翌日とその次の日、計二日に渡って学校は臨時休校になった。
再開したその日、全校集会が開かれた。
市岡は屋上から転落死した、ということだった。事件性はない、と校長は強調していたが、例によって噂好きのクラスメイトによれば「遺書は見つかっていない」らしい。
俺と和泉は葬儀に参列した。市岡の母親の目元は真っ赤に腫れていて、その姿が痛々しかった。
市岡と仲がよかったと思われる生徒も、何人か参列していた。中学の時の同級生もいたようで、和泉を見るなり、「呪われるぞ、目ェ合わせるなよ」とひそひそ話すヤツまでいて、ぶん殴ってやろうかと思った。
「気にしてない」
和泉はそう言ったけれど、気にしろよ、と思ってしまう。何でコイツは市岡の噂には胸を痛めるのに、自分のことは蔑ろにするんだろう。
葬儀の翌日になっても、学校はまだ落ち着きを取り戻したとは言えなかった。
悲しみだけじゃない。悪趣味な憶測が混じったあれこれが、学校のあちらこちらから聞こえてくる。
俺たちが聞いたのは、市岡には彼氏がいて、その彼氏との間にトラブルがあったというものだ。
俺たちは本人から直接聞いたので、市岡に彼氏がいたのは確かだろう。だがあの日の市岡を思い返しても、彼氏とトラブルになりそうな雰囲気はなかったように思う。
寧ろ市岡は、親友や彼氏には言えない、と言っていた。心配をかけたくないから、と。
(根も葉もない噂ってやつなんだろうけど……)
死人に口なしとはよく言ったもので、尾鰭のついた噂話は二年生全体に広がっていた。このスピードじゃ、明日明後日にでも学校中に広がるだろう。気分のいいものじゃなかった。
だが、事態はそうはならなかった。別の噂が瞬く間に学校中に広まったからだ。
「マジだって! 俺ら昨日放課後にさ、屋上に行ってみようぜってなって、そしたら階段の上に制服着た髪の長い女がいたんだよ!」
クラス一騒がしい男子が、興奮した様子で語った。声には勢いがあるけれど、顔は真剣そのもので青褪めている。
屋上は市岡の件以降、立ち入り禁止になっていた。それなのにわざわざ出向いたということは、野次馬根性だろう。
「俺たち、慌てて逃げてさ、マジ超怖かった! な、怖かったよな!」
隣の男子に同意を求めている。どうやらソイツも野次馬の一人のようだ。
しかしこちらは少し様子が違った。真っ青どころか血の気の引いた白い顔で、じっと俯いている。
「なあって。怖かったよな? 聞いてる?」
そう言って騒がしい男子が肩に手を置いた瞬間、ソイツは勢いよく立ち上がった。クラス中が視線を送る。
するとソイツは急にしゃがみ込んで、頭を抱えた。
「本物だよ、絶対、本物だ、幽霊だよ、市岡の霊だ」
ブツブツと独り言のように呟き始め、それを聞いていた周りのクラスメイトたちが大騒ぎを始める。
「え、本当なの?」「ガチの霊?」「無理無理、もう学校来れない!」「そういえば市岡さんって呪われてるって噂あったよね」「あったあった! え、呪いで死んだってこと?」「やだ、もうやめて、怖い!」──一種のパニック連鎖だ。
悲鳴にも似た叫び声が教室に響き渡る。そしてこれは俺たちのクラスだけの話じゃなかった。
誰々が幽霊を見たらしい。
教室で足を掴まれたらしい。
市岡の啜り泣く声が聞こえたらしい。
屋上の扉の向こうから大きな音で扉を叩く音がした、……二日もすればこの有様だ。
一年生の何人かは、怖がって登校できなくなったと聞いた。
噂話に興味のない俺でさえ、かなりの頻度で耳にすることを考えれば、市岡の噂は異常なスピードと熱量で学校中を駆け回っている。
和泉はずっと苦しそうな顔をしていた。噂話が加速すればするほど、学校中に漂うあの黒い靄は濃くなっていくようだ。
市岡の死の真相はわからないままだが、亡くなった人間が『恐怖の象徴』として再消費されていくのを初めて目の当たりにして、不快な気持ちが胸の中に広がっていく。
一人の女子に呼び止められたのは、学校が嫌な空気に包まれている真っ最中のことだった。
放課後、和泉と共に帰ろうとしていたら、靴箱の手前で話しかけられた。
「和泉くん、黒崎くん」
見覚えのない女子だ。丸い眼鏡をかけた、いかにも優等生という出立ちで、和泉の反応を確認したけれど、和泉も誰なのかわかってなさそうに首を傾げた。
「わたし、浅香美月といいます。結衣の、……市岡結衣ちゃんと親しくしてました」
和泉の肩がぴくりと跳ねる。浅香と名乗った女子を改めて見て、もしかしたらこの女子が市岡が言っていた親友なのかもしれない、と思った。
「少し話せないかな……、結衣のことで……」
浅香の言葉に、俺たちは顔を見合わせた。少し間を空けて、和泉が柔らかく口を開く。
「わかった。……どこがいいかな」
後半は俺に向けた言葉だ。「俺らの教室は?」と返すと、浅香はこくりと頷いた。
教室に戻り、和泉の席の周りの椅子に座る。浅香は緊張した面持ちで俺たちを見つめると、途端に涙を溢した。
「ごめんなさい……、まだ、現実を受け入れられなくて……」
タオルハンカチで目元を抑えながら、浅香が震えた声で言う。和泉も泣きそうな顔で浅香を見つめていた。
「わたしね、……結衣が変な噂されて、悩んでたの知ってたの。知ってたのに、……成績が落ちてて、そのことで頭がいっぱいで。……人の噂なんてアテになんないよ、七十五日って昔から言うでしょ、なんて言って、……結衣にちゃんと向き合わなかった。和泉くんなら似たような噂されてるし、何かアドバイスくれるかもよ、って無責任なことも言っちゃって……」
なるほど、それで市岡はあの日、和泉の元にやってきたのか。話が繋がったことで、また一つ、確信に近づくための数値を手に入れた。
「市岡さん、俺たちのところにきてくれたよ。悩みも話してくれた。……でも、何の力にもなれなかったんだ」
和泉の言葉には自責の念が滲んでいる。それを拭ってやりたいけれど、上手くいかないのも事実だ。
「そうなんだ……、結衣、和泉くんのとこに行ったんだね……」
鼻を啜った浅香が続ける。
「……二人は、今、結衣がどんな噂話のネタにされてるか、知ってる?」
嫌な話題だったが、避けては通れない。浅香に声をかけられた時から、十中八九この話だと予想もついていた。
「……うん。市岡さんの幽霊を見たって、噂になってるから」
「ひどいよね……どうして亡くなってからもそんな風におもちゃにされなきゃいけないの。……そう思うのに、……わたし……」
そこで言葉を区切った浅香は、青褪めた顔で俯き、呟いた。
「わ、わたしも……見たの……」
「え……」
和泉が言葉を失ったのがわかる。
「絶対そんな噂、嘘だって思った。確かめてやるって思って、……昨日、屋上に行ってみたの。……そしたら、そしたら、屋上の扉の手前に黒い影が見えて……!」
話しながら浅香は震えていた。演技をしているようには見えない。浅香は確かに「何か」を見たんだろう。
「みんなは、結衣はこの世に恨みがあるんだって言うの……。呪われてるなんて噂されて、それを恨んでるんだって。それで、噂を楽しんでた人たちのところに現れて、あの世に連れていくんだって……」
浅香が本気で怯えていることはわかる。「みんな」とやらが市岡の死に対して恐怖心を抱き、死んだ市岡が幽霊になって、自分を呪われているなどと言って揶揄ったり避けたりしたヤツらを呪い殺す、というのも、一人歩きしている怪談としてなら、理解できなくもない。
(……けど、やっぱ納得いかねえ)
胸糞悪いとはこのことだ。つい数日前に亡くなったのに、悲しみも癒えないまま、その死をまるでエンタメみたいに消費している。
いくら怖い話や怪談が人の興味を惹くとはいえ、不愉快すぎて舌打ちしたくなった。
「浅香さんは、……仮に市岡さんが本当に幽霊になって現れたとして、……人を呪い殺すような人だって思う?」
和泉の質問にハッとした。浅香も瞬きして、ふるふると首を左右に振る。
「……わたしの知ってる結衣なら、そんなことしないと思う。……だから、すごく悔しいの。……か、影が見えたのは、怖かったけど、……でも、結衣は誰かを恨んだり、誰かを呪ったり、そんなことしないって、わたしは信じてる」
浅香は目に涙を浮かべながら、それでも真っ直ぐに前を向き、俺たちの目を見つめた。
その目には芯の強さと、市岡への確かな友情が宿っている。
「浅香さん。俺も、……黒崎くんも、市岡さんはそんなことしないって思ってる。……噂話は、人の声の集合体だから。それは思わぬ形に変化して、人を惑わせたり、狂わせたりする。今、学校で起こってるのは、その延長線上にあるんだ」
「延長線上……」
浅香が辿々しい口調で復唱した。和泉が深く頷く。
「俺、市岡さんを助けられなかったこと、……すごく悔しいし、苦しい。今も、眠れないくらい。……噂話の根源を突き止めたいって思う。……ダメかな」
最後の、「ダメかな」は俺に向けれている、とわかった。和泉と視線がかち合う。
「ダメなわけねえだろ」
わかっている。ここで首を突っ込んでしまえば、和泉が危険な目に遭う確率は跳ね上がるかもしれないということは、ちゃんとわかっている。
その上で、俺は和泉のこの決意を無視できなかった。
市岡が亡くなったあの日、和泉の家でコイツが言った、「後悔したくない」という言葉が、今も俺の胸に刺さって抜けない。
あの時も、和泉は「ダメかな?」と言った。俺は何だかんだで「ダメじゃねえよ」とは返さず、遠回しに肯定したけれど。
だけど今は、はっきり言える。
「浅香、市岡の彼氏のこと、なんか知ってる?」
「社会人だってことだけ……。会わせてよって言ってたんだけど、今度ねってはぐらかされてて」
「心当たりとかねえの?」
浅香は首を傾けてから、「これはわたしの勝手な憶測なんだけど」と前置きしてから続けた。
「……あんまり大っぴらには言えない人だったのかなって思ってる」
「例えば?」
「不倫、とか」
この歳では普段聞くことのない単語が出てきて、思わず眉間に皺が寄る。和泉は目をぱちぱちさせて、「ふりん……」と片言で呟いた。
「バイト先とかで知り合った、とかなら、まあ……なくはねえか? ……いや、でもなあ……、不倫か……」
「あの、わたしが勝手にそう思っただけだから。でも、普通にただ社会人っていうだけなら、結衣は紹介してくれたんじゃないかって思うの」
市岡と親しかった浅香が言うのだから、一定の説得力はある。
カバンからノートを取り出し、浅香から聞き取ったことをメモしていく。まだ数値に落とし込めるようなものはないけれど、どれがヒントになるかわからない以上、少しでも情報が欲しかった。
「浅香さん。例の呪いの噂より前は、市岡さんに何か変わったことはなかった?」
「なかった、……と思う。わたしも結衣も、目立つタイプじゃないけど、だからこそ大きな波風もなく平凡に学校生活を送ってたっていうか……」
「……クラスメイトとじゃなく、先輩後輩、先生とかとトラブルもなかった?」
和泉が確信に触れた。恐らく聞きたかったのは高見とのことだろう。
だが「高見とは何もなかったか」と聞けば、浅香に先入観を持たせてしまう。和泉のこういう気遣いは、俺には真似できないことだ。
「……一つだけ。化学の授業で、結衣のビーカーが真っ赤に染まった話、知ってる?」
「うん。市岡さんから聞いた。みんなパニックになったって」
「そうなの。でも、高見先生だけは妙に落ち着いてて、結衣が泣いて、みんなが悲鳴を上げて騒いでるのに、さっさとビーカーを洗って……泣いたってどうにもならないでしょって言ったの。……わたしは、当たりが強いなって思った」
やっぱり高見のあの態度には、何か理由があったとしか思えない。
和泉も同じ気持ちのようで、俺にちらりと目配せすると顎を引いた。
浅香から一通り話を聞き終えて、そろそろ帰るか、と立ち上がったタイミングで、和泉が「浅香さん」と声をかける。
「……俺が言うの、変なんだけど、……噂に惑わされずにいてくれてありがとう。影を見てしまったことは、怖かったと思う。でも、……それを市岡さんへの恐怖に変えたりしないでいてくれて、ありがとう」
和泉の言葉に、浅香は緩やかに首を振った。
「和泉くんが結衣のことを、呪い殺すようなそんな人じゃないって否定してくれて嬉しかった。……今は、結衣はまるで悪霊みたいに言われてて、……でも、結衣を信じてくれてありがとう。黒崎くんも、わたしの話を真剣に聞いてくれてありがとう」
教室を出ていく浅香の背中を見送った後、和泉に視線を送る。
「……で?」
「浅香さんも嘘はついてない。心から市岡さんの死を悲しんでた」
「ってことは、……青?」
確か哀しみの声は青色に視える、と言っていたはずだ。
「青だった。深い海の底みたいな色だったよ」
「……実験のアレは、恐らく高見だろうな」
俺の一言に和泉も頷いた。
「目的はなんだろ。……市岡さんへの嫌がらせ?」
「嫌がらせにしちゃ手が込んでね? それに悪質だろ。だって市岡が呪われてるだの何だのって噂を利用したわけだし」
実際、それをキッカケに和泉のとこに相談にくるほど、市岡は追い詰められたのだ。
「それにしても、……幽霊ってのがなあ……」
俺のぼやきとも言えるセリフに、和泉は少し眉を下げた。
「信じられない?」
「遠慮なく本音言うとしたら、全然、一ミリも信じてねえ」
「黒崎くんはそれでいいと思う」
「お前は信じてんの?」
少し宙を見て和泉が口を開く。
「幽霊、とかは俺もあんまり。でも、噂話が持つ力の強さはわかってる。噂が人を殺してしまうことがあるってことは、……わかってるから。……今、学校中が市岡さんの噂をしてる。悪い噂ほど広まるのは早い。その速さと濃度が、影や姿になって現れてしまってるのかも」
本来の俺は、影だの何だのというものには否定的な立場だ。
だが和泉が言うように、噂話が力を持つことがある、ということはわかる。それに怯え、苦しんだ結果、人生があらぬ方向に歪んでしまうこともあるだろう。
その影響力が、和泉の目には色づいて視える。オカルトだとか心霊現象だとか、そんなんじゃなくて、ただそれだけなのかもしれない。
「……ただ、ちょっと引っ掛かるんだよな」
ノートの隅っこをシャープペンシルの先でコツコツ叩きながら呟く。
「市岡の話って、いじめみたいな嫌がらせを受けたってのが、最初だったよな?」
「うん……、トイレに私物を捨てられたりしたって言ってたね」
「で、そういうのを繰り返すうちに、音が聞こえたりするようになって、呪われてるって言われ始めて……それに引っ張られるみたいにおかしな出来事が増えて、実験のアレがあった……。なあ、市岡が亡くなってからの話だけど、最初の噂ってこんな心霊じみてなかったよな?」
和泉は少し考える素振りを見せた。口元に手をやるのは癖らしい。
「……確かに、黒崎くんの言う通りかも」
「だよな? 俺の記憶では彼氏とトラブったとか何とか噂が流れたと思うんだけど」
「うん。俺も覚えてる。最初は確かにそうだったよ」
「つまり、どっかのタイミングで噂がすり替わったってことだ」
果たして、すり替わったのか、それとも誰かが意図的にすり替えたのか。
それは現時点ではわからない。何にせよ、噂の根源がどこにあるのか、突き止める必要がある。
「明日から調査してみるか」
俺の言葉に和泉は、こくりと頷いてから、「頑張ろうね」と言った。


