしれない。でも、求めている答えは同じだ。
もう後悔したくない。だからはっきりさせよう。
お互いにそう思ってきた。
それなのにここにきて、大きく問題視しなかったアプローチの仕方の違いが露骨に牙を剥いている。
和泉は相変わらず、誰かが喋っているとその周りをじっと見ていた。色を見極めている仕草だ。
それだけじゃなく、廊下や教室でも、誰もいない場所を探るように見回している。
俺はと言えば、躍起になって計算をし続けていた。
和泉からしたら、「計算し切れない何かのせいで黒崎くんは苦しんでいる」と思っているのかもしれない。
一方の俺は、「和泉を殺そうとしている誰かを絶対に突き止めてやる」と決意していた。
学校で広まっていた噂話は、市岡よりも和泉と俺に比重が傾いていく。
そんな中、市岡の親友である浅香だけは、以前と変わらず俺たちに声をかけてくれた。
俺がモップの柄で頬を切った時も、通りがかった浅香が絆創膏をくれた。
それが、市岡が和泉にくれた、あのピンクの絆創膏と同じ物だったので、俺も和泉も何も言えなかった。
「黒崎くん、痛い? ……痛くないわけないよね、ごめん」
和泉がそっと、絆創膏が貼られた俺の頬に指先で触れる。
「何でお前が謝んの」
「俺のせいだから」
「俺が計算ミスしてるだけだ」
わざと断言する形で言った。和泉は悲しそうに瞳を細める。
(……こんな顔が見たいわけじゃなかったのに)
どうしようもない焦燥感と、和泉が危険だというのに精度の狂った計算しかできない自分への苛立ちで、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
その時、廊下の向こうから音がした。コツ、コツ、というあの音だ。化学室で市岡と一緒に聞いた、あの音。
浅香にはまだ聞こえていないらしい。俺たちが顔を見合わせたのを見て、「どうかした?」と首を傾げる。
「……和泉」
「……うん。あの音だね」
やがて音が近づいてきた。廊下の先をじっと見つめる。
音が真正面から響いた時、浅香も気づいたようだ。
「え……、なに? 何の音……?」
それには答えず、和泉が「俺の後ろに隠れて」と浅香に言った。浅香は素直に従っている。
俺は二人の前に立ち、音の方向から距離を測ろうと試みた。
空間平均式を頭の中で展開しながら、音の大きさと間隔に集中する。
(やっぱり、0.6秒間隔……)
そう思った次の瞬間、和泉が叫んだ。
「黒崎くん……っ、下がって!」
その声に反射的に一歩下がる。同時にあのコツコツという音が、凄まじい速さと大きさで俺たちに向かってくる。
コツ! コツ! コツ! コツ! と一定のリズムで近づいてくる。まるで誰かがすごい速さで距離を詰めてくるようだ。
浅香は恐怖から泣き喚いて、「和泉くん! 黒崎くん!」と俺たちの名前を叫ぶ。
和泉が俺の腕を掴み、引き寄せた。
その力とは全く逆方向から、何かが俺の身体を引っ張ろうとしていた。
(何だよ、これ……!)
足が動かない。まるで目に見えない重りが俺の足に絡まっているかのように、一歩も動かせない。
(こんなことあり得ねえだろ! 何で動かない? 動け、動け……!)
音は一際大きくなり、やがて俺の横を通り抜けていく。遠ざかる音に合わせるように、ふっと力が緩んだ。
反動で大きく和泉の方に身体が傾く。
「黒崎くん!」
和泉が青褪めた顔で俺を見つめながら、俺の身体を必死に支えてくれた。
ぐったり項垂れるように、その場にずるずるとしゃがみ込む。浅香は大粒の涙を流しながら、「何なの、あれ、怖い、こわい……!」と顔を覆った。
(何だったんだ……)
人の仕業とは思えない。あの時、確かに俺の足は何かに強い力で引っ張られた。
和泉が俺の腕を掴んでくれなかったら、そのまま引き摺られていたかもしれない。
全身から汗が噴き出していた。
オカルトなんてこの世にない。霊なんか存在しない。その前提が崩れそうになっていることが怖い。
泣きじゃくる浅香に、騒ぎを聞きつけた別の生徒が駆け寄った。浅香の肩を抱き、「保健室に行こう」と声をかけてくれる。
今、俺たちでは浅香を落ち着かせることはできないだろう。任せることにした。
俺たちを遠巻きに見ていた連中は、「おかしいって!」「やっぱり呪いだ!」「怖い、本当に無理!」などと喚き、蜘蛛の子を散らすようにして離れていく。
「黒崎くん、怪我してない?」
和泉の言葉に、首を左右に振った。
「してねえ、大丈夫」
「……大丈夫なんかじゃないよ」
和泉がきゅっと唇を噛む。泣くのを我慢しているように見えて、胸がズキンと痛くなる。
「心配しすぎだ。別にどうってことない、それよりさっきの音のことだけど……」
ギクリとして、そこで言葉を切った。和泉が俺をきつく睨んでいたからだ。
「……それよりって何?」
「……いや、だから、怪我もしてねえし、大したことじゃねえだろってこと。そんなことより、あの音の正体を探る方が先決だろ」
俺の言葉に和泉はぐっと顎を引いてから言った。
「黒崎くんはわかってない」
「は? 何が」
「俺は、もう後悔したくないんだよ。だから黒崎くんに協力してもらって、市岡さんの件を追ってる。でも俺は黒崎くんに、俺の代わりに怪我をしてくれなんて頼んでない」
「だから怪我なんてしてねえって言ってんだろ」
頭のどこかで、このままじゃマズイ、と警笛が鳴っている。
言い争いをしている場合じゃない。わかってるのに、声が尖るのを止められなかった。
「もう、やめて」
「何を」
「もう、俺に関わらないで」
それははっきりとした拒絶の言葉だった。
(今更離れられるかよ……!)
和泉の顔を見つめる。引き結んだ唇を震わせているのがわかった。目元が真っ赤に染まっていて、和泉がどれだけの覚悟でその言葉を口にしたのかわかってしまった。
(だけど俺だって覚悟はあった)
生半可な気持ちで和泉に関わったんじゃない。
言い返そうとした時、和泉の眉がぴくりと動いた。
「和泉?」
俺の声を無視して、和泉が手を伸ばしてくる。座り込んだままの俺の足に触れて、制服のズボンの裾を捲り上げた。
「!」
思わず息を呑む。そこには、真っ黒な痣ができていた。
手形のようなその痣を見て、ゾッと背筋に冷たいものが走る。
裾を戻し、隠そうとした俺の腕に、和泉の身体がぐらりともたれかかった。
「ッ、おい、和泉!」
声を上げ、和泉の身体を両手で支える。和泉は完全に意識を失っていた。


