僕の友人で、気持ちの悪い人がいる。
友人と呼ぶべきかどうか迷ったけれど、ほかに良い呼び方も思いつかなかったので仕方がない。
名前は知らない。まだ聞いていなかったからだ。
ちょうど今から聞きに行くつもりで、少しどきどきとしている。
でも、誤解がないように言っておくと、僕はその気持ちの悪い友人のことを、嫌いではないのだ。
---
大きなガラス窓の渡り廊下を抜けて階段を降りると、体育館へと繋がる無機質な金属の引き戸がある。
後ろから騒がしい声とともに迫ってくる足音がして、鳴海は一歩右に体を避けた。
するとすぐに、横を同級生たちが踵を潰した体育館履きで通り過ぎていった。
鳴海は思わず自分のピカピカの体育館履きを見下ろした。まだ中学に入学して数ヶ月と経っていない。綺麗なほうが正しいし良いことのはずだ。
なのに、心の中が小さくざわざわと波だった。
鳴海は突然走り出した。振り切るように、前を歩く人たちを縫って走る。
急ぐ必要もない渡り廊下の数メートルを駆け抜けて、そのまま体育館の中へと転がるように飛び込んだ。
息をついて顔を上げると、すでに大半が壇上前に雑多な群れをつくっていた。
たのしそうに戯れあっているクラスメイトたち。向こうにいつもよく話す友人の齊藤愉吉もいる。
こちらには気づいていないだけで、声をかければすぐに輪に入れてくれるだろう。
けれど、今はなぜかその中に加わる気が起きなかった。
鳴海はただみんなを見ていた。ぼんやりと遠巻きに。ガラス一枚隔てた向こうから眺めているみたいだった。
「鳴海くん」
突然、聞き慣れない声がした。鳴海のことを呼ぶ知らない声だった。
鳴海は反射のような速度で弾かれたように振り返った。
「一緒にやろう、柔軟」
「へ……?」
まさかの人間に、想定外のことを言われると、言葉がまったく出てこない。
声の主はクラスメイトの瑞原和馬だった。
瑞原と話すのは4月に同じクラスになって以来初めてだった。声のトーンが落ち着いていて、背が高くて、上級生みたいな感じだ。
正直一瞬身構えてしまった。自分の様子が変で何か言われるのかと思ったのだ。
「僕?」
「うん。今日はひとりだったから。声かけちゃった」
瑞原は微笑むみたいに目を細めた。
「……いいけど」
特に断る理由もない。鳴海はその場にすとんと腰をおろし地面に足を大きく開いて座った。
上の方から視線を感じたので顔を上げると、瑞原は鳴海を見下ろして突っ立ったままだった。
「座りなよ」
彼は鳴海の声にやや遅れて反応してちょっとよろけながら、「うん」と言って正面に座った。
そのまま両手を持って向かい合う姿勢をとって、大きく開いた足の踵同士を合わせる。手を繋いで引っ張ったり引っ張られたりするやつだ。
面と向かってみると、生真面目そうというか、綺麗なベッドに寝てそうな感じに見えた。小学校のとき、まったくみかけなかったので、別の学区から来たひとなのだろう。とにかく友達には居ないタイプだ。
「鳴海くんてさ」
瑞原が鳴海を引っ張っているとき、彼は口を開いた。うん、とどこかぎこちない相槌をうって先を促す。
「優しいよね」
「え?」
意図がわからず聞き返した。すると、ふんわりした答えが返ってきた。
「いいなって思って」
「……え……そう?」
その表情を伺い知ることはできない。しかし声音はやわらかかった。
体育館の地面を見つめながらこいつはいきなり何をいってるんだ、と訝しみつつ、突然褒められて少しだけ照れ臭かった。
しばらくして瑞原は引っ張る力を弱めた。
身体を起こした時、瑞原とばっちり目があった。彼の黒目がちな目は近くで対面するとどこをみているのかわかりにくく、怖い。
ある程度離れているときは、そんな印象は受けなかったのに。むしろ弧を描くと目が艶っぽく潤んでいるように見えて柔和な感じさえしていた。
瑞原の眸から目が離せなくなる。彼の目で自分の目を動かないよう縫い止められたような感じがして、鳴海は早くなにか次の言葉を発さねばと思った。
「……やさしそう……瑞原も」
とっさに捻り出した言葉だった。正直反対のことを思っていたので、なんとも言えない間と棒読みが言葉に乗ってしまった。
相手の喜びそうなことを言うのが好きだったので、口をついて出てしまったのかもしれない。
というのも、常日頃人の喜ぶことをすればいい運気になる気がしていた。
「ははっ。そうかな……優しそうって言われたのは初めてかも」
そう言って彼は目を細めた。
この嬉しそうな表情をみるとそんなに悪い人間である気もしなかった。
「あんまり話したことなかったよね。でもずっと話したいと思ってたんだ」
「ぇ……ああ、よろしく……」
鳴海はもたもたと歯切れの悪い返事をした。
ーーーー
机にしまっていた数学の補足的なドリルを取り出してから、その重さにうんざりして、やはり机にしまい直した。筆箱と宿題に使う地理の地図帳だけを机から抜き取ると、通学用の黒いリュックの中にしまった。
ため息をついて立ち上がると、背中にものすごい衝撃が来た。思わずびくっと肩が上がる。
真後ろから飛びかかってきたのは、幼馴染の葉村だった。
「加減!」
後ろを振り返って、文句を言うと、葉村はそんな鳴海の意思表示はお構いなしに、けたけたと笑っている。気を抜いているタイミングでばっちりと脅かしてくるので、毎回それなりに驚いてしまうのが悔しい。反応を見てからかっているのだ。
「は〜これをやるために学校来てんのよー」
「はいはい。もう帰るんだけど」
適当に流して通学リュックを背負った。軽く弾みながら学ランの裾をひっぱって、リュックを体に馴染ませる。
「えーやだ〜。もう帰んの〜ひろちゃん〜」
「母親やんな!」
「いいじゃないのーカリカリしなさんな〜ひろちゃん〜」
鳴海は小さい頃から母親にひろちゃんという愛称で呼ばれている。それを知っている葉村はからかうとき鉄板ネタとばかりに「ひろちゃん」という呼び方を乱用してくるのだ。
「うるさいなー……あ!」
「え?なになに?」
きょとんとした顔の葉村に、鳴海はにやにやしながら答える。
「そういえばー、『モルガン戦記』の新刊読み終わったけど返さないでおこうかなー」
『モルガン戦記』というのは今はまっているファンタジー系のライトノベルのことだ。葉村も同じく夢中になっている。
悪い顔をしながら脅しでそんなことを言うと、葉村は血相を変えて叫んだ。
「は!?お前、それはないぞー!おい絶対いますぐ返せ!図書室連行な!」
鳴海は葉村にヘッドロックされるような形で首をホールドされる。やめろ、やめろと騒ぎながら、ふと顔を上げたとき、向こうに佇む瑞原とばちりと目があった。
(うわっ……!)
瑞原は黒板の桟にある黒板消しに手を置いたまま、あの黒黒とした目でこちらをじっと見ている。彼は今日、日直当番で黒板を綺麗にしたところのようだった。
鳴海は思わずさっと目を逸らした。
「次に借りるのが俺ってことになってるだろうが〜お前には義理ってもんがないのか!」
などと葉村が言ってるのが耳に届いて、
「知らないよそんなの」
と平静を装って返事をしたけれど、この時とにかく瑞原の方を見ないようにすることに神経が行っていた。
目を逸らした後もまだ彼に見られているような気がして、もう一度目が合ってしまったら嫌だったからだ。さっき授業ではじめて喋ったのに、いきなり目を逸らしたりして感じが悪かったかもしれない。
しかし、瞬時にいいやと心の中で被りをふる。
瑞原も瑞原だ。今日話したばかりのクラスメイトを舐めつけるように見ることはないだろう。あんなにじっと真顔で見つめられていてはこちらとしてもたまらない。
そう納得させて葛藤を頭の隅に追いやってしまうと、葉村とともにそのまま教室をあとにした。
鳴海らの教室は、校舎の北側に位置していて3階にあるが、図書室は南側の端の2階にある。
3階の教室は1年生の教室と2年生のクラスの一部の教室がある。通り過ぎる時どの教室にも人があまり残っていなかった。多くても5人程度だった。一方、廊下にはたむろしておしゃべりしている人たちがたくさんいた。
図書室まで行くには校舎の端から端まで移動しなくてはならないので、少し面倒である。人と人の間を縫うようにして進まなければならない。
前を歩く葉村は、すれ違いざまに部活の先輩や同期らしき相手に声をかけられたり、肩を叩かれたりしている。
それらにときにふざけたりときに怒ったりしながら笑顔で答えてる葉村を見ると、幼なじみでなければ葉村とは友達ではなかっただろうな、と思った。
そもそも話す機会がなかったかもしれない。
葉村の友達とは友達ではないので、なんとなく顔を伏せたり、別の方向を見てしまう。ここで自分も「やあ」とかなんとか言ったら、顔を覚えられて友達が増えたりするんだろうか。
やっと図書室に到着した。木目調のあったかい感じがするつくりで、カーペットが敷いてあって寛げるスペースもある。本離れを食い止めるために、きれいにリフォームしたらしい。
リュックから『モルガン戦記』の最新刊を取り出してカウンターに置いた。隣で葉村は満足げにうんうんと、頷いている。
「やっぱかっこいいよ、大佐」
「まじ?今回も活躍する?」
鳴海がにやりとして独り言みたいにつぶやくと、葉村は貸し出し処理を終えた本を受け取りながらすかさず尋ねた。
「いや。戦闘には参加しないけど、いろいろ根回しする」
「え〜参加しないのかよ〜」
「まあでも次あたりで前線出てくるんじゃない?」
葉村は戦闘に参加しないことを残念がっているけれど、鳴海はこの巻の大佐が大好きだった。実のところもうネタバレしたくてたまらない。しかしさすがに葉村に怒られそうなので、なんとかその衝動を堪えている。
「あっ!やばい!部活はじまる!」
葉村は図書室にある時計を見て叫んだ。司書の先生にシーというジェスチャーをされる。葉村はすんません、と短めに小声で言って首をへこっとさせた。
「準備一年でしょ」
「そう!急がないと。じゃあな!」
葉村は急いでエナメルバッグを持つと、借りた本片手に勢いよく図書室を飛び出して行った。
嵐のように去った葉村に取り残されたが、特に図書室でこれ以上することもなかったので、家へ帰ることにした。
すぐ下の階に降りて、昇降口へとぼとぼと向かう。もう廊下にもちらほらとしか人がいない。皆、一緒に帰る人を見つけたか、部活へ行ったのだろう。
周りが静かになったことで、外で雨音がしていることにやっと気がついた。いつの間にか雨が降り始めたようだ。
帰るとき、履いてきた靴がぐちょぐちょになってしまうかもしれない。中学入学前に新調した気に入っている運動靴なのにと思いながら、靴箱から取り出してパタンと昇降口の地面に置いた。
「鳴海くん」
「うわっ!」
後ろで声がして振りかえると瑞原が立っていた。音も気配もなく後ろにいたので思わず叫んでしまった。
「びっくりした……」
「雨降ってるね。やだなぁ」
彼は鳴海の驚きを他所に、静かな眼差しで雨の方を見ている。
「……うん」
先程教室で目を逸らしてしまったため、勝手に少し気まずかった。鳴海は足元の靴に視線を戻すと、すのこに腰を下ろして靴紐を引っ張って解いてから足を片方ずつ通した。手順を頭の中に思い描いて丁寧に蝶々結びをする。
「傘持ってる?」
瑞原は気にしたそぶりもなく、自分の靴を靴箱から取り出しながら尋ねた。
「持ってる」
鳴海は靴を履き終えてから横に置いたリュックに手を突っ込んで、折り畳み傘を探す。
リュックの深くまで腕を入れて色んな方向に手を返してみる。しかし、わかるのは筆箱と地図帳の感触だけだ。
すると突然底の方で生ぬるいなにかが手の甲にぶつかった。なんだろうと思って、掴んで取り出すと、それはどろどろに溶けた保冷剤だった。
「あっ」
(やばい、完全に忘れてた……)
母から預かったチョコケーキを葉村に渡すのを——これはそのケーキを保冷するためのものだった。
幼なじみの葉村の家には保育園の頃からかなりお世話になっている。父が病死して以来夜勤を続けている母は、まだ小さかった鳴海を葉村宅に預けることが多かった。そのため、お礼にたびたびこのチョコケーキを母が焼いて贈っていた。
今は当然ひとりでも留守番ができる。だから葉村の家で放課後を長時間過ごすことは少ないが、彼がすっかり母のケーキの虜になってしまっていたので、変わらず定期的に渡しているのだ。
さっき会ったのに、と後悔してももう遅い。
今から部活をしている葉村に渡しに行くか、と一瞬頭をよぎったが、それは側から見たらきしょすぎるので無しだ。“男”が部活へ差し入れに行く図みたいで、恥ずかしい。
(明日渡せばいいか?いや、保冷剤がついてるってことはあまり持たないのかな……)
今日帰って母に渡しそびれたと言ったら、きっと悲しむだろう。あんなに忙しいのにわざわざ時間をかけて作っていたのだ。「学校から親への大事なプリントを渡さず鞄にしまい込んでいた」ことより重罪かもしれない。
ぐるぐるとあれこれ思い悩んでいたら、そばで気配を感じちらりと見上げる。
するとちょうど瑞原は白の紐靴を座らずにすぱっと履いたところだった。
(……なんかずるいんだよな)
思わずはあ、というため息が出る。
きっと彼には自分みたいなこんな鈍臭い心配事はないのだろう。
「あのさ」
「ん、なに?」
声をかけると瑞原はこちらに視線を寄越した。鳴海はもう一度ガサゴソとリュックの中を漁ってビニールの感触を確かめると、それを引っ張り出した。
「これ」
瑞原の方にビニール袋を突き出すと、彼は目を丸くした。
「え?」
「ケーキ」
ぶっきらぼうに答える。
「……ありがとう」
瑞原は袋を受け取ると戸惑いがちに中を覗き込んで、礼を言った。あまりに突拍子のない鳴海の行動に、目が丸くなっていた。
鳴海はニヤリとほくそ笑む。
「もしかしたらお腹壊すかも」
傷んでるのかどうかもわからないし、甘いものが得意じゃないから、自分で食べようとは思わなかった。だからちょうどすぐそばにいた瑞原に押し付けたのだ。
じっと袋の中を見つめていた瑞原は急に顔をあげた。
「……うれしい、全部食べるよ」
噛み締めるようにそう言って、照れた笑顔を浮かべた。
鳴海は目を瞬いてぎこちなく雨の外に視線を戻すと、今度こそ折り畳み傘を取り出して弾かれたように立ち上がった。尻についた土埃を払い、そそくさと扉の方へ進む。
なんだか申し訳なくなってしまった。そんなに嬉しそうな顔をするとは思っていなかったのだ。
「じゃあね」
「うん、また明日」
最後横目にちらりと瑞原を見たとき、彼は目を細めて手を振っていた。
そんなに甘いものに目がなかったのか。
(まあいっか。これでケーキも報われたよね……)
万事解決とそう心の中で決め込むと、鳴海は勝手な達成感に包まれたまま帰路に着いた。
友人と呼ぶべきかどうか迷ったけれど、ほかに良い呼び方も思いつかなかったので仕方がない。
名前は知らない。まだ聞いていなかったからだ。
ちょうど今から聞きに行くつもりで、少しどきどきとしている。
でも、誤解がないように言っておくと、僕はその気持ちの悪い友人のことを、嫌いではないのだ。
---
大きなガラス窓の渡り廊下を抜けて階段を降りると、体育館へと繋がる無機質な金属の引き戸がある。
後ろから騒がしい声とともに迫ってくる足音がして、鳴海は一歩右に体を避けた。
するとすぐに、横を同級生たちが踵を潰した体育館履きで通り過ぎていった。
鳴海は思わず自分のピカピカの体育館履きを見下ろした。まだ中学に入学して数ヶ月と経っていない。綺麗なほうが正しいし良いことのはずだ。
なのに、心の中が小さくざわざわと波だった。
鳴海は突然走り出した。振り切るように、前を歩く人たちを縫って走る。
急ぐ必要もない渡り廊下の数メートルを駆け抜けて、そのまま体育館の中へと転がるように飛び込んだ。
息をついて顔を上げると、すでに大半が壇上前に雑多な群れをつくっていた。
たのしそうに戯れあっているクラスメイトたち。向こうにいつもよく話す友人の齊藤愉吉もいる。
こちらには気づいていないだけで、声をかければすぐに輪に入れてくれるだろう。
けれど、今はなぜかその中に加わる気が起きなかった。
鳴海はただみんなを見ていた。ぼんやりと遠巻きに。ガラス一枚隔てた向こうから眺めているみたいだった。
「鳴海くん」
突然、聞き慣れない声がした。鳴海のことを呼ぶ知らない声だった。
鳴海は反射のような速度で弾かれたように振り返った。
「一緒にやろう、柔軟」
「へ……?」
まさかの人間に、想定外のことを言われると、言葉がまったく出てこない。
声の主はクラスメイトの瑞原和馬だった。
瑞原と話すのは4月に同じクラスになって以来初めてだった。声のトーンが落ち着いていて、背が高くて、上級生みたいな感じだ。
正直一瞬身構えてしまった。自分の様子が変で何か言われるのかと思ったのだ。
「僕?」
「うん。今日はひとりだったから。声かけちゃった」
瑞原は微笑むみたいに目を細めた。
「……いいけど」
特に断る理由もない。鳴海はその場にすとんと腰をおろし地面に足を大きく開いて座った。
上の方から視線を感じたので顔を上げると、瑞原は鳴海を見下ろして突っ立ったままだった。
「座りなよ」
彼は鳴海の声にやや遅れて反応してちょっとよろけながら、「うん」と言って正面に座った。
そのまま両手を持って向かい合う姿勢をとって、大きく開いた足の踵同士を合わせる。手を繋いで引っ張ったり引っ張られたりするやつだ。
面と向かってみると、生真面目そうというか、綺麗なベッドに寝てそうな感じに見えた。小学校のとき、まったくみかけなかったので、別の学区から来たひとなのだろう。とにかく友達には居ないタイプだ。
「鳴海くんてさ」
瑞原が鳴海を引っ張っているとき、彼は口を開いた。うん、とどこかぎこちない相槌をうって先を促す。
「優しいよね」
「え?」
意図がわからず聞き返した。すると、ふんわりした答えが返ってきた。
「いいなって思って」
「……え……そう?」
その表情を伺い知ることはできない。しかし声音はやわらかかった。
体育館の地面を見つめながらこいつはいきなり何をいってるんだ、と訝しみつつ、突然褒められて少しだけ照れ臭かった。
しばらくして瑞原は引っ張る力を弱めた。
身体を起こした時、瑞原とばっちり目があった。彼の黒目がちな目は近くで対面するとどこをみているのかわかりにくく、怖い。
ある程度離れているときは、そんな印象は受けなかったのに。むしろ弧を描くと目が艶っぽく潤んでいるように見えて柔和な感じさえしていた。
瑞原の眸から目が離せなくなる。彼の目で自分の目を動かないよう縫い止められたような感じがして、鳴海は早くなにか次の言葉を発さねばと思った。
「……やさしそう……瑞原も」
とっさに捻り出した言葉だった。正直反対のことを思っていたので、なんとも言えない間と棒読みが言葉に乗ってしまった。
相手の喜びそうなことを言うのが好きだったので、口をついて出てしまったのかもしれない。
というのも、常日頃人の喜ぶことをすればいい運気になる気がしていた。
「ははっ。そうかな……優しそうって言われたのは初めてかも」
そう言って彼は目を細めた。
この嬉しそうな表情をみるとそんなに悪い人間である気もしなかった。
「あんまり話したことなかったよね。でもずっと話したいと思ってたんだ」
「ぇ……ああ、よろしく……」
鳴海はもたもたと歯切れの悪い返事をした。
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机にしまっていた数学の補足的なドリルを取り出してから、その重さにうんざりして、やはり机にしまい直した。筆箱と宿題に使う地理の地図帳だけを机から抜き取ると、通学用の黒いリュックの中にしまった。
ため息をついて立ち上がると、背中にものすごい衝撃が来た。思わずびくっと肩が上がる。
真後ろから飛びかかってきたのは、幼馴染の葉村だった。
「加減!」
後ろを振り返って、文句を言うと、葉村はそんな鳴海の意思表示はお構いなしに、けたけたと笑っている。気を抜いているタイミングでばっちりと脅かしてくるので、毎回それなりに驚いてしまうのが悔しい。反応を見てからかっているのだ。
「は〜これをやるために学校来てんのよー」
「はいはい。もう帰るんだけど」
適当に流して通学リュックを背負った。軽く弾みながら学ランの裾をひっぱって、リュックを体に馴染ませる。
「えーやだ〜。もう帰んの〜ひろちゃん〜」
「母親やんな!」
「いいじゃないのーカリカリしなさんな〜ひろちゃん〜」
鳴海は小さい頃から母親にひろちゃんという愛称で呼ばれている。それを知っている葉村はからかうとき鉄板ネタとばかりに「ひろちゃん」という呼び方を乱用してくるのだ。
「うるさいなー……あ!」
「え?なになに?」
きょとんとした顔の葉村に、鳴海はにやにやしながら答える。
「そういえばー、『モルガン戦記』の新刊読み終わったけど返さないでおこうかなー」
『モルガン戦記』というのは今はまっているファンタジー系のライトノベルのことだ。葉村も同じく夢中になっている。
悪い顔をしながら脅しでそんなことを言うと、葉村は血相を変えて叫んだ。
「は!?お前、それはないぞー!おい絶対いますぐ返せ!図書室連行な!」
鳴海は葉村にヘッドロックされるような形で首をホールドされる。やめろ、やめろと騒ぎながら、ふと顔を上げたとき、向こうに佇む瑞原とばちりと目があった。
(うわっ……!)
瑞原は黒板の桟にある黒板消しに手を置いたまま、あの黒黒とした目でこちらをじっと見ている。彼は今日、日直当番で黒板を綺麗にしたところのようだった。
鳴海は思わずさっと目を逸らした。
「次に借りるのが俺ってことになってるだろうが〜お前には義理ってもんがないのか!」
などと葉村が言ってるのが耳に届いて、
「知らないよそんなの」
と平静を装って返事をしたけれど、この時とにかく瑞原の方を見ないようにすることに神経が行っていた。
目を逸らした後もまだ彼に見られているような気がして、もう一度目が合ってしまったら嫌だったからだ。さっき授業ではじめて喋ったのに、いきなり目を逸らしたりして感じが悪かったかもしれない。
しかし、瞬時にいいやと心の中で被りをふる。
瑞原も瑞原だ。今日話したばかりのクラスメイトを舐めつけるように見ることはないだろう。あんなにじっと真顔で見つめられていてはこちらとしてもたまらない。
そう納得させて葛藤を頭の隅に追いやってしまうと、葉村とともにそのまま教室をあとにした。
鳴海らの教室は、校舎の北側に位置していて3階にあるが、図書室は南側の端の2階にある。
3階の教室は1年生の教室と2年生のクラスの一部の教室がある。通り過ぎる時どの教室にも人があまり残っていなかった。多くても5人程度だった。一方、廊下にはたむろしておしゃべりしている人たちがたくさんいた。
図書室まで行くには校舎の端から端まで移動しなくてはならないので、少し面倒である。人と人の間を縫うようにして進まなければならない。
前を歩く葉村は、すれ違いざまに部活の先輩や同期らしき相手に声をかけられたり、肩を叩かれたりしている。
それらにときにふざけたりときに怒ったりしながら笑顔で答えてる葉村を見ると、幼なじみでなければ葉村とは友達ではなかっただろうな、と思った。
そもそも話す機会がなかったかもしれない。
葉村の友達とは友達ではないので、なんとなく顔を伏せたり、別の方向を見てしまう。ここで自分も「やあ」とかなんとか言ったら、顔を覚えられて友達が増えたりするんだろうか。
やっと図書室に到着した。木目調のあったかい感じがするつくりで、カーペットが敷いてあって寛げるスペースもある。本離れを食い止めるために、きれいにリフォームしたらしい。
リュックから『モルガン戦記』の最新刊を取り出してカウンターに置いた。隣で葉村は満足げにうんうんと、頷いている。
「やっぱかっこいいよ、大佐」
「まじ?今回も活躍する?」
鳴海がにやりとして独り言みたいにつぶやくと、葉村は貸し出し処理を終えた本を受け取りながらすかさず尋ねた。
「いや。戦闘には参加しないけど、いろいろ根回しする」
「え〜参加しないのかよ〜」
「まあでも次あたりで前線出てくるんじゃない?」
葉村は戦闘に参加しないことを残念がっているけれど、鳴海はこの巻の大佐が大好きだった。実のところもうネタバレしたくてたまらない。しかしさすがに葉村に怒られそうなので、なんとかその衝動を堪えている。
「あっ!やばい!部活はじまる!」
葉村は図書室にある時計を見て叫んだ。司書の先生にシーというジェスチャーをされる。葉村はすんません、と短めに小声で言って首をへこっとさせた。
「準備一年でしょ」
「そう!急がないと。じゃあな!」
葉村は急いでエナメルバッグを持つと、借りた本片手に勢いよく図書室を飛び出して行った。
嵐のように去った葉村に取り残されたが、特に図書室でこれ以上することもなかったので、家へ帰ることにした。
すぐ下の階に降りて、昇降口へとぼとぼと向かう。もう廊下にもちらほらとしか人がいない。皆、一緒に帰る人を見つけたか、部活へ行ったのだろう。
周りが静かになったことで、外で雨音がしていることにやっと気がついた。いつの間にか雨が降り始めたようだ。
帰るとき、履いてきた靴がぐちょぐちょになってしまうかもしれない。中学入学前に新調した気に入っている運動靴なのにと思いながら、靴箱から取り出してパタンと昇降口の地面に置いた。
「鳴海くん」
「うわっ!」
後ろで声がして振りかえると瑞原が立っていた。音も気配もなく後ろにいたので思わず叫んでしまった。
「びっくりした……」
「雨降ってるね。やだなぁ」
彼は鳴海の驚きを他所に、静かな眼差しで雨の方を見ている。
「……うん」
先程教室で目を逸らしてしまったため、勝手に少し気まずかった。鳴海は足元の靴に視線を戻すと、すのこに腰を下ろして靴紐を引っ張って解いてから足を片方ずつ通した。手順を頭の中に思い描いて丁寧に蝶々結びをする。
「傘持ってる?」
瑞原は気にしたそぶりもなく、自分の靴を靴箱から取り出しながら尋ねた。
「持ってる」
鳴海は靴を履き終えてから横に置いたリュックに手を突っ込んで、折り畳み傘を探す。
リュックの深くまで腕を入れて色んな方向に手を返してみる。しかし、わかるのは筆箱と地図帳の感触だけだ。
すると突然底の方で生ぬるいなにかが手の甲にぶつかった。なんだろうと思って、掴んで取り出すと、それはどろどろに溶けた保冷剤だった。
「あっ」
(やばい、完全に忘れてた……)
母から預かったチョコケーキを葉村に渡すのを——これはそのケーキを保冷するためのものだった。
幼なじみの葉村の家には保育園の頃からかなりお世話になっている。父が病死して以来夜勤を続けている母は、まだ小さかった鳴海を葉村宅に預けることが多かった。そのため、お礼にたびたびこのチョコケーキを母が焼いて贈っていた。
今は当然ひとりでも留守番ができる。だから葉村の家で放課後を長時間過ごすことは少ないが、彼がすっかり母のケーキの虜になってしまっていたので、変わらず定期的に渡しているのだ。
さっき会ったのに、と後悔してももう遅い。
今から部活をしている葉村に渡しに行くか、と一瞬頭をよぎったが、それは側から見たらきしょすぎるので無しだ。“男”が部活へ差し入れに行く図みたいで、恥ずかしい。
(明日渡せばいいか?いや、保冷剤がついてるってことはあまり持たないのかな……)
今日帰って母に渡しそびれたと言ったら、きっと悲しむだろう。あんなに忙しいのにわざわざ時間をかけて作っていたのだ。「学校から親への大事なプリントを渡さず鞄にしまい込んでいた」ことより重罪かもしれない。
ぐるぐるとあれこれ思い悩んでいたら、そばで気配を感じちらりと見上げる。
するとちょうど瑞原は白の紐靴を座らずにすぱっと履いたところだった。
(……なんかずるいんだよな)
思わずはあ、というため息が出る。
きっと彼には自分みたいなこんな鈍臭い心配事はないのだろう。
「あのさ」
「ん、なに?」
声をかけると瑞原はこちらに視線を寄越した。鳴海はもう一度ガサゴソとリュックの中を漁ってビニールの感触を確かめると、それを引っ張り出した。
「これ」
瑞原の方にビニール袋を突き出すと、彼は目を丸くした。
「え?」
「ケーキ」
ぶっきらぼうに答える。
「……ありがとう」
瑞原は袋を受け取ると戸惑いがちに中を覗き込んで、礼を言った。あまりに突拍子のない鳴海の行動に、目が丸くなっていた。
鳴海はニヤリとほくそ笑む。
「もしかしたらお腹壊すかも」
傷んでるのかどうかもわからないし、甘いものが得意じゃないから、自分で食べようとは思わなかった。だからちょうどすぐそばにいた瑞原に押し付けたのだ。
じっと袋の中を見つめていた瑞原は急に顔をあげた。
「……うれしい、全部食べるよ」
噛み締めるようにそう言って、照れた笑顔を浮かべた。
鳴海は目を瞬いてぎこちなく雨の外に視線を戻すと、今度こそ折り畳み傘を取り出して弾かれたように立ち上がった。尻についた土埃を払い、そそくさと扉の方へ進む。
なんだか申し訳なくなってしまった。そんなに嬉しそうな顔をするとは思っていなかったのだ。
「じゃあね」
「うん、また明日」
最後横目にちらりと瑞原を見たとき、彼は目を細めて手を振っていた。
そんなに甘いものに目がなかったのか。
(まあいっか。これでケーキも報われたよね……)
万事解決とそう心の中で決め込むと、鳴海は勝手な達成感に包まれたまま帰路に着いた。
