まずは噂の内容を正確に把握することが大事だ。翌日から和泉と共に、クラスメイトや市岡のクラスの生徒たちから、話を聞いて回った。
と言っても、和泉は相変わらず避けられがちだし、今は市岡の件もあって余計に距離を取られている。
基本は俺が訊ねて、和泉は横で声の色を確かめながらメモを取る、というスタイルだ。
大抵の生徒の声には、青色とグレーが混じった色が視えるらしい。
和泉は、視える色は大まかに分けて五色と言ったけれど、それは本当に大きく分けた場合で、実際にはもっと複雑な色をしているようだ。
濃淡と色の混ざり方で、怯えや恐怖の色も視える、と言われた。
聞き込みをして得た噂話をまとめると、屋上に続く階段に女子生徒の霊が見えた、屋上の扉の外からノックするような大きな音が聞こえた、廊下を何かを引き摺るように歩く音が聞こえた、窓の外に黒い影が見えた、というものだ。
どれもこれもありがちな怪談だと思う。出所がどこなのか辿るうちに、うちのクラスの騒がしい男子が幽霊を見た、と騒いだのが一番最初だったのではないか、と考えた。
肝試しに屋上に行こうとしたら、階段のところで幽霊を見た、というアレだ。
あの一件以降、噂は瞬く間に学校中を駆け巡ったと考えられる。
(……ただ、拡散スピードが速すぎるんだよな)
和泉のメモを受け取り、隅に式を書き込んだ。
N(t)=4e^1.3t+27……和泉はそれを覗き、首を傾げた。
「それは、何の式?」
「噂の拡散モデル。最初に四人が共有したとして、拡散率を1.3で仮定した場合、尾鰭化した二次拡散率を計算してんだよ。学校ってのはでかい閉鎖空間だからな。怖い話は指数関数的に広がる。それはあり得るし、予測は可能だ。……可能なんだけど、スピードが速すぎる」
計算上、この速度で噂が全校規模に到達するには三日はかかる。それなのに実際は、一日も経たずに学校中へ広がっていて、更にはまるで感染のように、あちらこちらで目撃証言や音を聞いたという話が出てきた。
誰かが「市岡の幽霊を見た」と二人に話したとする。それを聞いた二人はそれぞれ別の二人に話す。これだけで噂を知る人間は四人に増える。
その四人がまたそれぞれ二人に話したとしたら八人になり、次は十六人、三十二人と爆発的に増えていく。
これが今回の噂のスピードを速めているのは間違いないけれど、それにしたって異様な速さだ。
(……誰かが意図的に広めてるとしか思えねえよな)
だが、そんなことをするメリットがどこにあるのか見当もつかない。
それとも和泉の言葉を借りるとしたら、「誰か」ではなく、「何か」が噂のスピードを速めたのか。
すると和泉が真剣な眼差しで俺を見た。
「そもそも、どうして噂はすり替わったんだろう。こうやって聞き取りをしてて思ったけど、もう誰も市岡さんの彼氏の話なんかしてない」
「そこなんだよな。どう考えても上書きされてるとしか思えねえ」
そこまで言って、喉が詰まった。和泉も何かを察したような目で俺を見上げる。
「……そうだよ、上書きだ」
どうしてこんなことに気づかなかったのか。
メモに新たな数式を書き込み、計算を始めた。R(t)=P₀e^-0.8t+G₀e^1.4t……元の噂の減衰をe^-0.8t、幽霊話の拡散をe^1.4tとして、時間 t における、学校内に存在している噂全体の状態を求めていく。
(誰かが市岡の噂を上書きした。その上書きに合わせた現象を起こすことで、噂は爆発的に広まっていく。だけど『ソイツ』は多分、ここまでのスピードになることを考えてなかった……)
そう考えれば、異様に目撃証言が多いのも頷ける。
『ソイツ』は噂の広まり具合を予測できなかったのだ。
だから、先手先手を打った。噂がちゃんと上書きされるかどうかは不確実性がある。
噂が本当に上書きした状態で広まるのかわからない。その不安から、結果を先回りしてコントロールしようとし、意図的に恐怖を作り上げたに違いない。
音も影も、結局は人の手によるもの、というわけだ。
ところが思っていた以上に生徒たちの間で噂は駆け巡った。市岡が亡くなる前から、市岡には「呪われている」という噂があったし、更に言えば和泉に付き纏う噂も拡散に拍車をかけた。
つまりこの学校の生徒の中には、「呪いで殺されること、呪いで死ぬことはあり得る」という刷り込みが元からあったのだ。
「やっぱ人の仕業だ。間違いない」
断言した。
この世に偶然も、計算できないことも存在しない。
「……本当にそれだけかな」
和泉が小さな声で呟いた。
「確かに、噂を広めてるのは人だし、市岡さんの噂を誰かが上書きしたっていう黒崎くんの話は、納得できる。でも、本当にそれだけ?」
「他に何があるんだよ」
和泉は僅かに瞼を伏せてから、口を開く。
「俺にははっきり視える。学校中に黒い靄がかかってるのも、その靄がまるで手みたいに床や壁を這って、みんなの手足に絡みつくところ」
和泉が本当のことを言っているということは、俺にもわかった。
コイツには確かにそれが視えるんだろう。
だが、俺に見えないその靄を数値化できない以上、現実として存在するあらゆるものを数字にして計算するしかない。
俺は、今回の心霊騒動は人が作っている、と断言できる。
だが和泉は、その結果、「何か」が生まれて、それが市岡を追い詰め、更に学校中をパニックに陥れている、と思っている。
どちらかが間違えている、なんて単純な話じゃない。だからこそ厄介で複雑だ。
「黒崎くんも、気をつけて」
「え?」
「……俺と一緒にいるようになって、黒崎くん、小さな怪我が増えてるでしょ」
てっきり和泉は気づいていないと思っていた。上手く隠せていると思っていただけに、その指摘にギクリとする。
だが、これは和泉のせいでも何でもない。俺が計算し切れなかっただけだ。
和泉といると、計算は万能ではないのだと思うようになった。
ほとんどのことは数学で予測できる。この考えに変わりはないが、計算ミスではなく、「誤算」はあるし、その誤算までを完璧に予測できたとしても、更にそれを覆す何かが存在しないとは限らない。そう思うようになった。
(……それでも、俺は計算するしかない)
あの日、和泉の死の確率を計算してしまったからには、もう後戻りはできない。
「俺には数学がある」という考えから、「俺には数学しかない」という考えに変化していくのを、肌で感じていた。
「お前も、いつも以上に気をつけろよ」
話を和泉のことにすり替えることで、自分を誤魔化す。
和泉は、うん、と頷いたが、俺はその顔を見ることができなかった。
和泉を送り届けてから、帰路に着く。部屋に戻る前にリビングに顔を出すと、母親が俺を待っていたように「遙斗」と呼んだ。
「これ、届いてたわよ」
手渡されたのはハガキだ。宛名には俺の名前がある。差出人の名前を見て、一瞬だけ息を呑んだ。
「行くの?」
母親が心配そうな口調で訊ねてくる。
「もし行くなら、気をつけるのよ」
「ん、わかった」
なるべく短い返事を心がけ、ハガキを手に自分の部屋に入った。
カバンを床に放り、ベッドにダイブする。
ハガキの裏をそっと捲った。
謹啓から始まるそのハガキの内容を、ゆっくり目で辿る。
『亡くなってから早くも二年が経とうとしています。さてこの度、故・吉野風磨の三回忌法要を営むこととなりました』──。
(……そうか、三回忌か)
忘れていたわけじゃない。寧ろ、絶対に忘れられない出来事だ。だが、無意識のうちに考えすぎないようにしていた。大袈裟に言えば、そうしないと生きていけなかったからだ。
瞼を閉じると、風磨の顔が浮かぶ。中学二年の時の顔のままだ。
(どうすりゃ、風磨は死なずに済んだんだろう)
何度も同じ自問自答を繰り返してきた。答えは今でも出ない。
それでも俺なりの結論は出した。
「二度と他人と深く関わらない」ということだ。
それなのに俺は今、和泉と一緒にいる。
行動を共にするだけじゃなく、和泉の死の確率まで計算してしまって、更にはその確率を0にしてやる、と宣言までした。
風磨のことも和泉のことも、根っこにあるのは同じだ。俺は、「もうあんな思いをしたくない」と思っている。
だからこそ、和泉が市岡の死に対して、「……もう、後悔したくない。市岡さんに何があったのか、ちゃんとこの目で確かめたい」と言ったことに共感した。
俺は風磨のことがあってからは、後悔したくないから関わらない、と決めて生きてきたけれど、和泉は真逆だ。
後悔したくないから関わる、それが和泉の出した答えなんだと思う。
俺たちは正反対で、なのに心の奥の奥にあるものはそっくりで、だから俺は和泉を放っておけない。
(偶然なんて信じてねえけど、……俺が和泉と出会ったことには、なんか意味があんのかな)
その意味が、いい意味なのか、それとも悪い意味なのか。
答えが見えるのは、時間の問題な気がした。


