夕焼け電車の君と


「先に入ってていいよ。同僚と交代して後から向かうね」
「はい」
 終点の駅で僕の手に渡されたのは秘密基地の鍵だった。
「誰にも気付かれなかったね」
「ホントに」
 高田の言う通り、数駅前から人は全く居なくなり運転している高田以外見ていない。
 それにこの終点にも人は居ない。
「さて、誰かに見られる前に行こう」
 僕は鍵をギュッと握りしめて自販機を目指して歩いて行った。

「疲れた~」
 以前と変わらないその部屋に着いた時、思わず声が出た。
 でも、嬉しい。ようやく何にも縛られない自由の身だった。
 たった一週間かもしれない。でも、きっとあの書き置きを置いてきたから、世間体ばかり気にする両親は恥さらしと言って探すことなんてしないだろう。

 それでいい。
 そう思ったはずなのに、胸の奥はなんだか少しだけ苦しかった。

「静かだな」
 まるで自分しかこの世に居ないかのような静けさ。
 今まで見ていた世界のどこよりも静かだった。
 ここに来てから数時間が経った。
 初めてスマホの電源を入れると着信は百件近く入っていた。母、父、兄、担任、塾講師……そして姉さん。
 姉さんからは一つだけ短いメッセージが届いていた。
『瑛、無事なら一度だけ連絡して』
 その一文に胸が痛んだ。
 無事だよと返信しようとするけれどそこで手が止まる。
 なんて返せばいいのか分からなかった。
 『少しだけ自由になりたかっただけだよ。一週間したら帰るから』
 そう文字を打ち込んでは消してを繰り返し、結局そっと画面を閉じて電源を切った。
 その夜は、驚くほど静かだった。
 誰にも勉強しろと言われない。何時に寝ても怒られない。
 明日の小テストを気にしなくていい。塾の課題もしなくていい。なにより、口うるさい両親がいない。
 ベッドに寝転びながら、小さく笑った。
「この生活、最高かも」
 誰もいない部屋で呟いた声は、すぐに消えた。
 深夜、高田が大量の食料を持ってやってきた。
「生きるのに必要なものは揃えてきたよ」
「ありがとうございます」
「しばらくはここにいればいいからね」
 コンビニ弁当、カップ麺、菓子パン、飲み物。
 まるで本当に秘密基地みたいだった。
「学校は大丈夫そう?」
「親が勝手に何とかするはずです。世間体を気にするからきっと病休扱いにされていると思う……」
 投げやりに答えると、高田は優しく笑った。
「そうだな。ゆっくりしよう」
「はい」

 こうしてこの家に来て数日が経った。
 スマホの電源を切り、毎日時間を気にせずに昼前まで眠り、好きなテレビを流し、漫画を沢山読んだ。
 何もしない、何も縛られない時間がこんなにも幸せだなんて知らなかった。
 でも、違和感はほんの小さなことだった。
「あれ……?」
 日中、少し外に出ようと思い軽く身支度をして、玄関に向かう。
 数日ここにいたが人はほとんど通らないので、見られる事は無いだろう。
 そう安心しながら、久しぶりの外に少し緊張しつつ玄関の扉を回す。
 
 何故か鍵が開かなかった。
 ―― ガチャ。
 ―― ガチャガチャ。
「おかしいな……?」
 もう一度回す。何度やっても開かない。
 内側の鍵を確認するが、鍵は開いているので間違っていないはず。
「なんで……」
 その日の夕方、高田がやってきた。
「あの、玄関が開かなくて」
「ああ、そうだね」
 あまりにも自然な返事だった。
「最近この辺は、不審者が出るらしくて」
「……え?」
「危ないから内から開けれないように、外から鍵をかけたんだ」
 僕は冗談だと思いは少し笑った。でも高田の目は真剣だった。
「えっと……冗談ですよね」
「君を守るためだよ」
 高田の声は本気だった。
「……でも、少し外に行くぐらい」
「必要ないだろ?」
「……」
「必要な物は俺が全部持ってくる」
 その瞬間、胸の奥がざわついた。
 けれど、まだ深く考えなかった。
 高田は優しい人だ。助けてくれた人だ……そう思い込もうとした。

 そして一週間後。
「そろそろ帰らないと」
 僕が言うと、笑っていた高田の表情が止まった。
「どうして?」
「どうしてって……一週間の約束」
「家に帰りたいの?」
「……」
「また苦しくなるだけなのに?」
 言葉に詰まる。
 高田はゆっくり近づいた。
「ここでは誰も君を否定しない」
「……」
「君は自由だろ?」
 自由。
 その言葉に違和感を覚えた。
 本当に自由なら、どうして扉は開かないんだろう。
「スマホ返してください」
 高田の目が変わった。
「スマホ……返したら、帰るの?」
「っ」
「瑛は俺を裏切るの?」
 初めて恐怖を感じた。
 助けてくれた優しい人じゃない。
 この人は——
「俺だけが君を守れるのに」
 その笑顔を見た瞬間、ようやく理解した。
 逃げなきゃ。
 
 でも、もう手遅れだった。

 ここに来て一カ月が過ぎた。
 流石に警察もそろそろ動き出しているのでは無いかと、淡い期待を抱いていたが高田の口から聞いたのは信じられないものだった。
「瑛の両親は事件性はないと言って警察への捜索は頼んでいないようだよ」
「え……そんな」
「いいじゃん、これで瑛は自由だ」
「やだ、ここから出たい。家に帰りたい……」
「……出れないよ」
 高田はそう言うと、一階に降りる。
「ま、まって」
「瑛が反省するまでしばらくは来ない。食料と水は寝室のテーブルに置いておくからね」
「行かないで!」
「じゃあね」
 そう言うと高田は玄関の鍵をしめた。
 逃げ出そうにも逃げ出せない。だって僕の足には二階からは出ることができない長さの鎖を付けられていたから。
 昼夜構わず「助けてと」大きな声で叫んだ。でも、人が通らず誰にも気付かれない。
 昼は電気がなくても明るかったが、眩しいぐらいの夕日が沈むと真っ暗になった。
 恐怖と後悔で気が狂いそうだった。
 もう誰にも気付いて貰えない……高田が来なければここで一人孤独に消えて行くのだと毎日考えた。
 居なくなりたいなんて思ってたのに、怖くて怖くて仕方なかった。
 ここに来て数カ月。
 僕は高田の言う通りに行動して会話をする。
 家に居たころと何ら変わりない従順な人間になった。
「瑛、最近よく眠れている?」
「うん。自販機の音がうるさいけど」
「そう? そんなの気になるんだ」
「夜はとても静かなんだ」
「良かったね。誰にも邪魔されない。君は自由だ」
「そうだね」
 高田が嬉しそうに笑うのを見て、僕も作り笑顔をした。
 そんなある日、小さな訪問者がやってきた。
 最初はどこで声がするのかと思っていたら、一階に黒猫がいた。
 どうやら高田が換気のために開けていた窓からの侵入だったみたいだ。
 ネコは小さくニャーと鳴くとじっと階段の下から僕を見ていた。
「おいで……おねがい、行かないで」
 寝室に置いてあったパンとミルクを取りに行くと、小さくちぎったパンにミルクを付け、猫の足元辺りを目掛けて投げた。
 驚いたネコは物陰に避難したが、少しするとスンスンと匂いを嗅いでパクリとそのパンを食べた。
「ほら、おいで」
 次は階段を下った辺りに投げた。
 こうして何度か小さなパンくずを投げて、ようやく二階に黒猫を招待できた。
「かわいい」
 黒猫の方も僕が危害を加えないと思ったのか徐々に近付いてきて、絶望の世界に少し希望が見えたように感じていた。
 
 この小さな来訪者のおかげで、僕の狂いそうになる心を正常に保つことが出来た。
 数週間後にはすっかりこの黒猫も僕に慣れ、三日に一度ぐらいこの部屋まで来てくれるようになった。
「君は本当におりこうさんだね」
―― ニャーン
 嬉しそうに僕に近付いてくる。
「ふふふ、いつか僕が外に出れたら一緒に暮らそうね」
―― ニャー
 まるで僕の言葉を分かっているように返事をするその姿に思わず笑ってしまう。この猫といる時間が唯一で嫌なことも全部忘れることが出来る微かな時間だった。
「あ、そろそろ帰らないとだめだよ。もうすぐアイツが来る」
 了解と言わんばかりに、ニャーンと鳴き耳を立てると静かにドアから出ていった。
「またね」
 しばらくすると高田がきた。
「瑛、寂しかったよね。ごめん」
「いいよ」
 高田の機嫌を損ねないように必死だった。
 それにあの黒猫の存在がバレたら、この家に入れないようにするだろうと思っていたからだ。
 でも、結局この数週間後にはバレてしまい一階の窓を開けて貰えることは無くなった。
 二階の鉄格子が付きの窓から外を見れば、あの黒猫が僕のいる部屋を見ていて悲し気に鳴いてくれていた。

 僕は次第に生きる気力が無くなっていった。