矢橋先輩は、憑かれやすい。

 不安な気持ちのまま寮のアパートまで帰ってくると、先輩はまたシャワーを浴びにバスルームへ入って行った。
 荷物を下ろして、俺も濡れた体をタオルで拭く。そして、テーブルの上に置かれたものに目がとまった。
 さっき黒渕先生が持ってきた変な文字が書かれた紙が大量に置いてある。大きな付箋みたいに一塊になって置かれているから、一枚めくってみる。

「お札みたいだな」

 悪霊退散とか書いてありそうな、どこへでも貼れる紙。こんな紙きれ一枚で霊を祓えるのならそんな簡単なことはない。
 黒渕先生はこの紙を、化学的根拠を持って作っているのだろうか。そもそも、幽霊の存在自体は認めているのだろうか。認めているからこう言うのを作っているんだろうけど。
 シャワーから戻ってきた矢橋先輩は、まだ浮かない顔をしている。

「先輩、話してくれませんか。さっき、何があったのか」

 それを知らないままでは次取るべき行動に移せない。
 ジッと、しばらく一点を見つめたまま無言でいた先輩が、小さく息を吐き出す。

「……死んでたんだ、あの花を供えている人も」
「……え?」
「さっき、いつもの霊とは違う気配を感じて、俺の方から歩み寄った。なんだかすごく、悲しそうにしていたから。俺が声をかけないと消えてしまいそうなくらいに弱っていたから」
「歩み寄った……って、そんなことも出来るんですか?」
「出来るって言うか、頭の中で同情し始めたら自分で制御しない限り向こうの意識に集中してしまうんだ。この前轢かれていた子猫に対してもそうだった」
「……あ」

 あの時の先輩の言葉を思い出す。
『行こう。これ以上ここにいたら、俺あいつ連れてくことになる』
 このままだと憑いてきちゃうからと、矢橋先輩は子猫の霊を振り切っていたんだ。
 それなのに、自ら歩み寄ってあんなに泣くくらい、なにを知ってしまったんだろう。

「あの花はヤマユリだ。夏になるとあの辺りに多く咲く野生の百合。今の時期にはまだ咲いていない。それなのに、俺にも千羽くんにも見えていたのは、気がついて欲しかったからだって」

 思い出しながら話すことが、きっと身も心も疲れるんだろう。息苦しそうになる先輩が心配になりつつ、話の続きを待った。

「彼女の名前はアオイ。15年前の夏休みに、あの廃屋を秘密基地にして幼なじみとよく遊んでいたらしい。あの花が供えられている畦道は、下っていくと川にたどり着くらしく、彼女はそこで足を滑らせて川に転落したらしい」
「え、もしかしてこの事故……?」

 思い当たることがあって、俺はスマホを操作してさっき調べていた事故の新聞記事を表示した。
 小学生の女の子が川に転落して亡くなった事故。名前を確認すると、小林(こばやし)(あおい)さん10歳と表記されていた。そして、記事の続きには高橋(たかはし)(れん)くん10歳が未だ行方不明のままと記されていた。

「じゃあ、先輩に憑いた霊は、この行方不明になっている男の子……?」
「その可能性は大きいと思う。名前を呼んでしまうと呼び寄せてしまう恐れがあるから、今は彼と呼ぶようにするな」

 まだ、解決策も見つかっていないのに霊を自ら呼んでしまっては、どうしようもない。俺が頷くのを確認すると、先輩は続けた。

「彼女の話では、彼はヤマユリを取りに川とは反対の山奥へ入って行ったらしいんだ。彼女は、その花を生けるための水を空瓶に汲むために川へ向かった。すぐにお互い秘密基地に戻るはずだった。だけど、彼女は足を滑らせて川に落ちて……気が付いたらそこから動けなくなっていたらしい。それから、ずっと彼のことを待ち続けているって、言っていた」
「……え、その子もずっとそこに居たってことですか?」
「そういうことだな。でも、彼女は強い怨みや憎しみは何一つ持っていなそうに見えた。だから、俺は歩み寄ったんだけど」

 彼女の悲しみがよほど重たいのか、先輩が胸元を掴んで大きなため息を吐き出した。