桜舞う春。すっきりとした青空に爽やかな風。真新しい制服姿の俺を照らす太陽。
入学式を終えた俺は、学校指定の一人暮らし用アパートに向かって坂道を下っていた。事前に荷物を運び入れていたから、アパート内の準備は出来ている。親元を離れて初めての一人暮らし。正直、不安だ。でも、楽しみなこともある。明日から通う桜花高校には、俺の憧れの先輩、矢橋真智さんがいるから。
中学の頃にうちの学校で行われたバドミントンの強化試合。そこに、他校から来た矢橋先輩はいた。驚異の集中力と俊敏な動き。人間離れした運動能力。県を超えて全国優勝してしまうほどの実力者だ。
カッコいい。その一言に尽きる。
矢橋先輩を一目見たその日から、俺の心は先輩でいっぱいになった。だから、これから矢橋先輩と同じ高校に通えるのかと思うと、嬉しくて仕方がない。
実は、先輩も一人暮らし組だと噂で聞いている。学年が違うし、俺にとっては高嶺の花。運動音痴な俺はバド強豪校の部活にはもちろんついていくことなんて出来ないから、遠くから見つめるだけしか出来ないのかもしれない。それでもいいと俺は決意して、今ここにいるのだ。
ドキドキと高鳴っていく心臓に手を当てる。
たどり着いたごく普通の賃貸アパート。ここには俺と先輩しか生徒は住んでいないらしい。そんなことがあっていいのか……と嬉しさ半分、不安半分。
深呼吸をして、まずはご挨拶をするために矢橋先輩がいる部屋の玄関チャイムを鳴らした。
『おかえり、フランソワ!』
「……え?」
玄関のドアが開いたかと思えば、いきなり視界が暗くなった。全身をぎゅうぎゅうと強く抱きしめられている。
え、なにこれ。
何が起こったのか理解するのに思考が追いつかない。
『どこに行っていたんだよ、まったく。僕をひとりにしないでおくれ。ほら、疲れただろう、一緒にご飯を食べて休もう』
ひとしきり俺を抱きしめた後で、満面の笑みで部屋の中へと引き込まれた。
あまりにも距離が近いこの人は、顔を見る限り矢橋先輩で間違いないけれど、俺の知っている矢橋先輩ではない。だって、先輩はいつでも仏頂面でニコリとも笑わない。試合の時なんてまるで獲物を狙う豹の如く素早く鋭い視線で睨み、相手を怯ませる。
それなのに、え? フランソワ? 誰それ。俺?
ぐいぐいと、ものすごい力に引っ張られて、抵抗もできずにどんどん部屋の中に進むと、今度は全身が一瞬のうちに粟立つ。遮光カーテンの閉められた部屋は薄暗くて、真ん中のテーブルの上にはろうそくが炎を真っ直ぐに上げて置かれている。思わず辺りを見回すと、部屋の四隅には小皿にたっぷりと盛られた塩の山。壁にはなんと書いてあるのか読めない達筆な文字が書かれた掛け軸。なにより、部屋の中の空気が外とは全く違うのを感じる。
パタン。しっかり部屋のドアが閉まった瞬間、繋がれていた手が解かれる。そして、矢橋先輩が大きなため息を吐き出した。
「……出ていけ」
「え」
低く重苦しい声で呟くのが聞こえた。それと同時に、部屋の中の重たい空気がフッと軽くなった気がする。
そして、矢橋先輩は真ん中のろうそくの炎を吹き消し、カーテンを開けた。外の日差しが入り込んできて目が眩む。
「お前、誰だ?」
「……え、あ、す、すみません。フランソワではなく、一年の千羽拓です! 今日から、矢橋先輩の隣に住むことになって、ご挨拶をしにきました!」
「……ああ。そうなんだ」
睨むように見ていた先輩の目が途端に優しくなる。ホッとして、心臓がドキドキと高鳴ってしまう。
「悪いな、さっきのはよくわからない霊に憑かれていて」
床に腰を下ろして、先輩はテーブルの上を片付けながらいたって冷静に話し出す。
「え、霊? って、おばけですか?」
嘘だろ。そんなん本当に居るのかよ。
またしても体が全身震えるように冷えていくのを感じて、腕を摩った。
「苦手か?」
いや。苦手も何も、そんなの信じられないし、聞かれなくても絶対得意ではない。
「なんか小さい頃から憑かれやすい体質していてね、俺。親からも気味悪がられて一人暮らしになったんだけど。けっこう疲れるんだよね、取り憑かれると」
ダルそうにテーブルに突っ伏した先輩の顔色は確かに青白い。
窓からの日差しを受けた真っ直ぐでサラサラの黒髪は、ほんのり色素が薄くなっている。
「……大丈夫、なんですか?」
親にも気味悪がられてって。こんな状態になっているのに子供を引き離すなんて、酷くないか。
「大丈夫、大丈夫。楽しんでるから」
「え?」
「俺、好きなんだよ。心霊現象とか心霊スポット回ったりとか。今は部活もやってないし、ホラー映画ばっかり見てる。そしたら、いつの間にか部屋ん中に寄ってくるようになっちゃったんだよね。千羽くんも気をつけてね。害はないように俺も気をつけるけど」
あははと能天気に笑う姿に怯えつつ、俺は先輩の言葉にあった気になることを聞く。
「バド、もうやってないんですか?」
「え、うん。辞めたよ。やる意味もないし」
「……やる意味、ない?」
なんで?
「俺、バド始めたのは小学生の頃で、その頃は親に褒められるのが嬉しくて夢中になってやっていたけど、こんな特異体質になっちゃって、親からは見離されるし、色々あってもういいやって辞めたよ」
そんな簡単に。笑っていうようなことじゃないと思うのに。先輩は、それでいいのか。
「千羽くんは? なんか部活やるの?」
「え、あ、いえ。俺、運動音痴なんで」
「ははは。運動音痴なんだ。かわいそう」
たいして関心もないように哀れに笑われるから、先輩に会えて嬉しいはずなのに、気まずい。
「ねぇ、千羽くん。今日暇?」
「……え」
胡座をかいて座る先輩が、俺を見上げる。
「予定なかったら、一緒に映画見に行かない?」
「……映画」
フッと笑った先輩の笑顔がストレートに胸に突き刺さる。先輩からデートに誘われるとか、予想もしていなかった。気が動転してしまう。あ、いや、そもそもこれはデートって思っていいのか。
たった今あった不可思議な現象のことも気になりつつ、嬉しさの方が勝って、俺は二つ返事で頷いていた。
一度、自分の部屋に戻るために先輩の部屋から出た。よく見れば、玄関ドアの横にも塩が盛られている。内心ゾッとしながら、ドアをしっかり閉めると、途端に肩の重荷が取れたように軽やかな気分になった。
え、なに。俺には視えてないけどなんか憑いてたってこと?
そう考えた途端に身震いが起きる。あわてて全身から埃を祓うみたいに手を動かした。
自分の部屋に入り、鏡の前で考える。先輩も制服だったし、俺も制服のままでいいだろうか? まさかこんなに早く先輩と一緒に出かけられる日が来るなんて思いもしなかったから、さっきから動揺している。
とりあえずポケットに財布とスマホを入れて、外へ出た。



