ここに来て


 鳴海は、ゆっくりと意識を浮上させるようにして目を覚ました。

 重たいまぶたを押し上げた瞬間、視界に飛び込んできたのは雑木林だった。無秩序に伸びた木々が頭上を覆い、その隙間から橙色の夕日が差し込んでいる。葉と葉の隙間を縫うようにして落ちてくる光は、どこか現実感がなかった。

 ぼんやりとした意識のまま、鳴海は何度か瞬きを繰り返す。焦点がゆっくりと合っていくにつれて、すぐそばに立つ黒い人影の輪郭が、じわじわと像を結んでいった。

「無理して起きなくていいよ」

 静かな声だった。
 人影はこちらを向いている。だが、ちょうど沈みかけた太陽が背後にあり、逆光になって顔はよく見えない。ただ、そこに“誰か”がいるということだけが、はっきりと伝わってくる。

 それが誰なのか――鳴海には、考えるまでもなくわかっていた。

 瑞原の中にいる、もう一人。

 鳴海は抵抗する気力もなく、ただぼんやりとその影を見つめていた。胸の奥には、焦りよりも先に、どこか諦めに似た感情が広がっている。もうどうにもならない、とでも言うような力の抜けた感覚だった。

 ふと、頭の片隅に引っかかっていた疑問が浮かび上がる。

「……もしかして、あの時も和馬じゃなかった?」

 自分でも驚くほど掠れた声でそう問いかけながら、鳴海は視線を横へと落とした。すぐ近くの地面には、バケツと黄色と黒の紐が無造作に転がっている。

 見覚えがあった。そして同時に、確信する。
 ここは、あのとき体調を崩して連れて来られた、木々が鬱蒼と茂るあの公園だ。

「やっと気づいてくれたんだね」

 その声には、わずかな嬉しさが滲んでいた。
 鳴海は小さく頷く。喉の奥が乾いている。

「ちゃんとわかったよ。お前は全然違う。あいつとは」

 しみじみと、確かめるように言うと――
 目の前の影は、ははは、と軽やかに笑った。
 その笑い方にイライラして鳴海は反射的に顔を上げる。

「だってお前はあいつより数倍変だから!」

 思わず叫ぶように言い返すと、

「どこが?」

 と、楽しげに返される。

「腕の肉を抉り取ったりするところ!」

 言葉にした瞬間、自分でもぞっとする光景が脳裏に蘇る。
 だが、相手はまったく意に介さず、むしろ面白がるように笑みを深めた。

「欲を言えば、あれ、君に持っていてほしいんだけどな」

 さらりと言われたその一言に、鳴海の顔から血の気が引いた。

 全身が震え出す。
 座ったまま、地面をこするようにして後ずさる。

「かわいい」

 くすくすと、息を漏らすような笑い声。
 そのまま、影が一歩、また一歩とこちらへ近づいてくる。

 そして、差し出された手。
 逆光に沈んで、指先の形しか見えない。

「ほら、つかまって」

 躊躇いがなかったわけではない。
 だが、気づけば鳴海は、その手を取っていた。まるで引き寄せられるように。

 次の瞬間、ぐいっと引かれて、鳴海はその胸元に倒れ込んだ。反射的に両手をつき、体を支える。

 顔を上げると、すぐ目の前に瑞原の顔があった。
 近くで見るその表情は、どこか見慣れたものに似ている。いつもと変わらないようにも見える。

 ――けれど、そのいつもが、どこまでそうだったのか、もう、わからない。

 鳴海は、すがるような気持ちで口を開いた。

「か、和馬……?」

 その名前に、わずかな期待を込めた。

「違うよ」

 瑞原は首を傾げ、やわらかく微笑んだ。

「カズマは今、僕の中で眠ってる」

 その言葉が、静かに突き刺さる。
 二人の間に、重たい沈黙が落ちた。

 鳴海は視線を逸らし、距離を取るように後ずさる。一歩、二歩、三歩――しかし、踵が大きな木の根に当たり、それ以上下がれなくなった。

 背後の木を見上げる。

 幹をなぞるように視線を上へと移していくと、枝葉の隙間からわずかに黄昏の空が覗いていた。もうすぐ完全に日が沈む。そうなれば、この場所は闇に閉じ込められるだろう。

「か、帰ろうかな」

 何でもないように言おうとした結果、声は震えていた。

「だめだよ」

 その返答は、驚くほど穏やかだった。
 だが同時に、落ち葉を撫でる冷たい風のように、公園全体を静かに支配する響きを持っていた。

 鳴海は恐る恐る視線を上げる。

 そこにある表情は、凪いだ海のように何も映していない。怒りも、警戒も、感情の起伏が一切見えなかった。

 (今しかない)

 鳴海はちらりと出口の方を見る。木製のステップ。その先は外へと続いている。

 判断は一瞬だった。

 勢いよく身を翻し、全力で駆け出す。

 U字の車止めに足を取られかけ、前のめりになる。とっさにポールを掴み、体をひねって隙間をすり抜ける。

 次の瞬間、視界が開けた。

 アスファルトの道路に転がり出る。
 顔を上げると、住宅街が広がっていた。街灯にはすでにオレンジ色の明かりが灯っている。

 戻ってきた。

 思わず大きく息を吐き出す。肩の力が一気に抜けた。夢から覚めたみたいだった。
 立ち上がりながらズボンの汚れを払う。そして、恐る恐る振り返る。

 そこには、さっきまでいた公園があった。黒く、鬱蒼とした木々に覆われた場所。
 枝葉が風に揺れている。奥はまったく見えない。闇がどこまでも続いているように感じられた。

 (こわい……)

 背筋を冷たいものが走る。
 鳴海は再び走り出した。とにかく離れたかったのだ。

 無我夢中で走る。道が少し違う気がする。それでも構わず進む。方向だけは間違っていないはずだと信じて。

 やがて、大通りに出た。

 車が行き交い、店の明かりが目に入る。ほか弁屋の看板が見えた瞬間、張り詰めていたものがわずかに緩んだ。

 呼吸を整えながら、歩き出す。
 行き交う人、自転車、車、飲食店の灯り。文明的なものすべてが、鳴海の周りを通り過ぎていく。

 それらを眺めているうちに、胸の奥の詰まりが少しずつほどけていくようだった。

 やがて完全に日が沈み、辺りは夜に包まれた。鳴海はようやく自分のアパートに辿り着いた。

 見上げた自室の窓に明かりはない。母親はまだ帰っていないらしい。

 重たい足を引きずるようにして階段を上がる。一段一段がやけに長く感じる。

 首から下げていた鍵を取り出し、ドアを開ける。玄関は真っ暗だった。

 鳴海は中に入り込み、そのまま崩れるように床に座り込む。一日の疲れが、一気に押し寄せてきた。もう立っていられない。

(……?)

 ふと、違和感に気づく。

 手のひらに伝わる感触が、フローリングとは明らかに違う。
 鳴海はゆっくりと手を持ち上げ、目の前にかざした。
 暗闇の中で目を凝らす。

 ――土だ。

「え……」

 漏れた声が、虚しく周りの空気に溶けた。
 おかしい。ここは家のはずだ。帰ってきたはずだ。

 道を歩いて、階段を上って、鍵を開けて。確かに――

 鳴海は暗闇に目を凝らす。やがて、目が慣れてくる。

 そして見えた光景に、息が止まった。
 自分が座っている場所。
 そこは、あの雑木林の公園の真ん中だった。

 体が勝手に震え出す。止められない。歯がかちかちと鳴る。

「——紘貴の安心できるところは、お家なんだ。きみらしくて好きだなぁ」

 背後から声がして振り返る。
 視界に入ったのは、革靴と黒いズボン。その上へと視線を上げていく。

 瑞原が、そこに立っていた。

 穏やかな笑みを浮かべて、こちらを見下ろしている。

「でも今日からはここがそうなるんだよ。きみの世界で一番安心できる場所だよ。紘貴と僕だけの場所だ」

 そう言って、しゃがみ込み、目線を合わせてくる。

 逃げ場はない。
 ここに閉じ込められたのだと、理解した。底の見えない絶望が、胸の奥に沈んでいく。

「いやだ」

 震える声で、ようやくそれだけを絞り出す。

「怖い?」

 瑞原は首を傾げながら、ゆっくりと鳴海の手を取った。その手は、驚くほど温かかった。一瞬、この状況を忘れそうになるほどに。

 震えが、少しずつ収まっていくと、体温が戻ってきた。

「……和馬を返して」

 気づけば、言葉が口をついて出ていた。自分が思った以上に強い声だった。

「この体温は和馬のものだ」

 鳴海はその勢いのまま腕を掴み返す。
 瑞原はわずかに驚いた表情を見せたあと、何事もないように言った。

「今は僕が体の主だよ。意識が交代したままこの公園に来ると、カズマは必ず眠るんだ。そうすると僕は、生きていた時に近い感覚と、それ以上の力を手に入れられる」

「なんで交代するの?」

「ああ……なんでだったかな」

 瑞原は眉を寄せ、記憶を探るように視線を彷徨わせる。
 だがすぐに、興味を失ったように肩の力を抜いた。

「きっと、もうどうでもいいことじゃないかな」

「……よくない」

 低く呟いた次の瞬間、鳴海は勢いよく立ち上がった。
 そして瑞原の腕を強く引く。しかし、びくともしない。

「ねえ、立ってよ!」

 必死に呼びかかるも瑞原はきょとんとした顔で見上げているだけだった。

「この公園から出るんだ!」

 叫びに対して返ってきたのは、困ったような苦笑だった。

「どうしたの?落ち着いて」

「塾は?いつも行ってるのに」

「僕にとっては、どっちでもいいんだ」

「あいつは……和馬は……どんなに嫌でも行ってたし、学校も絶対にさぼらなかったのに」

「——なにか誤解があるみたいだ」

 その一言とともに、瑞原はすっと立ち上がった。
 気づけば、鳴海の目の前に立ちはだかっている。逃げ道を塞ぐように。
 底の見えない黒い瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。

「きみを、もうここからは出す気はないよ」



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「なんや、あいつ。あわてんぼうにも程があるやろ」
 
 愉吉は半ば呆れたように小さくつぶやきながら、昇降口の室内に足を踏み入れた。
 視線を落とすと、床にぽつんと置き去りにされたリュックが目に入った。見覚えのあるそれに気づき、愉吉はため息をつきながら拾い上げる。

 鳴海のリュックだった。

 5時間目と6時間目の間の休み時間に教室へ戻ったとき、鳴海は突然「帰る」とだけ言い残して姿を消した。それ以来、どこを探しても見当たらない。教室にも、廊下にも、校庭にも、音楽室にもいなかった。

 リュックまで置いていくとは、さすがにおかしい。

 愉吉は眉をひそめながら、ポケットから携帯を取り出した。鳴海本人には連絡がつかない。あいつは携帯を持っていないからだ。となると、頼れるのは一人しかいない。

 葉村だ。
 コール音が数回鳴ったあと、電話はすぐにつながった。

「え?紘貴?会ってないけど」

 予想外の返答に、愉吉は思わず顔をしかめる。

「ほんま?あいつ昇降口にリュック置き去りやねん」

 そう言いながら、手に持ったリュックを軽く持ち上げてみせた。もちろん相手には見えないが、それくらい状況が信じられなかった。

「はあ……!?おバカなんか、ひろちゃんは!」

 電話越しに響く葉村の声は、呆れを通り越して半ば怒りにも似ていた。
 愉吉は苦笑しつつ、リュックの重さを手の中で感じる。

「これ……ああリュック、お前に託してええか?家近いやろ」

「いいよ。渡しに行くのは部活の後になるけど」

「ええやろ。それにしてもどこ行ったんや」

 愉吉は昇降口の外をちらりと見やる。日が傾きかけていて、空気も少しずつ冷え始めている。こんな時間に、荷物も持たずにどこへ行ったのか。

「えー。あ、そういえば瑞原は?あいつなら知ってるんじゃない?最近よく紘貴と一緒にいるし」

 その名前を聞いて、愉吉は一瞬言葉を失った。
 瑞原――確かに、ここ最近鳴海とつるんでいることが多かった。しかし――

「そういや、あいつも5時間目の途中で消えたんや——」

 ぽつりとそう言った瞬間、電話の向こうで葉村が息をのむ気配が伝わってきた。

「え?」

 二人同時にいなくなった。
 その事実が、じわじわと不安を膨らませていく。

「どこか行きそうなとこある?」

 愉吉は少し声を低くして尋ねる。軽い気持ちで聞いたつもりだったが、内心は穏やかではない。

「そういや、あいつ瑞原と公園行ったことあるとか言ってなかったけ?第一小の方の」

「第一小?」

「そうだ!夕陽の森公園!」

 その名前を聞いた瞬間、愉吉の表情がわずかにこわばった。

「夕陽の森公園……あそこで死んだやつおんねん。俺もあの辺引っ越してきてから、近づくな言われてん」

 記憶の奥にあった噂話がよみがえる。だから、鳴海にもあまり行くなと言っておいたのに。

「殺されたりしてないよな」

 葉村の軽口のような言葉に、愉吉はすぐには返せなかった。

「あいつ、天然てかノンデリなとこあっからな」

 ようやく絞り出した言葉は、どこか乾いていた。

「あはは。つって笑えないわ」
「……俺心配やから、探してみる」

 葉村の声も、先ほどより真剣味を帯びている。
 通話を切ると同時に、愉吉は靴に足を通す。じっとしている気にはなれなかった。
 胸の奥にざわつくものを抱えたまま、彼は勢いよく昇降口を飛び出した。


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  ふらりと、瑞原が木々の奥へと歩き出した。

 何かに引かれるような、不安定な足取りだった。振り返ることもなく、ただ当然のように森の中へ入っていこうとする。

 鳴海は一瞬ためらったものの、すぐにその背中を追いかけた。

「待って。勝手にどっか行かないで」

 こんな暗い公園に、一人で取り残されるのだけは嫌だった。見失ったら最後、もう二度とここから出られないような気がする。

 鳴海は足早に進み、木々の間を抜けていく瑞原の後ろ姿を必死に目で追った。

 しかし、途中で完全に見失ってしまった。さっきまで目で捉えていたはずなのに。瞬きをした少しの間で、いつのまにかどこにもいないのだ。

 途方に暮れて彷徨っていると、どこからか、知らない声が聞こえる。瑞原に似ているけれど、少しだけ低めの声。

「早く……を見つけて」
「なに?」
 
 鳴海は急いで周囲を振り仰ぐ。

「お願い……いんだ、君には。和馬は僕の……」
「え?」

 木々がざわめく音が大きくなる。風に合わせて一斉に群舞する枝葉が、ときに鳴海に覆い被さるように雪崩れてくる。

 自分を中心にどんどんと空間が広がっていく。雑木林全体が急速に拡張していくような感覚だった。

 その瞬間。鳴海は、足元の木の根っこに気づかず、足をとられた。

「うわ!」
 
 前につんのめると、そのままものすごい勢いで地面にぶつかるーーそう思った矢先、衝撃が何かに吸収された。

 顔を上げると、下敷きになっていたのは瑞原だった。もちろん和馬ではない。
 けれど、鳴海は思わずほっと息を吐き出した。

「……来てくれると思った……お前、誰だかわかんないけど、結局なんかやさしいんだもん」

 瑞原は眉を顰めた。

「状況わかってる?きみは僕に囚われているんだよ」
「わかってる。早く解放してよ」
「だめ」
「どうして?」

「僕がカズマの“異物”になったのは紘貴のせいだから」

 瑞原はそれだけ言うと立ち上がって、へたり込んだままの鳴海に手を差し出した。

 二人は連れ立って歩き出した。鳴海は差し出された手をそのまま握って離さなかった。今度、勝手にどこかへ行かれたら困るからだ。

 やがて、木立の向こうが少し開ける。

 そこには、淡い月光が差し込んでいた。
 足を踏み入れた瞬間、鳴海は違和感を覚える。
 ――さっきと同じ場所だ。

 見渡せばすぐにわかった。この公園が、森の向こうに別の空間が広がるほど広大なはずがない。
 それなのに、また同じ場所に出ている。ループしているのだ。

 その証拠に、あの大きな木がある。根元には、見覚えのあるバケツと黄色と黒の紐が、無造作に置かれていた。

 ただひとつ、さっきと違っていたのは――
 そこに、グランドピアノがあったことだった。異様な光景だった。

 森の中に、ぽつんと置かれたピアノ。月光を受けて、青白くぼんやりと浮かび上がっている。

 現実感がない。
 それでも、鳴海はそれが本物か確認しようと近づいて行った。

「……埃かぶってる」

 そっと天板に指を触れると、うっすらと埃がついた。
 長い間、誰にも触れられていなかったような、そんな静けさがあった。

 瑞原も、ピアノに吸い寄せられるようにこちらへ来る。

「懐かしい……家にあった相棒なんだ。よく練習してた防音室にあってね」

 どこか懐かしむような声音だった。

「これを見せたかったの?……見たから早くここから出して」

 鳴海は周囲を気にしながら、落ち着かない様子で言う。
 だが瑞原は、小さく苦笑した。

「僕が出したんじゃないよ」

 そう言って、静かにピアノのカバーを開く。
 次の瞬間、鍵盤に指が落とされた。

 流れ出した音は、思っていたよりもずっと柔らかく、そしてどこまでも悲しかった。

 旋律は途切れることなく続く。
 終わりが見えない。

 まるで、ずっとどこかへ向かい続けているような、そんな曲だった。
 鳴海は何も言わず、ただその場に立ち尽くして聴いていた。

 月光に照らされたピアノの向こう側で、瑞原の影が静かに揺れている。

 時間の感覚が、曖昧になっていく。
 やがて、最後の一音が静かに消えた。

 瑞原がこちらを振り仰ぐ。目が合った。
 鳴海は、少し間を置いてから口を開いた。

「わかんないけど、よかった」

 ぶっきらぼうな言い方だった。だけど、嘘ではなかった。
 瑞原は、あはは、と声を立てて笑う。

「僕はピアノが上手かったんだ。音楽高校に通って、毎日弾いてた」

「へー。和馬より上手かったの?」

「うん。上手かったよ。僕はよくカズマに教えてたから」

 その言葉に、鳴海は軽く相槌を打つ。
 そして、何気ない調子で問いを投げた。

「——じゃあもしかして、お前は和馬の兄貴ってこと?」

 その瞬間。瑞原の表情が、はっきりと変わった。
 驚いたような、虚を突かれたような顔で、こちらを見上げる。

 あまりにも突然の反応に、鳴海は思わずぶんぶんと首を振った。

 変なことを言ったか、と不安になる。
 
 瑞原は視線を宙に漂わせたまま、前髪をかき上げる。そして、ぽつりと呟いた。

「……あれ、なんで、忘れてたんだろう。そんな当たり前のこと。そう、僕は和馬の兄で、それで……」

「忘れてた……?」

 鳴海は眉をひそめる。

「なんだ。てっきり悪霊かと思ったよ」

 そう口に出した途端、肩の力が抜けた。はあーと大きくため息を吐き出す。

 和馬の兄。それなら――少なくとも、正体のわからない“何か”ではない。

 そう思えたからだ。

 鳴海は小さくため息をつき、目を閉じる。張り詰めていたものが、少し軽くなった気がした。

「じゃあ、なんで和馬の体を乗っ取ってるの?」

 ピアノの座面の端に腰掛けながら、問いかける。
 瑞原は少しだけ間を置いてから答えた。

「なんでって、心配だからに決まって……」

「心配なんて必要ないよ」

 鳴海はすぐに言い返す。
 隣を覗き込むと、瑞原の視線がわずかに揺れていた。

「いや、和馬には僕がいないとだめなんだ」

「あいつすごいし。僕よりめんどくさいこともちゃんとやってるよ」

「――知ってる」

 そう言って、頭を抱える。そのまましばらく動かなくなる。

「最初は本当にそうだった」

 沈黙が落ちる。
 やがて、ぽつりぽつりと話し始めた。

 語られたのは、あまりにもあっけない最期だった。

 不審者から逃げて、この公園に入り込み、大きな木に登って――足を滑らせて、頭を打った。

 それで、終わりだった。鳴海は言葉を失う。

「僕が死んでから、母さんがおかしくなって……和馬に辛くあたるから、見ていられなくて。力になりたいって思った。だから……」

 静かな声だったが、その奥にあるものは重い。

 死後、兄の話は家の中で禁句になった。
 和馬はピアノの調子をどんどん崩していき、受験にも失敗した。
 母親は苛立ちをぶつけるようになり、行動を厳しく制限するようになった。

「でも、交代してるうちに、どんどん僕も……生きていたくなって」

 言葉が途切れる。

「——自分のことだけになってたんだ」

 瑞原は口元を押さえた。
 肩がわずかに震えている。

「心底羨ましい。和馬や齋藤くんが」

 ただの愚痴や嫉妬ではない。もっと根の深い、取り返しのつかない感情だった。
「生きている側」への、どうしようもない渇望。

 鳴海は何も言えなかった。胸の奥が、じわりと痛む。

「……兄さん失格だなぁ」

 自嘲するように笑う声。
 鳴海は目を閉じる。

「そうかな……」

 ゆっくりと言葉を探す。

「僕は、死んだ父さんには、たまには写真で笑ってる以外のこともしてよって思う。母さんが風邪のときとかさ」

 隣から、こちらを振り仰ぐ気配がする。

「だからきっと、和馬も心強かったんじゃない?」

 瑞原はしばらく黙っていた。
 そして、小さく頷く。

「……でも、やっぱり謝らないとな」

 その腕に巻かれた包帯から、血が滲んでいた。
 すでに吸いきれなくなり、滴り落ちている。このままでは、危ない。

 鳴海は無言でワイシャツの裾を引き裂き、包帯の上から巻き直す。

「いいな……和馬にはこんな、友だちがいて」

 結び終えて顔を上げると、じっと見つめられていた。

「ああ、紘貴だけでも僕にくれないかなあ」

 その言葉に、鳴海は少しだけ視線を逸らした。そして、おそるおそる口を開く。

「……友だちになる?」

 ぎこちない誘いだった。
 瑞原は一瞬だけ目を細め

「いや、いいよ」

 苦笑して、そう答えた。

「また遊びに来るよ。この公園は怖いからいやだけど。しょうがないから来てあげる」

 鳴海がそう言うと、瑞原は満足そうに頷いた。

 その瞬間だった。ピアノが、ふっと消えた。音もなく、跡形もなく。

 同時に、瑞原の体が力を失ったように崩れ、その場に倒れ込む。

 意識を失っている。

 気がつくと、鳴海はバケツに座っていた。さっきまでの出来事が、夢のように遠い。

 公園の外へ出たとき、そこには、息を切らした愉吉が立っていた。

「鳴海!」

 鳴海の姿を見つけた瞬間、駆け寄ってくる。

 何も言わず、ただ状況を察したように、気を失っている瑞原を肩に担いだ。

 二人で支えながら、公園の外へ運び出す。

 冷たい夜の空気が頬に触れる。愉吉はすぐに携帯を取り出し、救急車を呼んだ。