矢橋先輩は、憑かれやすい。

 先ほどの不穏な風は、心地良い青葉の香りを運んでくる。舗装のされていない砂利道。クローバーとシロツメクサの上に座り込んでいる状況は、不思議の国にでも迷いこんだみたいだ。メルヘンな事態ならまだいいのだが、これはそんな可愛らしいもんじゃない。
 さっき目の前に現れた先輩からは、恐ろしいほどの殺意を感じた。あの赤く光る目は、憎しみや怒りがこもっているようで、体の芯から震えが起こるほどに恐ろしいと思った。
 先生にあの変な紙を渡されていなければ、もしかしたら今ごろ……
 俺は首を左右に思い切り振った。
 そんなバカなことは考えたくない。
 膝の上の先輩の表情が歪む。意識を取り戻したのかもしれない。そっと、まだ心配で見守っていると、ゆっくり開いた瞳に赤い光はもう宿っていなかった。

「矢橋先輩……良かった、良かったですー!」

 しっかり目が合って驚いて目を見開く先輩のことを、またぎゅっと抱きしめる。

「……千羽くん?」
「あ! えっと、その、すみませんっ」

 つい、先輩が元に戻った嬉しさに抱きついてしまったことに焦る。

「もしかして、俺に憑いたやつのこと祓ってくれた?」
「……あ、いや、無我夢中でよく分かんなかったんですけど、たぶん」
「マジかよ! 千羽くん何者だよ!」
「え、あ、いや何者でも」

 俺は単なる先輩大好きな後輩で。
 笑顔で向き合った先輩が、俺の手を取って握りしめる。大きくてあたたかい先輩の手の温もりに一気に心臓は脈を打ち始める。どくどくと高鳴っていく鼓動が抑えられないくらいまで湧き上がった瞬間、先輩が俺の手を強く引いた。

「ヤバい。まだ完全じゃないっぽい」
「……え?」
「立てるか? 走るぞ!」
「え!?」

 力強く俺の手を引き、立たせると、しっかりと手を繋いだまま先輩は走り出す。
廃屋から遠ざかるように一直線に田んぼ道を駆け抜ける。空をオレンジ色に染めていた夕陽が大きく真っ赤な姿を木々の間から覗かせた。俺と先輩の走る影が長く濃くなる。

「陽が落ちる前になんとか街まで全力で!」

 前を向いたまま、先輩が叫ぶ。
 たぶん、部活はもう辞めたと言ってはいるけど、元々運動能力の高い人だ。返事を返す余裕すらない俺は、着いていくのがやっとだった。

 はぁ、はぁ、はぁと、すっかり陽の落ちた街灯の下で息を吸って吐き出すことしか出来ない俺は、体すらも支えるのがやっとだ。膝に手を置いて、クラクラする頭に酸素を送る。流れる汗が冷たくなった風で冷えて心地いい反面寒さも感じた。
 周りを歩く人にジロジロと見られている気もするけど、これ以上は走れも歩けもしない。
 そばにいた先輩だってそうだろうと思えば、後ろからピッと機械音がして、ガコンッと何かが落ちる音が聞こえた。

「はい、千羽くん。お疲れ」
「……はっ、はぁ、はぁ」

 返事をしようにも、まだ整わない息のせいで言葉が出てこない。差し出されたスポーツドリンクをなんとか震える手で受け取った。そして、道路脇の段差にようやく腰を下ろす。もう一歩も歩けねぇと固まってしまっていると、隣に先輩も座った。

「ごめんなぁ、変なことに巻き込んで」

 ペットボトルのキャップをひねり、喉を鳴らして飲んでいるのが聞こえる。俺はまだ朦朧とする頭で行き交う人の足元を眺めていた。

「時々反抗精神でああいうとこ行ってみるんだけどさ、誰かに助けてもらったことなんてなかった。全部自分でやって自分で処理して。まぁ、自業自得なんだからしゃーないけど」

 ははっと笑いながらしゃべるから、あんなに必死になって助けたことが恥ずかしくなる。それって、先輩は一人でも大丈夫だったってことだろ。助けようとか助けられたとか、俺の都合で先輩のヒーローになろうとしていた自分がなんか、やっぱり恥ずかしい。

「千羽くんってやっぱりなんか、面白いな」
「え?」

 ようやく体が言うことを聞きはじめて、先輩の方を見上げた。

「俺のことなんてみんな放っとくのに。助けに来てくれるなんて、カッコいいじゃん」

 街灯の光が、先輩の笑顔をキラキラと照らす。カッコいいのは、先輩の方だ。なのに、そんな先輩が俺にかっこいいとか、夢じゃないのか。

「ありがとう。助かったよ、マジで」

 先輩の言葉が、笑顔が、全身に染み渡る。我慢していた恐怖心が、力が抜けたように安心して出てきたのか、震えてきてしまった。

「汗冷えて寒いか?」

 先輩が来ていたウィンドブレーカーを脱いで、俺の肩にかけてくれる。ふんわりとシャボンのいい匂いがして、ドキドキする。

「走ったから汗臭いかもだけど許して」

 許すも何も! 俺の方が汗やばいし! むしろ先輩の汗の染みた上着を借りられる俺が幸せすぎて爆死にしそうです! 許してとか、そんなメロい顔で言われたらまた抱きしめたくなっちゃいますから! 俺の理性が吹き飛びそうで幽霊よりも今のこの状況が一番怖い。欲望剥き出しにして先輩に嫌われることが俺は何よりも怖い!

「ところでさ、どうやって祓ったの?」
「……え」
「俺でも中からどうしようもなくて。いつもは霊とある程度会話できるんだけど、今回のやつはほんと話通じなくてさ。だから、どうやったのかなって。千羽くんって祓い師なの?」
「……祓い師?」

 初めて聞く言葉に、俺は頭の上にはてなマークを浮かべるしかない。
 あの時はほんとに夢中で、とりあえず先生にもらったよく分からない不思議な紙を……そうだ。あの紙。