ここに来て


【瑞原和馬視点】

 彼の背中が開いた隙間を通り抜けたあと、ゆっくりと返ってきた扉は重く音を立てて閉まった。

 しんと静まりかえった玄関に遠くで防音室から漏れ聞こえるピアノの音だけが響く。胸がつかえて息がうまくできない。

 母はドアの方を向いたまま徐に口を開いた。

「ねえ、どういうつもり?」

 先ほどの他所行きの声音とは打って変わって、怒気を孕んだ低い声だった。
 思わず腕の付け根をぎゅっと握り締める。

「ごめんなさい」
「和馬はさ、どこまでお母さんを失望させたら気がすむの?」

 何も返さないでいると母は呆れたように続けた。

「もう私も疲れてるの。そんな逆らうことばっかりするなら、出てったら?嫌なんでしょ?」

 母は施錠しようとしたところを、そのままドアを開け放ってこれ見よがしにこちらを振り返る。

「そうじゃないけど……」

「だったら何で勝手なことするの?決まりも守れない、やらないといけないこともやらない……そんなんだとまた大事なときに失敗するからね」
「……」

 母は鍵を閉めて廊下に戻ってくると尋問する様に前へ立ち塞がった。ただ震えながら廊下の床を見つめることしかできない。

「楽しく遊んでたみたいだけど、今日の部分予習する時間はどこにあるの?教えてくれる?」
「これから——」
「これからって、時間ないけど?どうするの?」
「電車でやります」
「次のテストどうなるかしらね……舐めてるとあっという間に置いてかれるわよ。いま通ってる塾もタダじゃないからね。結局和馬がちゃんとやらないと意味ないの」
「……」
「あと、おともだちが帰るときまた学校でって言われてるんだから、またねくらい挨拶しないとだめだと思わない?嫌われるよ」
「……はい」
「あなたのためを思ってこんなに言っても、和馬は全く聞く気がないもんね……いいわよ、別に」

 そう捨てるように言うと、すたすたと廊下を歩いて戻っていった。

 胸のなかにぐるぐると黒く重たいものが渦巻いて当分消えそうもない。惨めで吐きそうな気分だった。尚も体の震えが止まらず、腕の付け根にあるしこりをさらにぎゅっときつく抑える。

 ふと紘貴の背中が脳裏に浮かんだ。ついさっき見た彼の背中だった。

 何でなのかわからないけれど、懐かしいときと同じような気持ちになって、胸が鈍く締め付けられる。先ほどの出来事なので懐かしいというのは明らかにおかしいのに——

 彼は、このどうしようもない現実から切り離された存在のようでありながら、ついさっきまで確かにそこにいたのだ。

(ああ。見送らなければよかった)

 ずっと一緒にくだらない話をしていたい。彼のもっているあたたかい空間の中にいたい。そばにいることを認めてほしい。

 焦がれるような、それでいて安らぎを求めるような、そんな複雑な気持ちにとらわれて、逃げ込むようにそばの防音室へ転がり込んだ。
 
 まゆみがレッスン中の防音室とは別の、もうひとつの狭い部屋だ。

 空気のこもった独特な匂いがして、本棚から溢れた大量の楽譜や、音楽書があたりにたくさん積まれている。
 
 部屋の奥のだだっ広い空間には、もう何年も前に壊れたメトロノームだけが同じ場所で横倒しになっていて、ただそれをぼうっと無感動に眺める。

 棚の隙間から手を差し込んで電気を落とすと、部屋は真っ暗になった。

 目を開けているのか閉じているのかもわからない真っ暗な部屋で、慎重に腰をおろしてその場に足を抱えてうずくまった。

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 塾から帰ってくると、当然家は真っ暗だった。全ての室内灯が消えて闇に溶け込んでいる。

 講義を受けたあと、自習室で勉強をして十時半を過ぎてから塾を出たので、日付が回りそうになっていた。

 音を立てないように門扉を押しガレージ脇を進んで玄関にたどり着く。カードをかざすと鍵が回る音とともにドアを少し開けて体を滑り込ませた。

 正直言うと、数ヶ月ぶりに母を怒らせてしまったので、あまり家に帰りたくなかった。だからいつもより長く自習室に籠っていたのだ。

 そもそも予習していないことを指摘されたのに、まともに自習もせずにのこのこと帰宅したらさらに怒られることは必至だった。

 母の寝室前からは物音が一切聞こえなかったので、完全に就寝した後だった。思わずほっとした。今顔を合わせれば、怒らせてしまう。そんな予感がするからだ。

 服も着替えずにベットへダイブすると勝手に瞼が落ちた。気づいたら意識がなかった。


 


「あれ、寝てる」

 上から声が降ってきて、ゆっくりと顔を上げると声の主は紘貴だった。不思議そうな顔でポリポリと頬をかきながらこちらを見下ろしている。

「ははっ。ちょっと眠くて」

 少し恥ずかしくなって照れ笑い混じりに答える。
 机に伏せて目を瞑っていたらいつのまにか浅い眠りに入っていたらしい。すっかり学校であることを忘れかけていた。2時間目と3時間目の間の十分休みだった。

「へー和馬でも眠いとかあるんだ」
「もちろんあるよ」

 (紘貴は僕のことをときどきなんだと思っているんだ……)

「でも授業中寝ないよね」
「いや、実は寝てるよ」
「えっ!寝てる?」
「寝てる。姿勢崩さず寝てる」
「まじか。すごいね」

 目を丸くして驚いている。大きく見開いた目の真ん中で色素の薄い虹彩が際立っている。光が差し込むと茶色っぽく見えるんだなと思った。

 そんな風に観察していたら、一瞬で紘貴の表情が真剣なものに変わった。

「てかさ、あれ見た!?」
「なに、あれって……」

 ぽかんとして聞き返すと紘貴は興奮しながら言った。

「例のやつ、アニメ化するんだって!」
「え?」
「ホームページに書いてあったからガチだよ!」
「あ、ああ……」

 尚も呆然としてうまく返せずにいたら、紘貴は焦ったいといった様子で早口で言い募った。

「例のやつってあれだよ、昨日話してたラノベの」

 ああ、『モルガン戦記』のことか。やっと合点がいった。一瞬何の話か理解が追いつかなかった。

 もともとアニメはほとんど観ないので、まったく考えが及ばなかったのだ。小説もアニメになるんだ、といま初めて知った。

 正直あの本もたまたま紘貴が読んでいるのを知ったから読み始めただけであって、それまでは存在さえ知らなかった。でも、読み始めたら止まらなくて気づいたら既刊分は全部読み終わってしまっていた。

「僕ら、見る目あるよね。アニメ化する前から知ってたことになるんだからさ」
「だね」

 紘貴は嬉しさを隠しきれないといったようににやにやとしている。

 その様子がおかしくて、まゆみのお茶目な言動を見たときみたいなやわらかくくすぐったい気持ちになった。

 紘貴はニュースを伝えたらそのまま颯爽と自分の机に戻っていきかけたので、慌てて咄嗟に学ランの裾を掴んで引き止めた。

「あ、あのさ、ごめん昨日」
「え?」

 口ごもりながらそう言うと、紘貴はきょとんとした顔をした。

「……帰る時またねって言わなかったから」
「なに、どういうこと?」
「だから、また学校でって言われたのに碌に返事もしなかったから」
「え?よくわかんないけど、そうだっけ?」

 こくりと頷くと、紘貴はうーんと唸った。

「……嫌ってない?」

 おそるおそる尋ねると、彼はぴしゃりと即答した。

「嫌うもなにも、覚えてないよそんなの」
「ほんとに?」
「うん」
「……よかった」

 安心して思わず息を吐く。気持ちの悪い胸のつかえが少しマシになった気がした。

「ふーん」

 紘貴はどうでも良いといったように、いかにも適当な相槌をうつと今度こそ自席に帰っていった。
 そんな姿にまた安心して、授業もそっちのけでずっと話していたくなった。