矢橋先輩は、憑かれやすい。

 風に押されながら、俺とナニかとの距離が縮んでいく。
 ふと、横目に畦道へ続く入り口が目に入った。暗くてよく見えないけれど、そこにはやっぱり花が供えられているように見えた。
 昼間に見た時は彩りのある花だった気がするけれど、今は夜に溶け込んでいて灰色にしか見えない。

『どうしてそこまでしてこいつを助けにくる?』
「俺が先輩を助けにくる理由? 別に教えてやってもいいけど、そんなん聞いてどうすんだよ」

 霊と会話なんてしたくもないけど、この不穏な空気と状況に、居ても立っても居られない。
 無言でやり過ごすとか、絶対に無理だ。
 学校だってそうだった。俺はいつでも相手と話が途切れることを恐れていた。会話が続かない。話題がない。無言になって気まずい。だから、俺は必要以上に喋ってしまう。相手に会話を合わせたり、相手の好みを自分も好きだと言ったり。嘘ばかりついてきた。先輩のことを見て、胸が高鳴ったあの時もだ。

『あの矢橋ってやつ、上手いけど態度悪くない? 絶対友達いないだろ』
『思ったー! あの目つきなに? 俺強いんで! みたいな』

 あははと矢橋先輩のことを卑下する同級生たち。嫉妬や妬みからだって分かっていた。自分に実力がないから、他人のことをそうやって下げて自分よりも劣っていると思い込みたいだけだって。そう思う同級生の気持ちも、俺には分かっていた。
 矢橋先輩のことを悪く言われるのは、心底嫌だと思った。それなのに、俺はあの時もみんなと同じように笑って、「そうだよなー」って同調して。マジで。何やってんだ。一人になってから、後悔して、先輩が聞いていたわけでもないのに、ひたすら「ごめんなさい」と誰もいない壁に向かって懺悔した。自分の中での罪滅ぼしだ。そんな意味のないことをやって、俺はいったい何をしているんだろうって、悩んだ。
 矢橋先輩のバドミントンのプレーを見て、周りの言葉になんか耳も傾けずに、目の前の試合に全力で向かう姿に、俺は心を掴まれたんだ。
 人がどうこうじゃない。俺は俺だ。
 どうなるかは、どうしたいかは、俺が決めること。周りになんて合わせる必要はない。だから、俺は……

「誰よりも矢橋先輩のことを尊敬しているから! だから助けたいんだよ!」

 押される風に仰け反るように足を踏ん張る。距離にして数メートル。赤い光だけだった霊の姿がようやく見えた。
 掛け軸のおかげか俺の叫びが効いているのか、どちらかは分からないけど、視線を泳がせた赤い光は左右に揺れてから下を向く。

『そんなふうに、俺も思われたかった』

 ぽつり。
 溢れるように呟くのが聞こえて、嘘のように風が止む。踏ん張っていた足から力が抜けて、膝が笑う。ふらついた体を必死に保ち、掛け軸は開いて向けたまま、霊を見つめた。

『ずっと探しにこない。あいつは俺を忘れている』
「……あいつって、誰だよ」
『俺を置いていなくなった。あの日からずっと一人で寂しかった。ここへ来るのを待っているのに、どうして、来ない』

 ふらふらと、千鳥足で矢橋先輩の体が俺の方に向かってくる。
 赤い光が鈍くなりながら、一歩、また一歩距離が詰まるたびに、背筋が寒くなる。また、この掛け軸に触れさせれば、先輩は助かるだろうか。そんな考えがよぎって、俺からも先輩にゆっくり歩み寄る。
 その途中で、さっき目にした花のことを思い出した。あれは、誰かが供えているもの。ずっとあるわけじゃなさそうで、あの花だってまだ新しかった。

「あそこに! あそこにある花はなんだよ! あんたに誰かが持ってきたものじゃないのかよ?」
『……花?』
「ほら、向こうの畦道に向かう分かれ道。あそこにあるんだよ、花が!」
『……知らない。俺には見えない』

 廃屋から畦道の花までの距離はそう遠くない。だけど、真っ暗な状態ではなにも見えない。花の色だってさっきは灰色にしか見えなかった。もしかしたら、供えられた花が、この霊のところまで届いていないってことか?
 そもそも、この霊はなにか未練があってここにとどまっているんだろうし、それを解消出来れば、こんな風に先輩に取り憑いたりしなくなるんじゃないか。

「な、なぁ! 俺が探してくるから! あの花を供えた人を。だから、先輩のこと返して。あんたには見えないかもしれないけど、確かにあそこに花が置いてあるんだよ。誰かがあんたに持ってきてくれてるんだと思う。きっと、あんたのことをその人も探しているのかもしれない」

 幽霊とかお化けとか、説得してわかるのかどうかなんて知らない。でも、元々はこの霊だって人間だったはずだ。言葉を理解しているし、まだ感情だってある。だから、分かってほしい。

「俺が必ず、探して連れてくる。だから、先輩を返してくれ」

 掛け軸をそっと閉じる。そして、俺は頭を下げた。
 ここで死ぬなら仕方ない。やれることはやった。俺が思う最善のことを俺はした。そのせいで霊に乗り移られて呪われて死ぬなら、もうどうしようもない。もうこの状況自体もう詰んでる。
 開き直るしかないけど、実際はものすごく怖い。いや、怖いなんてもんじゃない。震えが止まらない。風邪ひいたってくらい悪寒が全身を駆け巡っている。

『約束だぞ』

 一言、風に運ばれるようにして俺の耳元に言葉が届くと、目の前にいた先輩が崩れ落ちるようにして倒れた。

「矢橋先輩!!」

 あわてて駆け寄り、抱き起こす。
 ひんやりとした体。スマホのライトで顔を照らすと、顔面蒼白。唇も真っ青で息もしているのかどうかさえ分からないほどに弱って見えた。
 どうすれば……
 とにかく、俺は先輩をまっすぐに寝かせて、心臓の音を聞く。わずかに聞こえるけれど、やっぱり弱っている気がする。
 そっと左胸に手を当てて、一気に押し込む。心肺蘇生法なんて、学校の授業の一環でしかやったことがなかった。それも人形相手で。でも、やらなきゃ先輩が危ない。そう思って、必死で俺は矢橋先輩に呼びかけて心臓マッサージをする。なかなか血色の戻らない唇に、気道を確保して、戸惑いながら息を吹き込んだ。お願いだ。先輩息をして。意識を取り戻して!
夢中になって何度も必死に繰り返した。

「……っ、ウゥー! ハァーッ」

 しゃくりあげるような大きな息の音と共に、先輩が動き始める。
 気がつけば汗だくになっていた俺は、目が覚めた先輩を抱きしめていた。

「矢橋先輩! よかったー! よがったー!!」

 涙まで溢れて、もう顔は汗と涙でぐじゃぐじゃだ。
 いつの間にか、遠くの空が白み始めている。寮のアパートを出てきてから、いったい何時間経っていたのだろう。