矢橋先輩は、憑かれやすい。

 アスファルトから土の道に変わった。舗装されていない分走りづらいけど、草を踏んだ時にクッションのような反発を感じて、足への負担はなんとなく軽減されている気がする。目が暗闇に慣れてくると、広い田園の中を走るのは爽快な気もする。ただ、静かすぎる世界に自分だけしかいないように感じて、他にいるのは人間ではなく、得体の知れないナニモノかなのかもしれないと考え出すと、途端に恐怖が押し寄せてくる。
 上がる息を整えつつ、目的の場所に着いた。
 今夜は、目を覚まし始めた瞳のように薄く開く二日月。よく見れば星も瞬いている。暗闇なのに空が広くて、どこまでも吸い込まれてしまいそうに高い。
 見上げていた視線を下ろすと、ゆらりと動く影が視界に入った。途端に、綺麗だと洗われた心に陰りが差す。一気に不安に掻き立てられて、俺は手元の掛け軸をギュッと握りしめた。
 あれは矢橋先輩だろうか。
 それとも、また別のなにかだろうか。別のなにかだとしたら、先輩はどうなっている。
 考え出すと止まらない。頭の中を騒がしくしておかないと、周りの静けさに精神をやられそうだ。

『またお前か』

 暗闇の中で二つの赤い光が動くたびに線を描いて見えた。あれは、先輩が霊に取り憑かれた時に必ずなる赤い眼。
 低く重たい声色は、先輩のものではないけれど、もう何度も聞いている音に聞こえる。そして、またと言っているから、向こうにとっても俺に会うのは初めてではないんだろう。それなら話は早い。

「矢橋先輩を返せ!」

 ジリっと、震える足を一歩前に出す。
 こちらは武器になるかもわからない掛け軸が一つ。何が起こるかなんてわからない。それでも、俺は先輩を助けたい。

『なんで来たんだ』
「……え」

 声のトーンがまた一層低くなった気がした。
だけど、弱っているとか、遠くなったとか、そんな風ではない。なんとなく、悲しみを纏っているような。なんだか、俺まで悲しくなってくる声。
 先輩が言っていた。
──かわいそうって思っちゃうんだよね。
 先輩は、人より他人を哀れに思う気持ちが強いのかもしれない。自分の立場だって十分かわいそうなのに。それでも、ニュース報道の他人も、道端で倒れている動物も、みんな平等にかわいそうだと思ってしまう。不思議だけど、優しい人だ。俺みたいな煩わしいやつでも構ってくれて、デート(みたいなこと)してくれて、(新婚みたいに)ご飯食べさせてくれて、この上なく俺は幸せな気持ちになった。
 それって、俺への優しさだと思う。
 よく考えれば、さっき「早く帰れ」って言ったのだって、もしかしたら霊が憑いてきていたからかもしれない。俺を巻き込みたくないって言ってくれていたから。
 それって、先輩、次にまたこの霊に取り憑かれたら、一人でどうにかしようとしてたってことだ。
 今更かよ、俺。気づくの遅すぎるだろ。
 嫌われるのが怖くてすぐに帰ってきたけど、本当なら先輩の「帰れ」って言葉を押し切って、無理やり「泊まっていきます」って言えばよかったんだ!
 うあー! 何やってんだ俺! マジで消えたい! 先輩からあの霊を早く祓いたい。

「ってか、何先輩の体自由に動かしちゃってんだよ。ふざけんなよ? 俺だって先輩の中に入ってみたいっつーの!」

 そう叫んでから、勢いよく掛け軸を広げた。
 風一つなかった空気が一変して、ザワザワと杉林が揺れて騒ぎ出す。真後ろから吹きつけてきた突風に足を取られそうになって、俺は必死で踏ん張った。すると、遠くで揺らめいていた赤い光が、一瞬ぼやけた。
 やっぱりこれ、効いているのかも。
 そう感じた俺は、掛け軸を持つ手にしっかり力を込めて、さらに距離を詰めていく。
 先生にもらった紙よりも断然大きいサイズの掛け軸。これなら、あの紙切れよりも効力は強いんじゃないだろうかと期待する。
 矢橋先輩は黒渕先生のヘンテコなこの文字を信用していなかったけど、俺にはもうこれに頼るしか道がない。