ここに来て


 チョークが黒板に打ち付けられると、火打ち石から火の粉が舞うように、粒子が細かく砕かれて落ちていく。

 それをじっと眺めていた。すると、後ろでざわざわと騒ぎ声が立ち始めて、やがて「大丈夫?」という心配の声や「えっ」といった驚きの声が輪のように広がっていった。

  なんだろうと振り返ると、騒ぎの原因が瑞原であることを一目見て認識した。

  彼の腕が血だらけになっているのだ。左の腕を押さえている。白いシャツにも赤い血がじんわりと広がっていた。また、彼のノートの上にもその血は滴っていた。

  当の本人はヘラヘラと笑いながら、「大丈夫」などと周りのクラスメイトに応じている。騒ぎに気づいた先生は、机の間を縫ってすばやく瑞原のそばに行き、保健室へ行くよう指示した。

 ただ瑞原が教室を出て行く背中をしばらく眺めていた。呆然として動けなかったのだ。

 鳴海はおもむろに立ち上がると、ざわざわする教室の中で席に一番近いドアからそろっと出た。誰にも制止されることはなかった。

 既に廊下に瑞原の姿はなかった。鳴海はやや早歩きで保健室へと向かった。

 なぜか中に恐ろしい怪物がいるかのような気持ちで恐る恐る保健室のドアの隙間から覗き見ると、伊東が包帯を戸棚から片手で取り出しているのが見えた。

 保健室の先生は不在だった。鳴海はドアを開けて中に足を踏み入れた。

 そばのシンクに水が滴って打ちつけられる音がする。
 一定の間隔で秒針を刻むよりゆっくりと。消毒液の匂いで濁った空気と瑞原の鮮やかな血の色が非常事態を知らせるようで、心臓がとくとくと早くなってめまいがした。

 なぜかふと愉吉の言葉を思い出す。
 ーーあいつ時々ひとが変わるっつうか

 慌てて被りを振った。そんな不確かな噂話に振り回される必要はない。

「紘貴」

 瑞原は、気配に気づくと僕に向ける普段通りの笑顔をよこした。整った歯列が少し口から覗く笑顔。

 普段通り、と考えてからふとこいつはこんな風に歯を見せて笑うようなやつだっただろうかと思った。

 ぼんやりと考え事をしてしまってから、遅れて問いかける。

「消毒した?」

 瑞原は被りを振った。

「なにやってんの。消毒しないと。あと切れてるなら病院で縫わないと……」

瑞原のそばに近寄ると、腕にある傷口をそおっと覗き込んだ。

切られた皮膚は腕の表面に裏返しになってこびりついており、それは開花した花のようだった。腕に円を6等分にするような要領で細い刃物の切れ込みが入れられている。

その花の中心は深くえぐれていた。つやつやとした肉が露出していて、尚も血が溢れ出て来そうだった。

「救急車呼ぶ?」

 思わず語気を荒げ、瑞原の顔を見上げた。

「大丈夫。自分で歩けるし、あとで行くから」

 瑞原はにべもなくそう言って、鳴海の提案を退けた。

「いや、でも……ひどい傷だよ」

 目をたくさん瞬いて、なるべく傷をよく見ないようにした。
 鳴海は瑞原から包帯を受け取って、戸棚にあったガーゼと一緒に巻きつけた。

「ありがとう」

 礼を言ってから瑞原は保健室のどこともつかないところをぼんやりと眺めていた。彼は目尻に笑みをたたえ世間話をするようなトーンで口を開いた。

「——また、齋藤くんたちと遊んでたんだね。帰り」
「うん。あいつゲーセン大好きなんだよ。夜になっても全然終わりにしないし」

 鳴海はつられて笑って答えた。愉吉の必死な形相を思い出してして思わず笑みが溢れる。

「へえ。……楽しそうだった」
「ん? 瑞原、いたの?」
「塾の帰り、君らが出てくる姿見かけたんだ」
「ああ。なるほどね。声かけてくれればよかったじゃん」
「——その時は無理だったんだ」

 何気ない声色のまま、伊東は目を細めてこちらを見つめる。

「僕は行きたかったんだけどね」
「……ふーん」
「だから今、こうして話せてることが嬉しいし、じっくり観察したくなる」

 そういうと、瑞原はこちらにぐいっと近づいて鳴海の顔を覗き込んできた。
 
「か、観察すんなよ!」
「いつも見てるから。紘貴のこと」

 鳴海はその言葉に特別な響きを感じて一歩にじり下がった。その時、ふと、あの日の公園での瑞原を思い出した。
 瑞原の時々醸し出す圧力のある雰囲気に飲まれそうになって、冗談として流そうと、鳴海は口端に無理矢理笑みをつくって見つめ返した。
 けれど伊東の声は、さらに低く、少しだけ強くなった。

「誰と遊んでも、誰と喋ってても、最後に戻ってくる相手は“僕”にして」
「……え?」

 その瞳が鳴海を真っ直ぐに捉える。瞳の奥に、張りつめた感情が揺れている。

 そして彼は何気ない仕草でスラックスのポケットに手を突っ込み白いなにかを取り出した。

「ほら。これ」

 瑞原が差し出したものを上から覗き込む。
 撚れたティッシュの中心に置かれた物体は、薄ピンクの歪な形をした小さなかたまりだった。

 水滴を反射して瑞々しい輝きを放っている。なんだか焼く前の鶏肉みたいなそれは、ある程度の硬さがありそうだった。

「……え」

 背筋を冷たい風で撫でられたような心地がした。思わず顔をしかめる。

 先ほどの傷口とこのかたまりは、鍵と鍵穴のように適合するものだった。まさかこの前話していた腕のしこりを自分で取り出してしまったのではないだろうか。

「どういうこと……?」

 喉が乾き声が掠れて、胸が締め付けられる。

「どうしても気になって、カッターで破ったんだ」

 瑞原は鳴海の目を見てはっきりそう答えた。

「……なんで?」

 顔を顰めると、彼は満足そうに笑った。

「——これを取り出せば“僕”だけになれるかなって思ったんだ」

 徐にそれが鳴海の腹のあたりに差し出されて、思わず手を払った。その手がちょうど瑞原の手のひらのティッシュにかすって、それは肉塊ごとひらひらと滑空して保健室の床に落ちた。

 なんと言ったらいいのかわからず、乾いた笑いがこぼれた。瑞原が笑い飛ばして、悪戯だと言ってくれるような期待があったのかもしれない。

 しかし彼は、無表情で床に落ちた肉塊を見つめていた。その瞳はどこまでも静かで、一切波の立っていない水面のようだった。
 その瞬間、背筋をなぞるように冷たいものが走った。肌の奥からじわりと何かがせり上がってきて、次の一拍遅れて、ぶわっと鳥肌が立つ。
 
「お前は、誰なんだよ!」

 鳴海が叫んだ時、彼ははっとしたように、一瞬小さい子どもみたいな情けない表情でこちらを振り仰いだ。
 ちくっと罪悪感で胸が痛くなった。けれども、鳴海には余裕がなかった。一刻も早く逃げ出したかったからだ。
 鳴海は後ろの扉に振り返ると一目散に出口へ駆け出した。廊下へ飛び出して、足は坂を転げるように回った。
 保健室から一番近くの階段を駆け上がって、鳴海は教室へ戻った。 息もつけない緊張感から解放されると、心臓が鼓動を取り戻したかのようにばくばくと鳴った。
 教室は授業が終わって、騒がしかった。
 その声たちが心をざわざわと波立てるようで耳障りに感じた。安心できる場所に戻って来れたはずなのに、全く安心できなかった。
 鳴海はリュックだけ背負うと、愉吉に「帰る」とだけ言って、また教室を飛び出した。
 早く家に帰って、寝て、全部忘れたい。そうだ。これは悪い夢なんだ。
 鳴海は、昇降口に辿り着いて、靴をそこに放り投げるように置くと、滑るようにその前に座って足を靴に通した。
 靴ひもをかけた指先が、思うように動かなかった。震える指で靴紐を引く。輪を作るはずが、指先がもつれて、紐が滑り落ちる。もう一度。今度こそ、と力を込めた瞬間、結び目がするりとほどけた。ありえない。時間がないのに、絡まり、指にまとわりつき、思うように形にならない。
 何度も輪を作ろうとするのに、紐はするりと逃げていく。

「紘貴」

 すると、後ろから声がかかった。中学生にしては低めの落ち着いた声。毎日聞いているから分かるのだ。

指先から力が抜けて紐が床にだらりと垂れ下がる。膝にもうまく力が入らなくて立ち上がる力はどこにもない。
 振り返ることが恐ろしかった。自分の腕を見つめることしかできない。思考が駆け巡る。

「ごめん。僕が悪かったよ」

 そう言って、声の主は鳴海に向かって近づいてきた。鳴海は顔を上げることができない。喉がからからに乾いて、声を発することもできない。小刻みに肩が震えた。
 足音が近寄ってきた。側の影がいきなり濃く近くなって、彼が鳴海の斜めうしろに屈んだのがわかった。

「怖かったよね」
 
 優しくなだめるように彼はそう呟くと鳴海の肩を後ろから抱いた。鳴海よりずっと大きい体躯を背中に感じる。親のような慈愛に満ちた声音に、鳴海の心臓は早鐘を打った。安らぎを与えるような振る舞いと、彼の威圧的な雰囲気があまりにちぐはぐで、眩暈がする。
 すると、視界がじわりと歪み、耳鳴りが広がった。周囲の音が遠のいていく。息を吸っているのに、空気が足りない。胸の奥が冷たく締めつけられ、心臓の音だけがやけに大きい。
 半身からも力が抜け、視界の端から黒が滲み、世界がゆっくりと閉じていく。
 逃げないと。そう思った瞬間思考が途切れ、鳴海は瑞原の腕の中で意識を手放した。