ここに来て


 病院の自動ドアの前に立つと、やがて音もなくガラスが左右に滑った。ひやりとした空気が足元から流れ出てきて、鼻の奥に消毒液の匂いがつんと刺さる。

 案内板に書かれた番号を何度も確認しながら廊下を進む。白い壁と薄緑の床、静かすぎるくらいの空気。足音がやけに大きく響く気がして、少しだけ歩くスピードを落とした。やがて目的の病室の前で立ち止まる。

 ノック、したほうがいいのか。

 ドアの前で手を浮かせたまま、ほんの一瞬迷う。けど、考えていると余計に変な感じがしてきて、結局こつこつと軽く二回叩いた。そのまま返事を待つのも落ち着かなくて、すぐにドアを押す。

 カーテン越しの光が、部屋の中をやわらかく照らしていた。思っていたよりも明るい。ベッドの上で、瑞原は目を閉じている。腕から伸びた点滴の管と、一定のリズムで鳴る機械の音が、妙に静かで、現実感が薄い。

 寝てるのか。
 そう思いながら、そっと近づいて、顔をのぞき込む。顔色は悪くない。けれど、やはりどこか普段と違う気がして、少しだけ不安になる。

「生きてる?」

 半分冗談、半分本気みたいな声が出た。言ったあとで、久しぶりに会うにはちょっと変だったかもしれないと思った。

 すると、瑞原は目を閉じたまま、口の端だけを上げた。

「生きてるよ」

「うわっ」

 思わず一歩下がる。驚いてしまった。

「なんだ、起きてたのか」

「うん。入ってきたときに気づいたよ」

 そう言って体を起こす瑞原の様子を見て、鳴海はほっとする。さっきまで感じていた変な緊張が、少しだけゆるんだ気がした。

 勧められるまま丸椅子に腰掛ける。座ったはいいけど、なんとなく落ち着かなくて、膝の上で手を組んだりほどいたりする。

「もう体は大丈夫なの?」

「うん。一応検査したけど問題ないって」

「よかった」

 本当にそう思った。口に出すと軽く聞こえるけど、心の中ではもう少しちゃんと安心している。あのときのことを思い出すと、やはり少しだけ怖かった。

 瑞原がふっと笑う。その顔が、前よりもずっと柔らかく見えて、鳴海は不思議な気持ちになる。

「母さんがさ……見たことない顔して駆けつけに来てさ、正直びっくりしたよ」

 その言い方がどこか嬉しそうで、鳴海の胸の中もじんわり温かくなる。前は、もっと重たいものを背負ってる感じだったのに、今はそれが少し軽くなったみたいに見えた。

 沈黙ができると、どうしていいかわからなくなる。鳴海は視線をあちこちに動かす。点滴、カーテン、壁の時計。どれも見てるようでちゃんと見ていない。

 すると、瑞原が少し体をこちらに向けて、まっすぐ見てきた。

「紘貴。いろいろありがとう」

 急にちゃんとしたことを言われて、ちょっと照れる。

「大変だったよ」

 わざとらしく首を振ってみせると、瑞原は目を細めて笑った。その反応がなんだかくすぐったい。いつもの瑞原が返ってきた気がして鳴海も頬が緩んだ。

「本当にありがとう」
「愉吉にも言っといて」

 駆けつけてくれた愉吉が救急車を呼んでくれたり、救急隊の人に説明してくれたりした。
 慌ただしくて、でも必死で。愉吉がいなかったら、もっと大変だったはずだ。

 瑞原は素直に頷いた。

「これ、お見舞いの品」

 ビニール袋を差し出す。こういうのは恥ずかしい。でも何も持ってこないのも変だから選んだやつだ。中にはマスカットが入っている。

「ありがとう」

 受け取ったあと、瑞原がふふっと笑う。

「ああ。思い出すな。突然紘貴がチョコケーキくれたの」

「……はは」

 それ、まだ覚えてたのか。

 頬を掻きながら苦笑いする。あの頃は、正直あんまり瑞原を好きじゃなかったけれど、なんであんなことしたのか、今考えると自分でも突っ込みたいくらいだ。

「というか、あの時は兄貴の方じゃなかったんだ」

 ふと思った疑問をそのまま口にする。
 瑞原は頷いた。

「あのときは戻ってた。でも体育の時間に話しかけたのは実は兄さんだったんだ。僕が紘貴と友達になりたかったのに、ぐずぐずしてるから兄さんが出てきたんだと思う」

 それを聞いて、思わず吹き出す。

「あいつお節介だもん」

 本当にそうだと思う。勝手に出てきて、勝手に話しかけてくる感じが、なんかもう目に浮かぶ。結局自分が鳴海と親しくなりたかったのだろう。
 
 でも、瑞原は少しだけ曖昧に笑って、それから眉を寄せた。

「——紘貴はさ、兄さんのこと、僕の中に“いた”って思う?」

「え?」

 急に真面目な声になって、鳴海は戸惑う。

「僕自身も自信がないんだ。兄さんは僕が作り出したもう一つの人格なのかもしれない……僕はずっと兄さんになりたかったから」

 その言い方が、なんだか寂しそうで、聞いてるこっちまで悲しくなる。

 少し考えてから、鳴海は口を開いた。

「何言ってんの?あいつに怒られるよ」

「え?」

 だって、あいつはあいつだ。あの我の強さとか、かなり変なところとか、どう考えても「同じ人間」って感じじゃない。

「そんなわけないじゃん。お前の中に絶対居たよ。その証拠に、あいつは和馬に謝りたいって言ってた」

「うん……確かに……憶えてる……」

 瑞原が小さく頷く。

 交代してる間のことを覚えてるっていうのは、やっぱり不思議だった。でも、それでもちゃんと“いた”っていう感じはする。
 瑞原はしばらく黙って、どこか一点を見つめていた。

「……本当にずっと僕のそばに居てくれたのかな——」

 その言葉に、鳴海は迷わず頷く。
 うまく説明はできないけれど、たぶんそうだと思う。

「僕の中にいた兄さんのこと知ってくれてるのが紘貴で……なんて言っていいかわからないけど、うれしい」

 そう言われて、少しだけ照れくさくなるし、兄弟お互いお節介だなと思った。でも、悪い気はしなかった。

 
------

「最近、ひろちゃんなんか変わった?」

 葉村がそう言いながら、口の中に唐揚げを放り込む。衣の音が小さく「サクッ」と鳴った。業者の都合で給食が無い日で、机の上にはそれぞれの弁当箱が開かれている。
 その一言に、鳴海は顔を上げた。

「せやな」

 愉吉も同意するようにうんうんと頷きながら、鳴海の方をちらりと見る。特別じっと見ているわけでもないのに、その視線にもぞもぞとした。

「そう? まあ成長期かな」

 鳴海は頬を軽くかきながら、涼しい顔で返す。

「いや、身長は一ミリも伸びてなさそうだけど」

 葉村が即座に真顔で切り返す。

「は? 期待させんな!」

 鳴海が噛みつくように言い返すと、けらけらと笑い出した。からかうことそのものを楽しんでいる顔だ。こういう時だけ異様に冴えているのがイライラする。

「でもさ」

 葉村はまだ笑いを残したまま、今度は少しだけ声のトーンを落とした。

「うーん、なんつーか……落ち着いたって言うか、一皮剥けたって言うか……なんか雰囲気違くね?」

 その言葉に、愉吉も「んー」と曖昧に唸った。鳴海と一瞬だけ目が合い、すぐに視線を外してどこか遠くを見るような目になる。

「まあー、鳴海、頑張ったからねえ」

 事情をすべて知っているわけではない。それでも愉吉は、知っている範囲だけで納得したように頷いた。その態度は少しだけ含みがある。けれども詮索する気配はない。
 それ以上は聞いてやるな、という空気でもあった。

「えー! なにがあったん?」

 空気を読んでいるのかいないのか、葉村は身を乗り出してくる。机がわずかに揺れ、弁当の中身が危うく崩れかける。

 鳴海は反射的に手を伸ばし、その額に軽くでこぴんを入れた。

「教えない」
「え〜! 幼なじみじゃーん。俺の知らないひろちゃんいや〜」

 わざとらしく体をくねらせる葉村。その演技じみただだっ子ぶりに、鳴海も力が抜ける。しかし、答えるつもりはなかった。
 瑞原の兄のことは、誰にも言いたくない。言ってもよくわからないだろうし。

「あははっ。食ってるとき笑かすなや」

 愉吉が口を押さえながら笑う。肩が小刻みに揺れて、笑いを堪えきれていない。
 鳴海はひとり“あいつ”の傍若無人っぷりを思い出して、小さく笑うと、そのまま弁当箱に視線を戻した。


--------
 
 鳴海は迷わなかった。家からは少し遠いけど、何度か通った道はもう頭に入っている。角を曲がるタイミングも、なんとなく体が覚えている感じだった。

 大きな道路から外れて、住宅街の中に入る。静かで、人の気配が薄い。歩きながら、あのときのことを少し思い出す。

 そして、公園の入り口でぴたりと足が止まった。

「……え」

 思わず声が出る。
 前に来たときと、全然違う。何もかもが違かった。

 鬱蒼としていた木はなくなっていて、細い幹の木が等間隔に並んでいる。光が奥まで届いていて、どこも明るい。どこもかしこも見渡せる。

 あのときは、もっと広くて、もっと暗くて、怖い場所だったのに。

「意外と狭かったんだ」

 ぽつりと呟く。少し拍子抜けした気分だった。

 一歩、中に入る。足元の感触も、前と違う気がする。じっとりとした土ではなく、ざらざらとした砂のような感触だ。

 ステップを一段ずつ下りていく。そのたびに、少しずつ胸がドキドキとする。ここに足が向いた意味を今更もう一度考え始めてしまう。

 最下段に着いても、もう木々に囲まれている感じはない。ただ開けた空間があるだけだ。

 空を見上げると、太陽が真上にあった。まぶしくて、少し目を細める。

 鳴海はそのまま、公園の真ん中に座り込んだ。足を投げ出して、手を後ろにつく。立っているのも変な気がしたのだ。

 鳴海はゆっくりと息を吐いた。肺の奥の空気が抜けていくのを感じる。

 そして、もう一度、空に向かって口を開いた。

「来たよ」

 言葉は思ったより小さかった。風にかき消されるほどの声だった。
 それでも、続ける。

「名前はなん言うの?」

 返事はない。当然だ、と頭のどこかで思う自分と、そうじゃないかもしれないと思っている自分がいる。そのあいだで、揺れている自分がおかしくなった。

 ただ陽がじりじりと頭を照らしつけてくる。
 もう一度、鳴海は真上の太陽を仰いだ。