持久走の嘘代表「一緒にゴールしようぜ」と言ってきた男子が、そのまま私の人生全部の隣にいた話

 そんな――懐かしい夢を見ていた。

 窓から見える空は、やけに高くて、やけに澄んでいて。
 持久走が嫌で嫌で仕方なくて。
 勝手に話しかけてきた、意味わかんない自認武士の男に振り回されて。

 受験でも。
 就活でも。
 あの日のプロポーズでも。

 何度も何度も、あいつは笑って言ったのだ。

『一緒にゴールしようぜ』

 だから私は、もうとっくに信じていた。
 この先もずっと。
 どんな道でも、どんな景色でも。
 隣には彼がいるんだって。

 ――なのに。

 見上げた天井は、白くて、何の飾り気もなかった。
 高層ビルの最上階で見た、あの宝石みたいな夜景とはまるで違う。
 綺麗でも、特別でもない。
 ただ無機質で、ただ静かな、白い天井。

 耳に届くのは、規則的な機械音。
 ピッ、ピッ、と、やけに几帳面な音が、静まり返った部屋に淡々と響いていた。

 ……ああ。
 そっか。

 私、もう――。

「結衣……!」

 掠れた声と一緒に、ぎゅっと手を握られる。
 重い瞼をゆっくり動かすと、そこには今も隣にいる彼がいた。

 もう“速水”なんて呼び方じゃない。
 何十年も前から、私の旦那さんで。
 私の人生の隣を、当たり前のような顔でずっと歩いてきた人。

 なのに今は、その顔がひどく泣きそうで、でも泣くまいとしていて。
 笑おうとしてるくせに、全然笑えてなくて。

 そんな顔、しないでよ。

 私は少しだけ指先に力を込める。
 それだけで精一杯だった。

「ごめん……ね……」
「無理に喋るな」

 即答された言葉は、震えていた。
 強く言っているつもりでも、全然強くなんかなくて。
 ああ、本当に困ってるんだなってわかってしまう。

「もういい。喋んな。いいから……」

 よくないよ。
 全然、よくない。

 だって私。
 言わなきゃいけないことがあるのに。

「いっしょ、に……」

 喉が痛い。
 息も、ちゃんと続かない。
 なのに、言わなきゃと思った。

 だってあなたは、あの日からずっと言ってくれてたでしょう。

 持久走で。
 受験で。
 就活で。
 プロポーズで。

 何回も何回も、呆れるくらい真っ直ぐに。

「一緒に……ゴール……しよ、って……」
「結衣」
「わた、しも……いった、のに……」

 一緒にゴールしよっか、って。
 あの夜、ちゃんと言ったのに。
 ちゃんと返したのに。

 なのに。

「いっしょ、に……できなく、て……」

 途切れ途切れの声は、情けないくらい弱かった。
 泣きたくなかったのに、視界がぼやける。

 違う。
 こんなの、違う。

 持久走のとき、彼は置いていかずに私の隣にいてくれたのに。
 受験のときも、就活のときも、何だかんだで隣にいてくれて。
 ここまで来たのに。

 最後だけ、私が先に行くなんて。
 そんなの、ずるじゃん。

「やだ……よ……」

 老いぼれの口から出たのに、子供みたいな声だった。

「置いて……いく、の……やだぁ……」

 旦那は、握っていた私の手を両手で包み込んだ。
 壊れ物に触るみたいに、そっと。けれど必死に。

「結衣」

 その声を聞いただけで、胸が苦しくなる。

「大丈夫だ」

 大丈夫なわけないでしょうが。
 何年一緒にいると思ってるのよ。
 その“大丈夫”が、自分に言い聞かせてるだけの声だってくらい、すぐわかる。

「そう遠くないうちに、俺も行くから」

 ゆっくりと、噛みしめるように。
 でも、はっきりと。
 私の旦那はそう言った。

「だから……先に行って、待っててくれ」

 息が、止まりそうになった。

 その言葉は、優しいのに。
 優しすぎるのに。
 どうしようもなく、残酷だった。

 先に行って。
 待っててくれ。

 いやだよ。
 ずるいよ。

 あなたは、ずっと私を待っていてくれたじゃない。
 ちゃんと私の歩幅に合わせてくれたじゃない。
 最後まで、隣で一緒にゴールしようとしてくれたじゃない。

 なのに今度は、私が先?
 私が待つ側?

 そんなの、簡単に受け入れられるわけない。

 でも。

 この人は、きっと本当に来るんだろうなって。
 そんな、どうしようもない確信があった。

 だって私の旦那は、足が速いもの。

 三キロ走ってへばってた私に、いつのまにか追いついて。
 受験でも、就活でも、人生の節目全部で、結局ちゃんと隣に並んできた男だ。

 だからきっと、どれだけ遠くても。
 どれだけ長い道でも。
 どれだけ向こう岸が霞んで見えても。

 この人は、また当たり前のような顔をして追いついてくる。

 川を渡り切る、その前に。
 息を切らせるでもなく、昔と同じ笑顔のままで。
 そしてきっと、こう言うのだ。

『一緒にゴールしようぜ』

 って。

「……ほんと……」

 涙が、こめかみを伝って落ちた。

「ゴール……馬鹿……」

 旦那が、泣き笑いみたいな顔をする。
 その顔があまりにもいつも通りで、私は少しだけ安心した。

「あぁ、そうだな」

 あなたは、いつだってそうだった。
 勝手で。
 強引で。
 意味わかんなくて。

 でも、絶対に私をひとりにはしなかった。

 ずっと、そうだった。
 胸の奥に、長い長い年月をかけて積もってきたものが、ふっとほどける。

「じゃあ……まって、る……」

 やっとの思いでそう言うと、彼は何度も頷いた。
 子供みたいに、ぼろぼろ泣きながら。
 それでも笑おうとして、ぐちゃぐちゃの顔で。

「ああ。すぐ追いつく」

 すぐ、なんて。
 そんなこと、信じていいのか分からない。

 でも、あの日から今まで。
 この人が言った“ゴール”の約束は、一度だって外れなかったから。

 だから、今回も信じてあげる。
 それに、私は足が遅いから。
 先に行っても、しばらくはモタモタしてるから。

 重たくなっていく瞼の向こうで、旦那の手の温度だけが、最後まで確かだった。
 少しだけ先に、ゴールテープの手前で待つだけなんだ。

 だから。

「……いっしょ、に……ゴール……しよ……ね……」

 最後にそう呟いたとき。
 握られた手が、泣きたいくらい強く、優しく、私を掴んだ気がした。


 あなたと一緒に走れて、とっても幸せでした。