矢橋先輩は、憑かれやすい。

 まだ座り込んだままでいた俺に、突然先輩が近づく。瞬時に首元のネクタイをグイッと強い力で引き上げられて、驚きで息が詰まる。

『何しにきた』

 ようやく開いた先輩の瞳は、闇夜に赤黒く光って見えた。真っ直ぐに見つめられるけど、先輩の声とは違った重く低い声に全身が痙攣する。恐怖、なんてもんじゃない。死さえも覚悟してしまうような、そんな圧を感じる。
 先輩、なにかに取り憑かれてる!?
 一瞬でそう思った。
 だって、体を圧迫するような凄い力も、赤黒く光る瞳も、重苦しい低い声も、全部、先輩のものとは違う。
 このままじゃ、ヤバい。とにかく、先輩をこの霊から助けなきゃ。

「先輩からはな、れろっ!! 俺はここへは何もしに来ていない! 今すぐどっか行け!! 先輩から出ていけよっ!」

 苦しさも超えて、とにかく必死になって叫んだ。こんな山の奥地で叫んでいても、たぶん助けなんて来ない。これは、自分でどうにかするしかない。先輩を、助けなきゃ。その一心で、俺は言葉の抵抗を続ける。
「先輩はバドで輝かしい人生を送ってきたんだ! こんなとこで終わりになんてさせるか! 誰よりも努力の人なんだ! 俺は知ってる! おばけなんかに取り憑かれてる暇なんかないんだよ! 離れろ! 出ていけ!」
 力では到底敵いそうもないから、言葉をぶつけるしかない。俺にもっと強さがあったら、力ずくで先輩を思い切り振るって霊を追い出してやれるのかもしれないけど、そんなことは出来ないし、俺のやれることをやるしかない。
 夢中になって、傍に生えている草をちぎってはぶつける。恐怖は最高潮だ。このまま霊に連れ去られて死んでしまうのかもしれない。
 絶望を感じ始めたその時。

『もしかして、お前こいつのこと好きなのか?』

 首元の力が緩んで、俺は地面に再び倒れ込む。草が顔にまとわりついてきて、手で払った。
 苦しさから解放されて、急いで酸素を取り込むけど、上手く吸えずに咳き込んでしまう。自分の乱れた息づかいと草の音だけが耳に響く。どうにか体勢を起こして後ろに下がるけど、まだ先輩の瞳は赤黒く鈍い光を纏っている。

『不幸になればいい。お前もこいつも』

 一瞬、影を落とした気がして、先輩が力無く膝から崩れ落ちた。前方に倒れる前に、俺は力を振り絞って起き上がり、先輩のことを支える。
 肩にのしかかった先輩の目は閉じられていて、寝息のような息遣いが聞こえるから、安心した。先ほど冷たく感じた先輩の体は、あたたかさを感じるし、心音が一定のリズムで鳴っていた。
 早くここから離れないと。
 俺より大きい先輩のことをどうやって連れて行こうかと、悩む間もなく俺は無意識に先輩のことをおぶっていた。よろよろと何度もふらつきながら、ようやくアパートまで帰ってきた時には、もう夜中の一時を過ぎていた。