防波堤の錆びたガードレールに背を預け、私はポケット瓶のウィスキーをあおった。アルコールが食道を焼く感覚を確かめながら、生ぬるい海風に吹かれていると、向こうから見慣れた制服姿が小走りで近づいてくるのが見えた。
「琉生くん!」
心陽だった。夏服の白いブラウスと紺のプリーツスカートを揺らし、ローファーの足音を響かせて私の目の前で立ち止まる。額にうっすらと汗をかき、夏の太陽の下で無邪気に笑うその姿は、いかにも青春小説の表紙を飾る一場面といった様相を呈していた。
「待った?」
「いや。いま来たとこだ」
私はウィスキーの小瓶を作業着の胸ポケットにねじ込み、顎で傍らの車をしゃくった。
「乗れよ」
「うんっ! 今日はどこまで連れて行ってくれるの?」
心陽は目を輝かせながら、助手席のドアを引き開けた。海面の反射光が彼女の横顔を照らし、すべてが純粋無垢な世界に包まれているかのようだった。しかし、そんな安っぽい幻想はドアを開けた瞬間に吹き飛ぶ。
うだるような熱気のこもった車内へと乗り込んだ心陽が、一瞬だけ息を詰まらせたのがわかった。私も運転席に腰を下ろし、キーを回す。総走行距離二十二万キロを走破した軽トラは、断末魔のような異音を上げて車体を激しく振動させた。
エアコンはひと月前から完全に壊れている。窓を全開にしても、流れ込んでくるのは湿ったコンクリートの臭いと、アスファルトの照り返しの熱風だけだった。額から首筋へ不快な汗が這うように垂れていく。
「あはは、相変わらず暑いねえ、この車。でも、走って海風が入ってくれば涼しくなるよね」
心陽が楽しげに取り繕う横顔を無言で見据え、私はクラッチを踏み込み、ギアをローに入れ、アクセルを強く踏み込んだ。
けたたましいエンジン音とともに軽トラが発進する。昨日までの記憶が熱風に混じって脳裏にへばりついてきた。
荷捌き台で飛び交う怒号。私のヘルメットを背後から小突いたセンター長・福田の醜悪な面構え。「さっさと荷物をトラックに積めや!」とわめく声。私は非力だったため、筋肉を早く付けようとステロイドも服用していたが、そんな努力も虚しく、毎日理不尽な罵声を浴びせられていた。私は黙って安全靴のつま先でダンボールを蹴り飛ばし、タイムカードを叩き切って逃げてきたのだった。年間休日八十八日、手取り十五万の労働環境。おまけに通勤手当も出ない。そんな理不尽極まる世界で、これ以上愛想笑いを浮かべる義理などなかった。
車内はサウナのように蒸し暑く、私の作業着には数日分の汗と機械油、そして吐き気を催すような泥の臭いが染み付いていた。隣でキラキラとしたオーラを放つ女子高生と、二十二万キロの軽トラを運転するうだつの上がらない男。どう取り繕っても、その構図は滑稽でしかなかった。
国道をひたすら西へ向かって走る。景色は変わらない。右手に日本海が広がり、左手には見飽きた山々が連なっている。
「ねえ、琉生くん。私、ずっと前から言おうと思ってたんだけど……」
心陽が何事か甘ったるい言葉を紡ごうとしているのがわかった。しかし、私には他人の感情の機微を察して寄り添うような心の余裕など、遥か昔に擦り減らしてしまっていた。
私はダッシュボードからぬるくなった缶ビールを掴み取り、片手でタブを開けた。プシュという間の抜けた音が、心陽の言葉を遮った。
そのまま胸ポケットを探り、銀色のシートから、とっておきの抗不安薬――通称「ボンバー」を五錠押し出す。それを一息に口内へ放り込み、水もなしに奥歯でガリガリと噛み砕いた。猛烈な苦味と薬品特有のエグみが舌に広がるのを、ぬるいビールで強引に胃へと流し込む。
薬が効いてくるまでの数十分、この不快な焦燥感と付き合わねばならない。私は乱暴に空き缶を助手席の足元へ放り投げた。カラカラと乾いた音が車内に響く。
「ねえ、琉生くん。いまの、何?」
心陽が引きつった笑顔で訊ねてきた。
「ビタミン剤だ」
私は前方を睨みつけたまま、ハンドルの上部を両手で握りしめ、静かに口を開いた。
「なあ、心陽」
「……ん?」
「CEOを粉砕してきた」
海沿いの国道を一車線はみ出しそうになりながら、軽トラはガタガタと爆音を立てて疾走している。対向車の大型トラックがクラクションを鳴らしてすれ違っていった。私は舌打ちをし、窓から腕を出して煙草の灰を落とす仕草をした。こうすれば大抵の車は距離を置いて走るようになる。
心陽は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、やがて腹を抱えて哄笑し始めた。
「あはははは! なにそれ、ウケる! CEOって、あの偉そうな社長さんのこと? 琉生くん、物理で? 物理で粉砕したの?」
「物理だ。応接室のパイプ椅子でな。奴の頭蓋骨ごと木っ端微塵だったよ。脳みそが壁にぶちまけられて、それは見事な前衛芸術だった」
嘘か真かなど、もはやどうでもよかった。薬が効き始めたのか、奇妙な全能感が全身を巡り始める。不安も恐怖もない。圧倒的な「賢者」の時間がやってきたのだ。
「最高じゃん! じゃあ、これって指名手配犯の逃避行だね! 私、共犯者になっちゃった!」
心陽はなぜか嬉しそうにシートベルトを強く握りしめた。常軌を逸した返答だった。この娘もまた、私の狂気にあてられたのか、あるいは元来ネジが飛んでいるのか。
私は何も答えず、ただアクセルを床まで踏み抜いた。スピードメーターの針が小刻みに震えながら右へと傾いていく。タコメーターすらない安物の軽トラは、エンジンが泣き喚くような音を立てるだけで、たいした速度は出ない。
「地獄の楽園へ行くぞ。法も秩序もない、クズどもの本場へな」
「うんっ! どこまでも着いていく!」
潮の香りと排気ガスが混ざり合う中、どうしようもなく破綻したバカロマンスが、二十二万キロの軽トラとともに、終わらない夏の果てへと転がり落ちていった。私はシガリロを咥え、ただ無心でフロントガラスの向こうの青い空を見つめていた。
◇
軽トラの車体は、時速一〇〇キロを超えたあたりから異音の質を変えた。金属同士が悲鳴を上げながら擦れ合うような、生理的な不快感を伴う高音。それがエアコンの死んだ車内に充満し、鼓膜を執拗に叩く。
「ねえ、琉生くん、さっきの話!」
心陽が身を乗り出してくる。ブラウスの第二ボタンが外れ、鎖骨のあたりに張り付いた汗が光っている。
「CEOの頭、本当に粉砕したの? ニュースになるかな。警察、来ちゃうかな」
彼女の問いには、怯えよりも期待が混じっていた。退屈な日常という怪物を殺してくれる刺激を、彼女はこのボロい助手席に求めている。
「ニュースにはならんだろう。あの会社の連中は、体面を何より重んじる。死体が出ようが、まずはシュレッダーで不都合な事実を揉み消すのが先だ」
私は実際、あの荷捌き台で、幾度となく「なかったこと」にされる事故を見てきた。フォークリフトに足を潰された若者が、労災を隠蔽するためにそのまま裏口からタクシーで病院へ運ばれる光景。
私は左手でハンドルを固定し、右手で再びポケット瓶のウィスキーを探り当てた。中身はもう半分もない。
「……飲む?」
心陽に瓶を向けると、彼女は一瞬だけ躊躇い、それから奪い取るようにして喉を鳴らした。
「ゲホッ、うわ、喉が焼ける。でも、なんか……自由な味がする」
自由。その言葉の響きの軽薄さに、私は奥歯が浮くような感覚を覚えた。自由なんてものは、二十二万キロ走ったエンジンのピストン運動と同じで、いつか焼き付いて止まるまでの猶予期間に過ぎない。
軽トラは県境を越え、さらに西へと向かう。道沿いのコンビニの看板が、潮風に晒されて無残に色褪せている。
不意に、腹の底から焼け付くような空腹感がせり上がってきた。昨日からまともな食事をしていない。
「心陽、金は持ってるか」
「え? うん、バイト代が入ったばかりだから少しなら。五千円くらいかな」
「十分だ。エサを買いに行くぞ」
私は駐車場の広いロードサイドのコンビニに車を突っ込んだ。ブレーキを踏むたびに、ローターが摩耗しきっているのか、足の裏に嫌な振動が伝わる。
店内は、冷房が効きすぎていて死体安置所のようだった。私は棚から茹でる必要のないそうめんのパックと、二倍濃縮のめんつゆ、それからストロング系の缶チューハイを数本掴んだ。
心陽は、おにぎりや菓子パンの棚を眺めていたが、結局何も手に取らず、私のカゴにそっとチョコレートを一袋だけ入れた。
レジを済ませ、車に戻る。アスファルトの熱気が再び私たちを包み込む。
私は運転席に座るなり、めんつゆを水道水で割る手間すら惜しみ、パックのそうめんに直接つゆをぶっかけた。
「ほら、食え。死にたくないならな」
私は心陽に一つ渡し、自分も箸を割り、ぐしゃぐしゃにかき混ぜて胃に流し込んだ。つゆが濃すぎて喉が渇く。それを缶チューハイで強引に中和する。
心陽は、不器用にそうめんを啜りながら、ポツリと言った。
「琉生くん……私ね、学校に行かなくなってから、今日が一番生きてる感じがする」
彼女の視線の先には、錆びたガードレールの向こう側に広がる、濁った色の海があった。
「学校なんて、ただの巨大なシュレッダーだ。個性を切り刻んで、均一なゴミにするための機械だよ。あそこに通い続けて、何が残る?」
私は自分の言葉が、かつて自分を論破した大学生の小僧のような、空疎な響きを帯びていることに気づき、荒く鼻息を吐いた。
結局のところ、私も彼女も、何者にもなれず、ただこの錆びついた軽トラの中で、互いの実存を削り合っているだけではないか。
三錠目の抗不安薬を、残りの酒で流し込む。
不意に、バックミラーに映る自分の顔が、ひどく老け込んで見えた。目の下の隈は深く、髭は伸び放題だ。
「琉生くん、あのね……」
心陽が、私の作業着の袖をそっと指先で摘んだ。
「もし本当に警察が来たら、私、琉生くんが私を誘拐したって言うよ」
「なんだと?」
「そうすれば、琉生くんは『悪者』になれるでしょ? ひとりで粉砕するより、誰かに無理やり連れて行かれたことにした方が、お話として面白いもん」
彼女の瞳は、純粋な狂気に満ちていた。それは愛でも同情でもなく、ただこの閉塞した世界に風穴を開けたいという、破滅的な衝動だった。
私は震える手でシガリロを口に咥えた。
「……好きにしろ。だが、俺は誰のヒーローにもならないぞ」
アクセルを踏み込む。軽トラの異音はさらに激しさを増し、いよいよ終わりが近づいていることを予感させた。時速は四十キロまで落ち、車体は激しくガタついている。
だが、私たちは止まらなかった。止まれば、そこに現実が追い抜いてくることを知っていたから。
◇
西日が落ちた。街灯の少ない国道は、漆黒の闇に飲み込まれ、軽トラの暗いヘッドライトだけが、前方のひび割れたアスファルトを頼りなく照らし出している。
ついに、エンジンが最期の時を迎えた。
ガラガラという金属音とともに、ボンネットから白い煙が立ち昇る。ハンドルが急に重くなり、ブレーキを踏み込むと、そのままズルズルと路肩の草むらへ突っ込んで止まった。
沈黙が訪れる。
耳鳴りのような静寂。エアコンの止まった車内は、湿った夜の空気と、熱せられたオイルの焦げる臭いで満たされていた。
「終わったな」
私は力なく呟き、座席のシートを限界まで倒した。
心陽は動かない。暗闇の中で、彼女の規則正しい呼吸音だけが聞こえる。
「ねえ、琉生くん。これからどうするの?」
「どうもしない。ここで夜が明けるのを待って、それから歩く」
「どこへ?」
「どこでもいい。コンビニの店員に訊けば、ここがどこかくらいは教えてくれるだろう」
私は最後の一本になったシガリロに火を灯した。オレンジ色の火種が、暗闇の中で幽かに明滅する。
抗不安薬の効果が薄れ始め、代わりに強烈な倦怠感と、剥き出しの不安が這い寄ってくる。さっきまで感じていた全能感は、安物のメッキのように剥がれ落ち、そこには「無職で、車を壊し、未成年を連れ回している犯罪者予備軍」という、救いようのない現実だけが残されていた。
「嘘なんだよね」
心陽が、消え入りそうな声で言った。
「CEOを粉砕したなんて。本当は、ただ仕事が嫌になって、逃げ出しただけでしょ」
私は煙を長く吐き出した。
「……ああ。そうだ。粉砕したのは、俺の自尊心と、安物のスマホの画面だけだ。福田とかいうクソ野郎の顔すら、殴れなかった」
嘘を吐き続けるエネルギーすら、もう残っていなかった。
「でも、いいよ」
心陽が、私の肩に頭を預けてきた。彼女の髪から、微かに洗剤の匂いがした。この不潔な車内には、あまりに不釣り合いな、清潔な匂い。
「私も、学校の先生に『死ね』って言いたかったけど、結局言えなかったから。琉生くんが私の代わりに、嘘の中でもいいから粉砕してくれたなら、それで救われた気がする」
私たちは、互いの嘘を分け合い、それを真実だと思い込もうとする、孤独な共犯者だった。
不意に、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
一つ、また一つ。青白い光が、夜の帳を切り裂いて近づいてくる。
心陽の親が通報したのか、あるいは会社が私の逃走を察知したのか。そんなことはどうでもよかった。
私はポケットから、まだ数錠残っていた抗不安薬を取り出し、手のひらに載せた。
「心陽、半分やるよ」
「……うん」
私たちは、水もなしに薬を噛み砕いた。耐え難い苦味が口いっぱいに広がる。それが、この物語の最後の「儀式」だった。
苦味はやがて痺れに変わり、思考の輪郭を曖昧にしていく。
パトカーの赤い回転灯が、軽トラのフロントガラスを真っ赤に染め上げた。
警察官と思しき黒い影がチラチラと網膜の中を浮遊している。
私は心陽の手を握った。その手は、驚くほど冷たく、そして小さかった。
「行こうか。青春小説のエンディングにしては、ちょっとばかり泥臭すぎるけどな」
「ううん。最高にロマンチックだよ、琉生くん」
心陽は、いつものキラキラした笑顔を浮かべ、ドアを開けた。赤の光が踊るなか、白い光の中に、私たちは踏み出す。そこにあるのは、救済ではない。おそらくはさらなる取調室の冷たい椅子と、社会からの徹底的な排除だ。だが、薬のせいで麻痺した私の脳は、それをただの「新しいステージ」だと確信していた。二十二万キロの旅の果て、私たちはようやく、自分たちの実存という名の深淵に辿り着いたのだ。私は、眩しさに目を細めながら、荒く鼻息を吐き、警察官の指示に従った。夏の夜風が、汗ばんだ肌を冷やしていく。私の眼前で屹立していた警察官は体格がよく、いい尻をしていた。(了)
「琉生くん!」
心陽だった。夏服の白いブラウスと紺のプリーツスカートを揺らし、ローファーの足音を響かせて私の目の前で立ち止まる。額にうっすらと汗をかき、夏の太陽の下で無邪気に笑うその姿は、いかにも青春小説の表紙を飾る一場面といった様相を呈していた。
「待った?」
「いや。いま来たとこだ」
私はウィスキーの小瓶を作業着の胸ポケットにねじ込み、顎で傍らの車をしゃくった。
「乗れよ」
「うんっ! 今日はどこまで連れて行ってくれるの?」
心陽は目を輝かせながら、助手席のドアを引き開けた。海面の反射光が彼女の横顔を照らし、すべてが純粋無垢な世界に包まれているかのようだった。しかし、そんな安っぽい幻想はドアを開けた瞬間に吹き飛ぶ。
うだるような熱気のこもった車内へと乗り込んだ心陽が、一瞬だけ息を詰まらせたのがわかった。私も運転席に腰を下ろし、キーを回す。総走行距離二十二万キロを走破した軽トラは、断末魔のような異音を上げて車体を激しく振動させた。
エアコンはひと月前から完全に壊れている。窓を全開にしても、流れ込んでくるのは湿ったコンクリートの臭いと、アスファルトの照り返しの熱風だけだった。額から首筋へ不快な汗が這うように垂れていく。
「あはは、相変わらず暑いねえ、この車。でも、走って海風が入ってくれば涼しくなるよね」
心陽が楽しげに取り繕う横顔を無言で見据え、私はクラッチを踏み込み、ギアをローに入れ、アクセルを強く踏み込んだ。
けたたましいエンジン音とともに軽トラが発進する。昨日までの記憶が熱風に混じって脳裏にへばりついてきた。
荷捌き台で飛び交う怒号。私のヘルメットを背後から小突いたセンター長・福田の醜悪な面構え。「さっさと荷物をトラックに積めや!」とわめく声。私は非力だったため、筋肉を早く付けようとステロイドも服用していたが、そんな努力も虚しく、毎日理不尽な罵声を浴びせられていた。私は黙って安全靴のつま先でダンボールを蹴り飛ばし、タイムカードを叩き切って逃げてきたのだった。年間休日八十八日、手取り十五万の労働環境。おまけに通勤手当も出ない。そんな理不尽極まる世界で、これ以上愛想笑いを浮かべる義理などなかった。
車内はサウナのように蒸し暑く、私の作業着には数日分の汗と機械油、そして吐き気を催すような泥の臭いが染み付いていた。隣でキラキラとしたオーラを放つ女子高生と、二十二万キロの軽トラを運転するうだつの上がらない男。どう取り繕っても、その構図は滑稽でしかなかった。
国道をひたすら西へ向かって走る。景色は変わらない。右手に日本海が広がり、左手には見飽きた山々が連なっている。
「ねえ、琉生くん。私、ずっと前から言おうと思ってたんだけど……」
心陽が何事か甘ったるい言葉を紡ごうとしているのがわかった。しかし、私には他人の感情の機微を察して寄り添うような心の余裕など、遥か昔に擦り減らしてしまっていた。
私はダッシュボードからぬるくなった缶ビールを掴み取り、片手でタブを開けた。プシュという間の抜けた音が、心陽の言葉を遮った。
そのまま胸ポケットを探り、銀色のシートから、とっておきの抗不安薬――通称「ボンバー」を五錠押し出す。それを一息に口内へ放り込み、水もなしに奥歯でガリガリと噛み砕いた。猛烈な苦味と薬品特有のエグみが舌に広がるのを、ぬるいビールで強引に胃へと流し込む。
薬が効いてくるまでの数十分、この不快な焦燥感と付き合わねばならない。私は乱暴に空き缶を助手席の足元へ放り投げた。カラカラと乾いた音が車内に響く。
「ねえ、琉生くん。いまの、何?」
心陽が引きつった笑顔で訊ねてきた。
「ビタミン剤だ」
私は前方を睨みつけたまま、ハンドルの上部を両手で握りしめ、静かに口を開いた。
「なあ、心陽」
「……ん?」
「CEOを粉砕してきた」
海沿いの国道を一車線はみ出しそうになりながら、軽トラはガタガタと爆音を立てて疾走している。対向車の大型トラックがクラクションを鳴らしてすれ違っていった。私は舌打ちをし、窓から腕を出して煙草の灰を落とす仕草をした。こうすれば大抵の車は距離を置いて走るようになる。
心陽は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、やがて腹を抱えて哄笑し始めた。
「あはははは! なにそれ、ウケる! CEOって、あの偉そうな社長さんのこと? 琉生くん、物理で? 物理で粉砕したの?」
「物理だ。応接室のパイプ椅子でな。奴の頭蓋骨ごと木っ端微塵だったよ。脳みそが壁にぶちまけられて、それは見事な前衛芸術だった」
嘘か真かなど、もはやどうでもよかった。薬が効き始めたのか、奇妙な全能感が全身を巡り始める。不安も恐怖もない。圧倒的な「賢者」の時間がやってきたのだ。
「最高じゃん! じゃあ、これって指名手配犯の逃避行だね! 私、共犯者になっちゃった!」
心陽はなぜか嬉しそうにシートベルトを強く握りしめた。常軌を逸した返答だった。この娘もまた、私の狂気にあてられたのか、あるいは元来ネジが飛んでいるのか。
私は何も答えず、ただアクセルを床まで踏み抜いた。スピードメーターの針が小刻みに震えながら右へと傾いていく。タコメーターすらない安物の軽トラは、エンジンが泣き喚くような音を立てるだけで、たいした速度は出ない。
「地獄の楽園へ行くぞ。法も秩序もない、クズどもの本場へな」
「うんっ! どこまでも着いていく!」
潮の香りと排気ガスが混ざり合う中、どうしようもなく破綻したバカロマンスが、二十二万キロの軽トラとともに、終わらない夏の果てへと転がり落ちていった。私はシガリロを咥え、ただ無心でフロントガラスの向こうの青い空を見つめていた。
◇
軽トラの車体は、時速一〇〇キロを超えたあたりから異音の質を変えた。金属同士が悲鳴を上げながら擦れ合うような、生理的な不快感を伴う高音。それがエアコンの死んだ車内に充満し、鼓膜を執拗に叩く。
「ねえ、琉生くん、さっきの話!」
心陽が身を乗り出してくる。ブラウスの第二ボタンが外れ、鎖骨のあたりに張り付いた汗が光っている。
「CEOの頭、本当に粉砕したの? ニュースになるかな。警察、来ちゃうかな」
彼女の問いには、怯えよりも期待が混じっていた。退屈な日常という怪物を殺してくれる刺激を、彼女はこのボロい助手席に求めている。
「ニュースにはならんだろう。あの会社の連中は、体面を何より重んじる。死体が出ようが、まずはシュレッダーで不都合な事実を揉み消すのが先だ」
私は実際、あの荷捌き台で、幾度となく「なかったこと」にされる事故を見てきた。フォークリフトに足を潰された若者が、労災を隠蔽するためにそのまま裏口からタクシーで病院へ運ばれる光景。
私は左手でハンドルを固定し、右手で再びポケット瓶のウィスキーを探り当てた。中身はもう半分もない。
「……飲む?」
心陽に瓶を向けると、彼女は一瞬だけ躊躇い、それから奪い取るようにして喉を鳴らした。
「ゲホッ、うわ、喉が焼ける。でも、なんか……自由な味がする」
自由。その言葉の響きの軽薄さに、私は奥歯が浮くような感覚を覚えた。自由なんてものは、二十二万キロ走ったエンジンのピストン運動と同じで、いつか焼き付いて止まるまでの猶予期間に過ぎない。
軽トラは県境を越え、さらに西へと向かう。道沿いのコンビニの看板が、潮風に晒されて無残に色褪せている。
不意に、腹の底から焼け付くような空腹感がせり上がってきた。昨日からまともな食事をしていない。
「心陽、金は持ってるか」
「え? うん、バイト代が入ったばかりだから少しなら。五千円くらいかな」
「十分だ。エサを買いに行くぞ」
私は駐車場の広いロードサイドのコンビニに車を突っ込んだ。ブレーキを踏むたびに、ローターが摩耗しきっているのか、足の裏に嫌な振動が伝わる。
店内は、冷房が効きすぎていて死体安置所のようだった。私は棚から茹でる必要のないそうめんのパックと、二倍濃縮のめんつゆ、それからストロング系の缶チューハイを数本掴んだ。
心陽は、おにぎりや菓子パンの棚を眺めていたが、結局何も手に取らず、私のカゴにそっとチョコレートを一袋だけ入れた。
レジを済ませ、車に戻る。アスファルトの熱気が再び私たちを包み込む。
私は運転席に座るなり、めんつゆを水道水で割る手間すら惜しみ、パックのそうめんに直接つゆをぶっかけた。
「ほら、食え。死にたくないならな」
私は心陽に一つ渡し、自分も箸を割り、ぐしゃぐしゃにかき混ぜて胃に流し込んだ。つゆが濃すぎて喉が渇く。それを缶チューハイで強引に中和する。
心陽は、不器用にそうめんを啜りながら、ポツリと言った。
「琉生くん……私ね、学校に行かなくなってから、今日が一番生きてる感じがする」
彼女の視線の先には、錆びたガードレールの向こう側に広がる、濁った色の海があった。
「学校なんて、ただの巨大なシュレッダーだ。個性を切り刻んで、均一なゴミにするための機械だよ。あそこに通い続けて、何が残る?」
私は自分の言葉が、かつて自分を論破した大学生の小僧のような、空疎な響きを帯びていることに気づき、荒く鼻息を吐いた。
結局のところ、私も彼女も、何者にもなれず、ただこの錆びついた軽トラの中で、互いの実存を削り合っているだけではないか。
三錠目の抗不安薬を、残りの酒で流し込む。
不意に、バックミラーに映る自分の顔が、ひどく老け込んで見えた。目の下の隈は深く、髭は伸び放題だ。
「琉生くん、あのね……」
心陽が、私の作業着の袖をそっと指先で摘んだ。
「もし本当に警察が来たら、私、琉生くんが私を誘拐したって言うよ」
「なんだと?」
「そうすれば、琉生くんは『悪者』になれるでしょ? ひとりで粉砕するより、誰かに無理やり連れて行かれたことにした方が、お話として面白いもん」
彼女の瞳は、純粋な狂気に満ちていた。それは愛でも同情でもなく、ただこの閉塞した世界に風穴を開けたいという、破滅的な衝動だった。
私は震える手でシガリロを口に咥えた。
「……好きにしろ。だが、俺は誰のヒーローにもならないぞ」
アクセルを踏み込む。軽トラの異音はさらに激しさを増し、いよいよ終わりが近づいていることを予感させた。時速は四十キロまで落ち、車体は激しくガタついている。
だが、私たちは止まらなかった。止まれば、そこに現実が追い抜いてくることを知っていたから。
◇
西日が落ちた。街灯の少ない国道は、漆黒の闇に飲み込まれ、軽トラの暗いヘッドライトだけが、前方のひび割れたアスファルトを頼りなく照らし出している。
ついに、エンジンが最期の時を迎えた。
ガラガラという金属音とともに、ボンネットから白い煙が立ち昇る。ハンドルが急に重くなり、ブレーキを踏み込むと、そのままズルズルと路肩の草むらへ突っ込んで止まった。
沈黙が訪れる。
耳鳴りのような静寂。エアコンの止まった車内は、湿った夜の空気と、熱せられたオイルの焦げる臭いで満たされていた。
「終わったな」
私は力なく呟き、座席のシートを限界まで倒した。
心陽は動かない。暗闇の中で、彼女の規則正しい呼吸音だけが聞こえる。
「ねえ、琉生くん。これからどうするの?」
「どうもしない。ここで夜が明けるのを待って、それから歩く」
「どこへ?」
「どこでもいい。コンビニの店員に訊けば、ここがどこかくらいは教えてくれるだろう」
私は最後の一本になったシガリロに火を灯した。オレンジ色の火種が、暗闇の中で幽かに明滅する。
抗不安薬の効果が薄れ始め、代わりに強烈な倦怠感と、剥き出しの不安が這い寄ってくる。さっきまで感じていた全能感は、安物のメッキのように剥がれ落ち、そこには「無職で、車を壊し、未成年を連れ回している犯罪者予備軍」という、救いようのない現実だけが残されていた。
「嘘なんだよね」
心陽が、消え入りそうな声で言った。
「CEOを粉砕したなんて。本当は、ただ仕事が嫌になって、逃げ出しただけでしょ」
私は煙を長く吐き出した。
「……ああ。そうだ。粉砕したのは、俺の自尊心と、安物のスマホの画面だけだ。福田とかいうクソ野郎の顔すら、殴れなかった」
嘘を吐き続けるエネルギーすら、もう残っていなかった。
「でも、いいよ」
心陽が、私の肩に頭を預けてきた。彼女の髪から、微かに洗剤の匂いがした。この不潔な車内には、あまりに不釣り合いな、清潔な匂い。
「私も、学校の先生に『死ね』って言いたかったけど、結局言えなかったから。琉生くんが私の代わりに、嘘の中でもいいから粉砕してくれたなら、それで救われた気がする」
私たちは、互いの嘘を分け合い、それを真実だと思い込もうとする、孤独な共犯者だった。
不意に、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
一つ、また一つ。青白い光が、夜の帳を切り裂いて近づいてくる。
心陽の親が通報したのか、あるいは会社が私の逃走を察知したのか。そんなことはどうでもよかった。
私はポケットから、まだ数錠残っていた抗不安薬を取り出し、手のひらに載せた。
「心陽、半分やるよ」
「……うん」
私たちは、水もなしに薬を噛み砕いた。耐え難い苦味が口いっぱいに広がる。それが、この物語の最後の「儀式」だった。
苦味はやがて痺れに変わり、思考の輪郭を曖昧にしていく。
パトカーの赤い回転灯が、軽トラのフロントガラスを真っ赤に染め上げた。
警察官と思しき黒い影がチラチラと網膜の中を浮遊している。
私は心陽の手を握った。その手は、驚くほど冷たく、そして小さかった。
「行こうか。青春小説のエンディングにしては、ちょっとばかり泥臭すぎるけどな」
「ううん。最高にロマンチックだよ、琉生くん」
心陽は、いつものキラキラした笑顔を浮かべ、ドアを開けた。赤の光が踊るなか、白い光の中に、私たちは踏み出す。そこにあるのは、救済ではない。おそらくはさらなる取調室の冷たい椅子と、社会からの徹底的な排除だ。だが、薬のせいで麻痺した私の脳は、それをただの「新しいステージ」だと確信していた。二十二万キロの旅の果て、私たちはようやく、自分たちの実存という名の深淵に辿り着いたのだ。私は、眩しさに目を細めながら、荒く鼻息を吐き、警察官の指示に従った。夏の夜風が、汗ばんだ肌を冷やしていく。私の眼前で屹立していた警察官は体格がよく、いい尻をしていた。(了)



