前に進もうとする俺の気持ちとは裏腹に、空は雲を連れてくる。さっきまでの晴れた青空は嘘みたいにどんよりと薄暗くなった世界は、まだ陽が沈むには早いのにもう夜が近いように思わせる。
湿度を上げた風が生ぬるく吹く。体にまとわりつくような不快感。ごくりと唾を飲み込んだ。
「大丈夫、ですよね?」
上手くいく保証なんてどこにもない。何が起こるかも分からない。最悪の事態も考えられる。レンはこの山奥で行方不明のままだ。探せばどこかに眠っているのかもしれない。それってよく考えたら怖くないか? 想像の範囲で白骨自体が山中に転がっている図を頭の中に浮かべてしまって、掻き消すように首を振り後悔する。
「……そもそも、なんであの霊は行方不明になったんですかね。まだ見つかっていないんですよね?」
言葉にしただけで背筋がゾワリとする。
「アオイは話が通じたけど、あっちは全然ダメ。何を聞いてもうるさいとか黙れとか。何も答えようとしない。まるで子供だ」
「まぁ、実際小学生の男の子ですからね。それはしょうがないのかもしれないですけど」
「アオイが亡くなってるって知ったら、どんな反応するのか怖いしかない」
ため息を吐き出して落ち込む矢橋先輩の姿に、俺もますます不安になる。
アオイを連れて来るのが一番だけど、彼女はあそこから動けないし、頼みの綱はこの山百合だけ。これが意味することは、見れば分かるだろうし、わかって欲しいんだけど。
10歳の俺だったら理解できるだろうかと、ふと考えてしまう。
幼くして誰かを亡くすとか、俺はしたことがない。ばぁちゃんは健在だけど、じいちゃんは俺が生まれてすぐに亡くなったらしいから、正直なにも覚えていない。大切な友達を亡くしたこともないし。
アオイの涙は胸を抉るような痛みがあった。心の底から悲しんでいる、そんな強い思いを感じた。
そんな風に泣いたことなんて俺にはないから、アオイから伝わる悲しみが伝染して苦しくなるだけだった。もしもそれが、本当に自分自身の悲しみになるんだとしたら、俺は耐えられるのだろうか。分からない。
考え込みながらも足を進めていると、前を歩いていた矢橋先輩が止まった。
もう、すぐ目の前は廃屋だ。
怪しげな雰囲気の雲が空を覆う。ザワザワと不穏な風が杉林を揺らした。ギィッ、ギィッと木の軋む音と、バタバタと部屋の中からはためく音。耳に聞こえてくる全てが怪しくて恐ろしい。そして、先輩が何かを呟き出す。声が小さ過ぎて何を言っているかまではわからない。
「……矢橋先輩?」
俺の不安と恐怖は絶頂になる。ポケットの中の祓い紙をギュッと握りしめた。
『誰もいないじゃないか!』
振り返った先輩の顔が、鬼のような形相をしてこっちを見ている。俺は「ひっ!」と短い悲鳴と共に一気に息が詰まる。呼吸することすら許されないように感じて、息を吸うことも吐くことも出来ずに固まっていた。
『約束したはずだ』
ジリっと、赤黒い瞳をした先輩が俺に近づく。完全に、レンに身体を乗っ取られている。もう憑かれやすいどころの話じゃない。完全に憑かれてる!!
無言のまま、俺は山百合の入った瓶を差し出した。
説明する余裕すらない。矢橋先輩は、さっきなにか呟いていたけど、このことについて話をしたのだろうか。何を言ったか分からないけど、こんなに怒っているなら、逆鱗に触れるようなことを言ってしまったのだろうか。
アオイに伝えるだけでも躊躇したのに、こんなことじゃこっちにはもっと伝わらないだろ。
今にも襲いかかってきそうな霊に、俺はようやく息を吸い込んで言葉を発した。
「レン!」
名前を呼ぶと、一瞬霊が動きを止めた。
「ちゃんと聞いて。アオイさんはちゃんと聞いてくれたよ。だから、君にも俺の話を聞いて欲しい」
言ってダメならポケットから祓い紙を出して貼り付ける。道はそれだけだ。
『約束はその花を持ってきた人を連れてくることだ』
一歩も怯まずに、レンは俺を睨む。
人間の凄みを越えて、恐ろしい感情が体全体に流れ込んでくるようで怖い。中身は10歳の子供だろと思い込みたくても、頭の中でそんな簡単には入れ替えられない。
「……アオイさんは、死んだんだ」
遠回しになんてたぶん伝わらない。だから、単刀直入に。核心をつく。
これが、正解なのか間違いなのかは分からない。でも、真実はひとつだけだ。レンはこのことを、知らなくてはならない。
『……は?』
あきらかに動揺を見せる。怒りとか憎しみとか、妬み恨み。負の感情の塊だったレンにも、まだ感情が残っていればいいと願いながら、俺は続ける。
「この空き瓶に水を汲むために、アオイさんは川へ降りた。そして、すぐに戻るはずがそこで足を滑らせて川に転落したんだ。そのまま、アオイさんは流されて亡くなった。だから、君にこれを届けることができなかったんだよ。待っていると分かっていても、アオイさんはそこから動けなかった。君と同じだ。15年間、君に気がついて欲しくてずっと待っていたって」
アオイの気持ちがまた胸にジワリと焼き付いてくる。グッと胃のあたりを抑えて、俺はこれで伝わって欲しいとレンの反応を待つ。だけど。
『ふざけるな! 俺は、ここにアオイを連れてこいと約束したはずだ! そんな嘘をつくな! 約束は守るものだろ! 約束したんだ、アオイとも』
矢橋先輩の身体が燃えているかのように、俺の目は錯覚を起こす。くらりと目眩がする。
レンにはアオイのように素直に言葉を受け取ってもらうのが難しいと感じた。どうしようもない。このままでは、たぶん俺も先輩の身体も危ない。
最後の手段として、ポケットから祓い紙を取り出して、レンめがけて突き出した。
この前みたいに青い炎を上げて一時でも良いから先輩の中からレンを離れさせられればと思いながら、真っ直ぐに腕を伸ばす。
だけど、紙は何の反応も示さない。
目の前のただの紙切れに絶望する。
え、これ、終わった……?
湿度を上げた風が生ぬるく吹く。体にまとわりつくような不快感。ごくりと唾を飲み込んだ。
「大丈夫、ですよね?」
上手くいく保証なんてどこにもない。何が起こるかも分からない。最悪の事態も考えられる。レンはこの山奥で行方不明のままだ。探せばどこかに眠っているのかもしれない。それってよく考えたら怖くないか? 想像の範囲で白骨自体が山中に転がっている図を頭の中に浮かべてしまって、掻き消すように首を振り後悔する。
「……そもそも、なんであの霊は行方不明になったんですかね。まだ見つかっていないんですよね?」
言葉にしただけで背筋がゾワリとする。
「アオイは話が通じたけど、あっちは全然ダメ。何を聞いてもうるさいとか黙れとか。何も答えようとしない。まるで子供だ」
「まぁ、実際小学生の男の子ですからね。それはしょうがないのかもしれないですけど」
「アオイが亡くなってるって知ったら、どんな反応するのか怖いしかない」
ため息を吐き出して落ち込む矢橋先輩の姿に、俺もますます不安になる。
アオイを連れて来るのが一番だけど、彼女はあそこから動けないし、頼みの綱はこの山百合だけ。これが意味することは、見れば分かるだろうし、わかって欲しいんだけど。
10歳の俺だったら理解できるだろうかと、ふと考えてしまう。
幼くして誰かを亡くすとか、俺はしたことがない。ばぁちゃんは健在だけど、じいちゃんは俺が生まれてすぐに亡くなったらしいから、正直なにも覚えていない。大切な友達を亡くしたこともないし。
アオイの涙は胸を抉るような痛みがあった。心の底から悲しんでいる、そんな強い思いを感じた。
そんな風に泣いたことなんて俺にはないから、アオイから伝わる悲しみが伝染して苦しくなるだけだった。もしもそれが、本当に自分自身の悲しみになるんだとしたら、俺は耐えられるのだろうか。分からない。
考え込みながらも足を進めていると、前を歩いていた矢橋先輩が止まった。
もう、すぐ目の前は廃屋だ。
怪しげな雰囲気の雲が空を覆う。ザワザワと不穏な風が杉林を揺らした。ギィッ、ギィッと木の軋む音と、バタバタと部屋の中からはためく音。耳に聞こえてくる全てが怪しくて恐ろしい。そして、先輩が何かを呟き出す。声が小さ過ぎて何を言っているかまではわからない。
「……矢橋先輩?」
俺の不安と恐怖は絶頂になる。ポケットの中の祓い紙をギュッと握りしめた。
『誰もいないじゃないか!』
振り返った先輩の顔が、鬼のような形相をしてこっちを見ている。俺は「ひっ!」と短い悲鳴と共に一気に息が詰まる。呼吸することすら許されないように感じて、息を吸うことも吐くことも出来ずに固まっていた。
『約束したはずだ』
ジリっと、赤黒い瞳をした先輩が俺に近づく。完全に、レンに身体を乗っ取られている。もう憑かれやすいどころの話じゃない。完全に憑かれてる!!
無言のまま、俺は山百合の入った瓶を差し出した。
説明する余裕すらない。矢橋先輩は、さっきなにか呟いていたけど、このことについて話をしたのだろうか。何を言ったか分からないけど、こんなに怒っているなら、逆鱗に触れるようなことを言ってしまったのだろうか。
アオイに伝えるだけでも躊躇したのに、こんなことじゃこっちにはもっと伝わらないだろ。
今にも襲いかかってきそうな霊に、俺はようやく息を吸い込んで言葉を発した。
「レン!」
名前を呼ぶと、一瞬霊が動きを止めた。
「ちゃんと聞いて。アオイさんはちゃんと聞いてくれたよ。だから、君にも俺の話を聞いて欲しい」
言ってダメならポケットから祓い紙を出して貼り付ける。道はそれだけだ。
『約束はその花を持ってきた人を連れてくることだ』
一歩も怯まずに、レンは俺を睨む。
人間の凄みを越えて、恐ろしい感情が体全体に流れ込んでくるようで怖い。中身は10歳の子供だろと思い込みたくても、頭の中でそんな簡単には入れ替えられない。
「……アオイさんは、死んだんだ」
遠回しになんてたぶん伝わらない。だから、単刀直入に。核心をつく。
これが、正解なのか間違いなのかは分からない。でも、真実はひとつだけだ。レンはこのことを、知らなくてはならない。
『……は?』
あきらかに動揺を見せる。怒りとか憎しみとか、妬み恨み。負の感情の塊だったレンにも、まだ感情が残っていればいいと願いながら、俺は続ける。
「この空き瓶に水を汲むために、アオイさんは川へ降りた。そして、すぐに戻るはずがそこで足を滑らせて川に転落したんだ。そのまま、アオイさんは流されて亡くなった。だから、君にこれを届けることができなかったんだよ。待っていると分かっていても、アオイさんはそこから動けなかった。君と同じだ。15年間、君に気がついて欲しくてずっと待っていたって」
アオイの気持ちがまた胸にジワリと焼き付いてくる。グッと胃のあたりを抑えて、俺はこれで伝わって欲しいとレンの反応を待つ。だけど。
『ふざけるな! 俺は、ここにアオイを連れてこいと約束したはずだ! そんな嘘をつくな! 約束は守るものだろ! 約束したんだ、アオイとも』
矢橋先輩の身体が燃えているかのように、俺の目は錯覚を起こす。くらりと目眩がする。
レンにはアオイのように素直に言葉を受け取ってもらうのが難しいと感じた。どうしようもない。このままでは、たぶん俺も先輩の身体も危ない。
最後の手段として、ポケットから祓い紙を取り出して、レンめがけて突き出した。
この前みたいに青い炎を上げて一時でも良いから先輩の中からレンを離れさせられればと思いながら、真っ直ぐに腕を伸ばす。
だけど、紙は何の反応も示さない。
目の前のただの紙切れに絶望する。
え、これ、終わった……?



