矢橋先輩は、憑かれやすい。

 言葉を告げるたびに疲弊していく姿に、俺は耐えられなくて、矢橋先輩の前に膝をついて顔を覗き込んだ。なかなか目が合わない。虚ろに彷徨って影を作る瞳には正気を感じない。

「矢橋先輩!」

 レンの記憶も気持ちもかわいそうだけじゃ収まらない。先輩の気持ちまでパンクしてしまう。

「矢橋先輩!!」

 どうにか意識を俺に向けて欲しくて、溢れ出た涙も堪えきれずに流しながら叫んだ。
 彷徨っていた視線が一点を見つめて止まった。そして、ゆっくり俺と目が合う。
 濁った眼球に湧き上がる涙。ゆらゆらと揺れながら、ようやく光をとらえて瞬きをした矢橋先輩は、眉を下げて大粒の涙をこぼす。

「怖い、怖い、こんなに怖いこと、レンは話たくなんてなかったんだ。教えたくなんてなかったんだ。俺みたいな心霊スポットに遊びでくるようなやつに、自分のされた恐怖や惨劇なんて、思い出したくもなかったんだ……ごめん、ごめん、レン、ごめん、なさい」

 地面に額をつけて、矢橋先輩が泣きながら謝る。何度も拳を振り上げて草を叩く。
 矢橋先輩は優しい。そう思った俺は、間違いなのかもしれない。時に、優しさは残酷だ。
 レンは矢橋先輩に見つけて欲しいと思ったわけじゃないのかもしれない。もう二度とここへは来るなと、警告をしたんだ。
 俺にも、そうだった──何をしに来たと。
 別に何をしに来たわけでもなかった。こんなところ、本来なら来るべきところじゃないし、矢橋先輩と近づきたいと思わなければ、絶対に来ない場所だった。だから、悪いのはやっぱり俺たちだ。
 レンは行方不明のまま、そこに留まり続けるのが、望みなのかもしれない。

「……蓮くん。君はどこに居るんだ? 教えて欲しい」

 急に、黒渕先生が杉林を見回しながら問いかける。

「僕は、この15年君のことも葵ちゃんのことも忘れたことなんてなかった。大切な友達だったから。二人の間に、何があったのかはもう、知らなくてもいい。だけど、君が行方不明のままなんて、いやなんだ。こんなところにいないで、怖がりな僕でも花を手向けに来れる場所に眠ってほしい」

 お願いだと、黒渕先生が深く頭を下げる。
 風がザワザワと吹いて、俺たちを揺らす。もう、レンは出てこないだろうと思った瞬間、ふわりとヤマユリの香りが鼻に付く。

『こっち』

 スッと立ち上がった矢橋先輩は、赤黒い目をしているけど、まとっている空気はおだやかに感じる。
 黒渕先生と目を合わせて頷き、矢橋先輩の体に戻って来てくれたレンについていく。
 廃屋の裏を、数メートル歩く。道はそこまで険しくはない。ただ、かつてはあった道筋には草が生い茂り行く手を邪魔する。だいぶ傾いた陽の光が俺と黒渕先生の影を長くする。矢橋先輩に影はない。
 たどり着いたのは、周りをたくさんのヤマユリに囲われた古井戸。
 石造りの井戸は古そうで、近づくのも危ない気がする。だけど、ここにレンがいるのかと思ったら、引き返せない。

「千羽くん、僕が行きます」

 ずっと震えていた黒渕先生が、はっきりと告げた。
 俺は、ヤマユリの群生の前で立ち止まる。その中を、黒渕先生がゆっくり進んでいった。古井戸の横に立つレンは、悲しげに表情を歪めている。
 古井戸の前までたどり着いた黒渕先生が、深く深呼吸をするのが見えた。
──レンは頭に空き瓶をぶつけられると後ろにたおれて、そのまま深く深く落ちるように暗闇の中に消えていった。
 矢橋先輩が話していたことを思い出す。
 レンは、この古井戸の中に落ちてそのままなのだろうかと不安になる。

 身を乗り出し、中を覗き込んだ黒渕先生。何度かそうして、またこちらに戻ってくる。

「……いたんですか? レンは」

 ドクドクと心臓が鳴る。
 見ていないから俺には分からない。ただ、黒渕先生の雰囲気だけでなにかを察するには足りない。
 無言のまま視線を落とす黒渕先生は、ゆっくり口を開いた。

「深すぎて、僕には何も見えませんでした。でも、きっと蓮くんはそこにいるんだと思う。ヤマユリが教えてくれているような気がします。庇うようですが、きっと、葵ちゃんも、蓮くんのことを見つけて欲しくて、2人にヤマユリを掲示したんじゃないでしょうか」

 霊の心のうちなんて俺には分からない。
 分かるはずもないし、分かりたくもない。

「あとは、僕が警察に話をします。帰りましょう。日が暮れたら怖いので。矢橋くんも行きましょう」

 振り返って、黒渕先生が矢橋先輩に呼びかける。
 レンに憑かれていたはずの先輩は、気が付けば古井戸に向かって手を合わせていた。
 赤い夕陽が木の隙間を縫って照らしていて、綺麗だ。陰湿で暗く悲しげだった場所に、ようやく差し込んだ光のようにも見えて、涙が頬を伝った。