ラプラスの悪魔はサイコロを振らない

 市岡の死から一ヶ月。
 市岡の死は、正式に自死と断定された。
 遺書はなかったが、転落の事実に不審な点はなく、事件性はないということだった。
 殺されたわけではないことはわかったが、それで騒ぎが収まるはずもない。
 噂は学校の中だけに留まらず、近隣住民、それから保護者にまで広がっていた。
 こうなるともう何が本当でどれが嘘なのか、実態を掴むことは困難だ。
 俺の母親も噂を知っていた。近所の人から「息子さんの通う学校、今じゃ有名な心霊スポットみたいよ」と聞かされたらしい。
「危ないことはしちゃダメよ」と念押しされた。まさか息子がその噂の渦中にいるとは夢にも思っていないだろう。
 そう、今、俺は噂のど真ん中にいる。和泉も同じだ。
 どこから聞きつけたのか、市岡が亡くなる前に俺たちに接触していた、という話が出回った。
 事実なので否定しなかったら、それが一人歩きを始めたのだ。
 和泉と関わって呪いが加速した。
 和泉の早死にの呪いが市岡を殺した。
 こうして噂話はいつしか和泉中心のものに変化し、更には俺にまで波及した。
 黒崎も呪われているらしい。
 黒崎も市岡と同じで早死にするらしい。
 馬鹿馬鹿しいにも程がある。
 だが、そうやって一蹴するには躊躇われるほど、噂の変化と比例するように和泉の死の確率は右肩上がりで増加していた。
 常時30%は死と隣り合わせの和泉だが、35、42、55と上がり続け、ここ数日に至っては60%前後を維持している。
 60%。つまり六面体のサイコロを振って、1〜4が出たら死ぬ。和泉の確率の高さは、そのレベルにまで達していた。
 当然、それに伴って俺も怪我が増えた。
 階段を滑り落ちそうになる和泉を支えようとして、俺が足を踏み外す。
 和泉が誰かとぶつかり、その反動で壁に頭が当たりそうになって、それを手で防御したら壁から突き出た釘が手の甲に刺さる。
 一つ一つは些細なことだ。俺の不注意と言える。
 事象には必ず理由があり、理由を裏付けるルールがある。だから俺の怪我は決して、呪いのせいなんかじゃない。
 問題は、和泉はそうは思わないということだ。それから、無責任に噂話を広め続ける人たちもそうは思わない。
 くだらねえ、と俺が言ったところで、和泉の気持ちまでは変えられない。だからできるだけこの話はしないようにしている。
 それでも目の前で怪我をする俺を見て、和泉の態度は目に見えて変わった。
 俺が送ろうとしても、何だかんだ理由をつけて断ろうとするし、段差や階段で「黒崎くん、気をつけて」と先回りするようになった。
 俺からしたら、「お前が気をつけろよ」と思うけれど、和泉の気持ちを蔑ろにはできない。
 それと同じくらい、俺は前にも増して和泉を監視し、和泉の隣にぴたりと張りついている。
(30%でも大概やべえのに、60%を無視できるわけねえだろ)
 そしてそんな俺の態度が、俺を遠ざけようと和泉を余計に頑なにさせるし、噂を加速させていく。悪循環に陥っていた。
「和泉」
 昼休みに声をかけると、和泉は俺をちらりと見上げてから立ち上がる。
「俺、……行くとこあるから」
 露骨すぎる避け方だ。嘘つくの下手すぎだろ、コイツ。
「どこに?」
「えっと、……あの、えっと……、先生の、とこ」
「先生? 誰?」
 返事に詰まった和泉は俯いて口を結んだ。
 そんな和泉を見て、髪をくしゃくしゃに掻き混ぜる。考え込む時に口元に手をやるのが和泉の癖なら、考えが纏まらない時に髪を掻き混ぜるのは俺の癖らしい。
「あのさ、和泉。お前が何考えてんのかはある程度わかってんだけどな、俺の考えもお前にはわかってて欲しいんだよ、俺は」
「……黒崎くんの、考え?」
「お前、天気予報って見る?」
 急な質問に和泉が眉を訝しげに寄せた。
「見るけど……」
「降水確率60%。お前、どうする? 傘持ってくか?」
「持ってく、……と思う。60%ならかなりの確率で降ると思うから」
「だよな。普通は大抵の人間が、傘を持って家を出る。場合によっちゃ30%、いや、20%でも備える人間はいる。雨が降るって前提で次の行動を決めるし、こういうのを予測を元に動くっつーんだよ。今、お前は60%の降水確率を目にしながら、雨なんて降らないって言って傘を持っていかないって選択をしてる。俺はそういう話をしてんだよ」
 和泉は押し黙って、俺から目線を逸らす。痛いところを突かれた自覚があるんだろう。
「俺はお前の傘にはなれないかもしれねえ。それでも、側に置いとくのに邪魔にはなんねえだろ」
 本当はもっと言ってやりたい。
 十回、家を出たら、そのうち六回は帰れない。この異常さを自覚してほしかった。
 クラスの連中が俺たちを見て、ひそひそ話している。気分のいいものじゃなくて、小さく舌打ちをした。
 和泉はやっと俺の顔を見て、「お昼、食べよ」と言う。少しホッとした。
 裏庭にはベンチがいくつか並んでいる場所がある。俺たちはそこに移動することにした。
「和泉、ちょっと遠回りするぞ」
「遠回り?」
 裏庭に続く渡り廊下では、今、改修工事が行われている。結構大掛かりな工事で、資材やブルーシート、ネットなんかがその一帯を塞いでいた。
 計算では、そこを通るより少し遠回りして反対側から行けば、危険度は下がると出た。
 和泉と連れ立って渡り廊下の裏に回る。
「お前、最近ちゃんと寝れてんの? 目の下、隈できてるけど」
「あ……、うん。金縛りがひどくて」
「金縛り?」
「黒崎くんはない? 大丈夫?」
「俺は別に。つか、金縛りってアレだろ。脳だけが起きる時に起こるやつ」
 金縛りについてのメカニズムははっきりしている。人はレム睡眠とノンレム睡眠を繰り返しているが、何らかの理由でレム睡眠から眠りが始まった場合、脳はまだ起きていると認識してしまう。
 その上、レム睡眠中は筋肉が完全に緩んでいるために、このズレが運動麻痺を引き起こすことによって金縛りとして身体に現れるのだ。
 俺はこれまでも金縛りの経験がない。逆になり易い人もいると聞いたことがある。和泉は後者なんだろう。
 黒崎くんらしいなあ、と溢した和泉が、少し目を伏せた。
「俺はね、金縛りの時に必ず音が聞こえるんだ。誰かの足音だよ。その足音がゆっくり近づいてきて、ハッとした時には俺の上に黒い影が乗ってて……、でも最近は影じゃないんだ」
「影じゃないってどういうことだよ」
 和泉は言いにくそうに唇を微かに噛んでから、ぽつりと溢す。
「……髪の長い、誰かが俺の上に乗るんだ」
 和泉はそれ以上は言わなかった。
(髪の、長い……誰か……)
 校内で目撃される、市岡の霊の噂が頭を過ぎる。
 あれも髪の長い女子生徒が階段の上に現れる、と言う。
(あー……、ほんっとにわかんねえな)
 誰かが市岡の噂を、上書きで塗り替えたことは確かだ。だが、スピードの速さはそれだけでは説明がつかないし、何より目撃証言が多すぎる。
 俺に言わせれば、仮に本当に幽霊だとして、「幽霊ってそんなに暇なのかよ」という話だ。
 あちこちに現れて、生徒を恐怖に陥れている。一ヶ月という短期間で、えらく元気で活発な幽霊ですね、と嫌味の一つも言いたくなる。
 つまり、計算だけでは説明のつかない現象が起こっているのは確かで、それが和泉の言うように、人々の声に引き摺られる形で噂が具現化したせいなのだとしたら。
 そうなのだとしたら、そこに俺の計算はどこまで食い込んでいけるんだろう。
 無事に裏庭に辿り着いた。ベンチに並んで腰を下ろす。プラスチックでできているので、端が割れている。
「和泉、そこ触んなよ、割れてる」
 俺が言うより早く、和泉がちょうど割れた部分に手をついた。慌てて和泉の手首を掴む。
「……黒崎くん、大丈夫だよ」
「……悪い」
 何となく気まずかった。苦笑いじゃなく、和泉が眉尻を苦しげに下げたことが、俺の胸に痛みを生んだ。
 それは罪悪感にも似た痛みだった。
 考えないようにしていたことが、むくりと頭を擡げる。
(俺が関わるから、和泉は余計に苦しいんじゃないか……?)
 嫌な考えだった。できれば向き合いたくない。向き合えば、俺は自分の選択ミスの可能性を目の前に突きつけられてしまう。
 振り払うようにかぶりを振ってから、弁当を取り出した。俺の昼飯はいつも母親が作っていて、和泉は毎日パンを食っている。
「お前、パン好きなの?」
 敢えて何気ない話題に切り替えた。
「嫌いじゃないよ。本当はお弁当を作ろうって思うんだけど、俺、料理苦手で……。父さんも刹那は台所に立つなって言うんだよ」
 親父さんの気持ちが俺にはわかる気がした。台所は普通の人間には日常の場所だ。
 だが和泉にとっては危険な場所になり得る。刃物と火元に近づけたくない、という気持ちからなのかもしれない。
「黒崎くんのお弁当はお母さんが作ってくれるの?」
「昔はキャラ弁とか作られて、結構恥ずかしかった」
「え、いいなあ。俺、そういうの憧れてた。黒崎くんのところでご馳走になったハンバーグ、美味しかったな」
「あれ以来、刹那くんまた来ないかしらってうるせー……」
 んだよな、と続けようとした。その瞬間だった。
 何かが落下してくる音がした。上を見上げる暇もない。
「……ッ!」
 咄嗟に和泉の身体に、自分の身体で覆い被せた。
 ガッという鈍い音と共に、右肩に鋭い痛みが走る。俺の肩に何かが直撃して跳ね返り、間髪入れずにベンチの端に落ちた。
 ガシャン! という大きな音がして、同時にベンチの座面が割れる。
 ばくばく音を立てる心臓を誤魔化せなかった。
 恐る恐る顔を上げ、音の正体を振り返る。
 ベンチの破片が地面に散らばっていた。その中心には、割れた植木鉢と恐らくそこに植えられていたであろう花と土が、無残な形で飛び散っている。
(……信じらんねえ)
 植木鉢だぞ? 頭に直撃してたら死んでたじゃねえか!
 痛みを忘れるほどの猛烈な怒りが、腹の底から湧いてくる。
「黒崎くん!」
 和泉の悲鳴みたいな声でハッとした。
「大丈夫!?」
「へーきへーき。……てのは嘘で、悪い、大分痛えな、これ」
「当たり前だよ! きゅ、救急車、救急車の番号って何だっけ……どうしよう、黒崎くんが死んじゃう……!」
「和泉、落ち着け。大丈夫だから。多分骨は折れてねえよ。保健室行くくらいで何とかなる」
「そんなわけないよ!」
「大丈夫だっての。それより何より、俺は今、めちゃくちゃムカついてんだよ……!」
 和泉の死の確率については計算しているものの、自分の確率を計算したことはこれまでに一度もなかった。
 長年染みついた計算癖のせいなのか、自分が「まだ」死なないということは感覚でわかっていたせいでもある。
 だが俺はそこに、人の悪意を含めていなかった。
(ふざけやがって……、ここまでやるか? 普通!)
 こんなの、心霊現象でも噂の影響でも何でもねえだろ!
 和泉は目の端に涙を溜めながら、「早く行こう、保健室に行こうよ」と繰り返している。
(だけど、これではっきりわかった)
 和泉の死の確率が上がっている理由は、「誰かが和泉を殺そう」としているからだ。
 動揺したままの和泉と一緒に保健室を訪ねた。
 保健医には「どっかから飛んできたボールが当たった」と説明した。
 上から植木鉢が落ちてきた、なんて話せば大問題になる。
 いや、正確には大問題になっても構わない。だが学校側で有耶無耶にされるのはごめんだし、何より俺自身が納得いかない。
(絶対に犯人突き止めてやる)
 俺のそんな決意とは裏腹に、和泉はこちらが気の毒になるほど落ち込んでいた。
 怪我は思っていた通り、骨は折れていないと思う、と言われ、念のために病院に行くことを勧められただけで済んだ。
 つまり、結果としては大したことではなかった、と言える。
 それでも和泉にはショックだったらしい。自分ではなく、俺が大きめの怪我をしたことに精神的に打ちのめされたようだ。
 帰り道もずっと塞ぎ込んでいた。一言も口を聞かずに駅まで辿り着き、家まで送ろうとした俺を頑として拒んだ。
 和泉から目を離すのは怖かった。和泉の死の確率は、家に帰ると下がる傾向にある。だから送り届けて安心したい。
 そう思ったけれど、怪我をした俺に送られるなんて和泉が気に病むのも理解できた。
 別れる間際、もう一度計算した。確率は大体45%弱にまで下がっている。
「十分置きにラインして。つーかトーク画面開いとけ。すぐ既読つけて、すぐ返信してくれんなら、今日は大人しく引き下がる」
 俺の言葉に和泉は眉尻を下げると、「黒崎くんこそ、気をつけて」と言った。
 電車がホームに滑り込んでくる。
 乗り込んだ和泉は、ドアが閉まる直前に唇を動かした。
 発車の音に掻き消されて、声が聞こえない。
 だが、確かに唇が「ごめんなさい」と動いた。
 そんな気がした。