明治あやかし恋綺譚 ~式神に愛された男装令嬢~

 誰もが鮮血が噴き出す光景を想像する。

 けれど次の瞬間、不可思議な事が起こった。

 道蓮様の体から黒いモヤのようなものが滲み出し、それは虚空に拡がっていった。

 モヤは鬼の形をとろうとするも、無残に崩れて地に吸い込まれる。
 それを見た老人が狼狽え始めた。

 「こ、これは……! どうしたことじゃ」

 老人がモヤに駆け寄るも、皺だらけの手を擦り抜けてモヤは消えてゆく。それが更に老人を追い詰めたのか、彼は表情を歪めた。

 「ば、馬鹿な……! 我らが希望が、こんな小僧如きに拒絶されて……?」

 動揺する老人に道蓮様は天誅殺を向けた。

 「天誅殺は使用者の憎悪を呪いに変えて標的を確殺する呪剣……。だが、今の俺に自身を否定する感情は一切無い」

 道蓮様の言葉に皆が振り返る。
 そんな中、道蓮様は話を続けた。

 「今の天誅殺はこの身を傷つける事はない。この刀の主は鬼ではなく、この俺だ」
 「あ、有り得ぬ! 人間は妬み、嫉み、恨みを持つ生き物だ。負の感情に反応する天誅殺を無傷でなど……有り得ない、有り得るわけがない……」

 黒衣の鬼に吸われるように、他の鬼達も姿を消してゆく。
 後に残されたのは、膝をつき、枯れ木のようになった老人だけだった。

 老人は道蓮様に斬られると思ったらしい。

 でも道蓮様は教官に頼んで捕縛の道を選んだ。

 しかし私は彼の所業で親類縁者を惨殺され、晴人と共に強い呪詛を浴びて余命いくばくもない身になった事に――胸の内にわだかまりが残っていた。

 (あの人が黒衣の鬼の封印さえ解かなければ……)

 もしかしたら、今も皆で幸せに暮らせていたのかもしれない。
 晴人も目覚めぬ呪いをかけられることもなかったのかもしれない。
 そう思うと、悔しくて悔しくて仕方なかった。

 でも今の自分は燈次郎。土御門と何の関係もない人間だ。

 けど……と道蓮様を見つめる。

 連行されてゆく老人に向けて、噛みしめた唇から血を滲ませていた。

 (道蓮様は大人な対応をとられているのに、私は……)

 今はただ老人が法の裁きを受けるのを見送るしかない。

 そこで御霊府君が近づき、小声で話しかけてきた。

 『燈次郎、燈次郎。案ずることはないぞ。あの程度の爺なぞ、儂が呪殺してやろうか?』

 冗談めかして言われたけれど、府君の目は笑っていなかった。

 割り切る必要はないのだと励まされ、心が少しだけ軽くなった。

 青空の元では、鬼が消え去り、日常を取り戻した皇都の一角が在った。