【瑛side】
口を開けば自分の悪いところしか言わない両親に心底嫌気がさしていた。
出来の良い兄と比べられる自分。
そんな家族が大嫌いだった。
雨の匂いがする。
「傘忘れちゃった」
きっとこんな些細な事でも両親は激怒するのだろう。もう何もかもめんどくさかった。
まだ早朝なのに、空はどんよりと暗かった。
人がほとんどいないホームのベンチに座りながら、スマホの画面をぼんやり眺める。
母からの着信履歴とメッセージ。
塾の同級生からの連絡。
そっと画面を閉じると今すぐそのスマホを投げつけてしまいたかった。
全部、どうでもよかった。
青葉に入れば将来は安泰。幸せになれるよと周りの誰もが言った。
大企業の社長をしている父は当たり前だと誇らしげに言う。
母は兄弟揃っての青葉学園を親戚中に自慢していた。
姉さんだけは「瑛の本当にしたいことをすればいいのよ。無理しないで」と言ってくれた。
でも……誰も、自分が毎日吐きそうになりながら学校へ行っていることを知らない。
単線に乗りたくもない電車がもうすぐやって来る。
雨はさっきより随分強まって、ホームまで濡れていく。
視界が滲む……このまま消えてしまえたら楽なのに。
そう思った瞬間、足が滑った。
身体が傾いて、線路が近づく。
終わった。終われた……そう思った時、強い力で腕を掴まれた。
「危ない!!」
「っ」
数秒後ホームへ電車が入る。
激しく咳き込む僕の背中を、誰かが撫でた。
「大丈夫かい」
「あ、ありがとうございます」
「あーびっくりした」
「ホントに……」
顔を上げとそこには運転士の制服を身に着けた男性がいた。
確かよくこの電車を運転している高田という人だ。
「本当に……死ぬところだったな。よかった無事で」
優しい声だった。
その時の僕には、それが救いの声に聞こえた。
でもそれが……地獄の始まりだった。
その日は本当に激しい雨だった。
ホームの屋根を叩く音が、耳の奥まで響いているほどに。
あの後、駅員室の簡易ベッドに座り膝の上で震える手を握りしめていた。
あの時は消えたくなっていたのに、今生きていることを心底喜んでいる自分がいる。
「温かいものでも、飲みな」
目の前に暖かい缶のコーンスープが差し出される。
顔を上げると、そこには先ほど自分を助けた運転士——高田がいた。
まだ二十代ぐらいだろうか。自分とそんなに年が離れている様には見えなかった。 柔らかく笑う高田の目元に、少しだけ警戒していた緊張が解けた。
「……ありがとうございます」
「怖かったな」
その言葉だけで、涙が出そうになった。
自分を心配しているそんな声を聞いたのは姉さん以外では思い出せないほどに、たったそれだけの言葉に、張り詰めていたものが崩れそうになる。
「頑張れ」
「しっかりしろ」
「期待してる」
学校でも家でも塾でも聞こえてくるのは、そんな言葉ばかりだったから。
「親御さん呼ぶか?」
「……っ」
「嫌か」
俺の表情を見ると高田はふっと笑い優しく言った。
小さく頷くと、じゃあ連絡しないよと言ってくれた。
父に知られれば当然叱責される。母には泣かれ、きっと学校では噂になる。
そんな未来しか見えなかった。
「少し休んでいけばいい」
「……でも」
「真面目な子ほど壊れるからな」
高田は穏やかに笑った。
「ありがとうございます」
その言葉に、僕は完全に安心してしまった。
この人は味方だ、と。
「ありがとうございます」
「もういいのか?」
「はい」
お礼を言って次の電車で学校へ行く事にした。
時間はギリギリだけど、青葉の駅前から走ればなんとか遅刻せずに済みそうだ。
「気を付けてね。あ、君さえよかったらまた朝においで」
「えっ」
思ってもいない提案に血が騒いだ。
嬉しかった。
「じゃあ、いってらっしゃい」
「行ってきます」
雨はなかなか止まなかったけれど、心は少し暖かかった。
この日から、高田と徐々に仲良くなった。
きっと違う家に生まれていたら兄はこんな感じだったのだろうと日に日に感じていた。
ある日、終点の先に十数年前に実在していた駅とその近くに使われていない宿舎があることを聞いた。
「それってどんなとこなんですか」
「ん~誰も来ない秘密基地かな」
「うわぁいいな~」
「行ってみる? 実は俺そこの鍵持ってる」
「うん! 行ってみたいです」
日程を合わせるとちょうど明後日なら案内できるとのことだった。
塾なら前日にちゃんと休みを伝えておけば、一日ぐらいサボっても大丈夫だ。
こんなにワクワクしたのはいつ以来だろう。
明後日が来るのを指折り数えていた。
待ち合わせの終点まで後数駅ある。
終点に向かうまでほとんど人は乗らないことに驚きながら、初めて青葉の駅より向こう側に乗った。貸し切りの電車。
確かこのあたりに公立高校が在ったはずだけど、生徒は見かけない。
ドアが開く。
ふと、制服を着た高校生が一番奥の席に腰掛ける。
難しい顔をしながらスマホを見るその姿にドキリと胸が跳ねた。
男でも見惚れる容姿を持っていたからだ。
カッコイイ……思わず僕の心の声が叫んでいた。
でもその高校生は一度もこちらを見ることなく終点の三駅手前で降りていった。
「やばい、一目惚れしたかも……」
彼の事、全然知らないのに。
僕の心はさっきからピンクに色付いていた。
「お疲れ様」
「おつかれさまです」
「言ってたように、終点まで誰も居なかっただろ?」
「そうですね。あ、一人だけ高校の制服着た人を見ました」
「あ~あのイケメン高校生ね」
「有名なんですか?」
「まあね。あれだけかっこよけりゃ運転手の間でも噂になるよ。瑛君も可愛いけどね」
「可愛いはあんまり嬉しくないですよ」
「ははは、ごめんごめん。それに、俺達にもよくお礼を言って降りるしね」
「へぇ……」
もう少し彼の事を聞きたかったが、違う話題になったので俺は高田と並んで人が居ない道を歩いて行った。
「喉乾いてない? 飲む?」
「あ、ありがとうございます」
「変だろこんなところに自販機と街灯」
「確かに」
「まあ、電力は来てるけど街灯の電球は切れたままだし、たまに人も通るから明かりの代わりになるけどね」
何故かそこには街灯と自販機がポツンとあった。
冷たいジュースを二つ買うと自販機近くにひっそりと立っている蔦のかかった建物に着いていた。
頑丈そうな鍵を開けると、中に案内される。
少し埃っぽいが、中は綺麗だった。
「うわぁ、すごい普通の家だ」
「だろ? 外からは人が住んでいるなんて思われない。秘密基地なんだ」
「これ高田さんの家?」
「家は別にあるから別荘みたいなものだよ」
「いいな~ここでの暮らしは自由そう」
「まあね」
高田は笑いながら二階建ての元職員宿舎を案内してくれた。
「さて電車も来るしそろそろ帰ろうか」
「もうそんな時間か。帰りたくないな……」
苦笑いする高田と来た道を引き返す。
辺りはすっかり暗くなっていて、本当に自販機の街灯しか無いと思うほどだった。
「しかし、瑛君の親御さんも相当ひどいね」
「本当に。家族の中で唯一の味方は姉さんだけです」
「そっか」
「あーあ。自由が欲しいです」
「じゃあ、プチ家出をしてみたら?」
「えっ」
家出をするなんて考えたことも無かった僕は驚いた。
「今の宿舎俺以外は来ないし。そもそも、あまり人も来ない」
「でも」
「生活に必要なものは最低限あるから、そこで少し潜んでいればいいんじゃない」
本当にそんなことが叶うのだろうか。それにもしバレたら高田さんも罪に問われるんじゃないかな。
「か、考えとく」
「うん。一週間もしたら帰ったらいいよ」
「そうだね」
そこからは連絡先を交換して駅まで終点まで送ってくれた。
帰りの車内では高田のセリフが木霊する。
僕、自由になりたい。
こうして僕は高田に言われるがままに、数日後書き置きを残して家を出た。
本当は誰にも言わない予定だったけれど、その日の夕方たまたま姉さんとあったので友達の家にしばらく行くと言って家を出た。
机の上に書き置きを残したまま。
両親も少しは僕の心配してくれるのかな……そんなあるはずもない淡い期待を抱きながら高田の運転する電車にマスクと眼鏡、帽子を被り変装して乗り込んだ。
終点までの長い車内。自然と目はあの高校生を探していた。
でも、彼を見かけることは無かった。
口を開けば自分の悪いところしか言わない両親に心底嫌気がさしていた。
出来の良い兄と比べられる自分。
そんな家族が大嫌いだった。
雨の匂いがする。
「傘忘れちゃった」
きっとこんな些細な事でも両親は激怒するのだろう。もう何もかもめんどくさかった。
まだ早朝なのに、空はどんよりと暗かった。
人がほとんどいないホームのベンチに座りながら、スマホの画面をぼんやり眺める。
母からの着信履歴とメッセージ。
塾の同級生からの連絡。
そっと画面を閉じると今すぐそのスマホを投げつけてしまいたかった。
全部、どうでもよかった。
青葉に入れば将来は安泰。幸せになれるよと周りの誰もが言った。
大企業の社長をしている父は当たり前だと誇らしげに言う。
母は兄弟揃っての青葉学園を親戚中に自慢していた。
姉さんだけは「瑛の本当にしたいことをすればいいのよ。無理しないで」と言ってくれた。
でも……誰も、自分が毎日吐きそうになりながら学校へ行っていることを知らない。
単線に乗りたくもない電車がもうすぐやって来る。
雨はさっきより随分強まって、ホームまで濡れていく。
視界が滲む……このまま消えてしまえたら楽なのに。
そう思った瞬間、足が滑った。
身体が傾いて、線路が近づく。
終わった。終われた……そう思った時、強い力で腕を掴まれた。
「危ない!!」
「っ」
数秒後ホームへ電車が入る。
激しく咳き込む僕の背中を、誰かが撫でた。
「大丈夫かい」
「あ、ありがとうございます」
「あーびっくりした」
「ホントに……」
顔を上げとそこには運転士の制服を身に着けた男性がいた。
確かよくこの電車を運転している高田という人だ。
「本当に……死ぬところだったな。よかった無事で」
優しい声だった。
その時の僕には、それが救いの声に聞こえた。
でもそれが……地獄の始まりだった。
その日は本当に激しい雨だった。
ホームの屋根を叩く音が、耳の奥まで響いているほどに。
あの後、駅員室の簡易ベッドに座り膝の上で震える手を握りしめていた。
あの時は消えたくなっていたのに、今生きていることを心底喜んでいる自分がいる。
「温かいものでも、飲みな」
目の前に暖かい缶のコーンスープが差し出される。
顔を上げると、そこには先ほど自分を助けた運転士——高田がいた。
まだ二十代ぐらいだろうか。自分とそんなに年が離れている様には見えなかった。 柔らかく笑う高田の目元に、少しだけ警戒していた緊張が解けた。
「……ありがとうございます」
「怖かったな」
その言葉だけで、涙が出そうになった。
自分を心配しているそんな声を聞いたのは姉さん以外では思い出せないほどに、たったそれだけの言葉に、張り詰めていたものが崩れそうになる。
「頑張れ」
「しっかりしろ」
「期待してる」
学校でも家でも塾でも聞こえてくるのは、そんな言葉ばかりだったから。
「親御さん呼ぶか?」
「……っ」
「嫌か」
俺の表情を見ると高田はふっと笑い優しく言った。
小さく頷くと、じゃあ連絡しないよと言ってくれた。
父に知られれば当然叱責される。母には泣かれ、きっと学校では噂になる。
そんな未来しか見えなかった。
「少し休んでいけばいい」
「……でも」
「真面目な子ほど壊れるからな」
高田は穏やかに笑った。
「ありがとうございます」
その言葉に、僕は完全に安心してしまった。
この人は味方だ、と。
「ありがとうございます」
「もういいのか?」
「はい」
お礼を言って次の電車で学校へ行く事にした。
時間はギリギリだけど、青葉の駅前から走ればなんとか遅刻せずに済みそうだ。
「気を付けてね。あ、君さえよかったらまた朝においで」
「えっ」
思ってもいない提案に血が騒いだ。
嬉しかった。
「じゃあ、いってらっしゃい」
「行ってきます」
雨はなかなか止まなかったけれど、心は少し暖かかった。
この日から、高田と徐々に仲良くなった。
きっと違う家に生まれていたら兄はこんな感じだったのだろうと日に日に感じていた。
ある日、終点の先に十数年前に実在していた駅とその近くに使われていない宿舎があることを聞いた。
「それってどんなとこなんですか」
「ん~誰も来ない秘密基地かな」
「うわぁいいな~」
「行ってみる? 実は俺そこの鍵持ってる」
「うん! 行ってみたいです」
日程を合わせるとちょうど明後日なら案内できるとのことだった。
塾なら前日にちゃんと休みを伝えておけば、一日ぐらいサボっても大丈夫だ。
こんなにワクワクしたのはいつ以来だろう。
明後日が来るのを指折り数えていた。
待ち合わせの終点まで後数駅ある。
終点に向かうまでほとんど人は乗らないことに驚きながら、初めて青葉の駅より向こう側に乗った。貸し切りの電車。
確かこのあたりに公立高校が在ったはずだけど、生徒は見かけない。
ドアが開く。
ふと、制服を着た高校生が一番奥の席に腰掛ける。
難しい顔をしながらスマホを見るその姿にドキリと胸が跳ねた。
男でも見惚れる容姿を持っていたからだ。
カッコイイ……思わず僕の心の声が叫んでいた。
でもその高校生は一度もこちらを見ることなく終点の三駅手前で降りていった。
「やばい、一目惚れしたかも……」
彼の事、全然知らないのに。
僕の心はさっきからピンクに色付いていた。
「お疲れ様」
「おつかれさまです」
「言ってたように、終点まで誰も居なかっただろ?」
「そうですね。あ、一人だけ高校の制服着た人を見ました」
「あ~あのイケメン高校生ね」
「有名なんですか?」
「まあね。あれだけかっこよけりゃ運転手の間でも噂になるよ。瑛君も可愛いけどね」
「可愛いはあんまり嬉しくないですよ」
「ははは、ごめんごめん。それに、俺達にもよくお礼を言って降りるしね」
「へぇ……」
もう少し彼の事を聞きたかったが、違う話題になったので俺は高田と並んで人が居ない道を歩いて行った。
「喉乾いてない? 飲む?」
「あ、ありがとうございます」
「変だろこんなところに自販機と街灯」
「確かに」
「まあ、電力は来てるけど街灯の電球は切れたままだし、たまに人も通るから明かりの代わりになるけどね」
何故かそこには街灯と自販機がポツンとあった。
冷たいジュースを二つ買うと自販機近くにひっそりと立っている蔦のかかった建物に着いていた。
頑丈そうな鍵を開けると、中に案内される。
少し埃っぽいが、中は綺麗だった。
「うわぁ、すごい普通の家だ」
「だろ? 外からは人が住んでいるなんて思われない。秘密基地なんだ」
「これ高田さんの家?」
「家は別にあるから別荘みたいなものだよ」
「いいな~ここでの暮らしは自由そう」
「まあね」
高田は笑いながら二階建ての元職員宿舎を案内してくれた。
「さて電車も来るしそろそろ帰ろうか」
「もうそんな時間か。帰りたくないな……」
苦笑いする高田と来た道を引き返す。
辺りはすっかり暗くなっていて、本当に自販機の街灯しか無いと思うほどだった。
「しかし、瑛君の親御さんも相当ひどいね」
「本当に。家族の中で唯一の味方は姉さんだけです」
「そっか」
「あーあ。自由が欲しいです」
「じゃあ、プチ家出をしてみたら?」
「えっ」
家出をするなんて考えたことも無かった僕は驚いた。
「今の宿舎俺以外は来ないし。そもそも、あまり人も来ない」
「でも」
「生活に必要なものは最低限あるから、そこで少し潜んでいればいいんじゃない」
本当にそんなことが叶うのだろうか。それにもしバレたら高田さんも罪に問われるんじゃないかな。
「か、考えとく」
「うん。一週間もしたら帰ったらいいよ」
「そうだね」
そこからは連絡先を交換して駅まで終点まで送ってくれた。
帰りの車内では高田のセリフが木霊する。
僕、自由になりたい。
こうして僕は高田に言われるがままに、数日後書き置きを残して家を出た。
本当は誰にも言わない予定だったけれど、その日の夕方たまたま姉さんとあったので友達の家にしばらく行くと言って家を出た。
机の上に書き置きを残したまま。
両親も少しは僕の心配してくれるのかな……そんなあるはずもない淡い期待を抱きながら高田の運転する電車にマスクと眼鏡、帽子を被り変装して乗り込んだ。
終点までの長い車内。自然と目はあの高校生を探していた。
でも、彼を見かけることは無かった。
