帝都影恋物語

柱:黒瀬家・門前/夜

ト書き:
黒塀の向こうで、灯籠の火が静かに揺れている。
門をくぐる御影と紬。
紬の足元の影は、以前よりわずかに大きい。

紬「……ただいま、戻りました」

ト書き:
自分で言ってから、紬ははっとする。
黒瀬家の女中たちが出迎える。

女中「お帰りなさいませ、紬様」

ト書き:
紬は胸元に手を当てる。

御影「疲れただろう。今夜は休め」

紬「はい……」

ト書き:
紬は一歩進む。
その瞬間、足元の影が、門の外へ細く伸びる。

紬「……?」

ト書き:
門の外。
闇の奥に、一瞬だけ黒い人影が見える。
だが、すぐに消える。

紬「御影様、今……」

御影「どうした」

紬「誰かが……見ていたような」

ト書き:
御影が門の外を見る。
夜風だけが吹いている。
灯籠の火が、細く揺れる。

御影「今日は日向家の婚礼で騒ぎを起こした。見張りがいても不思議ではない」

ト書き:
御影の目が少し鋭くなる。

紬「……私のせいで、黒瀬家に迷惑が」

御影「違う」

ト書き:
御影は紬を見下ろす。

御影「日向家も白檀も、お前の影を不当に扱った。迷惑をかけているのは向こうだ」

紬「……はい」

ト書き:
紬は小さく頷く。

柱:黒瀬家・客間/夜

ト書き:
紬は膝の上に両手を置いて座っている。
女中が温かい茶を置く。

女中「お体に障らぬよう、今夜は早めにお休みくださいませ」

紬「ありがとうございます」

ト書き:
女中が下がる。
襖の外に御影の影が映る。

御影「紬。入ってもいいか」

紬「はい。どうぞ」

ト書き:
御影が入る。
襖は少し開けたまま。
紬は、その隙間を見る。

紬「御影様は、いつも襖を少し開けてくださるのですね」

御影「夫婦ではない二人が、密室にいるのはまずいだろう」

ト書き:
紬の瞳が揺れる。

紬「御影様」

御影「何だ」

紬「御影様は……ご家族がいらっしゃるのですか」

ト書き:
御影が少しだけ沈黙する。
紬は慌てて顔を伏せる。

紬「すみません。不躾なことを」

御影「いや。隠すことではない」

ト書き:
御影は火鉢の向こうに腰を下ろす。
正面ではなく、少し斜めの位置。

御影「双子の弟がいる」

紬「双子の……弟君」

御影「ああ。今は軍人をしている。帝都を離れているが、いずれ戻る」

紬「軍人……」

ト書き:
紬の目に、少し驚きが浮かぶ。

紬「御影様と、似ていらっしゃるのですか」

御影「顔は似ている。性格は似ていない」

紬「そうなのですか」

御影「俺より口が悪い」

ト書き:
紬は思わず小さく瞬きをする。
御影の表情は真面目なまま。

紬「でも、御影様の弟君なら……きっと、お優しい方なのでしょうね」

御影「優しい、という言葉を本人に言うな。嫌がる」

紬「ふふ……」

ト書き:
紬は小さく笑う。
すぐに、自分が笑ったことに気づき、口元を押さえる。

紬「すみません」

御影「謝ることではない」

ト書き:
御影の視線が、紬の足元の影へ落ちる。

御影「弟も、俺と同じように影を使役できる」

紬「御影様と同じ力を……」

御影「ただし、影を動かす力は、弟の方が強い」

紬「御影様よりも、ですか」

御影「ああ」

ト書き:
紬は息を呑む。
御影の影が灯明の中で静かに広がる。

紬「それほどの方が……」

ト書き:
紬は足元の影を見る。

紬「私にも、いつか影を使役できるのでしょうか」

御影「焦るな。お前はまだ、戻ってきた影を抱えて立つだけで十分だ」

紬「……はい」

御影「いずれ、弟を紹介する」

紬「私に、ですか」

御影「黒瀬家にいるなら、会うことになる」

ト書き:
紬は胸元に手を当てる。

紬「御影様」

御影「何だ」

紬「その時、私は……どう紹介されるのでしょうか」

ト書き:
御影が紬を見る。
紬は目を伏せたまま、膝の上の手をぎゅっと握る。

紬「御影様の花嫁として、でしょうか」

ト書き:
火鉢の炭が、小さく音を立てる。

御影「お前がそれを望むなら」

紬「……望む、ということが、まだよく分からないのです」

御影「そうか」

ト書き:
紬はゆっくり顔を上げる。

紬「私は、御影様に助けていただいてばかりです」

御影「助けが必要だった。それだけだ」

紬「でも、私は……御影様に何も返せていません」

御影「返す必要はない」

紬「いいえ。私は、もう誰かのために影を差し出すだけの人間でいたくありません」

ト書き:
紬、御影を見る。

紬「でも、守っていただくだけのままでも、いたくないのです」

御影「……」

紬「いつか、御影様を助けられるような人間になりたいです」

ト書き:
御影の目が、わずかに動く。

紬「御影様の後ろに隠れるのではなく……隣に立てるような人間に、なりたいです」

ト書き:
紬の指が震える。

紬「だから、その日まで……結婚のことは、考えられません」

御影「……」

紬「御影様が嫌だというわけではありません。むしろ、私は……御影様を尊敬しています。私に、自分の幸せを望んでいいと教えてくださった方ですから」

ト書き:
紬の目に涙が浮かぶ。

紬「だからこそ、今の私があなたの花嫁にふさわしいとは思えません」

御影「それが、お前の答えか」

紬「はい」

ト書き:
紬は小さく頭を下げる。

紬「今はまだ、御影様の花嫁にはなれません」

御影「分かった」

ト書き:
紬が顔を上げる。

御影「待っている」

紬「……待って、くださるのですか」

御影「ああ」

紬「怒らないのですか」

御影「なぜ怒る」

紬「私が、御影様のお申し出を……」

御影「俺は、お前を守るために花嫁という名を使った。だが、お前自身を縛るためではない」

ト書き:
御影は静かに言う。

御影「本当に俺の花嫁になるかどうかは、お前が決めればいい」

紬「私が……」

御影「お前が決める」

ト書き:
紬の肩から、緊張が少し抜ける。
涙が一粒、膝の上に落ちる。

紬「御影様は、いつも私に選ばせてくださるのですね」

御影「今まで奪われてきたなら、これから取り戻せ」

紬「影だけでなく……選ぶ心も、ですか」

御影「ああ」

ト書き:
紬は涙を拭う。

紬「私、取り戻します」

御影「焦らずにな」

紬「はい」

御影「明日から、影を使う稽古を少しずつ始めよう」

紬「稽古……私にできるでしょうか」

御影「お前の影には素質がある」

紬「やってみたいです。あなたの隣に立つために」

柱:黒瀬家・客間/深夜

ト書き:
客間の灯りが消えている。
紬は布団の中で眠っている。

柱:黒瀬家・御影の書斎/同時刻

ト書き:
御影が文机に向かっている。
机の上には、書きかけの文。
文の宛名には「影虎へ」とだけ書かれている。
御影は筆を取る。

御影「……紹介すると言ったからな」

ト書き:
御影の口元が、ほんのわずかに緩む。
筆が紙の上を走る。

手紙の文字:
「黒瀬家に、日向紬という娘を保護した。影を奪われながら、なお生きている。お前にも一度、見てほしい――」

ト書き:
御影の影が、灯明の光を受けて畳に伸びている。
その影が、ふいに揺れる。

御影「……誰だ」

ト書き:
御影が立ち上がる。
その背後に、もう一つの影。
人の姿は見えない。
ただ、御影の足元の影だけが、何かに掴まれたように引き裂かれる。

御影「――っ」

ト書き:
御影の目が見開かれる。
黒い羽織の裾が大きく揺れる。
障子に映る御影の影が、刃で断たれるように途切れる。

柱:黒瀬家・客間/翌朝

ト書き:
朝の光が障子越しに差し込む。
紬が目を覚ます。
足元の影が、震えている。
まるで何かに怯えているように、細く書斎の方へ伸びていく。

紬「……?」

ト書き:
紬は布団から起き上がる。
廊下に出る。
黒瀬家の女中が、朝食の支度をしている。

女中「紬様、おはようございます」

紬「おはようございます。御影様は……」

女中「書斎にいらっしゃるかと。昨夜、遅くまで灯りが」

柱:黒瀬家・御影の書斎前/朝

ト書き:
書斎の襖が、わずかに開いている。

紬「御影様、入っても……よろしいですか」

ト書き:
返事はない。
紬の手が襖に触れる。

紬「御影様……?」

ト書き:
紬が襖を開ける。

柱:黒瀬家・御影の書斎/朝

ト書き:
倒れた文机。割れた硯。書きかけの文が落ちている。
黒い墨が、血のように広がっている。
その中央に、影がない御影が倒れている。

紬「……え」

ト書き:
紬の息が止まる。
御影の黒い羽織は乱れ、顔は白く、静か。

紬「御影、様……?」

ト書き:
紬はふらつきながら近づく。
膝をつく。

紬「御影様、起きてください」

ト書き:
紬は手を伸ばす。
震える指先が、御影の冷たい手に触れる。
紬の瞳から涙が零れる。

紬「いや……。昨日……待っていると、言ってくださったのに」

ト書き:
紬の視界が涙で滲む。

紬「誰が……」

ト書き:
女中の悲鳴が廊下に響く。

女中「御影様!」

ト書き:
紬は御影の手を握りしめる。

紬「御影様……私、まだ……何も返せていません」

ト書き:
紬の涙が、御影の手に落ちる。

紬「いや……御影様……!」