矢橋先輩は、憑かれやすい。

 寮を出た時よりは日が傾いてはいるけれど、鳥の囀りが聞こえるし、草木を揺らす風は体に爽やかに感じて心地いい。額に滲む汗を拭った。
 遠目から徐々に見えてきた廃屋。パッと見普通の民家に見えなくもないけれど、人が生活している気配は感じられない。近づくにつれて、草が生い茂りゆく手を阻む。民家だっただろう廃屋は荒れ放題で、後ろにある杉林でそこだけ日陰になって陰湿な雰囲気を感じる。

「……先輩、いるわけないか」

 こんなところにいるわけがない。と、ようやく冷静に考え始めた俺は、引き返そうと一歩後退する。ふと、畦道の入り口に何か置いてあるのに気がついた。
 気になってそれだけ見たら帰ろうと決めて、近づく。山奥に下がる畦道。そのはじの方に、綺麗に飾られた花。道端にポツンと置かれた花瓶に生けられた数本の白い花。
 よく見れば、花瓶なんて立派なものではなく、空き瓶のような気がする。それに、まだ置いて間もない綺麗な花が生けられている。と言うよりは、供えられている?
 ニュース情報番組の事故現場などで目にするようなもの。
昨日は暗くて気が付かなかったんだ。一気に、背筋が冷える。

「やっぱりここって」

 何かがあった場所だと胸の鼓動が一気に騒がしくなってくる。
 カサッと後ろで音がした気がして、振り向いた。だけど、後ろには誰もいない。あんまり怖がりすぎだと、自分を慰める。幽霊が出る時間にしては、まだまだ日は高い。だから、大丈夫だ。なにが大丈夫なのかまったくわからないけど、自分に暗示をかけるように「大丈夫、大丈夫」と呟いて前に向き直った。

『何しにきた』

 距離にして数センチ。寄り目になってようやく焦点が合う位置に、矢橋先輩の顔がある。

「っ!? ふぁーーーーーーー!?」

 驚きで変な叫び声をあげてしまった俺は、次の瞬間に怒り出す。

「な、ななな何してんですか!? 脅かさないでくださいよ!! マジで!」

 バクバクと尋常じゃない勢いで暴れ出す心臓を服の上から掴み、俺は上がる息を整える。思わず距離をとって先輩の顔を見れば、怪訝そうな表情でまた目元が赤く光って見える。
 さっきまで爽やかな晴天の空だと思っていた風景は、途端に一変した。
 辺りは薄暗い影を連れてくる。嫌な風に飲み込まれそうになって、俺はジリジリと後退りをした。

「……矢橋、先輩?」

 ──じゃないかもしれない。

 また、昨日みたいに取り憑かれている気がする。いったい何に? 先輩に取り憑く理由なんてものがあるのだろうか? ただ単に取り憑かれやすい体質だから? いや、幽霊の考えることなんて何一つわかんねぇ。
 パニックになっていると、ふと、手元にある紙のことを思い出した。
 そうだ。とりあえず、一か八か。これを見せたら、先輩が元に戻るかもしれない!

「お、おい! これを見ろ!」

 震える声と指先。さっき先生からもらってきた紙を、俺は先輩に向かって広げて見せた。

『……!?』

 明らかに反応して、先輩は俺から離れて目を背ける。
 効いている!?
 そう思って、離れていた距離を俺は少しずつ詰める。一歩、また一歩と近づくに連れて、先輩は目を瞑り、こちらを見ないようにして小さくしゃがみ込んだ。
 フッと、思わず笑いが込み上げる。

「お前、これが怖いのか?」

 形勢逆転。小さく震え、怯えているような仕草にかわいそうにも見えてくるけど、これは先輩じゃなく先輩に取り憑いたナニかだと、俺はさらに距離を詰めた。
 紙を顔面に見せつけるようにして近づき、顔を覆っていた先輩の手に触れた瞬間、青白い炎を上げて散り散りに燃えるようにして、紙は一瞬のうちに消えてしまった。

「……え」

 もう手元には何も残っていなくて、唯一の武器がなくなったことに焦る。
 だけど、すぐ目の前にいる先輩が意識を失ったみたいに倒れ込んでくるから、あわてて受け止めた。
 もしかしたら、俺、祓えたのかもしれない。
 嬉しさに抱きしめた先輩の体は温もりを感じる。良かった。

「先輩、もう取り憑かれたりしないでくださいよ……俺、心配どころじゃなくなる」

 ホッとして、湧き上がってくる安堵と涙。
 力が抜けてしまって、俺はへたり込み、膝を枕にして先輩のことを寝かせた。