矢橋先輩は、憑かれやすい。

 ザワザワと頭上高く伸びた杉林が葉を揺らす。強い風などないのに、不穏な呻き声をあげているように低い音を立てて聞こえる。
 絶望するみたいに一点を見つめたまま、矢橋先輩の動きが止まっている。
 レンの意識は、どこかへ飛んでいったのだろうか? それとも、なにかの前触れだろうか。
 すぐ目の前で矢橋先輩が崩れ落ちるように黒渕先生に倒れこむ。とっさに支えた先生だったけれど、矢橋先輩は見た目よりも体重があるのかもしれない。俺も、矢橋先輩を簡単には受け止められずに、地面に押し倒されたから。黒渕先生もそれは同じで、二人は草の中に倒れ込んでしまった。
 急いで駆け寄ると、矢橋先輩がすぐには立ち上がれずに、こめかみを抑えてしゃがんでいる。頭に痛みを感じているのかもしれない。

「矢橋先輩!」

 肩を貸すためにそばに寄り、先輩は俺に寄りかかった。今度は支えることができて嬉しい。

「なんだよ、これ」

 頭を抱えて、矢橋先輩は苦しそうにもがく。

「……っはぁ、んぐっ」

 息を吐きだしかと思えば、込み上げてきたものを吐き出さないようにと口元に手を当てる。けど、すぐに俺から離れて後ろを向いた途端に吐いた。

「おえぇっ……っはぁ、はぁ、はぁ」

 このままでは矢橋先輩の体がもたないのではと、不安になる。

「今のは、どう言うことですか?」

 起き上がった黒渕先生が、吐いたばかりで顔面蒼白の矢橋先輩に詰め寄る。

「葵ちゃんが蓮くんを殺した? どう言うことだ! ちゃんと説明してくれ! 分からないことが多すぎる!」

 意識が朦朧としてふらついている矢橋先輩を急かすように問い詰める黒渕先生から、俺は矢橋先輩のことを抱きしめて引き離した。

「先生やめてください! もう、矢橋先輩の中にレンはいない!」

 15年も前の事故。いや、行方不明ともなれば、もう事件なのだろう。全てを知るのは、レンだけだ。今、アオイに殺されたと話したレンの言葉は、本当なのだろうか。
 アオイは、あんなにレンに会いたいと言っていたのに。自分が殺したなら、会いにこれないことは、分かっていたはずだ。なのに。

「……レンの記憶、頭の中に全部流された」
「……え?」

 青白い顔をした矢橋先輩が、震える体を両腕で抱えるようにさすりながら、呟く。

「自分の身に起きたことを、俺の頭ん中に映像で流し込んできたんだ」

 また、えずくように声を漏らしながら、それでも先輩は話を続ける。心配になりながらも、俺は黙って聞いているしか出来ない。

「全部、アオイがレンとヒロト……黒渕先生の仲が良いことに嫉妬して起こしたことだ」

 矢橋先輩の頭の中では、きっとホラー映画のように映像がぐるぐると渦巻いているのかもしれない。その内容を、何度もえずきながら話してくれる。

「秘密基地は、アオイが見つけたもう何十年も前から誰も住んでいない廃屋だった。人は寄りつかないし、冒険心の強い時期のレンには特別に見えていたんだと思う。アオイは一人っ子で独占力が強くて、大人っぽいけど甘え上手なところがみんなから可愛いと甘やかされていた。その一方で、両親は別居状態でアオイへの関心はほとんどなかったようだ。唯一、アオイを本当の友達として認めてくれる存在がレンだった。アオイは、そんなレンに依存していた」

 息切れをしながら、矢橋先輩が次の言葉を繋げようとして、黒渕先生が立ち上がった。

「矢橋くん、辛そうで見ていられない。もう、いいから……」

 辛そうなのは、先生も一緒だ。でも、これはちゃんと聞かないといけないこと。先生にとっては知りたくないことかもしれないけど、ここまできたからには、最後までレンと向き合って欲しい。
 俺も、何を聞いても受け止める覚悟を決める。
 矢橋先輩が、止めようとする黒渕先生に大丈夫と呼吸を整えながら頷く。

「あの日も、アオイはレンをここへ連れて来た。レンがヒロトと遊ぶようになってから、アオイの態度が変わり始めたらしい。二人だけの秘密基地にヒロトも呼びたいと言ったレンに、アオイはそんなことはさせないと、手にしていた空き瓶を振りかざした。レンの方がアオイよりも背が小さかったし、とっさに交わせるはずもなく、レンは頭に空き瓶をぶつけられると、後ろにたおれてそのまま深く深く落ちるように暗闇の中に消えていった。そして、気がつけば、廃屋の前にいたらしい」

 矢橋先輩まで頭を殴られたみたいに苦しみだして、また短く息を吸っては吐いている。
 言葉で伝えてくれるけど、矢橋先輩の頭の中では、きっと鮮明に映像として流れているのかもしれない。それを思うと、俺にまで見えなくて良かったとは思うけど、苦しむ先輩の姿にはとても良かったではすまない。

「……レンには、どうしてアオイに殺されなきゃならなかったのか、理由が分からなかったんだと思う」

 人の嫉妬ほど狂ったものはない。
 わずか10歳だとしても、きっと心に抱えているものが大きければ大きいほど、不安になるものなのかもしれない。俺には、よく分からないけれど。

「……確かに、葵ちゃんの蓮くんへの態度は異常でした。仲が良いと言えばそれまでだし、僕もあの頃は子供で、二人には入り込めない何かを感じていたものの、それが何かなんて分からなかった」
「アオイは黒渕先生に嫉妬していたって、だけど、それ以上に二人は仲が良かったんですよね? それなのに、なんで」

 膝を抱えて小さく座り込んだ矢橋先輩に、俺は立ち尽くしたまま呟いた。考えても、俺には何も分からない。

「アオイにとってレンは唯一の味方だったんだ。誰よりも自分のことを考えてくれる人。それは、アオイ本人から聞いている。俺、その時はすごい純愛だなぁ、なんて微笑ましく思っていたけど、全然そんなんじゃなかった」

 また、思い出したのか、矢橋先輩は口元を抑えて下を向く。

「レンを見る目、怒鳴る声、狂ったように叫び、暴れる姿。全部が恐怖でしかなかった。レンは、あの日朝からずっとこの秘密基地でアオイに監禁されていたんだ。そして、最終的にあの空き瓶で……」

 なにを言われて、なにをされて、どんな恐怖に苛まれて、レンはなにを思っていなくなったのか。
 すべてが、きっと矢橋先輩には視えている。