ほんの少し前まで、石川隼瀬にとって食事とはただ空腹を満たしエネルギーを摂取するためのものだった。
何を食べても同じような味で、ただ義務的に口にするだけ。空腹も感じにくかったのでエネルギー切れを起こすこともあった。
それが変わったのは、福井実と出会ってからだった。
学科も同じだったし講義もいくつか同じものを取っていたが、話したことはなかった。
隼瀬が実に初めて声をかけたのは学食でのことだった。美味しそうに食べる表情に一目で恋に落ちた。それから、実の食べているものが凄く美味しそうに見えた。
それはモノクロの世界に色が着いたような衝撃だった。もしかしたら、彼の隣なら、このつまらない味気ない食事という行為が変わるのではないか。そう思って近づいた。
それが、こうして恋人になれるなんて、思いもしなかった。
「…………そろそろかなあ」
実がチラリと腕時計を見ながら口にする。もう何度目だろうか。お腹が鳴ったのか、そっとお腹に手を当てながらまた腕時計に視線を落とす。
「あと五分くらいかな」
「うーん、まだそんなにある?」
「二十分って言ってたからね」
駅前の喫茶店のパンケーキが食べたい、と言い出したのは実だった。というよりは何かを食べたがるのはいつも実で、隼瀬はただそれに頷く。
注文後に作り始めるので二十分ほどかかる、というのは実だって知っていたはずだ。
「ふわふわで、美味しいんだよね。定期的に食べたくなるんだ」
その割に数秒おきに時計を見ている。いつもどうやって待っているんだろうか。
「メープルシロップをヒタヒタにかけるのもいいし、ちょっとだけかけて、バターを味わうのもいいんだよね。隼瀬はどっちがいい?」
「うーん、俺はそんなに甘くしなくていいかな」
甘すぎるのはちょっと苦手かもしれないと続けると、実の表情が曇る。
「…………もしかして、隼瀬、甘いもの嫌い?」
どうだろう。
実と食べたスイーツを思い浮かべても、嫌な気はしない。
そもそも、食事という行為すら億劫だった自分だ。甘いからとか辛いからとか、そういう味の好みを感じた記憶がない。
「実となら何でも食べたいんだよね」
それは大袈裟でもなく事実だった。実とでなければ食事に味がしないし、億劫なだけだ。またモノクロの世界に戻るだけなのだ。
が、実はそれをあまり信じていないようで、疑わしそうにこちらを見つめてくる。
「無理してない?」
「無理してないよ」
「俺が食べたいって言ったから……」
「実が食べたいものを食べて、それを見ながら同じものを食べるのが俺の幸せなんだ」
いくら言葉を重ねても、白々しくなってしまう。
困り果てていると、ようやく主役が登場した。
「お待たせいたしました」
――分厚い、な。
思わず息を呑む。メニューの写真には確かにこれが載っていたけれど、実物はより厚みが増したように思える。
パンケーキというより最早パンなのではないか。三センチはありそうな厚みの、ふかふかの物体が、皿の中央に鎮座している。隼瀬には一つ。実なんてそれが二段重ねだ。
実はまだ不安そうに、それでも楽しみにしていたご馳走を我慢するつもりはないようで、手際よくバターを塗り広げていく。隼瀬もそれに倣ってナイフを使う。
一緒に運ばれてきたメープルシロップの容器の大きさにも驚いた。たっぷり入ったそれはいくら二人で使うにしても大きい。もしかしたら隼瀬の考えている以外に用途があるのかもしれない、と思うほどだ。
実がそっとそれに手を伸ばし、パンケーキの上で傾けて円を描く。ふむ、そこを押すと注ぎ口が開くのだな。
ゆっくりと二周すると、ちらりとこちらの様子を見てから、手を止める。もっと、ヒタヒタになるまでかけたらいいのに。
隼瀬も同様にゆっくりと二周、円を描いてみた。ふかふかのパンケーキにゆっくりシロップが染みていく。バターとシロップが混ざりあった甘い匂い。
ふっくらした生地に、ナイフが突き刺さる。上から見ると半円が二つ。それを更に半分ずつに切り分ける。実と同じように隼瀬もパンケーキにナイフを突き立てた。
一個を四分の一にしたものにフォークが突き刺さる。
「いただきます」
「……いただきます」
食事開始の呪文が唱えられたということは、事前準備が終わったらしい。隼瀬も一歩遅れて、四分の一を口に放り込んだ。
メープルシロップとバターの香りが、口内から入って鼻に吹き抜けていく。分厚い生地は口の中でぎゅっとしぼんだが、存在感が大きい。
生地自体にも甘みはあるが、抑えられているようだった。そこにシロップの甘みが追加されて丁度良くなるような。ヒタヒタにしたらもっと甘いだろうけれど。
小麦粉を焼いた味。生地に含まれる砂糖の味。バターの味。メープルシロップの甘み。これらが結合して、おそらく、『美味しい』になる。
頭では理解できるが、まだだ。顔を上げて、目の前の実を見る。
「ん~」
うっとりと目を閉じて、口をもごもごと動かしている。可愛いなと思った次の瞬間には口内の味が変化した。
「……おいしい」
「だろ!!」
小麦粉と砂糖とバターとメープルシロップ。バラバラだった味が瞬く間に繋がる。
隼瀬の一言で、実の表情から不安が消えた。にこにこと嬉しそうに、次の一口を頬張る。
「ここのパンケーキは最高だからね」
にこにこと実が言うけれど、そうじゃない。
実際美味しいのだろうけれど、隼瀬にとっては重要じゃない。
何を食べるかじゃない。
「実と食べるから、だ」
独り言のつもりだったのに、その音は実の耳まで届いたらしい。耳が赤くなって、それが、たまらなく愛おしくて。
キスしたいと思うのをこらえる。
何度も伝えているつもりなのに、実には隼瀬を救ったという自覚がない。実がいるから世界に色が着いたのに。実は「大袈裟だって」と笑う。
「本当だよ」
顔まで赤くした実の手がメープルシロップの容器に伸ばされる。地面に「の」の字を書く代わりに、シロップで「の」が書かれていく。パンケーキがシロップでヒタヒタになって、そこにフォークが突き刺さって、じゅわっと生地からシロップが溢れ出す。
このパンケーキみたいに、彼を愛の言葉でヒタヒタにしてしまえばどうだろう。
「…………おいしそう、かも」
「ん?」
「いや、何でもない」
甘いシロップ漬けになった実を頭からぱくりと食べてしまう想像を打ち消して、微笑む。
今日するキスはきっととてつもなく甘いのだろう。
何を食べても同じような味で、ただ義務的に口にするだけ。空腹も感じにくかったのでエネルギー切れを起こすこともあった。
それが変わったのは、福井実と出会ってからだった。
学科も同じだったし講義もいくつか同じものを取っていたが、話したことはなかった。
隼瀬が実に初めて声をかけたのは学食でのことだった。美味しそうに食べる表情に一目で恋に落ちた。それから、実の食べているものが凄く美味しそうに見えた。
それはモノクロの世界に色が着いたような衝撃だった。もしかしたら、彼の隣なら、このつまらない味気ない食事という行為が変わるのではないか。そう思って近づいた。
それが、こうして恋人になれるなんて、思いもしなかった。
「…………そろそろかなあ」
実がチラリと腕時計を見ながら口にする。もう何度目だろうか。お腹が鳴ったのか、そっとお腹に手を当てながらまた腕時計に視線を落とす。
「あと五分くらいかな」
「うーん、まだそんなにある?」
「二十分って言ってたからね」
駅前の喫茶店のパンケーキが食べたい、と言い出したのは実だった。というよりは何かを食べたがるのはいつも実で、隼瀬はただそれに頷く。
注文後に作り始めるので二十分ほどかかる、というのは実だって知っていたはずだ。
「ふわふわで、美味しいんだよね。定期的に食べたくなるんだ」
その割に数秒おきに時計を見ている。いつもどうやって待っているんだろうか。
「メープルシロップをヒタヒタにかけるのもいいし、ちょっとだけかけて、バターを味わうのもいいんだよね。隼瀬はどっちがいい?」
「うーん、俺はそんなに甘くしなくていいかな」
甘すぎるのはちょっと苦手かもしれないと続けると、実の表情が曇る。
「…………もしかして、隼瀬、甘いもの嫌い?」
どうだろう。
実と食べたスイーツを思い浮かべても、嫌な気はしない。
そもそも、食事という行為すら億劫だった自分だ。甘いからとか辛いからとか、そういう味の好みを感じた記憶がない。
「実となら何でも食べたいんだよね」
それは大袈裟でもなく事実だった。実とでなければ食事に味がしないし、億劫なだけだ。またモノクロの世界に戻るだけなのだ。
が、実はそれをあまり信じていないようで、疑わしそうにこちらを見つめてくる。
「無理してない?」
「無理してないよ」
「俺が食べたいって言ったから……」
「実が食べたいものを食べて、それを見ながら同じものを食べるのが俺の幸せなんだ」
いくら言葉を重ねても、白々しくなってしまう。
困り果てていると、ようやく主役が登場した。
「お待たせいたしました」
――分厚い、な。
思わず息を呑む。メニューの写真には確かにこれが載っていたけれど、実物はより厚みが増したように思える。
パンケーキというより最早パンなのではないか。三センチはありそうな厚みの、ふかふかの物体が、皿の中央に鎮座している。隼瀬には一つ。実なんてそれが二段重ねだ。
実はまだ不安そうに、それでも楽しみにしていたご馳走を我慢するつもりはないようで、手際よくバターを塗り広げていく。隼瀬もそれに倣ってナイフを使う。
一緒に運ばれてきたメープルシロップの容器の大きさにも驚いた。たっぷり入ったそれはいくら二人で使うにしても大きい。もしかしたら隼瀬の考えている以外に用途があるのかもしれない、と思うほどだ。
実がそっとそれに手を伸ばし、パンケーキの上で傾けて円を描く。ふむ、そこを押すと注ぎ口が開くのだな。
ゆっくりと二周すると、ちらりとこちらの様子を見てから、手を止める。もっと、ヒタヒタになるまでかけたらいいのに。
隼瀬も同様にゆっくりと二周、円を描いてみた。ふかふかのパンケーキにゆっくりシロップが染みていく。バターとシロップが混ざりあった甘い匂い。
ふっくらした生地に、ナイフが突き刺さる。上から見ると半円が二つ。それを更に半分ずつに切り分ける。実と同じように隼瀬もパンケーキにナイフを突き立てた。
一個を四分の一にしたものにフォークが突き刺さる。
「いただきます」
「……いただきます」
食事開始の呪文が唱えられたということは、事前準備が終わったらしい。隼瀬も一歩遅れて、四分の一を口に放り込んだ。
メープルシロップとバターの香りが、口内から入って鼻に吹き抜けていく。分厚い生地は口の中でぎゅっとしぼんだが、存在感が大きい。
生地自体にも甘みはあるが、抑えられているようだった。そこにシロップの甘みが追加されて丁度良くなるような。ヒタヒタにしたらもっと甘いだろうけれど。
小麦粉を焼いた味。生地に含まれる砂糖の味。バターの味。メープルシロップの甘み。これらが結合して、おそらく、『美味しい』になる。
頭では理解できるが、まだだ。顔を上げて、目の前の実を見る。
「ん~」
うっとりと目を閉じて、口をもごもごと動かしている。可愛いなと思った次の瞬間には口内の味が変化した。
「……おいしい」
「だろ!!」
小麦粉と砂糖とバターとメープルシロップ。バラバラだった味が瞬く間に繋がる。
隼瀬の一言で、実の表情から不安が消えた。にこにこと嬉しそうに、次の一口を頬張る。
「ここのパンケーキは最高だからね」
にこにこと実が言うけれど、そうじゃない。
実際美味しいのだろうけれど、隼瀬にとっては重要じゃない。
何を食べるかじゃない。
「実と食べるから、だ」
独り言のつもりだったのに、その音は実の耳まで届いたらしい。耳が赤くなって、それが、たまらなく愛おしくて。
キスしたいと思うのをこらえる。
何度も伝えているつもりなのに、実には隼瀬を救ったという自覚がない。実がいるから世界に色が着いたのに。実は「大袈裟だって」と笑う。
「本当だよ」
顔まで赤くした実の手がメープルシロップの容器に伸ばされる。地面に「の」の字を書く代わりに、シロップで「の」が書かれていく。パンケーキがシロップでヒタヒタになって、そこにフォークが突き刺さって、じゅわっと生地からシロップが溢れ出す。
このパンケーキみたいに、彼を愛の言葉でヒタヒタにしてしまえばどうだろう。
「…………おいしそう、かも」
「ん?」
「いや、何でもない」
甘いシロップ漬けになった実を頭からぱくりと食べてしまう想像を打ち消して、微笑む。
今日するキスはきっととてつもなく甘いのだろう。
