矢橋先輩は、憑かれやすい。

 校門を抜けて、急な坂道を下っていく。足取りは重たい。矢橋先輩が幽霊だったとしても、俺は楽しかった。まぁ、恐怖もそれ以上に体験したけど。でも、矢橋先輩とだから、あんな怖くて恐ろしくて、もう二度と起こってほしくないことにも頑張れたんだ。それに、先輩が作ってくれたごはんはおいしかった。二人で作って食べたカレーは、ばあちゃんの作ってくれていたカレーに次ぐくらいに美味かった。なにより、矢橋先輩の笑顔が、俺は大好きになった。
 あの人、心無い言葉を言い合う俺の同級生たちよりもずっと人間だ。
 見てきたからわかる。人でも動物でも悪霊でも、なにに対しても矢橋先輩は優しいんだ。幽霊だったとしても、俺は先輩と一緒にいたい。
 寮のアパートまでたどり着くと、なにやら美味しそうな香りが漂っている。
 別の部屋の人が料理でもしているんだろうと、気にも留めずに自分の部屋の玄関ドアの前に立った。途端に、泣けてくる。隣の先輩の住んでいたはずの玄関ドアには、今まで気が付かなかったけれど、【立ち入り禁止】と書かれたテープが物々しく貼られていた。相変わらず盛られた塩。なんで気が付かなかったのかとゾッとする。
 ため息を吐きだして、鍵を開けた。
 一人だから「ただいま」なんて言ったこともない。だから、ドアを引いて中から香ってくるご飯の炊けたいい匂いに驚いた。

「千羽くん、おかえりー!」

 明るい部屋の中に、これまた明るい矢橋先輩の声が響いてきた。
 俺の名前を呼んでいる。向こうから視えた顔が笑っている。全然陰湿なんかじゃない。俺が思い描いていた先輩との楽しい寮生活が目の前にある。

「矢橋、先輩……」
「ごめんね、驚いたでしょう?」
「驚いたなんてもんじゃないですよ!! どういうことですか!」

 まだ、頭の中では理解が追い付いていない。矢橋先輩がこんな普通に現れるから、大人たち含めて全部ドッキリでしたー! なんてこともあり得る。
 でも、それは次の瞬間にはあり得なくなる。

「あ、いけない。千羽くんちコショウないよね? 俺んちから取ってくるね」
「え、あ、はい」

 フライパンをのせたIHの火力を弱めると、矢橋先輩はふふっと笑ってからスッと壁をすり抜けていく。

「は!?」

 忽然といなくなってしまった矢橋先輩に、俺は開いた口が塞がらない。立ち尽くしたままで数分。同じようにスッと壁から現れて戻ってきた矢橋先輩が、俺を見て笑った。

「ちょっと、カバンくらいもうおろしたら? ほら、もうご飯出来上がるよ。着替えておいでー」

 テキパキと動く矢橋先輩に、唖然としながらも言われたとおりにカバンをおろして、寝室で着替えてくる。せまいテーブルの上に所せましと置かれた料理の数々。

「千羽くんとの同居を祝して、ごちそうにしましたー」

わー、ぱちぱち。と、歓声と拍手で盛り上げている。

「え、同居?」
「そう。俺の部屋あんなんだし、千羽くんと一緒にいると俺安心だってわかったし、頼りになる千羽くんが隣に来てくれたことは、運命だと思うんだよね」

 うんうんと頷きながら、矢橋先輩は小皿に取り分けながら俺の分も渡してくれる。

「運命……」
「あはは、ごめん。そんなこと言われても困るか」

 ぽつりとつぶいた俺に、矢橋先輩は眉を下げて謝る。

「矢橋先輩、俺……」

 前に一度、出かかった言葉を飲み込んだ。でも、先輩が俺のことを運命だと言ってくれるのなら、俺だってもう言ってもいいのかもしれない。だって、先輩が幽霊だったとしても、この状況に感じるこの想いは、変わらない。
 怖さよりも、矢橋先輩がそばにいてくれることが嬉しいし、幸せだから。

「矢橋先輩のこと、す──」

言い終わる前に、先輩がふわりと俺の前に顔を近づけて口元に手を当てる。

「それを言ったら、一生俺は千羽くんに憑いちゃうよ。気を付けて」

 頬を赤くして、怪訝な顔をする先輩。なにそれ、愛おしすぎるのですが。
 恥ずかしがる霊とか、矢橋先輩くらいじゃないのか。他なんて知らないし、知りたくもないけど。
 霊って、触れないものだと思っていた。けど、今までも矢橋先輩には触れられていた。ずっと同じ生きている人間だと思っていた。でも、どうやら違うらしい。
 それでも、俺は矢橋先輩が好きなことに変わりはない。
 そこらへんにいる人間よりも人間味のある矢橋先輩。もちろん、生きている時に出会いたかった。告白は出来なくても、そばにはいられるってことだ。俺と先輩の特別な関係って感じでワクワクする。

「よーっし、たくさん食べてね」
「はい! いただきます!」

 俺の高校生活は、始まったばかり。優しくてその辺の霊を引き連れてきてしまう、かっこいいのに愛おしい矢橋先輩との秘密の同居が始まる。
みんなには視えていないって、俺だけの特別だ。

「あ、そういえばさっきさぁ、またかわいそうな子が道をさまよっていてね」

 ご飯を口に運びながら矢橋先輩が思い出したように言う。

「なんですかそれ。むやみやたらと声かけないでくださいね。それって、ナンパですからね。俺、嫉妬しますからね」
 幽霊だろうが何だろうが、俺以外に興味持たないでほしいのが本音だ。先輩に気持ちを伝えそこねたお返しだ。

「え、ごめん。分かった。気を付けるね」

 恥ずかしそうに照れて、視線を外した矢橋先輩の顔は真っ赤だ。なんなのこの人。愛おしすぎる。憧れが、俺の中で大切に変わる。

「まぁでも、先輩が気になる霊のことは、これからも協力して解決していきましょう」

 優しい矢橋先輩のことだ、たぶん知らないうちにナニかを引き連れてきそうだし、出来ることはやってあげたい。すべての霊が救われればいいのに。とは思うけど、怖いものは怖いから、あとで黒渕先生に言って祓い紙大量に用意してもらっておこう。あと、俺にも矢橋先輩の行動が把握できるように発信機も。

 笑いあって、美味しいものを食べて、これからの生活に何が起こるのか分からないドキドキとワクワクはあるけれど、晴れた空を見上げれば、不安はどこか吹き飛んでいく。
 今日も初夏を感じる心地いい風を浴びて、坂を上る。藤の花が山間に垂れ下がるのが見えた。母に食材のお礼と催促を兼ねて手紙を書いた。ポストに投函すると、歩き出す。

「夏になると一気に増えるんだよね」
「え、なにがですか?」
「ナニって、ほら」

 登校中の俺に憑いてきた矢橋先輩が遠くを見つめている。

「俺にはナニも視えていません。いってきます!」
「いってらっしゃーい」

 追伸、先輩との日々は幸せだけど、夏が来るのが恐ろしいです。