帝都影恋物語

柱:日向家・影取引の座敷/夜

ト書き:
畳の上に倒れかけていた紬の手を、御影が強く握っている。
父、影の契約書を握り潰すようにして立ち上がる。

父「黒瀬様……!これはどういうおつもりです!」

御影「取引は無効だ。……紬」

ト書き:
御影が紬を見る。

御影「立てるか」

紬「……はい」

ト書き:
紬、立ち上がる。

父「待て、紬!戻れ!」

ト書き:
父が一歩踏み出そうとする。
しかし、御影の影が、畳の上を静かに走る。
父の足元まで伸びた瞬間、父の影が縫い止められるように動かなくなる。

父「ぐっ……!」

ト書き:
父、御影の影に足を取られ、進めない。

父「紬!お前は日向に恩があるだろう!明里のために影を差し出すのが、お前の役目だ!」

ト書き:
紬の背中がこわばる。
足が止まりかける。

御影「見るな」

紬「……」

御影「今は前だけ見ろ」

ト書き:
紬はゆっくり、正面を見て、前に進む。

柱:黒瀬家・門前/夜

ト書き:
帝都の外れ。黒塀に囲まれた大きな屋敷。
門には黒瀬家の紋。
庭の灯籠が静かに灯っている。

使用人「お戻りなさいませ、御影様」

御影「ああ」

ト書き:
紬、使用人に向かってお辞儀をする。

御影「客間を用意しろ。湯と、温かい茶も」

番頭「かしこまりました」

紬「客間……?」

御影「今夜はそこで休め」

紬「私などが、客間を使ってよいのですか」

ト書き:
御影が足を止める。
紬は怯えたように肩をすくめる。

御影「紬」

紬「はい……」

御影「自分を『など』と呼ぶな」

紬「……申し訳、ありません」

御影「謝ることでもない」

ト書き:
紬、黒瀬家の門を見上げる。

柱:黒瀬家・客間/夜

ト書き:
広い客間。清潔な布団。
白湯と温かい茶が置かれている。
火鉢には小さな火。
紬は座布団の端に、遠慮するように座っている。
女中が茶を差し出す。

女中「どうぞ、紬様」

紬「つむぎ、さま……?」

女中「はい。御影様より、そのようにお呼びするようにと」

紬「私は、様をつけていただくような者では……」

女中「ですが、御影様の大切なお客様ですから」

ト書き:
紬の瞳が揺れる。
湯呑みを持つ指先が震える。

御影「下がれ」

女中「はい」

ト書き:
女中が静かに退室する。
御影は襖の前に立ったまま、客間に踏み込まない。

御影「入ってもいいか」

紬「え?」

御影「二人きりになる。嫌なら、襖を開けたまま話す」

紬「……入って、ください」

御影「分かった」

ト書き:
御影が部屋に入る。
襖は少しだけ開けたままにする。
紬はその隙間を見つめる。

紬「閉めないのですか」

御影「閉めてほしいか」

紬「いえ……その」

御影「では、このままにする」

ト書き:
御影は紬の正面ではなく、斜め前に腰を下ろす。
御影、灯明の方を指す。

御影「紬の影を詳しく見たい。ここに立て」

紬「……はい?」

ト書き:
紬、戸惑いながら灯明の下に立つ。
紬の影は足の裏に貼りつくように小さい。

御影「この影の薄さで、まだ立っているのか」

紬「私……そんなに、影が……」

御影「普通なら、とっくに命を落としている」

ト書き:
紬の顔から血の気が引く。
自分の足元を見る。

※回想シーン①※

柱:日向家の離れ/夜

ト書き:
幼い紬が座敷に座らされている。
父が、黒い帳面を持った男と向かい合っている。
燭台の火が揺れ、幼い紬の影が畳に長く伸びている。

幼い紬「お父様……これは、何ですか?」

父「家のためだ。じっとしていろ」

ト書き:
黒い帳面の男が、紬の影の端に小さな刃を当てる。
影が紙のように、薄く裂ける。

幼い紬「痛っ……!」

父「泣くな。金運の影を少し売るだけだ。明里の祝いに必要なのだ」

ト書き:
影の端が切り取られ、黒い小瓶へ吸い込まれる。
幼い紬の影が、少しだけ短くなる。

※回想シーン①終了※

※回想シーン②※

柱:日向家の廊下/数年後

ト書き:
少し成長した紬が、廊下の隅に立っている。
座敷では明里が客人たちに褒められている。

客人A「明里様は評判通りのお美しさだ」

客人B「日向家には、なんと恵まれた姫君がいることか」

ト書き:
紬は廊下でひとり、手の甲を握りしめる。
足元の影が、また少し欠けている。

父の声(モノローグ)「評判の影を少し明里に移しただけだ。姉なら当然のことだ」

※回想シーン②終了※

※回想シーン③※

柱:紬の部屋/雨の夜

ト書き:
紬が布団の上で咳き込んでいる。
顔色は悪い。
部屋の外から、明里の楽しそうな笑い声が聞こえる。

父「健康の影を売った。明里が病に伏せては婚礼に差し障る」

紬「でも……私は……」

父の声「お前は耐えられる。紬、お前にはそれしか価値がない」

※回想シーン③終了※

紬「私、死んでいても……おかしくなかったのですか」

御影「紬ほど影を削られた者は、見たことがない。通常なら、生きていけないはずなのだが……。お前の影には、何か特別な能力があるのかもしれない」

ト書き:
紬は両手を握りしめる。

御影「金運、評判、健康、縁。お前の影は、長い時間をかけて切り売りされている」

紬「……はい」

ト書き:
紬は目を伏せる。
紬の肩が震える。
影も同じように、かすかに震える。
御影は紬の足元の影を見つめる。

御影「今残っている、最後の影は、人を愛し、愛されるための影だ」

紬「……はい」

御影「それを売られれば、お前は自分の幸せを望む力を失っていた」

ト書き:
紬の唇が震える。

御影「お前は言った。売られたくないと」

ト書き:
紬の目に涙が浮かぶ。

御影「その言葉があったから、俺はお前を連れてきた」

紬「御影様」

御影「何だ」

紬「御影様は……私の影に、力があるから助けたのですか」

ト書き:
御影の視線が紬に戻る。

紬「私の影が普通ではないから。だから、黒瀬家に……」

御影「それだけなら、連れては来ない」

紬「……それだけなら?」

御影「お前の影は異常だ。この小ささで生きていること自体、ありえない。何か能力がある可能性はある」

ト書き:
紬の指先が強張る。

御影「だが、それはきっかけにすぎない」

紬「きっかけ……」

御影「一つ目。持ち主の意思を無視した影売買は不当だ。正規の影質屋として、見逃せない」

ト書き:
御影の影が、灯明の中で静かに濃くなる。

御影「二つ目。お前の影はあまりにも小さい。それでも生きている。異常だ。普通なら、命に関わる」

紬「……」

御影「三つ目」

ト書き:
御影は、まっすぐ紬を見る。

御影「お前が売られたくないと言った」

ト書き:
紬の目が大きく揺れる。

御影「だから守る」

紬「御影様……」

御影「そこを間違えるな」

ト書き:
紬は自分の胸元に手を当てる。
御影、部屋の外に声をかける。

御影「……話は終わった」

ト書き:
女中が、両手に布団を持って部屋に入ってくる。
布団が敷かれる。

紬「……こんな立派なお布団で眠ったことない」

御影「なら、慣れろ」

紬「慣れ……」

御影「明日からも使う」

ト書き:
紬は驚いて御影を見る。
女中、静かに部屋を出る。

紬「明日からも……?」

御影「日向家へは帰さない」

ト書き:
御影が少しだけ、目をそらす。

御影「今すぐ妻になれと言っているわけではない」

紬「……妻」

ト書き:
紬の頬が赤くなる。

御影「花嫁という名は、お前を守るための盾だ」

紬「盾……」

御影「日向家は、お前を家の道具として連れ戻そうとする。だが、黒瀬家の花嫁候補となれば、奴らは簡単には手を出せない」

紬「花嫁……候補」

御影「実際に俺の花嫁になるかどうかは、お前が決めろ」

紬「私が……決めて、いいのですか」

御影「お前の幸せだ。他人が決めていいものではない」

紬「……幸せ」

御影「答えを急がせるつもりはない」

ト書き:
御影は立ち上がり、紬に背を向けかけ、少しだけ振り返る。

御影「黒瀬家に残るか。日向家に戻るか。俺の花嫁になるか、ならないか。すべて、お前が選べ」

紬「選ぶ……」

御影「今まで奪われてきたなら、これから覚えればいい」

ト書き:
紬の目に涙が浮かぶ。

紬「御影様」

御影「何だ」

紬「私は、まだ……何を選べばいいのか、分かりません」

御影「ああ」

紬「でも」

ト書き:
紬は布団の端を握る。
少し震えながら、顔を上げる。

紬「今夜は、ここにいたいです」

御影「それでいい」

ト書き:
御影は短く頷く。
そして、襖を閉めきらず、少しだけ開けておく。

御影「何かあれば呼べ」

紬「はい」

ト書き:
御影が廊下を去る。
紬は布団にそっと入る。

紬「私は、ここにいる」

柱:日向家・当主の部屋/同夜

ト書き:
父が怒りのまま、文机を叩く。

父「忌々しい……黒瀬御影め!」

明里「お父様……お姉様は、戻ってくるのよね?」

父「戻す。必ず戻す」

明里「でも、黒瀬家に連れて行かれたのでしょう?御影様は怖い方だと聞くわ」

父「大丈夫だ。日向家を敵に回したこと、後悔させてやる」

ト書き:
父、厳しい顔で、前を見つめる。

柱:黒瀬家・客間/深夜

ト書き:
紬、布団に横たわっている。
しかし、眠っていない。

紬「……何?」

ト書き:
紬の脳裏に、黒い瓶のようなものが浮かぶ。
分厚い硝子の中。
閉じ込められた小さな影が、震えている。

紬「私の、影……?」

ト書き:
紬、布団から起き上がろうとして、体がふらつく。
その拍子に、枕元の鈴に手が触れる。

チリン――

ト書き:
御影の声が襖越しに聞こえる。

御影「紬」

紬「御影様……?」

御影「入ってもいいか」

紬「……はい」

ト書き:
夜着の御影が襖を開ける。

御影「どうした」

紬「分かりません。でも……」

ト書き:
紬は胸を押さえる。
足元の影が、細く震える。

紬「どこかに、私の影がある気がして」

御影「……何?」

紬「黒い瓶の中に、閉じ込められているみたいで。胸の奥が引かれるのです」

御影「売られた影の場所が分かるのか」

紬「そんなこと、普通はできないのですか?」

御影「できない」

ト書き:
御影の表情が変わる。
驚きではなく、確信に近い緊張。

紬「私……おかしいのでしょうか」

御影「おかしい、ではない」

ト書き:
御影は部屋に入るが、紬の近くには寄りすぎない。

御影「普通ではない。それは確かだ」

紬「……怖いです」

御影「怖くて当然だ」

紬「私の影なのに、私のものではない場所にある気がします。胸の中が、冷たくて……」

御影「その影は、どちらの方角にある」

紬「方角……」

ト書き:
紬は目を閉じる。

紬「……東、でしょうか」

御影「東」

ト書き:
御影の目が鋭くなる。

御影「番頭を呼ぶ」

紬「御影様」

御影「何だ」

紬「私は……また、何かに使われるのでしょうか」

ト書き:
御影が動きを止める。

紬「この感覚が、普通ではないなら。私の影が特別なら。私はまた、誰かのために……」

御影「違う。その力が何であれ、お前を使う理由にはならない」

紬「……」

御影「奪われた影は、俺がすべて取り戻す、とお前の父親に言った。その約束は果たしたい」

ト書き:
紬の瞳が潤む。