大学生時代にお世話になった、一人暮らしのアパートを退去する日がやってきた。
はじめて自分の好みで家具や家電を決めて、色味を揃えて可愛くした部屋も、物がなくなってしまえば無機質なただの箱だ。寂寥感をおぼえる。
ふと、備え付けのロッカーを開けた時、そこにはぽつりと何かが残っていた。ゆっくりと拾い上げる。
本だった。
どうしてこんなところに、と一瞬頭をよぎったけれど、表紙をみた直後、一気に記憶が溢れ出す。
高校生時代の淡い気持ちも、この本を本棚から抜き出してこのロッカーに隠すように秘めた気持ちも、何もかも、まるで昨日のことのように思い起こすことができた。
記憶というのは五感に強く結びついていて、声や匂いが、記憶を甦らせるきっかけになることが多い。それと同じで、わたしの記憶のトリガーは本だった。
『わたし、忘れないと思う。羅斗くんと、この映画、観れたこと』
記憶の奥深くで、わたしの声がする。
嫌われないようにと必死に笑っていた自分も、彼のためにと何かを作っていた健気な自分も、もう遠い過去の記憶なのに、鮮明に思い出されて、ほんの少しだけ愛おしくなった。
本のページをめくる。そのとき、何かがひらりと宙を舞って、ひら、ひら、と空中をさまよってから床に落ちた。
手を伸ばして拾い上げる。もう霞んで、字が消えかかった、映画の半券だった。日付のところは完全に消えてなくなっていて、わからない。
けれど、『高校生 1000円』という表記だけはかすかに残っていた。
この半券には、1000円の価値があったらしい。きっと当時の自分には、それ以上の価値があったのだろうけど。
自然と、半券を持つ手に力がこもる。
「……高校、か。思い出しちゃった」
窓から風が入ってくる。春の匂いがした。
どこからか、彼の声がきこえる。
──────────────
「本、好きなんだね」
はじまりは、彼の一言だった。
平日の昼下がり。突然聞こえてきた声に、思わず読んでいた文庫本から視線をあげる。
声の主は、隣の席の男の子だった。黒髪がさらりとなびいている。春の日の出来事だった。
「あー……うん」
小さく頷く。もう少し明るい声が出せたらよかった──と後悔するのはいつものことだ。
クラス替えをして、1週間。まだ名前が一致していない。
文理選択でクラスが混ざったせいで、仲がいい友達とはクラスが分かれてしまった。休み時間、積極的に話すような友達はいないから、かわりに本を広げる。
中学生までは周りの目を気にしていて、【ドクショカ】なんていじられたりするのが嫌だったから控えていたけれど、高校生にもなればそんな低レベルのいじりをする人間は滅多にいなくなる。
友達がいなくても本を読んでいればわたしはいつでも平気だった。
読書、という行為は、周りを寄せ付けない力を持っていると思う。なんというか、話しかけづらい雰囲気がある。実際に、わたしが本を読んでいる時に、話しかけてきた人は今までにいない。
『本、好きなんだね』
だから、いきなり話しかけられて、驚くと同時にほんの少しの興味が湧いた。
「あなたも……好きなの? 本」
文庫本を閉じたページに指を挟みながら聞くと、彼は少し目を細めて嬉しそうに微笑んだ。真顔だと綺麗な顔をしているのに、笑うとかわいらしさがにじむ。
「うん。僕も好きで読むから、何読んでるんだろうって、気になった」
「……恋愛小説だから、あなたはあんまり読まない種類かも」
「僕、なんでも読むから大丈夫だよ。あ、教えたくなかったら、無理に言わなくていいよ」
人が読んでいる本をきくのは、少々躊躇う。読書には嗜好が顕著に表れると思っているから、愛読書はその人の鏡のようなものだというのがわたしの持論だ。だから、同じような考え方をして、クッション言葉を挟む彼を、純粋に好ましく思ってしまった。
読んでいる本を伝えると、「もしかして、〇〇の作家さん?」とタイトル名が飛びだす。同じ作家の、読んだことがある本のタイトルが次々と並ぶ、そんな体験は生まれて初めてで、そんな彼を意識しはじめるのに、そう時間はかからなかった。
それとなくクラス表を見て、名前を知った。羅斗と書いて、ラト、と読むらしい。一風変わった名前が、彼の持つ独特な雰囲気によく似合っていた。
連絡先を交換して、メッセージのやり取りをするようになった。時には夜遅くまで会話をすることもあって、次の日はふたり揃って寝不足だった。彼の寝不足の理由を知っているのは、クラスの中でわたしひとりだけであること。その優越感に浸りながら、授業を受けて、たまに話して、帰宅する。そしてまたメッセージのやり取りをする。そんな日々をこなすなかで、わたしたちの距離はしだいに縮まっていった。
『このまえ、きみが読んでた本、買いました』
そんな文言とともに、単行本の写真が送られてくる。わたしが好きだと言ったものに、彼も触れてくれることがたまらなくうれしくて、そんな彼の好きなものをわたしも好きになりたいと思った。本だけではなく、音楽も、色も、価値観も、すべてがパズルみたいにハマっていって、まるでそうなることが決まっていたかのように、わたしたちは恋人になった。
好きです、付き合ってください、という告白はシンプルで、変に言葉を飾らないところが彼らしいなと思った。こくりと頷いた時に、うれしそうに顔を綻ばせた彼の表情を、いまでも鮮明に覚えている。
同じクラスだったけれど、わたしたちは積極的に関わったり、付き合っていることをアピールすることはなかった。ただ、ひそやかに、つつましく、たしかに恋をしていた。
「びっくりしたよ。声かけても全然起きないから、焦った」
「……ゆすってもらわないと起きないの、わたし」
「それは困ったな。昨夜も遅くまで本読んでたの?」
「うん。どうしても、読み切ってしまいたくて」
放課後、一緒に歩きながらそんな会話をする。少し近づけば手が触れてしまいそうな距離感がもどかしいのに、心地よい。
今日は昨夜遅くまで本を読んでいたせいで寝不足だったから、授業中に当てられていたことも、羅斗くんが声をかけてくれていたことも気が付かなかった。
「気持ちはわかるけど、体壊しちゃだめだからね」
「うん。気をつけるね」
彼から借りている本を、できるだけはやく読んで感想を共有したかった。感想を伝え合うとき、彼は本当にうれしそうな顔をする。教室ではあまり笑うことはなくて、表情がころころ変わるわけではないのに、本の話をしているときだけは、心の底から楽しそうな顔で笑うのだ。
わたし以外は見ることのできないその顔を見たくて、彼に笑ってほしくて、彼のおすすめしてくれた本を毎晩読む。それが何よりも至福のひとときであり、本を読んでいる時間は、離れていても彼とつながっていられるような気がした。
「綺美ちゃん」
駐輪場で、彼がわたしの名前を呼ぶ。普段は、彼が自転車を押して、わたしがその隣を歩いて下校する。けれど、今日の羅斗くんは少し唇の端をあげて、いたずらっこのような笑顔を見せた。
「おいで」
ぽん、と彼が自転車の荷台に手を当てる。しばらくまばたきをしていると、「今日歩くのはたぶん暑いと思うからさ」と、羅斗くんの言葉でようやく思考回路が追いついた。
「……うん」
自転車の二人乗りは──と散々聞いた忠告も、今はまったくわたしの選択を止めなかった。
迷いなく、彼の後ろに乗る。羅斗くんは静かに笑みを浮かべたあとで、ゆっくりペダルを漕ぎ出した。
「ちゃんとつかまっててね、綺美ちゃん」
「う、うん」
震える手で、ぎゅっと彼に抱きつく。どく、どく、と鼓動がきこえる。はたしてこれは、どちらのものなんだろう。
海沿いの道を走る。頬に当たる風が気持ちよかった。
「なんかさ、小説みたいだよね」
「え?」
「綺美ちゃんが好きな小説のワンシーンみたいじゃない?」
「うん、それ、思ってた」
海沿いを二人乗りするシーンは、わたしのお気に入りの小説に出てくるのだ。羅斗くんにはじめておすすめした小説。
「もしかして、それ意識してくれたの?」
「ん? まーね」
くすりと笑みを洩らして、それ以上はなにも言わない羅斗くん。制服を着て、彼氏と二人乗りをして風を受けている。物語で読んではいたけれど、絶対に経験することはないと思っていた。それなのに、彼はそれを予告もせずに、叶えてくれた。嫌味もなく、あっさりと。
彼の髪がかぜになびいている。わたしの黒髪も後ろに引っ張られるようにして風に流れている。
涼しいはずなのにくっついている体はやけに熱くて、鼻腔をくすぐる潮の香りと、照らす太陽の暑さと、はてしなく広がる海の青さと、彼に抱いたこの強い感情を、きっとわたしは何度も何度も思い出すのだろう、と予感した。
✿
付き合って半年が経っても、わたしたちの関係は続いていた。
連絡の頻度が大きく減ることもなく、お互いに無理のない範囲でメッセージのやり取りをしていた。半年という節目に、彼はスターチスの花をプレゼントしてくれた。記念日の誕生花なのだと少し照れたように笑う彼が、とても愛おしかった。
ある日、いつものようにSNSを見ていると、画面を見つめて思わずスクロールする指が止まった。
映画化決定!という広告が流れてきた瞬間、驚くほどのはやさで文字を打っていた。ポン、という送信音のあとすぐに既読がつく。
うれしくて、しかたがなかった。
わたしがおすすめした本が、ついに映画化するという知らせだった。
まさか自分の好きな本が、彼とのきっかけになった本が、映像と音になって、また多くの人に届くなんて。どくどくと鼓動が高鳴る。ワクワクしていた。このたかぶる感情を、はやく彼に伝えたかった。
ピコン、と通知が届く。
【一緒に観にいこっか】
その一言で、身体が一気に熱くなる。映画公開は、来年。一緒に、という安直な響きに、こんなにも心を揺れ動かされる。
よかったね、とか、おめでとう、という言葉を想像していた。けれど、彼はそうではなく、未来の約束を提案してくれた。まるで、その未来にわたしがいることが当然だとでもいうように。それが嬉しくて、心がほわほわとうかんでいるみたいだった。
────うん。羅斗くんといっしょにみにいきたい。
送信して、少ししてから、ほんの少しだけ唇を噛んだ。自分の感情が迷子になりそうだった。彼との未来を信じていたいのに、それとは相反して膨らんでいく不安に、たまに怖くなる。けれどきっと大丈夫だと自分に言い聞かせて、小さく深呼吸をした。
【来週の花火大会、たのしみだね】
スマホの上部に、通知が届く。うん、と返信しようとした手が止まった。
いつだってそう。人間はみんなそう。
好きになれば好きになるほど、こわくなる。
『ばいばい、綺美』
ふいに、冷たい声と凍りつくような視線がフラッシュバックして、ひどい頭痛に襲われた。
メッセージ送信相手の、羅斗、と表示された文字を目でなぞる。浅い呼吸を何度も繰り返して、その場にうずくまる。
人が自分の前から去る、という決断をしたとき、わたしはそれに傷つく。もう会わなくてもいいと、言われた気がするから。わたしと相手の気持ちの違いが露呈する。そのときの、鈍器で殴られたような衝撃と、そのあとに襲ってくる、ぽっかりと穴が開いてしまったような空虚さに、わたしはもう二度と、耐えることができない。
「……羅斗くん……っ」
この地獄から、わたしはいつ抜け出せるのだろうか。
──✾──
夏祭りは、予想以上の人でにぎわっていた。何組ものカップルと通り過ぎる。みんな、色とりどりの浴衣を着ていた。
「綺美ちゃん、人酔いしてない? こっちでかき氷食べながら話そっか」
羅斗くんがわたしの顔をのぞきこんだ。こういう人が多い場所は、正直あまり得意ではない。けれど、羅斗くんとなら、行けるような気がしたのだ。羅斗くんには何も言っていないのに、まるですべてお見通しであるかのように気遣ってくれる。
ふたりで屋台を離れて、土手のほうへと歩く。その間も羅斗くんは2人分のかき氷を持ってくれた。
「このへんにしよっか」
並んで座る。はいどうぞ、と差し出されたかき氷を受け取った。わたしがいちごで、彼はラムネ。赤と緑のコントラストが鮮やかだった。
口に含むと、あっという間に溶けて消えた。シロップが甘い。かき氷なんて、久しぶりに食べた。
ざく、ざく、と音をたてながら食べていると、ふいに宙を見つめた羅斗くんが「あのさ」とわたしのほうを向いた。まっすぐな目がわたしを射抜くように見つめている。
「……綺美ちゃんってさ、すごく慎重……っていうか、周りの人にもずっとバリア張ってるじゃん」
「え」
「仲良くはしてるんだけど、別に誰とも仲良くない、みたいな。それって、なんで」
純粋な目をしてきいてくる羅斗くんに、思わず息が止まりそうになる。まさか、見破られているなんて思わなかったから。
「……」
固まっていると、「あ、いや」と羅斗くんが焦ったように続けた。
「変なこときいちゃってたらごめん。ただ、気になって」
「あ、ううん。どうして、わかったの」
今までずっと、誰にもバレたことがないのに。きっと、彼の前でだってうまくやっていたはずだ。それなのに、どうして気づかれてしまったのだろう。
わたしは学校で、あまり深い関わりというものをしてこなかった。だから、こんなにも深く関わったのは羅斗くんがはじめてで、一緒にお弁当を食べる友達も、移動教室をともにする友達もいるけれど、関係が近くなりすぎることを避けていた。
けれど、自分から近づきすぎないというだけで、話しかけられれば応じるし、日常生活で支障が出たことはなかった。だから、誰にも気づかれたことなんて、なかったのに。
「ほんとに、なんとなくとしか言えないけど。やっぱ、ずっと見てるからさ、綺美ちゃんのこと。誰にでも優しいんだけど、どことなく距離があるっていうかさ。不思議だなって思って見てたから」
「……なんでだろ。中学の時から、ずっとなんだよね」
小さく目を伏せた羅斗くんが、形のいい唇をゆっくりと開く。
「……傷つくのがこわい、とか?」
耳を突き抜けた声が痛かった。まるで心臓の脆い部分を突かれたような衝撃が走る。え、と声が洩れたきり、言葉が続かなくなる。耳に蓋をされたみたいだった。
「人ってさ、関わる限り傷つくじゃん。関係が近くなればなるほど、傷つけられる確率もあがって、こわくなる。それは、言葉の攻撃もあるかもしれないけど、綺美ちゃんの場合は、違うよね」
確信を持つようにたっぷりと水分を含んだ声で、彼が続ける。それはわたしがどこかで最も恐れていて、最も誰かに言って欲しかった言葉だった。
「離れられたときがこわいんだよね、たぶん」
関係性が濃くなって、仲良くなって、心を開いた時に、人は勝手にいなくなる。そこではじめて、自分が相手にとっていちばんではなかったことを痛感する。わたしにとっては、いちばんの存在だったとしても。
彼の手がわたしに伸びてきて、ゆっくりとした動作でわたしの手を包み込んだ。
そのぬくもりになんだかすべてを許されているような気持ちになって、ついに言葉がこぼれる。
わたしは、気づかれないようにと思いながら、本当は、誰かに気づいてほしかったのかもしれない。彼に見破られるこの日を、ずっとどこかで、待っていたのかもしれない。
「わたしの家はね……親が、離婚してて。昔は仲良かったと思うんだけど、中学の時に母親が家を出ていったの」
うん、と羅斗くんの目が細くなる。柔らかな視線だけで、聞くよ、と言われているみたいだった。
「お父さんとお母さん、愛し合って結婚したはずなのに、離れる時は他人よりも冷たかった。家でも話さないし、居心地が悪くて、人ってこんなに態度が変わるんだって思ったら、こわかった」
「……うん」
「あとは……お母さん、わたしを置いていくことに何も躊躇がないんだってそのとき……結構、ショックを受けたの。好きだったから。好きだったけど……その分、離れられた時が苦しくて。だから、人ともあまり関わらないようにしてた。またお母さんの時みたいに離れられたら……つらいから」
「ごめんね、こんな重たい話。花火大会の日に言うことじゃな……」
「ううん、違うよ。綺美ちゃん」
羅斗くんがゆっくりと首を振る。彼はわたしに対しても、周囲に対しても、ひどく丁寧な仕草を見せるから、その動作ひとつひとつに目を奪われてしまう。
「教えてくれてありがとう」
ドンっと、花火が打ちあがる。ずしりと響く心音は、花火のせいなのか、羅斗くんのせいなのか、もうわからなくなった。
羅斗君の視線が夜空に流れる。わたしもつられて振り向くと、鮮烈な赤い花火が空に大きく咲いていた。
「赤だ……」
思わず、声が洩れる。
羅斗くんは、わたしの心をいとも簡単に潜り抜けてくる。昔から、誰にも見せたことのない感情を、彼にはなんなく差し出してしまう。そんな不思議な力があった。
特別だ、と無性に思ってしまう。こんなに心が揺れ動かされたのも、本当の自分を見せることができたのも、彼がはじめてだったから。人間は、みな、はじめてに弱い。出会って世界が変わっていく瞬間を知ってしまったら、もう、知る前には戻れないのだ。
まっさらな状態の場所に、彼が色をつけてしまう。どんなに時間が経っても、薄くかすんでしまったとしても、決して消えることはない。はじめて、わたしの世界に入ってきた人だから。衝撃的に、鮮明に、記憶に刻まれる。
花火を見上げていると、ふいに右手がぬくもりに包まれた。驚いて横を向くと、ふわりと笑った彼の顔もまた赤い光を受けていた。
「また来年も、一緒に来ようね」
彼が微笑む。
来年。映画が公開されて、その次に訪れる夏。はてしなく遠く感じてしまう。
わたしは、彼といられるだろうか。
昔からずっと根付いた思考は、なかなか変えることができない。
彼の笑顔をみるたびに、相反して心が痛くなる。
──来年、わたしは羅斗くんの隣にはもういられない気がする。
もう、ずっとだ。漠然と、そんなふうに考えている。
なぜかはわからないのに、屈託のない笑みを向けられるたびに、不安になる。これが、最初で最後の花火になるかもしれない。そう思って目と記憶に焼き付けておく。そういうせつない予感は、だいたい当たってしまうから、つないだ手に力を込めた。
彼とずっと一緒にいいられても、そうじゃなくても、きっとわたしはこの光景を忘れることはないのだろう。
「……来れるといいな」
そんな曖昧な返答に、彼は少し眉を寄せて「来るでしょ」と笑った。
離れてしまわないようにとひたすらに願っていた────18の夏。
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本のページが風でめくれた。ぱらぱらと音をたてる。
大きなスクリーンを前にして、映画の開始をふたりで待っていたあの時間の温度はもう、思い出せなくなってしまった。
けれど。
『わたし、忘れないと思う。羅斗くんと、この映画、観れたこと』
映画が終わり、少しずつ明るくなっていく場内で、となりにいた羅斗くんに告げた声だけは、今でもしばしば思い出すことがある。彼の目がわたしを見つめていて、ぞろぞろと退出していくお客さんにまぎれて、そっと触れた唇の熱だけを置いて、彼はわたしの前から消えた。
今となっては、受験がきっかけだったのか、それとも受験を言い訳にしたただのすれ違いだったのか、もっとちゃんと向き合えていれば終わりが来ることはなかったのか、そもそもこういう結末をむかえるように決められていたのかはわからない。
少しずつ歯車がずれていって、お互いがお互いを大切にできなくなっていった。何も言えずにお互い黙る時間が増えた。会いたいのに、余裕がなくて、離れたくないという思いが強すぎて彼をしばってしまった。
好きという思いが強すぎて、つらい時間が増えた。悲しい顔をしてばかりいるわたしを見て、彼もまた、同じようにマイナスの気持ちにつつまれていく。終盤は、彼も、わたしに当初の優しさを向ける余裕がなかったように思えた。
『ごめんね……もう、終わりにしよう。嫌いになってしまう前に』
散々すれ違って、掛け違えて、お互いの気持ちが読めなかったのに、ふたりとも、最後の気持ちだけは同じだった。
どんなに過去を偲んだところで、あの花火大会も、映画も、もう二度と経験することはできない。
だからわたしはたった一度きりを、たいせつに、大切に記憶に残そうとしていた。
また一緒に、と約束した花火大会には、行かなかった。行けなかった。
彼の地元の祭りだから、もう、行く理由もなくなってしまったからだ。
わたしの脳裏には打ち上がる赤い花火と、触れた手のぬくもりだけがわずかに残っている。けれどそれも、花火残像のように、夜空に痕を残しては、風に流れて消えてゆく。次の花火を待つ人の邪魔をしないように、暗闇に消えていくことを望まれる。
この恋は、残像と同じ。
もう本物の姿はどこにもないのに、一瞬のきらめきをずっと探し続けている。次の花火のために、はやく消えてしまわないといけないのに。ずっとずっと残り続けて、じゃまをする。
付き合っているときは、何もかも忘れたくないと思っていたのに、別れてからははやく忘れなければならない記憶になってしまうのが、ただただ悲しかった。寂しさとか、後悔とか、そういうものではなくて、悲しい。
やるせなさに近い感情だった。
「おーい、綺美。なにしてんの」
玄関のほうからわたしを呼ぶ声が聞こえて、見えるわけじゃないのに、ドアのほうを振り返った。
映画の半券を本に挟む。これをロッカーにしまったときのわたしは、きっと表紙を見ることすらつらくて、自分の視界から消すように隠したのだろう。けれど、今はもう、大丈夫だ。ほんの少しのあたたかさと切なさと、優しい感情が心を包むだけ。
「これも一緒に段ボールのなか、入れてくれない?」
「ええ? だってこれ、綺美の大事な本でしょ。捨てちゃって大丈夫なの?」
「……うん、いいの。昔好きだったたものだし。ずっと本棚じゃない場所にあったんだけど、気づかないくらいだったから」
きっとこの本を持っている以上は、より頻繁に彼のことを思い出してしまうだろう。未練ではなく、純粋な過去の記憶として。
でもそれは、もういい。
「同棲、たのしみ。大好きだよ」
恋人が抱える段ボールの中に本を入れながら、そうつぶやくと、心底嬉しそうに恋人は笑った。
「俺も大好きだよ。楽しい生活にしようね」
羅斗くんがどこで何をしていて、今どんな姿になっているのか、わたしにはもうわからない。けれど、どうか幸せであってほしいと、心から願っている。
「引っ越し落ち着いたらさ、一緒に映画見に行こうよ」
「映画?」
「昨日公開したばかりの映画。綺美にも見せたいなって思って」
花火の残像は、風に流れてゆっくりと消えてゆく。そして次の花火の美しさに、たちまち心を奪われてゆく。
わたしにとっての初恋は、そんな、消えてゆくような恋だった。
「うん。行こう」
力強くうなずく。
「これからはもう、ばいばいしなくていいんだよ。いつでも映画を見に行ったり、買い物したりできる。花火大会も、綺美の浴衣もたのしみ。俺、しあわせ」
「楽しみだね、夏。夏だけじゃなくて、秋も冬も、春も」
「俺の未来、すごい明るい。綺美のおかげだよ」
この人に巡り合えてよかった、と思った。どんなに苦しい別れをしても、最後にこの人にたどり着くことができるのならば、やっぱりわたしは羅斗くんとの恋が、消えてゆくものでよかった、と思う。
桜の香りが鼻腔をくすぐる。
離れないでいようと誓った────22の春。
〈了〉



