矢橋先輩は、憑かれやすい。

 新緑薫る、晴れ空の下。
 ハサミの音と時折拭く風。鳥のさえずり。
 毎日がこんな穏やかで平和な日々だったら良かったのにと、心底思ってしまうのは、死にかけたからかもしれない。命があって良かった。生きているって素晴らしい。空気が美味い。

「千羽くん、ありがとう」
「え?」

 風を感じていた俺の隣に、矢橋先輩が立つ。
 学校の中庭に簡易的に椅子を置き、クロス代わりにゴミ袋を切ったものを黒渕先生は首に巻かれていた。

「なんか、それしか言えなくてごめん。巻き込むつもりはなかったんだけど」

 申し訳なさそうに矢橋先輩が謝ってくるから、俺はすぐに首を振った。

「俺、巻き込まれたなんて思っていませんから! 自分から飛び込んでるだけです!それで、自爆して……俺の方こそ、すみません」
もしかしたら、俺がしゃしゃり出なければ今頃とっくに矢橋先輩一人で解決出来ていたかもしれないのに。
「千羽くんってなんでそんなかわいいの」
「……え?」

 隣に振り向くと、矢橋先輩が微笑んでくれている。俺の知らなかった先輩の表情が、今となっては何度も向けられているから、こっちが本当の矢橋先輩なんだって、今なら思う。
 俺は今まで、上辺だけの矢橋先輩しか知らなかった。これまでは周りに合わせることしかしてこなかったけど、憧れの矢橋先輩に会うために、自分で決めて桜花高校に入った。
 実際の矢橋先輩は、俺の思っていた憧れの矢橋先輩よりも、もっともっとかっこよくて、優しくて、怒った時と笑顔とのギャップがエグくて、矢橋先輩の方こそかわいらしいところもたくさんあって、矢橋先輩のことを知れば知るほど、俺は矢橋先輩のことが……

「ねぇ見てー! どう!?」

 町田先生の声で、俺は喉から出かかった言葉をあわてて飲み込んだ。
 中庭に視線を向けると、陽気に手を振る町田先生と、手鏡を覗き込んでいる黒渕先生。こちら側からは後ろ姿しか見えない。けど、あんなに長かった襟足はスッキリとなくなって首が見えていた。

「おおおー、軽いです、町田先生! かなりスッキリしましたー」
「うん、うん。君も実はイケメンなのだよね。モサ男からのこのギャップがたまらん」
「え? なにか言いました?」
「いえ、あたしって美容師もいけたなぁーって」
「本当ですね。才能ありますねぇ、僕には無理です」
「あら、黒渕先生だって幾何学的なの書く才能あるじゃない。あれだってセンスがいるわよ?」
「そうですか?」
「そうよー」

 大人二人のやりとりを見守っていると、平和なのが一番だとまたしみじみ感じる。

「おーいっ、二人とも、どう?」

 こちらに振り向いた黒渕先生。
 今まで引き連れていた影のように黒いオーラは取っ払われて、まぶしいくらいに陽全開。思わず目を細めてしまう。
 お化けみたいだった黒渕先生はもうそこには存在しない。白衣まで真っ白に漂白したような爽やかさをまとい、ぱっちりとした二重の瞳に輝く白い歯で笑顔を向けて来た。
 カッコいい以外に当てはまる単語はない。今この瞬間から、黒渕先生はモテ人生を歩み始めるんだろうなと、確信しか持てない。

「先生明日には結婚しそう」
「え!? や、やだなぁ、僕まだ誰とも付き合ったこともないのに」
「……え」

 サラリとすごいことを言って軽く笑っている。黒渕先生って、何歳だろう? 俺だってまだ誰とも付き合ったことなんてないし、一緒なんだけど。

「よし、千羽くんと黒渕先生のことは、俺が守るからね」

 まかせてと、矢橋先輩が笑ってくれる。
 嬉しいけど、守ってもらえるのが自分だけじゃないことにモヤっとする。もちろん一番危険なのは黒渕先生だって分かってはいるけど、それでも。モヤモヤして落ち着かないでいると、黒渕先生の視線が矢橋先輩と合って、お互いに言葉はなくとも通じ合えているような雰囲気で微笑んでいる。ピリッと、心の中に何かが走る。痛みとともに、苦しさも感じた。自分のことだから、これがなんなのか分かっている。この前も感じた、やきもちだ。
 矢橋先輩は、俺よりも黒渕先生と一緒にいる時間の方が長い。俺の知らないお互いのことを分かっているようで嫉妬してしまう。
 小さくため息をついて肩を落とすと、耳元に熱を感じた。

「俺のことは千羽くんが守ってね」

 感じた熱に混じって、ふわりと矢橋先輩の香り。大きく跳ねた心臓が、一気にバクバクと音を立て始めた。熱にジンジンする耳元を押さえつつ、俺は何度も頷く。

「あはは、よろしくね」

 爆発してしまった俺の心臓がかろうじて動いている。笑う矢橋先輩のことが愛おしい。俺が絶対に、なにがあっても矢橋先輩のことを守る! だから、先輩は黒渕先生を守ることに集中してもらえたらいい。きっとそうすることが正解だ。