帝都影恋物語

柱:黒瀬家・帳場/翌朝

ト書き:
朝の光が、黒い格子戸から細く差し込む。
帳場には古い帳簿が何冊も積まれ、帝都の地図が広げられている。
御影は地図の前に座り、黒い筆でいくつかの印をつけている。
紬は少し離れた座布団に、背筋を伸ばして座っている。

番頭「東の方角にある影質屋は、こちらの三軒でございます」

ト書き:
番頭が地図の東側を指す。
紬の足元の影が、かすかに震える。

紬「……ここです」

ト書き:
紬は戸惑いながら地図を見る。
指先が一軒の小さな印の上で止まる。

紬「……ここから、胸の奥を引かれるような気がします」

番頭「持ち主が、売られた影の気配を辿るなど……」

ト書き:
御影は紬の足元の影を見つめる。

御影「普通はできない」

紬「……やはり、私はおかしいのですね」

御影「違う」

ト書き:
紬が顔を上げる。

御影「お前の影が、お前を呼んでいるだけだ」

紬「私を……呼んでいる」

御影「行くかどうかは、お前が決めろ。見つけたとしても、すぐに取り戻せるとは限らない」

紬「取り戻せるなら……」

ト書き:
紬は両手を膝の上で握る。
唇が震える。

紬「取り戻したいです」

ト書き:
御影の目が、わずかに柔らかくなる。

御影「分かった」

紬「でも、御影様のお手を煩わせてしまうのでは……」

御影「煩わせろ」

紬「え……」

御影「奪われた影を取り戻すのは、わがままではない」

ト書き:
紬の瞳が揺れる。

柱:黒瀬家・玄関/朝

ト書き:
女中が紬に薄墨色の羽織を差し出す。
紬は受け取るのをためらう。

紬「こんな上等なもの、私には……」

御影「紬」

ト書き:
紬ははっと口を閉じる。

御影「『私には』の続きは言うな」

紬「……はい」

ト書き:
紬は羽織を羽織ろうとして、袖に手を通し損ねる。
御影が一歩近づく。

御影「手を貸していいか」

紬「……はい」

ト書き:
御影が羽織の肩を整える。

紬「御影様は、いつも聞いてくださるのですね」

御影「お前の体は、お前のものだ」

ト書き:
紬は小さく息を呑む。

柱:帝都東町・古い影質屋の前/朝

ト書き:
人通りの少ない路地。
湿った石畳。
煤けた暖簾に「影質」と書かれている。
黒瀬家の店よりも古び、薄暗い。
紬が店の前で足を止める。
胸元を押さえる。

紬「……ここです」

柱:東町の影質屋・店内/朝

ト書き:
狭い店内。
棚には大小さまざまな硝子瓶が並んでいる。
瓶の中では、黒い煙のような影が揺れている。
店主の老人が帳場の奥から顔を出す。
御影を見るなり、ぎょっとして背筋を伸ばす。

店主「黒瀬当主……」

御影「帳簿を見せろ」

店主「急に何を……」

御影「日向紬の影を買い戻しに来た」

ト書き:
店主の視線が紬へ移る。
紬はその目を受けて、反射的に俯く。
棚の奥。小さな硝子瓶が、かたりと音を立てる。

紬「……あそこ」

ト書き:
紬が顔を上げる。
棚の上段。埃をかぶった小瓶の中に、細い黒い影が閉じ込められている。
影は、瓶の内側で弱々しく揺れている。

紬「御影様……あれです」

店主「何を根拠に」

ト書き:
小瓶が、また震える。
紬が一歩近づく。
瓶の中の影が、紬の声に反応するように、硝子へ張りつく。

紬「……私の影です」

店主「影の違いなんて、認識できないはず。娘の思い込みでは――」

御影「ならば開けずに証を見よう」

ト書き:
御影が小瓶の前に立つ。
紬を見る。

御影「呼んでみろ」

紬「呼ぶ……?」

御影「お前の影なら、お前の声を覚えている」

ト書き:
紬は小瓶を見つめる。
唇が震える。

紬「……戻ってきて」

ト書き:
小瓶の中の影が、硝子の内側で激しく揺れる。
店主が目を見開く。

店主「馬鹿な……売られた影が、主に反応するなど……」

御影「売られた影は、主を覚えている」

ト書き:
御影が店主へ視線を向ける。

御影「帳簿を出せ」

店主「しかし、これは日向家から正当に買い取った品で――」

御影「幼子から切り取った健康の影だろう」

ト書き:
紬の肩が震える。

紬「健康の……影」

店主「昔の取引です。こちらは代価を払った。今さら返せと言われても」

御影「返せとは言っていない。買い戻す」

ト書き:
御影は懐から黒い封を出し、帳場に置く。
重い音。
店主の顔色が変わる。

店主「これほど……」

御影「対価は十分だ」

店主「黒瀬家の当主が、なぜこの娘一人にそこまで」

御影「約束したからだ」

ト書き:
店主は慌てて帳簿を開き、筆を取る。

店主「……日向紬様、健康の影の一部。買い戻し」

ト書き:
紬は小瓶を見る。
瓶の中の影は、震えながら紬の方へ寄っている。

紬「戻ってきて」

ト書き:
店主が小瓶の封を解く。
黒い影が、細い糸のように瓶からこぼれ出る。
空中を揺れながら、紬の足元へ向かう。

紬「……っ」

ト書き:
紬は驚いたように自分の胸に手を当てる。

紬「息が、しやすいです」

ト書き:
その目に涙が浮かぶ。
紬は自分の足元を見る。
ほんの少しだけ伸びた影。
その小さな変化を、宝物のように見つめる。

紬「影が……戻って来た」

柱:帝都東町・路地/昼前

ト書き:
店を出る。
外の光がまぶしい。
紬は一瞬、目を細める。
足元の影が、朝より少しだけ濃い。
御影が歩幅を緩める。

御影「大丈夫か」

紬「はい。いつもより体が軽い気がします」

御影「無理はするな」

紬「御影様」

御影「何だ」

紬「ありがとうございます。買い戻してくださって」

御影「礼は、影に言え」

紬「影に……?」

御影「あれは、お前の声を聞いて戻った」

ト書き:
紬は足元を見る。
影が、紬の動きに合わせて揺れる。

紬「……ありがとう」

ト書き:
紬が小さく呟く。
その声に応えるように、足元の影がわずかに濃くなる。
御影はそれを見て、目を細める。

御影「やはり、普通ではないな」

紬「御影様?」

御影「いや。今はそれでいい」

ト書き:
御影は前を見る。
紬は不安げに見上げるが、御影の横顔は落ち着いている。

御影「分からないものに名前をつけて急ぐ必要はない」

紬「……はい」

御影「一つずつ取り戻せ」

柱:黒瀬家・帳場/昼

ト書き:
黒瀬家へ戻る。
女中が出迎え、紬の顔を見て目を丸くする。

女中「紬様、お顔色が……」

紬「変、でしょうか」

女中「いいえ。少し、明るくなられました」

ト書き:
紬は驚いて頬に手を当てる。
照れたように目を伏せる。

紬「明るい……」

ト書き:
そのとき、門の方から声がする。
番頭が険しい顔で帳場へ入ってくる。

番頭「御影様。日向家より使者が」

ト書き:
紬の体がこわばる。
戻ったばかりの影が、足元で小さく震える。

御影「通せ」

ト書き:
日向家の使者が、丁寧すぎるほど深く頭を下げる。
手には、金糸で飾られた招待状。
祝いの紅白紐がかけられている。

使者「日向家当主より、明里様の婚礼式へのご招待にございます」

ト書き:
紬の指先が震える。
使者は紬を見る。
口元に、かすかな笑み。

使者「紬様には、ぜひお越しいただきたいと。姉君として、明里様の幸せをお見届けいただきたく」

紬「……明里の、幸せ」

使者「ええ。明里様はたいそうお美しく、嫁ぎ先の方々もお喜びでございます。紬様も、お喜びでしょう」

御影「用件はそれだけか」

使者「はい。黒瀬様にも、日向家として正式にお席をご用意しております」

ト書き:
使者は招待状を差し出す。
御影が受け取る。

御影「明里の幸福を見せつけるために、お前を呼ぶのだろう」

ト書き:
紬の肩が震える。

御影「行きたくないなら、行かなくていい」

紬「明里に会うのも、お父様に会うのも、怖いです」

御影「当然だ」

紬「でも……」

ト書き:
紬の足元の影が、ほんの少し前へ伸びる。

紬「私の影が、ある」

ト書き:
紬は顔を上げる。

紬「迎えに行きたいです」

御影「……そうか」

紬「御影様。私、行きます」

ト書き:
御影は静かに頷く。

御影「なら、俺も行く。お前を一人で日向家に戻すわけがない」

ト書き:
紬の目が揺れる。

御影「紬」

紬「はい」

御影「今日、お前は明里を祝うために行くのではない」

ト書き:
御影が招待状を開く。

御影「奪われたものを、取り戻すために行く」

紬「……はい」

柱:黒瀬家・客間/午後

ト書き:
女中が淡い藤色の着物を用意している。
派手ではない。
けれど、清潔で上品な着物。
紬はその前に立ち尽くす。

紬「こんな綺麗なものを着て、日向家へ行くのですか」

女中「御影様のお言いつけです。紬様に似合うものを、と」

ト書き:
紬は着物の袖にそっと触れる。

紬「私のため……」

柱:黒瀬家・門前/夕方

ト書き:
紬が藤色の着物で現れる。
御影が一瞬、黙る。

紬「……おかしいでしょうか」

御影「いや」

ト書き:
御影は視線を逸らさずに言う。

御影「似合っている」

ト書き:
紬の頬がわずかに赤くなる。
すぐに目を伏せる。

紬「ありがとうございます」

柱:日向家・婚礼会場前/夕方

ト書き:
日向家の門は紅白の幕で飾られている。
門前には祝いの客が集まり、華やかな声が飛び交う。
紬と御影がその中に入っていくと、客人たちが振り向く。

客人A「黒瀬家だ……」

客人B「影質屋の当主が、なぜ日向家の婚礼に」

客人C「隣の娘は誰だ?」

柱:日向家・婚礼の大広間/夕方

ト書き:
大広間には灯明が並び、紅白幕が張られている。
中央には、白無垢姿の明里。
客人たちに囲まれている。
父は上座で満足げに座っている。
明里の足元には、黒く豊かな影が広がっている。
紬と御影が広間の入口で足を止めると、明里がこちらに気づく。
白無垢の袖を揺らし、満面の笑みを浮かべる。

明里「あら、お姉様。来てくださったのね。私の幸せを、見に」